第百十八話

 内側から際限なく溢れ出す性欲。

 自分自身でもどうにもならないはずの欲望を更なる欲望――カップラーメンを食べたいという食欲の力で打ち負かし、火事場の馬鹿力を発揮した彼女は見事、拘束を解いて自由の身となり、自分の箸で少し伸びた麺を啜る。

 元々、解放するつもりであったからこそ脱出不可能な縛り方をしていたにもかかわらず、自力で抜け出されてしまったことに多少の衝撃を受けながら一号は勢いよく啜られたカップラーメンから飛び散る汁の後始末を黙々と行う。

 彼が打ちひしがれているのを理解しているのは開発者たる仁のみ。

 元凶の紗菜は一号のことを意に介しておらず、カップラーメンを啜る彼の膝の上に腰を下ろし、テレビが映すクイズ番組をともに視聴する。

「あっ、わかった。答えは『なかみない』ね!」

「ほう。そうなのか?」

「そうよ。あにぃって頭いいくせにこんな簡単な問題もわからないの? これが頭がいいだけのバカってやつなのかしら?」

「じゃあ次の問題の答えは?」

「……乙女は前だけ見ていればいいのよ。過去は振り返らないの」

「過去じゃなくて今、テレビに映っている問題なんだが」

「現在ってことはつまり過去なのよ。だって現在はあっという間に過ぎてしまうものなんだから。あっ、これの答えは『新幹線』ね。簡単簡単!」

 答えに詰まる解答者たちを指差して小馬鹿にし、しかし自身が答えられない問題の時は黙するか、屁理屈のようなものを並べて誤魔化す。

 ある種のクイズ番組の愉しみ方ではあるが、兄の方はほぼ全問の答えを知っているので自慢げに解答されても反応に困ってしまい、助けを求めようにも一号は我関せずの態度で零れた汁の後始末に没頭中。

 また、胸を張って堂々と答えを言い切り、その答えが間違っていた場合は少々の沈黙後に解答した事実そのものを無かったことにすることで兄からの冷たい反応を乗り越え、次なる問題へ臨んで遂に挑むは最終問題。

 ゲストですらない一視聴者が正解したとして、得られる者など何もない上に解答権を得られるほど問題に正解してもいないのだが、拳を強く握り締め、真剣な表情で最終問題に挑戦する彼女に横から口を挟むのも野暮とし、一瞬も悩むことなく答えにたどり着いた仁は悩む妹の後頭部を生温かい目で見守る。

「えーっと、確か、あの魚の正式名称は――」

「残りの時間はあと三十秒。時間内に答えられるのか?」

「フ、フン。私も見縊られたものね。この私に答えられない問題なんてないわ! それに勘違いしているみたいだけど、制限時間はもっとあるわよ!」

「うん? だが実際に残り二十五秒に――ああ、成る程」

 カウントが進んでいく中、空気を読まずに番組を中断させるCMを見て彼女の言葉の意味を理解。

 時間の引き延ばしによく使われる手法。視聴者にだけ与えられた特殊な追加時間を利用してスマホを使い、ネットを経由して答えを得る。

「おい、それは反則だぞ」

「なんでよ。制限時間内にスマホを使って答えを調べちゃいけないなんてルールは書かれていなかったわよ。ならスマホは使用OKってことでしょう?」

「書くまでもない基本ルールだから省かれていただけだろう。大体、ネットの力を使って答えられたとして嬉しいのか?」

「ハッ! あにぃっていつからそんないい子ちゃんになったの? 世の中、どんな手段を使おうと勝てばいいのよ、勝てば。勝者が全てを決めるのは世の常よ」

「間違ってはいないが、ルールを侵して手にした勝利を勝利と呼べるのかはまた微妙なところだ。イカサマはバレずに行われて初めて有効となるんだぞ」

「大丈夫よ。だってこれはイカサマじゃないもの。私は明確に定められたルールの隙間を突いているだけ。文句を言われる筋合いはないわ。えっと、答えは『ソコノコギリイワシツブイワシ』ね。なにこれ、超言い辛い」

「まあイワシにも色々いるからな。小さいだけあって数と種類は無駄に多い」

「面倒ね。いっそ全部イワシに統一しちゃえばいいじゃない。どうせいてもいなくても変わらない雑魚なんだから」

「そう言うな。イワシはプリン体が多量に含まれていることを除けば健康食品としてそれなりに優秀な魚だ。小骨が多いのが欠点だがな」

「その割にはあにぃもイワシなんて食べないじゃない。やっぱりどうせ食べるならマグロよ、マグロ。それも大トロ、もしくは中トロね」

「贅沢な奴。で、そろそろCMが明ける頃だが、さて――」

 解答者と司会者の一騎打ち。

 睨み合う両者の内、司会者は余裕の笑みを絶やすことなく、解答者は司会者の嫌がらせの如き笑みに苛立ちと焦りを隠せずにいるものの、大きく息を吐き出し、意識して平常心を取り戻し、最終問題と向き合う。

