第百十七話

 間違いを犯そうとする妹と、物理的な制裁を以て彼女を正す兄と。

 兄妹仲良く入浴を済ませ、着替えている間にも襲い掛かって来た彼女をあしらうとともに腕力で捻じ伏せつつ、風呂上がりの彼等のために冷たい牛乳を用意して待っていたアストロゲンクン一号を半眼で睨む。

「おい、一号。これはどういうことだ」

『何のことでしょうか、マスター』

「とぼけるな。俺が入浴中にこのケダモノを解き放つとか、正気を疑うぞ」

『マスター、事実とはいえ実の妹をケダモノ呼ばわりするのは如何なものかと』

「そうよ。私はケダモノなんて高尚な生き物じゃないわ! 私は性欲の化身! 例え神仏であろうと私の性欲を止めることはできない!」

『マスター、牛乳をどうぞ』

「おう、ありがとう」

「私も私も!」

 二つのコップに注がれた真っ白い牛乳。

 不純物が含有していない――牛乳自体に色々な成分が含まれているが――数十秒前まで冷蔵庫の冷たい空気に包まれていたであろう冷え切った液体が入浴により火照った体に染み渡り、熱さと冷たさの融合が快感をもたらす。

 その際に生じた軽い頭痛のようなものはアイスクリーム頭痛の一種か。

 頭痛といっても刹那に走ったものに過ぎず、すぐに収まったために気にするほどのものでもないと空になったコップを一号に返却。

 柔らかなソファーに座って寛ぎながらテレビの電源を入れ、彼の膝を枕代わりに紗菜が寝転がる。

「重いぞ」

「私の体は羽根のように軽いから、それはきっと気のせい」

「女子中学生の平均体重よりは軽いかもしれんが、それでも羽根みたいな軽さなら死んでいるんじゃなイカ?」

「冗談だとつまらない。本気だとなおつまらない。大体、私みたいな美少女に枕代わりとして使ってもらえているんだから、役得でしょう?」

「冗談だとつまらない。本気だとなおつまらない。膝枕して欲しいのなら信者の連中にでもしてもらえ。電話すれば一発だろう?」

「嫌よ。今日はあにぃに甘えたいんだもの。それともあにぃ、やっぱり私と過ちを犯したくなったとか?」

「おかしくなった妹の頭を叩き直したくはなってきた。これはもう、最終手段を行使するしかないな」

「フッフーン。師範のところで鍛えられた私をどうやって叩き直すつもり? 自慢じゃないけど今の私に乗り越えられない恐怖なんて無いわ。師範との壮絶な特訓が私の心身を強化してくれたんだから!」

「母親に連絡して、しばらく一緒に行動させる」

「ねえ、お兄ちゃん。私、お兄ちゃんと一緒に暮らしたいの。ダメ?」

 自らの魅力を知り尽くしている小悪魔が如く、己の可愛さを極限まで引き出して甘えた声でおねだりするも、兄の反応は冷ややか。

 甘える攻撃が通じないと知るや否や、飛び起きた彼女は空中で体勢を整え、着地と同時に土下座して許しを請う。

 土下座に至る見事かつ無駄のない動きを目に焼き付けながらスマホを手に取る兄に大きな声で泣き付き、果ては半狂乱になりながら一号を人質に取る。

『マスター?』

「冗談だから、安心しろ。母親に電話をするつもりはない」

「あにぃ、大好き! 襲いたくなっちゃう!」

「代わりにメールを送る」

「外道! 悪魔! 少しでも見直した私がバカだった! こうなったらあにぃの体を蹂躙し尽くした後に死んでやる! 死んで化けて呪ってやる!」

「メールを送った相手は理香」

「あにぃって本当に妹想いよね! あにぃは私が大好き。私もあにぃが大好き。だからあにぃが私に酷いことをするはずがない。証明終了」

『泣いたり怒ったり真顔になったりと忙しい方です』

「これ以上、からかうと半狂乱から狂乱状態に移行しそうだからやめておく――?」

 呼び鈴が鳴り、応待しようとして寝間着姿だったことを思い出し、出るのに躊躇う仁に変わって一号が応答。

 深夜の訪問者を玄関内に迎え入れ、適当なやり取りを済ませた一号が大きな箱を両腕で抱えて居間に戻る

「誰だ?」

『郵便配達員の方です。荷物が届いているそうですが』

「荷物? 紗菜、何か頼んだのか?」

「私じゃないわよ。あにぃこそ、何か頼んだんじゃないの?」

「俺は知らんが。一号は?」

『私も存じません。確認しましたところ、どうやらマスターが本日赴かれた遊園地こと『夢の国』から送られてきた物のようですが』

「『夢の国』から? なんで?」

『私に尋ねられても困ります』

「っていうかあにぃ、遊園地なんて行ってたの。もしかしてデート? 相手は理香さん? それとも東間さん? あるいはアカエリオンちゃん? もしくはリューグ? 他には神凪さんや青田さん、次光さんとかもあり得そうね」

