第百十二話

 口を開くことなく立ち上がった、後頭部から悪臭を放つマスクの女性を前に、仁と理香はなんとなく居住まいを正して並んで正座。

 彼等の反応に女性の瞳に僅かながら戸惑いが生まれるが、己の役割を全うするべく懐に手を忍ばせながら問い掛ける。

「私って、綺麗?」

「見た目は七十五点。化粧を落としたら六十五点くらイカ?」

「手厳しいわね。化粧込みなら八十点くらいあげてもいいんじゃないの?」

「むう。まあスタイルは悪くない、むしろ整っていると言っていいだろう。だがマスクをしているせいで顔全体の形が把握できない。大体の想像はできるが、想像はあくまで想像だからちゃんとした評価を下して欲しいのならマスクを外すべき」

「……こ、これでも?」

 早口の評価に戸惑いを大きくしながらマスクを外す。

 顔の下半分を覆っていたマスクによって隠されていたものの正体、それは耳元まで裂けた大き過ぎる口。

 マスクをしていた時点である程度、正体を予測していたため、仁たちはさほど驚かず、しかし後頭部より漂う腐臭に首を傾げる。

「口裂け女、ってことは二口女じゃなかったのか。だが、そうだとすると頭の後ろから臭う悪臭は何なのか、これがわからない」

「実はお風呂に入っていないから、悪臭が漂っている。にしては後頭部以外、別に臭くないし、汚れてもいない、か。どういうことなのかしら?」

「ふむ。もしかすると――まあその前にやることを済ませるか」

「そうね」

 気を取り直した様子でけたたましい叫び声とともに懐に忍ばせていた包丁を握り締めた手を抜き放ち、飛び掛かってくる口裂け女の顔に拳を一発。

 鼻血を流しながら倒れる彼女に追撃として理香が関節技を極め、悶絶する彼女から包丁を取り上げると空いている手を踏みつける。

 一切の抵抗ができなくなり、もがき苦しむことしかできなくなってしまった口裂け女が泣き叫び始めたのは関節技を極めてから約五分後のこと。

 嘘偽りのない本気泣きは、包丁を持って襲い掛かられた側の二人が逆に罪悪感を覚えてしまうほど真に迫った叫び。

 勢いに押されて彼女を解放。一応、再び襲い掛かって来ることを警戒して距離を取るが、自由となった彼女が最初に行ったのは見事な土下座。

 熟練者の仁の目からも淀みのない動きは土下座し慣れている者のそれ。

 感心し、彼女への好感度を急激に上昇させている仁に呆れる理香は平謝りする彼女に手を差し伸べ、立ち上がらせる。

「すみません、すみません。本当にすみませんでした!」

「あの、もう大丈夫ですから、そんなに謝らないでください」

「命を狙ってきたんだから、謝罪程度じゃ済まないと思うが?」

「すみません、すみません、すみません!」

「ちょっと、仁。正論だからって、もうちょっと空気を読みなさいよ」

「こういうのは加害者と被害者の立場を明確にしておいた方がいい。力の差があろうが先に、それも刃物を持って襲い掛かって来て、返り討ちにされた奴が被害者面するのは気に入らん。例えどれほどの土下座有段者であろうと、だ」

「土下座有段者って何よ。それに被害者面って、この人は別にそんなつもりで私たちに謝ってるわけじゃないでしょう」

「いえ、その人の言う通りです。仕事とはいえ、刃物を持って襲ったのは紛れもない事実なんですから、私はお二人にできる限りのことをしなければなりません」

「その心意気や見事。じゃあお言葉に甘えて少しばかり解剖を」

「フン!」

「モンジャンバベラ!?」

 強烈な拳が頬を貫き、壁に叩きつけられて床に落下。

 痙攣を繰り返す彼を見下ろし、手加減なしの拳を打ち付けた理香を恐怖の眼差しで見つめる口裂け女に可能な限り優しい笑顔で接する。

「あの、本当に大丈夫ですから、気にしないでください。もちろん、もしももう一度襲い掛かってきたらこの程度じゃ済みませんけど」

「め、滅相もございません! 私風情がお二人を襲うなんてそんな、も、申し訳ございませんでした! なんでも致しますからどうか、どうか命だけは!」

「え、えっと?」

 涙と鼻水を溢れ出させながら裂けた口から吐かれる命乞い。

 死に直結すること以外は本当にどのような命令でも実行に移しそうな勢いの彼女に押され気味となり、復活した仁が発言する前に一睨みで黙らせ、慈愛に満ちた説得で彼女に正気を取り戻させる。

