第七十八話
往復回数が五百を超えた辺りで遂に華恋が力尽き、足の裏が形容し難いほどの大惨事となっていたことに驚いた理香が急いで治療道具を持ってきて手当てを開始。
言うまでもなく彼女の暴挙を阻止しようと理香と華恋、天狗の兄妹を除いた全員が力と心を合わせて理香を取り押さえ、神代が治療道具を奪い取り、華恋の足に応急処置を施す。
あまりにも無残な足の裏。手術しなければ二度と自力で立つことができないほどの深い傷に怯えながらも精一杯の治療を行い、救急車を呼ぶために電話を掛ける。
「待て、神代。救急車を呼ぶ必要は無い」
「何を言っているんですか。この怪我、冗談じゃ済みませんよ。そりゃ、ここまで酷くなるくらい無茶をした華恋に責任はありますが、だからといって見捨てていい理由にはならないのです」
「誰が見捨てると言った。華恋ちゃんの治療は俺に任せてくれ。いい機会だから鬼の体について事細かに調べたいと」
「警察にも通報するです」
「冗談だ。本気にするな。けどまあ、俺が保険医の助手を務めていることはお前も知っているだろう? 一から生物を創り出したり、生物同士を配合させて混合種を創り出すといった芸当はできないが、傷の手当てくらいは朝飯前だ」
「朝なんてとっくに過ぎているです」
「そのボケは予測していたが、まさか本当に使ってくるとは思ってもみなかった。しかしその程度のボケでは俺は止められぬ!」
「仁、バカなことを言っていないで、早く華恋ちゃんの足を治してあげなよ」
「当たり前だけど、変なことをしたら私たちがアンタを袋叩きにするから」
「手加減。無し」
「です」
熱くて冷たい四人の眼差しを受け、自信満々にふんぞり返って鼻息を鳴らす。
その背中が冷や汗で濡れていることを察せられなかったのは神代一人。
他の三人は偉そうな態度を取る彼が内心で震え上がっていることを見抜き、その上で更なる重圧を掛けるべく、視線に期待を混ぜる。
失敗が許されず、後にも引けなくなった仁は集中するために治療道具と華恋を担いで道場の扉を開け、ゾンビの如く呻いている次光と美鈴を外に追い出し、ただならぬ気配を察した師範は自主的に退去。
道場の扉が閉められ、数秒後に響き渡る華恋の悲鳴。
麻酔や痛み止めなどという便利な物は使わず、強引に足を治している光景が目に浮かぶ叫び声に東間たちは黙して祈りを捧げる。
悲鳴が上がり始めて約十分が経過。
枯れるように小さくなる叫び声を最後に声が聞こえなくなり、静寂さ故か道場内より聞こえる多少の物音が異様なまでに耳の中に残る。
それから更に十数分後、道場の扉を開けた仁は血塗れの両手を振りながら仏頂面で疲労の息を吐き、涙目の華恋が彼の後方から現れ、地面に降り立つ。
「華恋。大丈夫?」
「……ああ、心配掛けちまったみてえで、すまねえ」
「良かった。で、どうしてアンタはそんなに膨れているの?」
「俺の記録を凄まじい勢いで抜いた上に頑張って治療してあげている俺にあんな酷い仕打ちをした華恋ちゃん、俺の代わりに答えてやってくれ」
「だ、あ、アレは――その、だな。……悪かった。マジで」
真面目に怒っている仁と殊勝な態度を見せる華恋と。
珍しく華恋に非があることを証明しているやり取りが気にはなったが、下手に事情を聞くのは危険と本能が訴えたため、理香は新たな話題を探し、足元に転がる天狗の兄妹を発見する。
「なんか、樹冥姫と戦った時よりも瀕死になっているみたいだけど、義父さんってばどんな特訓を課したのかしら?」
「そんなことは本人に聞け――って、師範は何処だ? 家に戻ったのか?」
「師範なら師範代と一緒に銭湯に行くって意気揚々と出掛けて行ったよ」
「若い女の子とでも遊びたかったんじゃないかしら? 義父さんも男だから性欲くらいあるでしょうし、結婚くらいしてみたいんじゃないの?」
「義理とはいえ娘の発言とは思えませぬ。もしや理香ちゃん、実はママが欲しかったとかそういう願望が?」
「無いわよ。今更、母親ができてもどう接すればいいのかわからないし、それに私みたいな娘は誰も欲しがらないでしょう?」
「そうかな? 確かに理香は壊滅的に不器用だし、料理に関しては魔境でも随一の下手糞さを誇るけど、それを除けばストイックな努力バカ娘だから、受け入れられなくはないと思うよ」
「ありがと。一応、褒めてくれたのよね?」
