第百十四話

 一度でも姿を見た者はその存在を忘れることができなくなる。

 ソレの実態を知らない者たちには形容し難い姿をした珍獣として、ソレがもたらす脅威を知る者たちには絶対なる恐怖の化身として脳に焼き付けられてしまう。

 眠いのか眠くないのかよくわからない、眠そうな眼でごろ寝を行い、ポテトチップスの油でベタベタになった指を口に咥え、舌で舐め取り、残さず味わう。

 仕事に疲れた休日の中年男性の如き覇気のない動作。

 写真を撮ってSNSなどに投稿する者もいるかもしれないが、そのようなことが可能なのは前者のみ。

 後者――すなわちソレの恐ろしさを知っている者たちが行うのは関わり合いにならず、なるべく興味関心を引くような真似は避けるのを心掛けること。

 写真撮影など彼等にとって論外。

 今のところ、ソレは自身を撮っている者たちに興味を示すことなくポテトチップスに夢中となっているが、気まぐれに動き出せばだれにも止められなくなる。

「……仁」

「……言いたいことが色々あるのはわかる。だが今は震えを止めることを最優先にしろ。その後にさっさと奥へ向かうぞ。ここは魔境だ。俺たちのような子供がいていい場所じゃない」

「ここを出ても結局は魔境じゃない」

「細かいことはどうでもいい。とにかく落ち着こう。うん。俺もかなりテンパっていると自覚している。これはヤバい。何がどうなってあんなところに古の幻獣が巣食っているのかはわからないし、あのポテトチップスが地方限定販売の新作の物なのも不思議な気がするが、とにかく落ち着こう、うん。俺もかなりテンパっていると自覚している。これはヤバい。何がどうなってあんなところに――」

「わかったから落ち着きなさい。話がループしているわよ」

「俺は落ち着いている。ああ、落ち着いている。落ち着いているとも。落ち着いていると信じたい。落ち着いていると願いたい」

 痛みを脳に伝達させるのは右の義手の付け根。

 つい先日、腕を切断され、古の幻獣の糧とされたことを思い出すとともにとっくに塞がっているはずの傷が疼き出す。

 頑強な鉄の檻が三流職人の手で造られた飴細工にしか見えないのは閉じ込められている――自らの意思でそこにいるのであろう存在が規格外過ぎるからか。

 動揺する仁の隣で理香もまた平静を保てず、彼と同じように全身を震わせる。

 武者震いではない。道場の主に鍛えられた娘として強敵との遭遇に喜びを感じることはあるが、絶対に勝てないとわかり切っている相手と遭遇して恐怖を感じないほど戦いに狂っていない。

 アレと遭遇したならば逃げの一手。幸いなことに古の幻獣もここが何処なのか弁えているらしく、見世物になることに抵抗を見せず、のんびりと寛いでいる。

 今ならば人混みに紛れて逃走することも可能。

 刺激しなければ被害が出ない――と、信じることしかできない己に若干の無力感を覚えるが、何も知らない客たちが余計なことをしないよう祈りつつ、意思の力で体の震えを止め、未だ震えを止められずにいる仁を引っ張り、出口へ向かう。

 不運にも古の幻獣と目が合ってしまったのはまさにその瞬間。

 彼等の前にも客はいる。古の幻獣の視線が二人に向けられているとは限らない。

 だが仁と理香は直感で古の幻獣が自分たちを見ていることを理解し、穏やかに振られる手に対して反応するか否か、選択を迫られる。

 相手をすれば興味を持たれてしまう危険が高まるが、無視をすればそれはそれで古の幻獣の機嫌を損ねてしまう危険が付き纏う。

 また、時間は永遠ではない。

 このまま何もしなければ自動的に無視したことになってしまうため、思考できる時間も限られている。

 生きるか死ぬかの究極の選択。仁と理香は目を合わせ、自分たちの選択を信じて古の幻獣に向けて手を振り返す。

 次の瞬間、古の幻獣が彼等の前に立っていたのに反応できなかったのは彼等が未熟だったからなのか、はたまたどれほど優れた達人であろうと今の動きに反応することなど不可能なのか。

