第七十九話
マウントポジションの確保に成功し、一気に優勢になった理香を前にして仁の顔は酷く冷静沈着。
素の能力は仁が上回っていようと、この体勢を覆せるほどの差はないにもかかわらず、何故そこまで冷静でいられるのか。
疑問が氷解するまでそれほど時間は掛からない。そもそも今の彼女は軽い興奮状態になっているからこそ、この体勢を維持できているに過ぎない。
彼女が冷静さを取り戻したのはスマホのフラッシュを横目に浴びた後のこと。
スマホを、正しくはスマホのカメラを二人に向けて神妙そうに頷いている神代と感涙する東間の二人を訝しげに見つめ、次いで自身と下にいる仁を視認したことでようやく、自分の置かれている状況と彼等が何を撮影したのかを理解。
顔から火が出るほど真っ赤になり、顔中の穴という穴から蒸気に似た白い煙を噴出した彼女は大きく跳躍して裏門から逃げ出す。
夜を切り裂く乙女の雄叫びに、大体の異常事態に慣れている魔境の住民たちも気になって様子を見に外へ出る。
また、彼女の叫びを聞いて良き獲物と判断した吸血鬼たちが襲来するも、摩擦熱で炎を纏った拳に打ちのめされて灰と化し、彼女は獲物ではなく狩人であることを察知した仲間たちが急いで灰を回収して退散。
当の理香は吸血鬼を倒したことはおろか、遭遇したことにさえ気付いていないのだが、いずれにせよ、彼女の足が止まることはない。
次いで遭遇したのは夜に溶け込むような、真っ黒な異形の生命体。
怨念を纏い過ぎて人としての形を失ってしまった亡霊は静寂を乱す彼女を敵と認識し、異形へ変貌した腕だったものを振るおうとして轢かれる。
緩慢な動作は彼女が我を取り戻していたなら恐怖演出として役に立ったかもしれないが、暴走状態の彼女は恐怖を認識できていないため、何の意味も持たない。
轢かれて、踏み潰された亡霊は呻き声を漏らして消滅。
物理的に悪霊を成仏させたことは結構な偉業なのだが、目撃者がおらず、やはり彼女も亡霊に出会ったことに気付けていないので彼女を称賛する者はいない。
その後も夜の住民たちとの出会いと別れを繰り返し、一夜にして夜の住民たちより真紅の女夜叉として語り継がれるようになったのだがそれはまた別の話。
二十分ほど経過して、戻って来た理香はスッキリした面持ちのまま、東間と神代のスマホを奪い取り、写真のデータを削除して彼等に返す。
「フゥ。これで悪は去ったわね」
「勝手にスマホを弄るのは悪じゃないのかな?」
「許可なく撮影することは盗撮って言うのよ。覚えておきなさい」
「……まあ、勝手に撮ったことは確かに悪かったのです。謝ります。でも、理香も悪いのですよ。いくら自宅の敷地内だからといって、あんな風に欲情して男を押し倒すのは流石に品がないのです」
「何のことかしら?」
「さっきのことです。理香が仁を」
音が遅れて聞こえる、音速越えの拳が神代の頬を掠める。
背後にあった石灯籠が彼女の拳の風圧で砕け散り、至近距離まで詰め寄った彼女は逆らうことを許さない迫力満点の笑顔で言葉を紡ぐ。
「何の、こと、かしら?」
「……なんでもないのです。私は何も覚えていないのです」
「よろしい。私もさっきのことは忘れるわ。東間も、忘れたわよね?」
「僕は大丈夫だよ。でも仁はどうかな?」
「無論、しっかりと目に焼き付けたぞ! 網膜の内側にまで焼き付け、脳裏にも刻み込んだ! なお、例え俺が死んでも第二、第三の俺が」
加減抜きの暴力は彼を信頼しているからか。
石灯籠を破壊した時と同じ拳を彼の顔にぶつけようとしたが、彼女の行動を予測していた仁は即座にうつ伏せになってカサカサと庭を這い始める。
しかし彼が黒光りするGのように這い回るのは理香も予測済みの行動。というより彼等は互いに互いのことを知り尽くしているため、自身の行動によって相手がどのように動くのか、おおよそ読めてしまう。
相手の裏を掻こうと考えたところでほぼ無意味であり、先読み勝負になれば最終的に仁に軍配が上がると確信――彼のことを信じ切っている理香は肩の力を抜いて考えるのをやめ、直感に身を委ねて拳を振るう。
相手のことを知り尽くしているといっても、本能に身を委ねた攻撃の全てを先読みすることはほぼ不可能。