「後半、男ばかりなんだが。男だけで遊園地へ行って何が楽しいんだ?」

「あら。乙女視点ではそっちの方がよっぽど楽しいのよ。妄想が捗るって言った方がわかりやすいかしら、マイブラザー?」

「妄想するのは乙女の勝手だが、実害が出るような行為に及んだら地獄を見せてやるぞ、マイシスター」

「怖いわねー。で、何が届いたの?」

『少々お待ちを』

 念のために箱の中身をスキャンし、危険物が入っていないことを確かめて開封。

 中身は大きな箱に見合った大きさの『夢の国』のマスコットキャラのぬいぐるみと茶色の封筒と手紙が一通。

 手紙には『ほらぁゲーム』を攻略したことに関する運営者からの感謝の文が並べられていたが、当時のことを記憶していない仁は首を傾げる。

『その様子ですと、心当たりはないのですか』

「うむ。確かに今日、俺と理香は遊園地に行ったが『ほらぁゲーム』なんて遊具で遊んだ記憶はない」

「あっ、理香さんとのデートだったんだ。面白そうだから噂を広めようと思ったけど、万が一、私が襲う前にあにぃが刺されてスクールなデイズ系のオチを迎えたら嫌だから何も聞かなかったことにしよっと」

『でしたらマスター、遊園地に問い合わせの電話を掛けますか?』

「んー。いや、古の幻獣関連で向こうも忙しいだろうし、それになんとなくだけどお礼を貰っても問題ない気がする」

『マスターがそうおっしゃられるのでしたら私に異論はありませんが、よろしいのですか?』

「あの毒リンゴ同様、これは俺が受け取るべき正当な報酬だと、肉体が訴えているような気がするのだ。記憶がないのも悪の組織の陰謀ということにすればいい」

『……マスターが狂おうと私は何も言いませんが、念のため、精神病院へ行かれた方がよろしいかと』

「悪の組織云々は冗談だが、貰った方がいいというのは本音だったりする。まあ万が一にも間違いだったと後で言われたら大変だから、数日ほど様子を見て、何も連絡が無かったら貰っておこう。あっ、その時に確認の電話をよろしく」

『畏まりました。ではこれ等は私が預かります。こちらの封筒には現金が入っているようですが、これは銀行に預けておきますか?』

「そうだな。ぬいぐるみ同様に保管して、大丈夫だったら銀行に入れておけ。金はあり過ぎると困るが、無くて困るようなものでもないからな」

『了解致しました』

「でもあにぃ、理香さんには連絡しておかなくていいの? あにぃに記憶が無いとしても理香さんは覚えているかもしれないし、あるいは理香さんがあにぃに内緒でそのアトラクションをクリアして、本来は理香さんにところに送られるはずだったんだけど、手違いで一緒にいたあにぃに送られちゃったとか」

「今日はほぼ二人で行動していたから、その可能性は限りなく零に近いが、完全に無いとは言い切れないから一応、確認しておくか」

 理香のスマホに電話を掛け、今日一日の出来事について少々会話。

 話を弾ませながら適当なところで話題を転換。

 手紙に記されていた『ほらぁゲーム』について質問するが、仁と同じく記憶がない彼女は首を傾げ、また、理香のところにも同じ物が届いたと報告を受ける。

「――金額もぬいぐるみも手紙も一緒か。ってことは覚えていないが、やっぱり俺たちがその『ほらぁゲーム』とやらを攻略したってことなのか?」

『そうなるんでしょうね。覚えてないからいまいちスッキリしないけど。あの毒リンゴとかも、もしかして『ほらぁゲーム』で拾った物なんじゃない?』

「十中八九、そうだろうな。それなら毒リンゴに関する記憶が無くても不思議じゃない。まず記憶が無いことが不自然なんだが」

『ねえ、仁。これって貰っちゃっていいのかしら? この大きなぬいぐるみも結構高そうだし、何も覚えていないのにたくさんのお金を受け取るのって何か怖いわ』

「俺の体は問題ないと判断した。まあ不安なら古の幻獣騒動が収まった頃、遊園地に連絡してみるといい。それで白黒ハッキリつく」

『そう、ね。別に今すぐ必要ってわけじゃ――あっ、そうそう。今日、奢られた分のお金としてアンタにあげるのも有りよね! うんうん、私、冴えてる!』

「無しだ。送られても送り返す。しかしすぐまたお前がお金を送ってくるため、俺が送り返す。そうして無限ループが完成し、永遠に終わることのない仕事で配達員の人を苦しめるのだ!」