「もちろん」
嬉しいのか、恥ずかしいのか、イラついたのか、真顔で頷く東間に犬歯を剥き出す理香は不意に頭を押さえながら呻く天狗の兄妹を見下ろす。
人の言葉を忘れてしまったとでもいうのか、理性のない瞳と声で仁たちの足を掴み、しかし危害を加えるのではなく助けを求めるように涙を流している。
恐らくは指導に熱が入り過ぎてしまったのであろう、義父の手で散々な目に遭わされたことが容易に想像できる彼等に詫びるように手を差し伸べ、次光の頭を抱き締めて謝罪の言葉を囁く。
「ゴメンナサイ。普段はあそこまで無茶苦茶な人じゃないんだけど、たぶん、次光や美鈴が優秀だったから熱くなり過ぎちゃったんだと思うの。義父さんには師範代と一緒に私からしっかり言い聞かせるわ」
「東間、すまないが俺のことを押さえ込んでくれ」
「急にどうしたのさ。なんて問わないよ。大方、理香に抱き締められている次光を見て無性に殴りたくなってきたとか、そんな感じだろう?」
「惜しい。殴るのではなく蹴るが正解だ。やたらと蹴る殴ーる」
「何処かで聞いたことがあるような言葉だね」
後ろから羽交い絞めされ、安心して暴れ出そうとする彼の頭部を神凪が操作した水が覆い尽くす。
空気を求めてもがく彼を横目に、次光と同じく地を這う美鈴を労わるように抱き締めて背中を撫で擦って落ち着かせる。
「よしよし。よしよし」
決して力強くはなく、けれど簡単には引き剥がせない絶妙な力加減での抱擁。
先程までとは別種の涙を流す美鈴は我に返り、しばらくは神凪に抱かれたまま動かずにいたが、華恋と目が合うと慌てて彼の抱擁から逃れようとする。
だが慌てているせいか、それとも特訓のせいで肉体がボロボロだからか、神凪を引き剥がすことはできず、足をもつらせて転倒。
仰向けに倒れた彼女の上に神凪が押し倒す形で乗っており、眼前に彼の顔があることを理解した彼女の頭が沸騰し、気絶し掛けるが、精神力で持ち直す。
「無事」
「と、当然だ! この私を誰だと思っている!? 誇り高き天狗が、この程度のことで取り乱すとでも思ったのか!?」
「良かった」
心からの安堵の笑顔。
彼女が無事だったことを心底喜んでいる彼の微笑みに頭が限界を突破した美鈴は神凪を押し退けて絶叫しながら空を飛ぶ。
無作為に飛行する彼女が落ち着きを取り戻したのは飛び始めて数分後のこと。
顔が真っ赤なままだが、そのことについて言及した者は抹殺するという強い意志を感じ取った仁たちは何も言わず、次光が回復するまで適当に雑談する。
「まあ色々あったが全員、無事に試練の乗り越えることができたんだ。そこは素直に喜んでおくべきなんだろうな。うん」
「若干二名、心に深い傷を負っちゃったみたいだけど、しばらくすればそれもいい思い出として昇華されるでしょうね」
「それはマジな発言なのか?」
「理香、君も冗談を言うことは知っているけど、面白いつまらない以前に笑えない冗談は僕も嫌いだよ」
「……ゴメンナサイ」
「素直でよろしい。華恋ちゃんも、偉大なる俺の記録を塗り替えてくれたお礼はいつかさせてもらうぞ。既に負けていたとかふざけたツッコミは禁止の方向で」
「お礼って、具体的に何をするつもりなんだい?」
「無論、華恋ちゃんのバイクを盗んで走り出し、天狗たちの集落に『鬼参上!』の落書きをしまくって種族間抗争に持ち込んで、最終的に魔境全土を巻き込んだ大運動会を開き、俺は大道具委員として活躍するのだ!」
「いつもながら壮大なくせにつまらない冗談ね」
「まったくです。欠片も笑いを取れない冗談なんて、冗談としての価値がないのです。むしろ冗談として扱われないのです。大会は妖狐の一人勝ち――いえ、一種族勝ちなのです。他の結果はあり得ないのです」
「大会云々はどうでもいいとして、仁、僕は信じているよ。君の冗談がいつの日かきっと、みんなに受け入れられることを。その日まで君は冗談を磨くんだよね。安心して。僕は付き合う気はないけど、君の冗談に付き合ってくれるイカれた人は必ず見つかるから。探すのを手伝ったりはしないけど」
「……フゥー」
呆れ二つと憐み一つ。
友たちの優しい言葉に膝を抱えて蹲り、地面に文字を書き始める彼を放って睨み合う華恋と美鈴に視線を移す。
火花を散らす二人の間に会話はなく、間に挟まれた神凪は素知らぬ顔してきゅうりを齧り、満足げに空を見上げている。