 油と唾液に塗れた手で二人と握手を交わし、ついでに服と鎖骨の一部ごと仁の左肩を食い千切って咀嚼。

 古の幻獣が再び檻の中でごろ寝し出した頃、思い出したように食い千切られた左肩から多量の出血が零れ出る。

 即座に動き出したのは遊園地内にて最も古の幻獣を警戒していたスタッフたち。

 他の客が零れる血を目撃する前に仁と理香を連れて行くと同時に血の後始末。

 管理事務所で手当てを施しながら猛烈な勢いで謝罪。古の幻獣の恐ろしさを理解している二人はスタッフたちを責めず、動物園から出る。

「……なんというか、とっても得難い経験になったわね」

「前に右腕を食われた時も思ったんだけど、俺の肉って美味いのか?」

「さあ? でも気に入られてはいるんじゃないの? 仁がピンチに陥ったら古の幻獣を呼んでみるのも面白いかもしれないわね」

「冗談だとしてもまったく笑えないんだが」

「私もよ。我ながらつまらない冗談を言っちゃったって反省してる。……肩の傷の方は大丈夫なの?」

「問題ない。この程度の怪我で済んで万々歳だ。雷に打たれたり、竜巻に巻き込まれて肩の肉が少々抉られただけと考えれば軽傷だろう?」

「雷とか竜巻なんて生易しいレベルの災害じゃないわよ。でもそう考えると確かに運が良かったって言えるくらいの軽傷ね。ちなみにあの時、もしも手を振り返さずに無視してたらどうなっていたと思う?」

「食い殺されてた」

「……本気? それとも冗談?」

「俺の神経は図太いし、空気を読まない発言をするのは好きだが、アレに関して冗談を言うつもりはない。確証はないが、手を振り返してこの対応なんだから、振り返さなければ食い殺されていたとしても不思議じゃないだろうな」

「九死に一生を得る、ってこのことなのね。黛や委員長に自慢できるかも」

「自慢できるようなことじゃないし、心配されるだけで終わると思うがな。委員長も古の幻獣が相手じゃ何もできないだろう」

「……もしも委員長が古の幻獣を制御できてたら、委員長のことを神として崇めてもいいかもしれないと思うの」

「そんなことはあり得ない――と、言い切れないのが、我等が委員長の恐ろしいところだが、もしも制御できているのなら天下統一を果たしているんじゃなイカ?」

「それは天下統一したいって願望があれば、の話でしょう。委員長が権力や財力に固執している姿とか想像もつかないし、たぶん委員長にとってそんなもの、興味の対象外なんでしょうね」

「いや、委員長も人の子だ。欲望はあるだろうし、委員長にとっても権力や財力は路傍の石ころ並の価値はあるかもしれないぞ」

「それってつまり価値がないってことじゃない」

「そうでもない。人の趣味は多種多様。石ころに価値を見出す者は必ずいるはずだし、そいつにとって路傍の石ころは宝石に匹敵する価値があるものかもしれん」

「それはそういう趣味の人にとっては、でしょう。……はぁ」

 吐き出されるのはため息。

 肉体を支配するは今までにない疲労感。

 動物園に入る前の奇妙な肉体の疲労への疑問も吹き飛ぶ、衝撃的な遭遇を果たした彼等は体力、気力の回復を図るため、ベンチに腰を下ろし、未だポテトチップスを食べてゴロゴロしているであろう動物園を遠目で眺める。

 目に見えて客足が減った――というより動物園はおろか、遊園地から逃げ出すように客たちが出口へ殺到するのは動物園で寛いでいる古の幻獣の存在が客たちに認知されたからか。

 知らない者たちが不思議そうに出口へ殺到する客たちを見つめ、中には焦燥感に駆られている彼等を撮影する者たちまでいる。

「無知は罪、ね」

「言ってやるな。知らない方が良いことも世の中には多い。そのせいで命を落とすことになったとしても恐怖に震えて生きるよりはマシかもしれない」

「苦しめて殺す趣味は無さそうだから、死ぬ時は一瞬なんでしょうね。まさに触らぬ神に祟りなし。だけど、向こうからやって来る祟り神はどうすればいいのやら」

「こちらが避けて通るか、何もなく通り過ぎてくれるのを祈るか。せめて一欠片でもいいから勝機があるのなら挑むんだが」

「人の力でも人外の力でもどうすることもできない、まさに災厄ね。唯一の救いは食べ物以外は特に何も求めないこと」

「それに目撃情報はそう多くはないし、本当に天災の一種と考えるべきだろう。そんな風に考えられれば多少の諦めはつく」

「……できれば諦めたくないんだけど。いつか一矢報いたい気持ちがある」

「止めはしないが、挑めるくらい強くなったと確信を持った後にしなっと」

 スマホで確認できる二人の現在位置は遊園地の外。

 彼等もまた古の幻獣の恐ろしさは理解している。

 何処に逃げたところで事実上、逃げ場など皆無だが、少しでも死の恐怖から遠ざかりたいと願うのは生きる者としての本能。

「どうやら神凪たちも遊園地を出たみたいだ。古の幻獣と出会ってしまったんだから帰るのも止む無しか」

「なんだか中途半端なデートになっちゃったわね。楽しめたといえば楽しめたんでしょうけど、最後にアレと遭遇しちゃったことで楽しかった思い出が全部吹き飛んじゃったとしてもおかしくない。愚痴るわけじゃないけど、ほんと、どうしてこんなところにいたのかしらね」