『変な嫌がらせを考えない! ったく、アンタも強情ね。おとなしく受け取ってくれればいいのに』

「奢ったと言い切った物を返されるのは俺の流儀に反するのだよ。無茶苦茶な額ならそもそも奢らないし、この程度は許容範囲内だと理解したまえ」

『理解できるけど、アンタの物言いがムカついたから理解してないことにするわ』

「ワガママな」

『どっちがよ。奢られてばっかりの私の身にもなりなさい』

「普通、女子は男に奢られるのを喜ぶものなんじゃなイカ? そこに味を占めて男を利用するだけ利用してポイ捨てしようとしたところ、実は利用されているのは自分の方だったことに最後の最後で気付き、そのまま奴隷として売り飛ばされ――」

『はいはい。妄想話はまた今度にしましょうねー』

「妄想話とは失礼な。子供の頃に両親に連れられて行った外国で実際にそういう現場に遭遇したぞ。面白そうだったから放置したら、騙された女の方が薬やら精神的ショックやらで覚醒して面倒臭いことになったが」

『わかったからもう終わりにしなさい。ったく、アンタのそういうところって子供の頃から本当に変わらないわね。まあいいわ。それじゃあ、そろそろ切るわね。おやすみなさい』

「おやすみ、理香。良い夢を見ろよ」

『アンタもね』

 通話を切り、とても厭らしい笑みを浮かべて仁を見つめる紗菜を蹴ろうとして逃げられ、苛立ちから捕縛しようとしたところに鳴り響く腹の音。

 中途半端に夕食を食べたことで却って空腹となってしまい、しかし本日の夕食は明日の朝食として再利用するべく片付けられてしまったので食卓には何もない。

「しまったな。これは中々キツい」

 一度、空腹を意識してしまったことで無視するのが困難となり、腹の虫を鎮めるために食べ物を探す。

 お菓子類では腹の足しにはなっても満たすには程遠い。

 けれどすぐにでも食べられるという条件は満たしている――と、選別のためにお菓子類の山を崩したことで発見できたのはお湯を注げば完成するカップラーメン。

 たまにしか食べないので存在そのものを忘却の彼方へ追いやっていたが、それ故に今まで見過ごされていたのは僥倖。

 すぐさまお湯を沸かして準備。紗菜も空腹だったのか、羨ましそうに、恨めしそうに仁を見つめて涎を垂らし、けれど二人で分け合えば確実に足りないので独占のために戦いの準備を心掛けつつ、一応、他のカップラーメンを捜索。

 徒労に終わると思っていた作業が結果に結びついたのは予想外。

 だが二個目のカップラーメンを発見したことで不毛な戦いを繰り広げる必要がなくなり、天と熊に感謝を捧げながらお湯を注ぎ入れる。

「あにぃ、食べていい?」

「お湯を注いで五秒で食べられると思っているのなら好きにしろ。ちなみにお勧めはしない。というか食べない方がいいと忠告する」

「勘違いしないで。私はまだ完成していないカップラーメンを食べたいって言っているわけじゃないわ。私が食べたいのはあにぃ」

「何度、返り討ちにされたらお前は懲りるのか――なんて考えても無駄なことを思考するのに時間を使おうとしてしまった。反省」

「慰めてあげましょうか」

「一号、カップラーメンが完成するまでコレを縛ってくれ。今はなんとか食欲の方が勝っているっぽいから、カップラーメンが完成したらおとなしくなるだろう」

『畏まりました。紗菜様、お覚悟を』

「ハッ! あにぃにならともかく、一号が私を捕らえられるとでも思っているの? 私の速さに付いてきたいのなら、時間停止機能でも搭載することね!」

『紗菜様、空より女の子が降ってきました。それもかなり美少女の』

「何処何処!? 私専用の天空の城の王家の血を引く娘は何処!? 男の子とセットでも美味しく頂けるから両方落ちて来ても可! あっ、空賊一家もセットでお願い! ついでにグラサンの大佐も! それから黒服の人たちに、閣下もに、ロボットに――」

 居間中を駆け回り、空から落ちてくる少女及びその他を求める彼女に縄を掛けて縛り上げ、宙吊りにしてもなお正気に戻る気配のない紗菜は周囲を見回す。

 仮に空から女の子が落ちてきたとして、天井に穴など開いていないので室内を探したところで見つけられるはずもないのだが、そんな単純なことにさえ気付かないまま増幅した色欲が彼女の心身を支配する。

 他人には見せられない――既に周知の事実と化しているが――最愛の妹の情けない姿を肴に出来上がったカップラーメンを啜り、心身の飢えを満たす。

 湯気とともに立ち昇る食欲を刺激する香りで我へと返った紗菜はようやく自分が宙吊り状態になっていることを認識、必死に暴れて拘束を解こうとする彼女の叫び声を聞きながら視線を外し、雑学とうんちくを披露するクイズ番組を眺めた。

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