「だから『ソコノコギリイワシツブイワシ』よ。なんでわからないの?」

「ズルした奴が横から口を挟まない方がいい」

「何がズルよ。私は正当な方法で答えを得たに過ぎないわ。残り時間は五秒。もうダメね。あーあ、この声が届けば答えられたでしょうに。女神様の加護は得られなかったってことで諦めて――」

 時間制限寸前で解答者が口にしたのは『ソコノコギリイワシツブイワシ』ではなく、別の種類のイワシの名前。

 散々待たせた挙句に答えを間違える。虚しささえ覚える情けない答えに紗菜は完全に興味を失い、カップラーメンの汁を飲む。

「――正解!」

 半分ほど飲んだところで思い切り吹き出し、居間を唾液交じりの汁で濡らす。

 一部の特殊な性癖の持ち主が喜びそうな汁を染み込ませる床やカーペット、テーブルなどを眺め、人間ならば確実にため息を吐き出していたであろう仕草を取りつつ、一号は文句一つ口に出さないまま、彼女が吐き出した物の後始末をする。

「ケホッ、ゲホッ! えっ? あれっ? えっ!?」

「残念。正解は『ソコノコギリイワシツブイワシ』じゃなくて『ミナミアフリカカタクチイワシ』でした」

「えっ? だ、だって、ネットのサイトには確かに――」

「どれどれ――って、個人のブログじゃなイカ。しかもパッと見でも割と誤情報が多いぞ。調べるのならもっとしっかり調べるべきだったな」

「……ちなみにあにぃは答え、わかっていたとか?」

「もちろん。可愛い可愛い妹様が、間違った答えを自信満々に言い切っている姿は中々面白かったぞ。腹を抱えて笑わなかった俺は結構な精神力の持ち主」

 赤っ恥を掻いた紗菜の顔が羞恥で真紅に染まり、彼女に羞恥心があったことに心の底から驚愕する兄を押し倒す。

 錯乱状態に陥っている彼女は食欲が満たされたことで再び性欲が暴走し、寝間着を脱いで兄に襲い掛かろうとする。

 けれど所詮は暴走。それも性欲に身を任せた暴走ではなく、恥ずかしさを誤魔化すための暴走。

 本来の力を発揮するには遠く及ばず、押し倒された状態の仁に軽く制圧され、強制的に意識を断たれて沈黙。

 賞品を受け取った解答者と司会者が手を振りながら別れの挨拶を告げているテレビの電源を消し、彼女を担いで居間を出る。

『ご就寝ですか、マスター?』

「ああ。ついでにこのバカも寝かせてくる。後は頼むぞ」

『畏まりました。しかしマスター、カップラーメンを食べられたのですから、寝る前に歯を磨かれた方がよろしいのでは?』

「んっ? んー、そうだな。歯は大切にしないと後々、大変なことになるかもしれないし、しっかりと磨いておくか」

『紗菜様は如何為されます?』

「無論、我が麗しの妹君の歯も磨くさ。歯を磨いている最中に高確率で起きそうだから、今の内に縛っておくが」

『了解しました。今度こそ自力で脱げ出すことができないよう、持てる技術の全てを費やして縛り上げてみせます』

「別にそこまで――まあいいか」

 リベンジに燃える一号のやる気に水を差すのも無粋と、第三者が見たら犯罪行為にしか見えないほどキツく縛り上げる彼の行為を笑って見つめ、怪力自慢の豪傑であろうと破ることが不可能な縛られ方をした彼女を担いで洗面所へ移動。

