第百五話

 憂鬱によって高揚していた気分が落ち着くと同時、全身の傷口から痛みが脳に伝達され、座り込んだ彼は天を仰ぐ。

 暗く冷たい鋼鉄の天井は彼に何の恵みももたらさず、太陽か月、あるいは雲や雨でもいいから空が見たいと願っても人工物の天井は応えない。

「……そういえば、これって俺が四人全員運ばないといけない流れなのか? 理香は力尽きたみたいだし、黛は全裸の眠り姫状態。東間きゅんは一番の重傷人で、人狼の男は貸しがあるとはいえ三人を任せられるほどの信用はない、と」

 口に出して確認を行い、自身が運ばなければならないことを確信した仁の気分は更なる憂鬱に包まれる。

 皆殺しという形で無人になったとはいえ、彼等がいるのはマフィアの支部。

 混沌具合では魔境に劣るが、危険地帯であることに疑いの余地はなく、できる限り早めに退散するのが吉。

 気合いを入れ直して四人全員を運ぼうと担ぎ上げたところ、塞がり切っていない全身の傷口から一斉に血液が外に飛び出し、貧血状態と化したことで倒れる。

「うん。無理」

 辛うじて意識を保ち、形成された己の血の海を踏み締めて力強く立ち上がった彼は自分の肉体の状況から一度に運べるのは二人までと限界を認識。

 誰から運ぶべきかを悩む彼の頭上、天井から嫌な音と振動が轟く。

「……えーっと、ゲームじゃないけど、もしかしてボスを倒したら建物が崩れるとかそういうお約束が仕掛けられているのですか?」

 誰に対して言ったわけでもない、誰の耳にも届くことのない虚しき問い掛け。

 振動と音は一秒ごとに大きくなり、もしも本当に建物が崩れるならば彼が行うべきことは一つ。

 黛と人狼の男を置き去りに東間と理香を抱えての全力逃走。

 その過程で自身の肉体が壊れたところで、それこそ命を落とすことになろうと構わないと、二人を抱えた直後に天井が崩落。

 が、予想に反して崩壊したのは天井の一部。

 空から差し込む太陽の光。人工の物ではない輝きの中に颯爽と推参するメイドは簡素な服を全裸の黛に着せ、仁に向けて優雅に頭を下げる。

「お待たせ致しました、仁様」

「……別に待っていないですけど。というかまた派手な登場ですね」

「お褒めに与り光栄の至り。ですが今はこの場を離れることが先決かと」

「それはそうですけど、見ての通り、俺は割と酷い状態でして、一度に運べるのは二人が限界だとさっき悟ったばかり」

 彼の話を最後まで聞かずに実行された行動は非常に迅速。

 少し乱暴な手付きで人狼を、黛を天井の大穴から外に運び出し、停車させていた大型車の中に放り込む。

 次いで仁が抱えていた東間と理香を奪い取って同じように大型車の中に荷物が如く収納、最後に仁を抱えて天井から脱出を果たす。

 また、どのようにして行ったのかは不明だが、移動中に止血を済ませて全身にある傷を的確に治療。

 彼を助手席へ座らせると自身は運転席に着席。エンジンを始動させ、猛烈な速さで支部を後にする。

 この間、僅か一分未満。ギャグのような手際の良さに開いた口が塞がらない彼へと透明な液体が入ったペットボトルを渡す。

「お飲みください。それで失われた血液を多少は補充できるはずです」

「ただのスポーツ飲料に見えますけど、違うんですか?」

「お嬢様の計らいで作られました、色々なモノがブレンドされた試作型のスポーツドリンクです。見た目は問題ありませんが――」

「ありませんが?」

「……いえ、私の口から申し上げるべきことではございません。最悪の場合でも死に至るような事態にはなりませんから、ご安心を」

「最悪の場合って何ですか。何かとても悪い副作用があるんですか。というかそもそも何を含有させたんですか!」

「お気になさらないでください。大丈夫、他の方々でしたら飲ませるわけには参りませんが、仁様の肉体ならば耐え切れます」

「今の一言で完全に飲む気が失せました。お気持ちだけありがたく頂きます」

「そうおっしゃらずに。仁様はもっとご自身の肉体に自信を持たれるべきです。それにご安心を。もしもの時は保険医様が控えられておりますので」

「我が師匠に体を預けるくらいなら、人殺しを愉しむために医者になった殺人鬼に手術を依頼した方がマシです」

「わかりました。少々お待ちください。一時間ほどでご依頼の方を連れてきます」

「あくまで最悪よりはマシというレベルですので、探されても困るんですけど」

「では仁様のちょっといいところが見てみたい、ということで一気にどうぞ」

「嫌です。そこまで言うのならメイドさんが飲んでください」

「それは仁様の失われた血やその他諸々を補充のためにご用意した物。私が飲んでは何の意味もありません。が、一口でも仁様が口を付けられた後でしたら私が飲んで差し上げます」

