第百六話
事故とは人為的に引き起こされる天災のようなもの。
早々目の前で起こることはなく、けれど起こる時は前触れなく、あるいは前兆があったとしても大抵の者が気付くことができず、突如として発生する。
けれど注意していればある程度の発生は防ぐことが可能。
例え自身に非が一切ないとしても偶然や他の者たちが原因となって引き起こされる事故もあるため、生まれてから一度も事故に遭わない者がいるとすればそれは真に天や神々に愛された者か。
中々お目に掛かれない、派手な事故を間近で目撃することになった仁はメイドが運転する大型車の助手席で頬杖を突きながらそのようなことを考える。
他の四人は相変わらず意識不明。
現状、彼の唯一の話し相手たるメイドも事故を目の当たりにした影響か、事故が起きる前よりも運転に集中し、かつ安全運転を心掛けているため、無駄に声を掛けるのは躊躇われる。
やることがない彼にできることはスマホ弄りくらいか。
愛読しているブログが更新されているのを発見し、新たに追加された人外の情報及び感想や駄文と書かれた日記を読んでほのかに笑う。
ゆっくり進む大型車。目的地が決まっており、そこまでの道のりも記憶しているので道を間違えることもない。
が、遅い。後続の車が苛立ちでクラクションを鳴らしてしまうくらい、制限速度を順守している彼女に仁も少しくらい速度を上げるよう言うべきか迷う。
法律で考えるなら彼女の行いに過ちは一つもない。
速度超過は事故の素。両手でしっかりハンドルを握り、信号や標識を守る彼女を非難する方が誤りと言える。
何よりも運転中に外野が口出しすれば、混乱した運転手がミスを犯す危険もあるので明らかに運転手側に間違いがない限り、口出ししない方が吉。
思考を終えた彼は片手で祈りの姿勢を取り、後続車たちに心の中で謝罪。
同時にこれは運命と割り切って欲しいと願い、再びスマホを弄り始める。
自身が何故スマホを弄っているのか、何のためにスマホを弄っているのか、そもそもスマホとは一体何なのか、などのある種、哲学的な思索を始めた頃に停車。
既に外は完全なる闇の世界。
迂闊に出歩けば良くないモノたちと遭遇してしまいそうな、月と星が良く見える深き夜の下、大型車が止まったのは大きな病院の駐車場。
直感で嫌な存在を感知した彼は急いで逃げ出そうとするが、助手席故にしっかりとシートベルトを装着したことが仇となり、行動に遅れが生じる。
ほんの少しの遅れでも、その遅れは致命的。
何故なら彼の隣、運転席にはメイドが座っているから。
彼女を相手に本気で逃げようと思ったならば、前提としてメイドに逃げ出すことを悟られてはいけない。
不意を突く形で全力疾走。これが最低条件であり、失敗した時点でもはや逃げることは絶対に叶わないため、諦めの中でおとなしくなる。
「……変わりませんね、貴方は」
「うむ? 色々と変わったと思うが。昔はケータイを弄っていたのに、今はスマホを弄っているとか、昔は白いブリーフで今は――」
「そのようなことを言っているわけではありません。それと仁様、後は貴方だけですので、おとなしく病院内で診察をお受けください」
「おう。やはりそういう流れ――後は俺だけ?」
後ろを確認すると横になっていたはずの四人の姿は発見できず。
状況から答えは一つしか思い浮かばないが、扉が開閉した音や気配、何よりメイドが動いた形跡そのものを見つけられない。
「……えっと、メイドさん?」
「何でしょうか」
「どうやって理香たちを運んだのか、訊けば答えてくれますか?」
「メイドさんの秘密です」
「まあ初めから期待はしていませんでしたから、別の質問を一つ。俺の予感が的中しているのなら、病院内にいるのは――」
「仁様のご想像の通りかと」
「うわー……」
嫌悪を隠さない表情で気乗りしないまま助手席を下り、背後には同じく車を降りたメイドが付き従う形で同行。
出入り口の自動ドアが人間一人分の重量を感知して開き、飛び切りの笑顔で出迎える師を前に仁の顔がますます曇る。
「随分と楽しいことをしてきたようだな、バカ弟子」
「途中から割とやる気に満ちていたけど、最初は巻き込まれた系だから俺は悪くねえと声高らかに叫んでみたい衝動に駆られているぞ、アホ師匠」
「そんな言い訳が通用すると思っているのなら、お前の頭を掻っ捌いて中身を新しい物に交換してやろうか。安くない手術費用が掛かるが」
