第百四話

 摩擦熱による火傷と完全には止め切れなかった弊害による皮膚の損壊。

 加えて枝そのものから新たな枝が無数に生成され、理香の掌を刺し貫く。

 血だらけ、穴だらけになりながらそれでも理香は白刃取りを維持。

 特に右腕は元々傷だらけだったため、頭がおかしくなりそうな痛みが駆け巡るのだが歯を食い縛って耐える。

 表情が苦悶に染まろうと悲鳴は上げない。

 白刃取りを維持したまま、じっくりと間合いを詰めていく彼女に何か感じ取ったのか、大木より新たな枝が生え、雨の如く降り注ぐ。

 人体を貫ける速度を有した枝の豪雨。

 例え両腕を使えようと全ては防げない枝たちを、体を張って止めるは東間。

 全身に穴が開けられようと仁王立ちして枝の雨をその身で受け、彼等が大木の注意を引き付けている間に横から回り込んだ仁が渾身の一発を叩き込む。

 自動反撃の如く、大木に突き刺さる拳を貫く太い枝。

 しかし二人が血塗れになったことで頭に血が昇った彼は己の体など顧みず、膝蹴りで大木に亀裂を走らせる。

 流石に本体をへし折られるのはマズいのか、殺せる好機を逃すことになってでも彼等を引き離そうと枝の鞭で薙ぎ払い、三人を吹き飛ばす。

 それぞれ壁に叩きつけられ、起き上がったのは理香、仁、東間の順番。

 その順番は彼等の傷の具合をそのまま示しており、理香は右腕以外は比較的軽傷で右腕は使い物にならなくなる寸前だが、それ以外は問題なく動かせる。

 仁は全身、傷だらけだが、持ち前の回復力のおかげで行動に支障が出ない程度には傷が癒えており、たった今、穴だらけにされた東間が一番の重傷人。

 止血しなければ命に関わるくらい血を流している彼の治療を優先し、大木を無視して東間の傍へ駆け寄る彼を枝の鞭が襲う――

「邪魔だ!」

 大木本体に作られた亀裂へ正確無比に撃ち込まれる弾丸。

 三発全てが寸分狂わず同じ場所に撃ち込まれたことで風穴が開けられ、本体に開いた穴に大木から絶叫のような雄叫びが轟く。

「ふむ。叫ぶということは痛みがあるということ? いくら生命力が強かろうと痛覚が働いているのなら痛みは伝わるでしょうけど、痛みを理解できるということは知能を有しているということかしら? うーん、興味深いわね」

 大木を観察してつぶやきを漏らす彼女の存在を無視して駆ける理香。

 場違いなほど呑気に構え、自身の研究のことしか考えていない姿に苛立ちを覚えている余裕もなく、ただただ仁と東間のために大木を破壊することだけを考える。

 その行為が友人の死に繋がることを理解しても彼女にできるのはそれしかない。

 奇跡でも起こせれば彼女を元に戻せるのだろうが、そんな奇跡を期待しても裏切られるだけなのが世の常。

 実行後に延々と後悔することになったとしても今は自身を、何よりも幼馴染みたちを守るために拳を打ち付ける。

 風穴部分に叩きつけられた右拳から伝わる激痛に、我慢しても自然と溢れる涙が視界を塞ぐが問題にはならない。

 ここまで距離を詰めれば標的を違えようがない。生成された枝が打ち付けた拳を貫こうと、元より右腕は使い捨て。

 左手を大木に添えての蹴り。仁の膝蹴りが残した亀裂に直撃した会心の一撃が大木全体に亀裂を広げる。

 もう一撃、入れることができれば壊せると確信に至った時、大木から耳を壊す雄叫びが発せられ、反射的に右腕を引き抜いて目を閉じ、両耳を塞ぐ。

 十数秒に渡って轟いた雄叫び。

 ようやく静まった頃に目を開けた彼女は仕掛けようとして愕然とする。

 大木全体に広がった亀裂。そこから生えるのは枝ではなく人狼の頭。

 怨嗟の声を漏らす数十の頭。生きとし生ける者たちを憎む呪いの声。

 特に自分たちの命を奪う直接的な元凶たる女性に対しての憎悪は凄まじく、人狼の頭の一体が彼女の立体映像を視界に収めた途端、先程の雄叫びとは比較にならない憎しみの怒声が室内を満たす。

 鼓膜が切れ、脳が汚染されそうな恨みの罵声。

 憎しみの声は大気を揺るがし、生まれた衝撃波に動きを封じられた三人は耐えることを強要される。

 音は届いているため、女性も五月蠅そうに両耳を手で塞いでいるが、届いているのは音だけで、そこから生じた衝撃波までは伝わらないのか、平然と大木から生えた人狼たちを観察及び考察を継続。