 まずは自身の歯を磨き、冷水で口の中に充満した不純物を洗い落として吐出。

 次いで妹の歯を磨き、磨いている途中で艶かしい声が漏れ出すのを聞き流しながら歯を磨き続け、目を覚まして抵抗されても手を動かす。

 ご奉仕されているのか、はたまた責められているのか。

 どちらにしても快楽に溺れてしまったような煽情的な声を上げる彼女に一切の気を遣わず、事務作業と割り切って隅々まで口の中を侵し尽くす。

 こっそりと覗き見していた一号は彼の容赦無き責めに改めて二人が血の繋がった兄妹であることを確信。

 虚ろな瞳と半開きの口で弱り切った魚のように時折、跳ねる彼女の口の中を冷水で満たして吐き出させ、抵抗できない彼女の口内を肉眼で観察。

 全ての汚れが完全に取り払われたとは言い切れないが、見える範囲では汚れらしい汚れが見つからないことに満足し、今度こそ睡眠をとるため、二階へ上がる。

「じゃあおやすみだ、一号」

『おやすみなさいませ、マスター、紗菜様』

「……あー……うー……」

「ったく、あのくらいでここまで弱るとは。いつもいつも責めに回っているから受けに回った時に為す術がないんだぞっと」

 悪態をつきながら返事らしい返事もできないほど弱り切った紗菜を彼女の部屋まで運び、扉を開けた途端に漂う甘ったるい香りが鼻を直撃。

 油断していたつもりはなかった――などと言い訳を並べても仕方なく、甘過ぎて薬どころか毒と化しているような部屋の空気を取り払うべく、扉と窓を全開に。

 夜風が窓から室内を一直線に駆け抜け、濁った空気を取り払うと同時にこのまま眠れば寒さで風邪を引く危険を訴え掛ける。

 年中発情しているとはいえ、常に健康体でいられるとは限らない。

 というより彼女の場合、例え深刻な病に罹ろうと発情が収まるわけではなく、誰彼構わず行為に及んでは感染を広げかねないため、彼女を病に罹らせるのは愚行。

 十分ほど待機して淀んだ空気が程々に払拭された頃合いを見計らい、全開にしていた扉と窓を閉めて彼女に布団を被せ、うなされているその額に軽く口付け。

 兄として妹を想っての行動に他ならず、それ以外の感情は皆無。

 が、口付けられた瞬間に覚醒を果たした彼女は実兄を押し倒し、全力以上の力を発揮して死闘が行われること五分。

 縄で雁字搦めにされ、ロクに身動きも取れない状況下でありながら心底恐怖を覚えさせた妹の暴虐に震え上がり、末恐ろしさに感心を抱きながら妹の部屋を出る。

『マスター、何かあったのですか?』

「紗菜の潜在能力が俺以上だと確信した。同時にアレは世に解き放ってはいけない魔性だとも確信できた。あんな危険生物は見たことがない。早々にリューグに押し付けるべきなんじゃないのかと真剣に考えている」

『それではリューグ様が肉体的、精神的、社会的に死亡することとなりますが、マスターはそれでもよろしいのですか?』

「問題ない。リューグの心身はこの程度のことで参るほど軟じゃない。社会的には窮地に立たされることになるだろうが、本当にどうしようもなくなったなら紗菜の方もピンチに陥るだろうから、紗菜のために全力で手助けしてやる。その時はお前の力も借りるぞ」

『畏まりました。同性にツンデレを披露する、割とガチで気持ち悪いマスター』

「壊して直すぞ?」

『失礼致しました。つい、本音が漏れてしまいまして。これも恐らくは弐号改の影響と思われますので、マスターはお気になさらず』

「確かに弐号改の言い方に似ていた気がするが、そんなに接点あったっけ?」

『アストロゲンクン弐号改は私の妹に該当する存在。マスターの知らないところで交流を深めていても不思議なことはないかと』

「そりゃそうだけど、変な影響を受けるなというか、どうせならお前が弐号改に影響を与えて少しくらいおとなしくさせてやって欲しいとか」

『不可能です、マスター』

「即答で断言したな」

『思考するまでもないことですので。ではまだ不純物が混在する紗菜様の体液汚された床の掃除が残っておりますので、私はこれで』

「その言い方はやめろ。まあ改めておやすみだ、一号」

『改めておやすみなさいませ、マスター』

 一階へ下りていく一号を見送り、自室へ戻った彼は閉じるのを忘れていたカーテンから差し込む月明かりと、月明かりを遮る形で窓に張り付く人の形をした血塗れの何かを発見。

 寒空の下で血を流すその存在を不憫に思ったのか、窓を大きく開けると血に濡れたソレは奇声を上げて中に入り――仁の右ストレートを直撃。

 顔面に突き刺さる凶悪な一撃。紗菜への恐怖と嫉妬から繰り出された本気の打撃がソレの顔を完全に潰し、地面へ落ちたソレに向けて唾を吐いた仁は窓を閉めると鍵を掛け、カーテンを閉めて就寝前に明日の準備。

 授業を確認し、教材を鞄に詰め込んでいる間に窓が揺れ、カーテンを開ければ全身より怨念に満ちた波動を放つソレが四つの掌で窓ガラスを叩く。

 近所迷惑必至な行為に苛立ち、窓を開けた直後に左ストレートが炸裂。

 利き腕から繰り出されたはずの右ストレートを超える威力の拳を直撃したことで大きく吹き飛ばされたソレは近くの木に激突、大地へ落ちる。

 想像していた以上の威力に戸惑いを覚えるも、今の一撃で大体の力加減を把握した彼は今度こそ寝るための準備を済ませてベッドに横になり――更なる怨念を纏いながら窓に張り付こうとしたソレの行動を読み切り、へばり付く前に窓を開け、部屋の隅に常備されている火炎放射器で焼き払った。

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