 落ち着きを取り戻した彼女は部屋に備わっている道具で茶を入れ、二人に振る舞いながら再度、深々と土下座。

 その際、後ろ髪に隠されていた二つ目の口を開き、前の口と合わせて異口同音に謝罪の言葉を口にする。

「やっぱり二つ目の口があった――あれっ?」

「口裂け女で二口女か。混血としてもかなり珍しいな。普通、受け継がれた特徴の中で発言するのは一つだけなんだが」

「はい。私は混血の中でも珍しいタイプでして、ご先祖様から延々と続く口裂け女の家系に二口女である母が嫁いだためか、幼い頃から二種族の特徴が私の体に出てきてしまいました。そのせいで昔は大変でしたが」

「やっぱり、差別とか、イジメが?」

「……はい。ただの混血も人外の世界では受け入れられる場所が少ないですし、私の場合は二種族の特徴が出てきてしまったせいで幼少の頃から苦労の連続でした」

 漏れるように小さくつぶやかれる苦労話。

 同情に値する話に理香の顔が曇り、茶を啜りながら神妙な顔つきをする仁はあくまでも他人事として聞き流す態度に徹する。

 尤も、口裂け女で二口女の女性は愚痴を聞いてもらいたいだけなのか、彼等の反応にはほぼ無関心。

 子供の頃の話を終えて茶を飲み、息を吐く彼女に理香が目を閉じながら胸に湧いた疑問を尋ねる。

「あの、一ついいですか?」

「なんでしょうか」

「そこまで苦労されたのでしたら、どうして魔境に来なかったんですか? あそこもまったく苦労がないとは言いませんけど、差別とかとは無縁な場所ですよ」

「聞き及んでいます。ですが先程も申し上げたように、祖母の家系は古来より伝わりし、由緒正しき口裂け女の血筋。今更、ご先祖様より受け継いできた故郷を捨てて他の土地へ移動することなど考えられないのでしょう」

「口裂け女ってそんなに古い歴史を持っているんですか?」

「認知されなかっただけで、昔からいるぞ。確か誰かが下手を打って、正体が露見した後に色々と背びれや尾ひれが付いて都市伝説化したんだ」

「じゃあ都市伝説で語られている口裂け女の話って嘘なの?」

「全てが嘘というわけではありませんが、嘘も多いですね。今なお、色々な設定が追加されていますから、私たちから見ると呆れを通り越して面白く感じています」

「しっかし、由緒正しい口裂け女の家系によく、二口女が入り込めたな。祖母さんは怒らなかったのか?」

「両親から聞いた話ですけど、物凄く怒ったそうです。当然のように父と母の結婚は認めず、母を家から追い出そうとしたらしいですが、最終的に両親が駆け落ちして私が生まれ、その後、父と母が事故で亡くなって――」

「祖母の家に引き取られた後は、さっきの苦労話に続くのか」

「はい。祖母にとって私は血を穢した忌み子。ですけど、祖母には他に子供がいませんでしたから、血筋を絶やさないためにも私が必要だったのでしょう」

「……なんか、嫌な話よね。要らない子として憎んでいるのに、自由になることは認めないで鎖で繋ぐなんて」

「だが混血の子供が一人で生きていけるほど、この世の中は甘くないぞ。人間に見つかれば退治屋に依頼されて追われるだろうし、他の種が力を貸す理由もない。魔境にたどり着けたのならおせっかいな奴等が保護したかもしれないが」

「魔境に着くまでが大変、かあ。あれっ、でも今はこうして無事に魔境の遊園地に就職できたってことよね。ってことはお婆さんから解放されたの?」

「解放、と言いますか、隙を見て家出したと言いますか。どちらにしても今はこの遊園地で働かせてもらっています。今は主に監視目的でここにいるんですけど」

「監視?」

「あっ、いえ、なんでもありません。お客様たちが無事、この『ほらぁゲーム』をクリアされることを祈っています」

 三度目の土下座はやはり仁が感心するほど見事なもの。

 祖母に対してか、イジメを行っていた者たちに対してか、あるいはその両方か。

 非情に慣れた土下座の後は部屋の出口である黒い扉の前まで二人に付き添い、閉じられるまで手を振りながら彼等を見送る。

 閉められた黒い扉は何をしても開くことはない。

 故に後ろを振り返ることなく進む二人は転がってくる大岩を前に、ホラーとは一体何なのかについて疑念を抱きながら逆走。

 黒い扉の左右にある窪みに無理やり体を押し込め、大岩が黒い扉と接触、粉々に砕け散るのを目撃してから窪みから出る。

 破片も残さず、綺麗な砂状になった大岩は紛れもなく硬質な岩の塊。

 かなりの速度で転がって来た大岩と衝突しておきながら傷一つない黒い扉の材質に興味を抱く仁の腕を掴んで引っ張りながら奥へ進む。

 待ち構えていたのは七難八苦。

 恐怖とは関係ない、けれど生きて帰す気がない殺意だらけの罠の数々を協力して潜り抜け、忘れた頃にやって来る精神的な恐怖演出に苛まれながら進み続ける。

 立ちはだかる障害の数は下手をすれば三桁に届くほど。

 体力の限界を感じ始めた彼等に殺意を増した罠が展開され、罪深いとわかっていてもこのアトラクションを考えた者を殺したくなる衝動に駆られながら意地と根性を発揮して罠を粉砕しながら足を動かす。