単調な動きと化してしまうのは違いないが、力みがないのでテレフォンパンチと侮れば思わぬ一撃を受けてしまいかねない。
「ほほう。中々やるではなイカ、理香ちゃん。だがしかし、この俺の動きに付いて行くにはその程度ではまだ足りんのだよ!」
「仁、焼肉の代金はどうしようか?」
「後でかき集めておく。けど、焼肉の代金以外も払うことになるかもしれないからお前たちもできる限り集めておいてくれ」
「了解」
「それじゃあ、向こうで白熱したきゅうりバトルとをしている華恋と美鈴にも伝えるのです。あっ、次光が巻き込まれて光になったのです」
「凄いね。まるで流星みたいだ。流れ星にもなれるなんて、天狗って本当に凄い種族だ。美鈴が自慢したがるのもわかる気がするよ」
「むっ。それは聞き捨てならないのです。確かに天狗は芸達者な種族ですが、私たち妖狐だって芸達者なのです。それに床上手としても知られているのです。ところで床上手ってなんですか? 床が上手って意味がわからないのです」
「さあ? 僕にもよくわからないけど、きっと狐にとって大切な技なんだろうね」
神代は本気で言っているが、東間は本気なのか冗談なのか曖昧。
幼馴染みの直感で東間が誤魔化しているに過ぎないことを見抜き、真実を神代に伝えようとした刹那、鼻先を蹴りが通り過ぎる。
澄み切った瞳で、無感情な表情で打撃を繰り出す彼女を背中から抱き締めて説得すれば正気に戻ってくれるのではないか、と、淡い期待を抱きながら道場の壁を這い上がり、屋根の上から彼女を見下ろす。
だが下界に彼女の姿はなく、背中に猛烈な悪寒を覚えた彼は屋根から身を投げ出して大地に着地後、這って逃げる。
獲物を逃してしまったことを特に残念がらず、屋根から彼を見下ろして、その行先を見極め、先回りして着地。
急に現れた理香に驚いて硬直。再び動き出すまでの一瞬の隙を突いて振るわれた鉄拳を両手で受け止め、摩擦で皮が剥けたため、痛みの涙を目に浮かべる。
「理香ちゃーん。そろそろ我に返ってくれませんかー? このままだと俺、マジでボコ殴りにされちゃいそうなんですけどー」
「仁、君が意地悪言うから、理香も意地になっているんだよ。素直にさっきのことを忘れれば、理香もきっと許してくれるよ。むしろ忘れないといつまでも意地を張り続けて、どちらにとっても望まない結末になると思うよ」
「つっても、俺にそれほど非はないと思う。ヤケクソになって俺のことを押し倒したのは理香ちゃんその人なんだし」
「それはそうなんだけど、それでも彼女は覚えていて欲しくないみたいだし、広い心を見せてあげた方が理香からの好感度が上がるんじゃないかな?」
「俺は全てを忘れた。理香ちゃん、さっきまで俺たちは何もしていなかった」
「OKよ、仁。それとゴメンナサイ。ちょっと威力が強過ぎたみたい。大丈夫?」
目に生気を宿し、皮が剥けてしまった彼の掌を労わるように優しく撫で擦り、華恋の手当てのために使われた治療道具の中から消毒薬を取り、傷口に垂らす。
ただ、あまりにも大量の消毒薬を掛けてしまった上に、その消毒薬は非常に染みることで有名な物であったため、一瞬の間を置いて仁が悶え苦しむ。
「あ、あれっ!? 私、何か間違えた!?」
「間違ってはいないんだけど、相変わらずっていうか、うん」
「何も間違えていないのに、人をあそこまで悶えさせることができるのは凄いのです。尊敬はできませんけど、畏怖は覚えるのです」
「同情」
「フン。いい気味ではあるがな。仁の奴は常日頃から調子に乗り過ぎた。下等生物は下等生物らしく、もう少し自重を覚えるべきだ」
「そういうてめえも、いい加減に見下したような発言はやめるんだな、ってて。あと少しは手加減しろよな、ったく」
「なんだ、その程度の傷で音を上げるのか? やはり鬼とは所詮、その程度のそんざ痛たたたた!?」
「無理。禁物」
「き、貴様!? 私の横腹をつつくなど痛い痛い! や、やめろ! それ以上、私に酷いことをすると、とんでもないことになるぞ!?」
「エロ。同人。みたい」
「そうだ――ち、違う!? そんな展開になるはずがないだろう!? 貴様が私のことを縛り上げて、あんなところに指を入れたり、そんなところを舐めてッ!? な、何を言わせる! 貴様、死にたいの痛い痛い!?」