「同情はするが、こればかりはどうしようもない。事前に知っていたとしても俺たちには何もできない。まっ、二人と合流してそれとなく動物園から遠ざかるよう誘導することは可能だったかもしれないが」

「それじゃあどの道、二人きりのデートを愉しめないじゃない。あーあ、仕方ないことだって頭じゃわかっているんだけど、モヤモヤする終わり方ね」

「まあ最後こそ持って行かれたが、俺は楽しかったぞ。理香、お前は俺とのデートを楽しめなかったのか?」

「何を言っているの? 私たちは美鈴たちのデートを観察していただけで、デートなんかしてない――」

 振り返るのは今日一日の行動。

 黛の代わりに仁と一緒に二人を追跡し、彼等が立ち寄った店や遊具で楽しんだ思い出が走馬灯のように脳内を駆け巡る。

 客観的に見た自分たちの行動について考え、顔から火が出るほど真っ赤になった理香の思考回路が破綻し、思考停止状態に陥って意識を失う。

「おい、理香? もしもーし、生きてますかー?」

 重度のインフルエンザ患者以上に体温を上昇させ、気付け代わりに目を回す彼女の頬を少々強めに叩いても反応無し。

 古の幻獣を知る者たちが殺到していた出口も時間経過によって閑散となり、出るのが容易となった出口まで彼女を背負って運ぶ。

「完全に力の抜けた女子を運ぶ、か。知らない奴が相手なら背徳感があっていいかもしれないが、幼馴染みが相手だとそれほど興奮はしないかも?」

 返事を期待していない独り言には当然のように反応はない。

 だがデートが楽しかったからか、妙に高揚している今の彼は眼前に佇む古の幻獣にも緊張感なく微笑み掛けることが可能な程度の余裕が生まれており、友好的に握手を求めて片腕を差し出す。

 それは片腕で許して欲しいという彼のせめてもの抵抗。

 もし彼の肉が本当に好みの味ならば、古の幻獣の腹の具合によって今ここで全身を貪り食われても不思議なことはないにもない。

 そしてソレが如何なる残虐行為を働こうと止められる者はなく、彼自身も抵抗は無意味とわかっているのでおとなしく食われる道を選ぶ。

 彼が抗うのは古の幻獣が背負っている理香にまで手を伸ばそうとした時。

 絶対に敵わない、それどころか傷一つ付けられないとわかっていても彼女にだけは手を出させまいと死に物狂いで食らいつく覚悟がある。

 差し出した腕も彼の覚悟の顕れ。

 腕を、己を食うのは構わない。が、理香にまで手を出すつもりならば、死してなお腹の中で暴れ尽くす決意の顕現。

 しばし差し出された腕と彼の瞳を交互に見ていた古の幻獣が不意に動き、中身がまだ残っているポテトチップスの袋を手渡す。

「……?」

 握らされる中身入りのポテトチップスの袋。

 古の幻獣の意図が読めず、困惑する彼の包帯が巻かれた左肩、先程古の幻獣が食い千切った傷跡に掌を置く。

 刹那、一瞬の間に痛みが走っては消え、包帯が解かれると食い千切られていたはずの左肩が服ごと元の形を取り戻しており、仁を更なる困惑の渦へ誘う。

『ブログ、更新したらまた読んでね』

 困惑する彼の耳元で告げられる囁き。

 返事を聞くつもりは無かったのか、仁が口を開く前に古の幻獣は姿を消し、しかし今の出来事が夢幻でないことを血が付着した包帯が証明している。

「……自分で食った物を自分で治す、か。何度でも味を楽しみたいからわざわざ治療しに来てくれたのか、単なる気まぐれなのか。もしかすると親切心なのか」

 仮に天災が物を考える能力を持っていたとして、天災が何を考えているのかについて矮小なる者が考察しても時間の無駄。

 前提として立っている場所が違い過ぎる。

 価値観も何もかも異なる存在が理解し合うためには途方もない膨大な時間と労力が必要となり、その上で理解できる確証はない。

 そのような真似ができるのは余程、時間を持て余した不老不死に近い暇人か、人生に絶望して悟りでも開いた仙人か。

 そのどちらでもなく、どちらになるつもりもない仁は左肩の調子を確かめ、古の幻獣に食われる前より調子がいいことに苦笑いしながら理香を背負い直し、貰ったポテトチップスの中身を一気に平らげ、ゴミ箱に捨ててから遊園地より出発した。

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