「そういう言動も含めてお前は全ての元凶っぽいポジションにいることを理解しているのかと、ツッコミを入れたいのだが、許可は下りるだろうか」
「フン? 成る程、黛の状態を見てもしやと思ったが、ネーナに会ったのか」
「自分の弟子のことを覚えている程度にはボケは進行していないようで安心したような、さっさとボケた方が世の中、平和になるんじゃないのかと本気で考えている自分がいることにそれほど驚かない」
「師であり、育ての親でもある私に向けて言うべき言葉ではないな。わかっているとは思うが、今回の一件は学生が関わっていい問題ではないぞ」
「重々承知している。俺がペナルティを受けるから他の奴等は見逃してくれ、なんて言っても通じないこともな」
「さっきお前が言ったように、今回の件はお前だけの責任じゃない。言い換えればお前一人が責任を取れば済む話でもない。結果的に全員無事に帰って来たが、この場合、結果は問題ではない」
「はいはい。わかっていますよっと。で、先に運ばれた四人はどうした?」
「理香と東間は治療中、黛はこれから私が調べる。あの人狼の男は監視付きで治療を行っている。黛の状態はまだわからないが、他は取り敢えず大丈夫だ」
「ほうほう。で、俺は?」
「お前も治療だ。見たところ、傷は軽傷にまで治っているようだが、放っておけば化膿しかねない。そうなったら新しい治療法を試してやれるが――」
「健康第一。化膿したら大変。というわけで治療を受けまする。ただしお前が担当するというのなら、俺は持てる全ての力で対抗する!」
「ほう。そんなに可愛がって欲しかったのか? 高校生にもなって甘えん坊だな。だがまあたまには可愛がってやるのもいいだろう」
病院の出入り口で睨み合い、一触即発の空気を醸し出す。
無論、病院側から見れば迷惑極まりない行いであり、メイドが後ろから手刀で仁の意識を刈り取り、彼を抱えて医者の元へ連れて行く。
「なんだ、わざわざ私のためにバカ弟子の意識を――」
「保険医様。あまり調子に乗られますと、二度と軽口を叩けない体になって頂きますが、よろしいですか?」
感情も抑揚もない冷た過ぎる声音。
何の感情も含まれていないので、本気か冗談か区別がつかない――はずだったのだが、溢れ出す殺気が彼女の本気を証明している。
下手なことを口にすればこの場で実行に移しかねない、明確過ぎる殺意に両手を挙げて降参の意思表示を行う。
「失礼します」
殺意を静めて立ち去る彼女たちを見送り、自身も黛の体を調べるために移動。
静けさを取り戻した病院入り口にいる他の患者や受付の看護師たちが安堵し、看護師たちは止めていた仕事の手を再開、患者たちは各々の時間を過ごす。
緊張が一気に弛緩したためか、気を緩めた彼等はいつの頃からか受付前に立っていた白髪犬耳の少年に気付くことはない。
彼自身、受付には何の用事もないのか、看護師や患者たちに見向きもせず、診察を受けている彼の元まで足を運ぶ。
例え九尾の校長を前にしてもその足が止まることはなく、けれども彼女はそのまま彼を行かせるつもりがないのか、一振りの尾で彼の行く手を遮る。
「何か僕に用でも?」
「それはこっちの台詞、と言っておこうか。何処も怪我をしていない、さりとて病気に罹っているわけでもない子供が病院に何の用がある?」
「校長先生こそ、健康そのものの体で病院に何の用事があるっていうのかな? 若い男の子を漁りに来たんだとしても、こんなところにいる余命幾ばくもない儚い青葉の散らすより、そろそろ散った方がいい枯葉を襲えばいいんじゃないの?」
「私にも選ぶ権利はある。まあ枯葉といっても私から見れば赤子同然だが」
「無駄に年を取っているからねー。亀の甲より年の劫とは言うけど、校長先生の年の劫って何か役に立っているのー?」
「私が与えるのは知識だ。そして与えられた知識をどのように活用するのかは教えを受けた者次第。知識を与えることはできても、知恵は与えられないからな」
「逆に奪うことは得意そうだよねー。昔から贅沢三昧して国を滅ぼしたりー、権力者に愛されようと無駄な努力をしたりー、ほんと狐ってロクなのがいないよねー」
「……九尾たちがやってきたことに関して言い訳はしない。だがロクでもない存在という意味ではお前も似たようなものではないのか?」
「失礼な。僕のこの犬耳が見えないの? 僕はご主人様に仕える忠犬だわん。ご主人様に対して尻尾を振って媚びを売るのが僕の主な仕事なんだわん」