「忙しない」
突かれるたびに悲鳴を上げる美鈴を弄るのが楽しくなってきたのか、嗜虐的な笑みを浮かべて痛みが治まる直前を狙ってつつく。
しばらくの間、美鈴で遊んでいた神凪を叩いて止めるは鬼の華恋。
呆れと苛立ちが入り混じる、微妙な表情で頭を押さえて蹲る神凪を見下ろし、空気とともに自らの中に生まれた暗い感情を吐き出して美鈴を起こす。
「大丈夫か?」
「ッ、鬼如きに心配される謂れはッ! ……いや、すまない。ありがとう」
「やれやれ。意地を張るのは勝手だが、あんまり外でそういう顔をしていると苦労するぜ。てめえだって本当はわかってるくせによ」
「……フン。私は誇り高き天空の支配者たる天狗の血族。だというのに今の天狗は他種族と同列に見做されている」
「別にいいだろうが。昔から天狗の一強時代ってわけでもねえんだし」
「お前たち鬼や神凪たち河童が天狗より劣るとは言わん。だがぽっと出の新種や聞いたこともないようなマイナー種と一緒くたに扱われるのは気に食わん。私たち天狗は古くからこの大地で生き延びてきた由緒正しき一族なのだ。それを奴等は同列扱いどころが、時折、見下す者さえいる。そもそも外国から来た者たちが我が物顔で好き勝手することも気に入らん!」
地面を踏みつける、怒りに満ちた形相の美鈴の全身を蹴りの反動が駆け抜け、彼女の心身を耐え難い激痛が襲う。
歯を食い縛って耐える彼女に感心し、憤怒に燃えるその心に同じ古き血族として一定の共感を覚えながらも諭すように語り掛ける。
「この魔境じゃ古い新しいはあんまり意味がねえ。全員が等しくルールの下で生きているんだ。てめえ一人が気にしてたって仕方ねえだろ?」
「わかっている。わかっているが、納得できるかどうかは別問題だ。それに――」
「それに?」
「……なんでもない。そんなことよりも貴様、いつまで私の腕を掴んでいる」
「てめえが一人で立てるくらいに回復するまでのつもりだったが、その口振りじゃしゃべっている間に回復できたみてえだな」
「当たり前だ。天狗の回復力を侮るな」
「鬼よりも回復力は低いだろうが、よ」
解放された美鈴は傷の痛みによろけかけるが、気合いで踏み止まり、脂汗を流しながら強気な笑みを華恋へ向けて自身がまだまだ戦えることを示す。
一方の華恋もまた完全に回復したとは言い難く、表には出さないものの内側では痛みとの戦いに明け暮れている最中。
両者が意地で立っていることは、第三者の目からは容易に見抜ける程度の汗を掻いており、立ち直った神凪が好奇心の赴くまま、二人の傷口に触ろうとして東間に羽交い締めにされ、取り押さえられる。
「何故?」
「神凪君。君の愉しみの邪魔をするつもりはないけど、度が過ぎたお愉しみは自分の身を破滅に導くよ?」
「どうしてこんなのに想いを寄せるのか、不思議でならないのです。顔も微妙な上に中身は最低に近い下の方なのです。モテる要素が皆無なのです」
「顔はともかく、中身はそれほど最低じゃないよ。というか華恋ちゃんも美鈴ちゃんも高校に入る前に神凪君と出会って、ちょっとした出来事があって惚れたって話を聞いたことがある」
「そうなのですか?」
「詳しくは知らないけど、確か仁はその辺りの事情をよく知っているはずだよ。神凪君も仁にだけは色々と話すっていうか、神凪君の言っていることを理解できる人は仁を含めて限られているからね」
「成る程です。で、その肝心の阿呆はあそこで理香の追撃を受けてのたうち回っているのですが、どうすれば止まるのですか?」
「……えーっと」
「ああっ!? ご、ゴメンナサイ!?」
あくまで善意による治療を施そうとする理香の手によって深くなる手の傷。
ある種の神業的な、絶妙に痛みが倍増するやり方で手当て(?)が行われたため、言葉にならない苦悶の悲鳴を漏らす。
全ての行動に悪意がないからこそ察知が難しく、恐ろしい。
地獄への道は善意で補整されていると、何処かで聞いた言葉を思い出して戦慄しながらも涙ぐむ彼女の瞳により退路を奪われ、達観した死刑囚のような顔でおとなしく手を差し出した。
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