 しかし視覚と聴覚で得られる情報だけではとても満足できないのか、怨嗟の声を浴びながら怒りを露わに地団駄を踏む。

「あー、もう! 五月蠅いわね! ちょっとそこの貴方、そいつを黙らせた後、死体を私のところまで持ってきて頂戴!」

 精一杯の声も怨嗟の叫びに掻き消されてしまうため、仁には伝わらない。

 音がより大きな音で掻き消されるのは子供にもわかる理屈。

 非があるとすれば叫び続けている大木なのだが、研究対象だからか大木に文句は言わず、仁へと怒りをぶつける。

「聞こえていないの? その耳は飾り? っていうか閉じているんじゃ聞こえるわけないじゃないの! 手を離して私の声に耳を傾けなさい! なんて言っても聞こえていないんじゃ意味はないわよね、ったく、使えないんだから!」

 人狼たちの怨嗟に突き動かされ、大木が床を侵食している根を引き剥がし、動物のように歩き出す。

 歩行しているように見えるのではなく、文字通り歩行している様子は冗談にしか見えないが、冗談に見えようと現実は現実。

 歩きながらも叫び声は止まらず、両耳を塞いで超音波を防御中の彼等は大木へ攻撃を仕掛けることができない。

 大木の傷は治っていない。それどころか一歩進むたびに亀裂が大きくなっているので、一撃を入れられれば大木は砕け散る。

 だがその一撃を入れることが困難極まりない状況。

 動くことは不可能ではないが、衝撃波が肉体を麻痺させ、痺れながら無理やり体を動かしたとしても攻撃に移る前に鼓膜が破れ、脳が壊されてしまう。

 仁たちが手をこまねいている間に大木から枝の雨が降り、女性を貫く。

 けれど女性は立体映像。降り注ぐ枝が彼女に害を為すことはない――が、大木に彼女が映像であることを理解できるほどの知能はない。

 無駄な攻撃を繰り返すだけならば無害と化したと言えなくもないのだが、怨念に支配された大木は女性を標的にしたまま無差別に枝の鞭を振るい出す。

 女性を素通りする枝の鞭が理香の体を薙ぎ倒し、仁の肩を打ち据える。

 出血多量で今にも倒れそうになる東間にも枝の鞭が襲い掛かり、虚ろな意識にトドメを刺された彼は意識を失う。

 気絶すれば当然、耳を塞いでいることも叶わず、鼓膜が破れるまで数秒か。

 絶望的な状況。立ち上がろうと足掻く仁たちを女性は見下ろす。

「んー。ここまでかしらね。学生にしては頑張ったって言ってあげたいけど、結果を残せないのなら無駄骨以外の何物でもないわよ」

 自身と似たような思考。話していてそれなりに楽しかった仁のことを名残惜しそうに見つめながら移動し、仁の上に立つ。

 それは彼女なりの配慮。苦しみの中で死なせるよりもすぐに楽になった方がいいと時間稼ぎとはいえ話に付き合ってくれた彼へのお礼。

 憎しみのまま、女性を狙う大木は立体映像に枝の鞭を振るい、彼女の下にいる仁も当然ながら巻き込まれ――

「――ざっけんな!」

 燃えるように瞳を真っ赤に染め上げ、立ち上がった理香が振るう拳。

 一瞬だけ――その一瞬だけ、紗菜をも超える速さで繰り出された拳には炎が纏わりつき、枝の鞭を破壊しながら大木を炎上させる。

 憎しみの声は悲鳴へ変わり、のたうち回る大木に仁の飛び蹴りが炸裂。

 完全に動きが止まった大木は業火の中で燃え尽き、灰になって存在していた痕跡さえ残さない――

「もう一度、言うわよ。ふざっけんな!」

 燃える大木、悲鳴を上げる人狼たちの頭を貫いて内側に腕を突っ込む。

 再び引き抜かれたその腕には全裸の黛が抱かれ、しかし彼女を逃すまいと人狼たちの頭が四肢に食らいつく。

 何が起きているのか、未だに理解不能。

 だから仁は思考を放棄。本能の赴くまま、人狼の頭を潰して黛を解放させる。

 残った大木と人狼たちの頭は炎の中で燃え尽き、完全なる灰と化す。

「終わっ、たぁ!」

「……ああ、終わったが、あー、うー、えー?」

 見た目的には無傷の黛を抱きかかえる理香が仰向けに寝転がる。

 生気を失った瞳が見つめる虚空。やり遂げた満足感に浸りながら意識を失う彼女を見つめ、しかし起きたことについて考えるよりも東間の治療を優先。

 保険医に改造された右の義手を開き、緊急用の治療器具を用いて止血、鼓膜が破れていないのを確かめ、応急処置を済ませる。

 検査した限り、命に別状はない。

 呼吸、脈拍ともに異常は見られず、放っておいても大丈夫と判断を下しながら現状で完全な放置は危険と、彼を理香たちの隣に運ぶ。

「こっちは無問題として、次は――」

 健やかな寝息――色気も何もない大口を開けていびきを掻いている、百年の恋も冷めそうな彼女の状態を確認。

 理香に対して様々な感情を抱いているが、それはそれ。

 診察に遠慮など欠片も持たず、熟睡しているが故に抵抗できない彼女の体を色々な方法で調べる。

 起きている時に触ればキレられるどころでは済まないような場所も含めて念入りに調査した結果、何も問題ないと断言可能な健康優良児。