下手をすると彼女たちが火花を散らしている、その理由を理解していないのではないのか。そんな疑いを持たれてしまうほどに平常運転。
自覚していない分、仁よりも性質が悪いかもしれないと苦笑する東間の横顔を神代が熱っぽい瞳で見つめている。
ただし東間が彼女の視線に気付いた様子は見られず、彼等を冷めた眼差しで観察していた理香は肩をすくめて仁を起こす。
「ほら、仁。起きなさい。朝よ。早く起きないと遅刻しちゃうわ。それとも目覚めのキスが欲しいの?」
「理香ちゃん。今の時刻を朝と言い張るのは昼夜を逆転させる魔法やらオカリナの曲やらを使った後でなければ不可能ではないでありませんか? キスは欲しいです」
「何を言っているのかわからないわね。冗談に決まっているでしょ」
「勉強不足な理香ちゃんはこれだから困るのです。そんな理香ちゃんは乙女心を勉強するために、俺のお勧めの少女漫画及びライトノベルを読むのです。冗談だとわかっていてもキスが欲しかったのが男心なのです」
「前者はまだ理解できなくもないけど、後者で乙女心が学べるの? 男心も私には理解できそうにないかも」
「ちょっとしたことで簡単に落ちるチョロインたちが勢揃いしておりますです。流石の俺もまさかジュースを奢ってもらった程度で落ちるヒロインたちには呆れてものも言えなくなったのでありんす。理香ちゃんもなんだかんだで女の子だから男心を理解できないのは無理ないだろう」
「なにそれつまらなそう。でも、微妙に読んでみたくなる気持ちもあるわね。これが怖いもの見たさなのかしら? なんだかんだは余計だけど、女の子扱いしてくれていることに嬉しさを覚えている自分がいるわ。ちょっと腹立つけど」
「違うと思いまするが、まあそんなことは横に置いておきまして、理香ちゃんが積極的に俺を起こすなんて珍しい。俺に何か願い事でも?」
「幼馴染みを起こしてあげる、優しい女の子に何か不満でもあるって言うの?」
「ハッ」
「殴られたいのなら素直にそう言いなさい。アンタが読んでいるライトノベルのヒロインたちみたいに理不尽な暴力をお見舞いしてあげるから」
固く拳を握り締めた彼女の飛び切りの笑顔を見せつけられた仁は立ち上がり、空を見上げて深呼吸。
指の先に至るまで新鮮な空気を循環させ、冷え切った頭で彼女の笑顔を正面より受け止め、両手を両膝を大地に接触させ、深々と頭を下げる。
「すみません、勘弁してください。暴力反対!」
「素直でよろしい。許してあげるわよ」
「ありがとうございます、ありがとうございます! とまあ、真面目な話、俺を起こしたのには何か理由があるんだろう? 放っておいても勝手に復活するのはお前等もよく知っていることだろうし」
「まあね。じゃあお言葉に甘えて本題に入るけど、あの焼肉店には随分、迷惑を掛けちゃったからお詫びに行くべきじゃない?」
「賛成だが、今はまだ紗菜が己の色欲を満たしている最中だろうから、近づけば捕食対象として狙われるぞ?」
「それよ。あの時はアンタも私も冷静じゃなかったから他の方法を考えられなかったけど、頭を冷やして考えてみるとあの場面では無理に脱出せず、落ち着いて説得すれば許してもらえたんじゃないかしら?」
「許されるかは定かじゃないとして、確かにあのバカをけしかけずとも他の方法があったんじゃないかという意見には賛同しよう。が、それは既に過去の出来事。タイムマシンはまだ未完成だから、過去に戻ってやり直すことはできないぞ」
「待ちなさい。未完成って、密かにタイムマシンなんて開発しているの?」
「ただ、謝罪のために赴く必要があるのは確かだ。それも肉の代金だけではなく紗菜が迷惑を掛けた分の料金等も用意しておかないとな」
「質問に答えなさい。アンタ、過去に戻って何をするつもりなの?」
詰め寄る理香の瞳から逃げるように視線をそらし、偶然見つけた巣に餌を運ぶ蟻たちを指差して子供のようにはしゃぎだす。
その程度のことで誤魔化されたりはしない理香の声は徹底的に聞き流し、餌を運ぶ蟻たちに拍手喝采を送って応援し、しかし無視され続けた理香は怒りを爆発させて彼を押し倒すと馬乗り状態でヤケクソ気味に割と下卑た笑みを浮かべた。
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