四つ足で無い尻尾を振る仕草を取る犬耳の少年は子供特有の可愛らしさと純粋無垢さを全面に押し出し、犬のように舌を出す。
唾液滴るだらしない舌と赤く染まった頬。
見る者が見れば興奮を覚えそうな、艶やかな表情は確かに魅力的。
獣特有の危険を察知する直感が働いていなければ、自身も魅了されていたかもしれないと、取り敢えず今の彼の顔を写真に収めた校長は咳払いをして仕切り直す。
「お前が忠犬なのか、そうではないのかについて微塵の興味もない。私が訊いているのはこの先に何の用があるのか、その一点だけだ」
「用が無ければ進んではいけないというのかわん。そんなの誰が決めたんだわん」
「用が無ければ進んではいけないなどと誰も言っていない。ただ、用が無ければこの先に行く必要はないはずだ。単に散歩したいだけというのなら、お勧めのコースを紹介してやってもいい」
「僕の行く道は僕が決めるんだわん。誰の指図も受けないんだわん」
「実は先日、よく仕事を任せる生徒と将棋を打っている最中に中々興味深い話を聞いてな。ちなみに将棋は終始私が優勢で、何度も待ったされた上にハンデまで与えてやったが勝負にならず、私の圧勝だった」
「訊いてないんだわん。しかも嘘くさいんだわん。本当はハンデを付けてもらった上でボロ負けだった臭いがプンプン漂ってくるんだわん」
「し、失敬な! 負けてなどいないぞ! 私は決して負けていない! これは本当のことなんだからな! 嘘なんかじゃないんだぞ! と、とにかく、将棋の話は置いておくとして、アイツは入院中に変な夢を見て、起きたら傷が治っていたと言っていた」
「不思議なこともあるものだわん。でも不思議なことがそれなりの頻度で起こるこの魔境ならそれほど珍しい現象でもないんだわん」
「その通りだ、が、如何にこの魔境でも不思議なことが偶発的に発生することは滅多にない。不思議なことは基本、何者かの手で起こされる。そしてその夢の中に出て来た骨董品屋の店主とやらが、お前の特徴と一致している」
「偶然って怖いんだわん。もしくは夢で見るほど僕のことを意識してしまっているのかもしれないんだわん。今度、可愛がったり、可愛がってもらうのも有りかもしれないんだわん。その様子を撮影して売れば結構、儲かりそうなんだわん」
本当に販売された購入を検討してもみるのも悪くないと考えた校長は雑念を振り払うように首を振り、懐から取り出した扇子を広げて自身の顔を扇ぐ。
優雅さを崩さないような仕草で火照り掛けた顔の熱を静め、落ち着いた彼女の掌に燈る青白い炎。
火災報知機に引っ掛かることのない幻惑の狐火。
熱を伴わない幻の炎で何をするつもりなのか、面白そうに出方を窺い、数秒しても動きを見せない校長に苛立ちを覚え始めた頃に狐火が消失。
「……今の、なに?」
「意味もなく狐火を出してはいけないのか?」
「つまり僕を不機嫌にさせるための挑発ってこと。なら効果覿面だね。期待して損した失望感が僕の心を苛立たせている」
「この程度のことで苛立ちを覚えるのか。意外と器が小さいんだな。それとも見た目通りの器の大きさと嘲笑えばいいのか? 私としては是非とも、皆に聞こえるよう大きな声で盛大に嘲笑ってやりたいところだが」
「ここは病院だから、騒ぎを起こす気はないよ。校長先生とはもちろん、彼等と接触してもね。なんて言っても、僕を通してくれないんだよね」
「あずかり知らないところでの接触は止めようがないが、見える範囲で得体の知れない何かが生徒に接触しようとしているのを見過ごすわけにはいかん。どうしてもというのなら、妖狐たちの長の力を示すが」
「そこまでしてマスターに会うつもりはないよ。君が言っていたように、君のあずかり知らないところで会えばいいだけだし。というわけで今回は怖い妖狐のお婆さんに脅されたから、小便チビりそうになりながら帰りますよーっと」
回れ右して大股に、無警戒に歩き出す犬耳の少年の背中を注視。
まばたき一つ行わず、神経を尖らせて監視していたその瞳からいつ、犬耳の少年が喪失したのか判断不可能。
ただ、殺気立っていた獣の本能が鎮まったことから病院から出たのは事実。
本当に帰ったのかまでは不明だが、彼のことを気にしたところで時間の無駄にしかならないと自らを納得させ、残っている仕事を片付けるために帰路に就いた。
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