「結局、俺が飲まないとダメってことですか。ならせめて先にメイドさんが飲んでください。俺はその後に飲みます」

「畏まりました。運転中ですので両手を開けられません。ですからどうぞ、私の口にペットボトルをお入れください」

「冗談ですよ。恐怖は未だに残っていますが、咽喉がカラカラなのでありがたく頂きますよっと」

「…………」

 無表情、無感情の中に残念そうな色を滲ませていることに気付かず、ペットボトルの蓋を開けて中身を口に含む。

 ほのかな甘さ以外の味は感じられない、至って普通の飲料水。

 不味さや飲み難さはなく、強烈な自己主張のない平凡な飲み物。

 点数を付けるとすれば及第点を超えることはない、何度も飲みたくはないがそこにあるなら飲んでもいい程度の味。

 しかし激戦を超え、多量の血液を失い、水分に飢えていた彼にとっては砂漠で見つけたオアシスのようなもの。

 手軽に持ち運べる大きさとはいえ、ペットボトル一本分の飲料水の全てを一口で飲み干し、空になった容器を口から離す。

「ッ、カーッ! この一杯のために生きている!」

「……本当に飲まれるとは思いませんでした」

「えっ、なにその反応。……飲んじゃマズい物じゃないよね? さっきまでのやり取りは単なる冗談だよね?」

「……………………はい。もちろんです」

「その間が何なのか、とっても気になりますけど、聞いたら引き返せなくなりそうですから何も聞きません」

「実はその飲料水、保険医様が開発された物でして」

「聞きたくない、聞きたくなーいー! 俺は何にも聞こえませーん! 俺の耳には何も届きませーん! 何かが起きたとしても俺は何も知りませーん!」

 車内にある全ての音を掻き消すような大音量で即興の下手な歌を歌う。

 現実逃避に没頭する彼にメイドは憐れなものでも見るような、同情と憐憫の眼差しを向けて口を閉ざし、真っ直ぐ前を向いて運転に専念。

 口を閉ざしたメイドの隣、助手席で小刻みに震えながら仁は自身の体の状態を確かめるべく目を閉じて意識を集中させる。

 傷の大半はメイドの治療と持ち前の回復力との相乗効果で大幅に回復。

 無理をした反動で開いた傷口を完治させるにはまだ時間が必要だが、彼が知りたいのは外傷ではなく内側で起ころうとしている変化。

 内傷及び内側の変化は目で見ることができない上、五感を総動員しても何が起きているのか察知するのは困難。

 事実、彼は体内の変化を感知できず、けれどもしもメイドの言っていたことが真実なら油断は命取りに繋がる。

「仁様」

「なんですか、メイドさん」

「先程の言葉ですが、偽りと真実が混ざり合っております」

「……具体的には」

「保険医様が開発したのは事実です。が、お嬢様がご依頼し、直々に監視されておりましたので仁様が懸念されるような物質は混入されておりません」

「委員長への好感度がMAXを振り切り掛けたものの、保険医に余計な物を作らせた事実があるのでプラマイゼロに。で、委員長は何を作らせたんですか?」

「栄養ドリンクを改造した物。と、おっしゃられておりました。その際、保険医様が不本意そうな顔をしつつ、少し引いておりました」

「……つまり保険医が引くような物を作らせたってことですか?」

「恐らくは。しかし仁様、先程の飲み物をご用意されたのはお嬢様です。お嬢様が徒に仁様たち級友の皆様方を危険な目に遭わせられるとお思いですか?」

「それは――ないですね。委員長は優しいか微妙なところですけど、無意味に他者を傷付けるような人ではありませんから。もしも他者を傷付けることがあるとすればそれはそいつが余程委員長の機嫌を損ねたか、傷付けた方が委員長にとって得があると判断した時くらいなものでしょう」