 重傷を負っているのは変わりないので健康体とは言い難いかもしれないが、怪我以外の異常は見当たらないので健康な重傷人というのが妥当か。

 ただ、黛の方は彼の知識では判断不可能。

 外見が無傷でも中身まで無事な保証はなく、植物の化け物から大木となり、その内側から引きずり出された彼女の肉体に悪影響が無い方が不自然。

 尤も、大木の中に彼女の肉体がそのまま残っていたこと、そして理香がそのことを知っていたかのように力尽くで引きずり出したことの方が遥かに不自然だが。

「彼女、何者なの?」

「俺の幼馴染み。昔からよく知っている。お風呂にも何度も一緒に入ったぞ」

「仲睦まじいわね。で、何者なの? 人間にしか見えないけど、人間に化けているだけで大妖怪や神の血筋なのかしら?」

「それをお前に教える理由があるのか?」

「ケチケチしないで、それくらいの情報は提供しなさいよ。私だって幾つかの情報を貴方に上げたじゃない」

「役に立たない情報を、な」

 女性から理香たちを庇うように立ちはだかるが、相手は立体映像。

 立ちはだかろうが簡単にすり抜け、至近距離で理香と黛を観察する女性の視界を遮るために両目部分を掌で覆う。

「ちょっと、邪魔よ。これじゃあロクに見えないじゃない」

「邪魔しているんだから当然だ。女が女の裸体を見つめてもつまらないだろう?」

「そんなことはないけど、そういうことじゃなくて、私に何か恨みでもあるの?」

「この騒動の発端を忘れたのか?」

「その娘がロウオウのことを探って、バレて捕まったことでしょう?」

「……その件に関しては黛に非がある。反省させるが、囚われた黛に樹冥姫の細胞を打ち込んで暴走させたのは何処の誰だ?」

「それは私ね。捕食活動に関しては想定の範囲外だったけど、おかげで良いデータが取れたからそれは良しとしておくわ。まあ支部が一つ、壊滅しちゃったけど」

「ここまでのことをやらかしたんだ。お前、ロウオウから狙われるぞ。人狼というか狼たちが狙った獲物は仕留めるまで追い続けることは知っているよな」

「別に構わないわよ。私は研究ができればそれでいいもの。まあちょうどいいから貴方たちのせいって感じに適当な言い訳を並べてあげてもいいけど?」

「それで騙されるような奴等がマフィアをやれるとは思えん。それにこっちには生き証人がいる。証言した後にロウオウが彼をどう扱うのかはわからないが、借りは返してくれるそうだし、一度、死んだも同然の命だから証言に躊躇はしないはず」

「なら詰みね。そろそろ面倒臭くなってきた頃だったし、また研究資金を出してくれそうな、適当な組織にでも行きましょうか」

「宛てがあるのか?」

「彼女についてもっと詳しく教えてくれるのなら、私の宛てについて語ってあげてもいいわよ、弟弟子ちゃん」

「――気付いていたのか、俺が保険医の弟子だってことに」

「そりゃあ、ね。最初に会った時から薄々そうなんじゃないかなー、って直感していたけど、話をしている内に確信を持ったの」

「じゃあ姉弟子殿。この場は弟弟子の顔に免じて去って頂けませんか。無事かどうかはまだわからないが、結果論として黛を助け出せて、理香や東間も命が助かった以上、これ以上の厄介事は避けたいし、姉弟子殿にももう興味はない」

「釣れないことをいう弟弟子だこと。私はその娘たちに興味津々なのに」

「言うまでもない、言うほどのことでもないが、理香たちに手を出したら何が何でも殺しに行くのであしからず」

「はいはい。今までのやり取りからその辺はちゃんとわかっていますよ。まっ、今回は結構な量のデータが取れたのと、興味深くて面白い見世物が見れたから、それで満足してあげましょう」

「うむ。大いに満足しろ。と、そういえばまだ名前を聞いていなかったな。他人に名前を尋ねる前にまず自分から名乗るべきだから、俺は仁と名乗っておく」

「変なところで礼儀を弁えているわね、弟弟子君。私の名前はネーナ。また会う機会があるかはわからないけど、覚えておいて損はないかもしれないわよ」

「ネーナか。それが本名なのかは知らんが、本名だとしたら兄が二人いるとか?」

「姉弟子を呼び捨てにしない。それと私は一人っ子よ。それじゃあ、またね」

 手を振りながら消えていく立体映像。

 朗らかな笑顔の裏に隠された狂気――否、自分の研究が最優先なだけで常識や倫理を弁え、その上で意図的にロウオウの支部を壊滅させた彼女の異常性に、しかし仁が覚えるのは嫌悪ではなく共感。

 己の研究が何よりも優先。大切なのは自身の作品。

 知り合いならまだしも、研究のために名前も知らないその他大勢が犠牲になろうと知ったことではないという考えは彼の内にも何度か湧いた思考。

 飽くなき探求心、果てなき好奇心を内に秘めた研究者ならば、いずれ通ることになる可能性を持った暴虐の道。

 その道を彼が選ばない、選ぼうとしない理由の頬を撫でて薄く笑い、魔境に帰った後のことを考えて憂鬱な気分に浸った。

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