 いつからか数えるのをやめた部屋の出口たる漆黒の扉。

 もはや神凪たちのことさえ覚えていない彼等は覚束ない足取りで扉を開け、今までにない軽快な音楽に警戒を露わとする。

「ヒィーッヒッヒッヒッヒッヒッ! まさか本当にクリアする者が現れるとはねえ! 長生きはしてみるもんさ!」

 闇の中から現れる、真っ黒な衣を纏った皺くちゃの老婆。

 手には木製の杖が握られており、皺だらけの手に似つかわしくない大きな宝石が付いた指輪が嵌められた人差し指で長く尖った鼻を掻く。

 その容姿を一言で表現するならば魔女。

 口裂け女で二口女の女性同様、言葉を発する彼女に警戒を解かず、話し掛ける。

「……婆さん、さっきクリアとか言っていたが、これで終わりなのか?」

「ああ、そうだよ。この部屋で終点、いや、ゴールと言った方がいいのかねえ。この部屋に入った時点でお前さんたちは『ほらぁゲーム』を攻略したのさ」

「とか言いながら、実はまだゴールしていませんでした、って感じの罠かしら?」

「そんな悪趣味な――罠があったねえ。確か三個くらい前の部屋だっけ?」

「四個前の部屋だ。クリアとか言われても期待していなかったから、裏切り感もそれほどなかった。で、二番煎じは基本、受けないぞ」

「だから嘘じゃないって。私のひいひいひいひいひいひいひいひい婆ちゃんが丹精込めて創り上げたこの『ほらぁゲーム』は楽しかったかい?」

「創った奴を殺したい衝動に駆られるくらい楽しめた」

「今回は止めないわよ。私も同じ気持ちだから。お婆さん、理不尽だとわかっていてもご先祖様に叩きつけられるべき怒りの鉄拳、受けてみる?」

「ヒィーッヒッヒッヒッヒッヒッ! 年寄りは大切に扱うもんだよ。まあ気持ちはわからないでもないけどねえ! 大体の創りは知っているけど、嫌がらせとしか思えないような罠もたくさんあったからねえ!」

「まったくだ。ゲームは楽しくが基本だというのに、これじゃクソゲー呼ばわりされても文句が言えんぞ」

「まあまあ、怒りを鎮めなされ。初めての『ほらぁゲーム』攻略者であるあんたたちには私からプレゼントがあるんだよ」

「プレゼント?」

「ほれ、一個だけだけど、受け取っとくれ」

 手渡される紫色の球体。

 瑞々しさと毒々しさが内包したそれはリンゴの形をしている物体。

 皮の全てが鮮やか過ぎる紫色に染まっていることから、疑いようもなく毒リンゴであることがわかり、手渡された仁は半眼で老婆を睨む。

「そんな熱い眼差しを送らんでおくれ。年甲斐もなくときめいてしまいそうじゃ」

「もう疲れたから単刀直入に訊くぞ。この毒リンゴは何だ?」

「じゃからプレゼントじゃよ。ヒィーッヒッヒッヒッヒッヒッ! 攻略記念の景品でもあるから、礼なら要らんぞ!」

「やはりこの婆さんでこれまでのストレスを発散するべきか」

「……もういいから、さっさと出ましょう。相手にしても疲れるだけよ」

「それもそうだな」

「ヒィーッヒッヒッヒッヒッヒッ! またのご来店をお待ちしておりますかのう!」

「二度と会わないことを祈る。会わないというか、関わらないことを祈りたい」

「右に同じ」

「ヒィーッヒッヒッヒッヒッヒッ! まあ縁があればまた会えるじゃろうて! その時は別の趣向で愉しませてもらうわい!」

 不吉に笑う老婆に見送られ、これまでの物とは異なる真っ白な扉を開ければ出迎えるのは目を開けていられないほど眩い光。

 光が収まると彼等が立っていたのは喧騒に包まれる遊園地の只中。

 振り返れば聳え立つ巨大なホラーハウス――は初めから存在していなかったように影形もなく、それ以前に仁たちは自分たちが何故、疲労困憊な上に何もない場所に棒立ちしているのか、覚えていない。

 覚えていないが何のために遊園地まで来たのかは記憶しており、スマホで神凪たちの現在位置を確認、いつの間にか持っていた紫色の毒々しいリンゴと一緒にスマホをポケットに入れて追跡を再開した。

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