「……仁様はお嬢様を何だとお思いですか?」

「我等がクラスの代表。逆らうだけ時間の無駄な女帝様」

「お嬢様にはそうお伝えさせて頂きます」

「すんません、勘弁してください。後半は冗談ですから、委員長は我がクラスの代表なだけですから」

 土下座できるなら土下座しているであろう、猛烈な勢いで頭を下げ、ダッシュボードに額をぶつけて悶絶。

 涙目になる彼にハンカチを差し出し、受け取った彼は両手を合わせて彼女を聖母の如く崇め奉り、涙を拭いて鼻をかむ。

 涙と鼻水に濡れたハンカチを返す彼の頭に浮かぶツッコミの数々。

 真面目な彼女はどのツッコミを選ぶのか、内心で期待していた彼を裏切るように無言でハンカチを受け取り、器用に片手で綺麗に折り畳んで懐に仕舞う。

「……おおう」

 予想外の行動に戸惑いと敗北感を覚え、想像を超えた強敵と認識を改めて彼女にツッコミを入れさせる方法を思考。

 どのような鉄面皮の堅物であろうと、例え冷酷無慈悲な暴君であろうとツッコミを入れざるを得ない状況に追い込まれれば必ずツッコミを入れる。

 例外はあり得ない。彼女がどのような人間であろうとツッコまざるを得ないボケは絶対に存在するはずと明後日の方向に闘志を燃やす。

「メイドさん――」

「仁様、次にボケられましたら額をフォークで突き刺しますので発言にはご注意ください。警告はこの一度だけです」

「……はい」

 殺意に圧され、縮こまる仁は何気なく窓の外を眺める。

 後方を確認してもロウオウ支部の影形は見えず、通行人も少なくない街の中。

 後部座席や床に寝かせられている四人が起きる気配もなく、事実上、メイドと二人きりという冷静に考えればかなり珍妙な現況の中、外を見るのに飽きた彼は運転をしているメイドの横顔を見つめる。

「……何か?」

「別に何もありませんが」

「でしたら何故、私を見つめられているのですか?」

「特に意味はありません。強いて言えばメイドさんの横顔を見ていたいからです」

「そのように見つめられては恥ずかしいのですが」

「お気になさらず。俺は気にしていません」

「気になります。叩き出すとは申しませんが、どうぞ、前をご覧ください。ここは魔境の外、普段は見られない光景を見つけられるかもしれません」

「魔境の外なんて飽きるほど行きました。まあ主に外国ですけど。それはそうと俺がメイドさんを見つめるのに何か不都合でもあるのですか?」

「恥ずかしいと言いました。見つめられるのにあまり慣れておりません」

「それはいけません。メイドたるもの、いついかなる状況でも十全の力を発揮してご主人様にご奉仕しなければ。というわけで俺がメイドさんの弱点克服のために特訓をしてあげます。ありがたく思え」

「必要ありません。あと、ボケられましたらフォークで額を貫かせて頂きますと申し上げました。有言実行致します」

「ゴメンナサイ、もう不要にボケたりしませんから、何故か突き刺すから貫くにランクアップした暴虐はおやめください、お願いします」

 切に願ったのが功を奏したのか、懐から取り出された銀製のフォークが彼の額に突き刺さることはなく、代わりにデコピンの直撃を頂く。

 細腕に見合わない剛力は理香と同等。額から湯気のようなものが上がり、前方の赤信号よりも赤く染まった額を手で押さえる。

「容赦ないっすね」

「手加減は致しましたが。何かご不満でも」

「できればもっと強くやって欲しいっす。手加減抜きの全力全開な一撃を俺は求めているっす。などとその気になってはいけない色々と危ない思考は窓の外に投げ捨てました。今の俺はS性の方が強くなっておりまする」

「よくわかりませんが、私を責めるとおっしゃられているのですか?」

「いくらS性が強くなったからといって海水魚が真水に突入することを勇気とは呼ばないように、牙の全てを力でへし折りそうな調教師に牙を剥いたりはしません」

「調教師ではありません。私はメイドさんです」

「似たようなものでしょう」

「他者を躾ける者と他者に奉仕する者。共通事項が見当たりませんが」

「SとMという意味では相性抜群な気が?」

「似ている、似ていないという話をしております。……まあ仁様が調教師を目指されるのでしたらお止めは致しませんが」

「将来については未だ考え中ですけど、今のところ、その予定はありません」

「そうですか。少し残念です」

 信号が赤から青に変わり、止まっていた車がほぼ一斉に再発進。

 メイドもまたアクセルペダルを踏んで大型車を発車させ、急いでいたのか無理やり他の車を追い抜こうと対向車線に飛び出した別の乗用車が見事に対向車と正面衝突するという事故を横目で目撃しながら気にすることなく、多少遅くなろうとも自身を含めた全員の安全を最優先とした運転で魔境を目指した。

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