第七十七話
最初はただの罰として行われた特訓の数々。
されど仁はその全てを持ち前のしぶとさと往生際の悪さで攻略し、昔の勘を取り戻したこともあって師範の出した課題を全てこなしてみせた。
が、この事態に師範もまた昔のことを思い出して指導に熱が入り、巻き込まれる形で東間たちもまた特訓を強いられることに。
心の傷に塩を塗り付けられることとなった東間は発狂。それでも特訓自体をサボろうとしないのは生来の生真面目さ故か。
また、仁の特訓を見て理香と華恋が闘志を燃やし、負けじと鍛錬に励み、やる気を出している彼女たちを尻目に神凪たちは裏口から音と気配を消して退避。
無論、暗殺者でなければ隠密でもない彼等が完璧に音と気配を殺すなど不可能。
裏口の扉を開ければ師範が堂々と立っており、逃げられないことを悟った神凪は最後にきゅうりを齧り、諦めずに空から逃げようとした次光と美鈴は気が付けば地に倒れ伏していた。
何が起きたのかは彼等にもわからない。起き上がり、再び飛び上がろうとしたものの、飛び立つ前に地面とキスしてしまう。
何度試しても結果は同じ。わけがわからず混乱する彼等を捕縛し、嬉々として道場へ二人と連れ込む。
数十秒後に轟く悲鳴。逃げ出そうとした罰か、はたまた師範の課す特訓が天狗の兄妹にはまだ早かったのかは定かではないが、二人の悲鳴に呼応して東間も恐怖による錯乱の叫び声を上げ、傍に付き添っていた神代が必死に宥める。
「にしても、師範が特訓の内容を隠すなんて珍しいな。中で一体、何をしているのやら。想像は付くが、覗きはしたくないな。絶対ロクなことにならないだろうし」
「あら、仁。義父さんが特訓内容を隠すなんて珍しくないわよ。最近じゃ、子供たちの相手をする時はいつも道場の扉を閉めているし」
「閉めているといっても鍵は掛けていないのだろう? 覗く気になればいつでも覗けるというのに、何故覗かない?」
「だって、下手に顔を見せたら巻き込まれるもの。興味があるなら覗いてみたら?」
「遠慮する。しかしこの剣山、想像していたよりも痛いな。私の表皮と筋肉を貫いて傷を負わせるとは。しかもこの熱さ、長時間、耐えられるものではない」
「まあそれは耐久力を鍛えるためのものじゃないしな。ちなみに昔の記録だが、俺は合計で百五十二往復したぞ。この記録は未だ、誰にも破られていないのが俺の密やかな自慢だったりする」
「この前、中学生の幸次君が百七十三往復したけど?」
「華恋ちゃん、そこを退け。俺は今から、二百往復しなければならなくなった。余談だが、途中で力尽きるのはもちろん、足をもつらせて転んだ場合とかも計測終了となる。如何に素早く、足の耐久力を残したまま往復できるかが、この剣山攻略のポイントなのだよ。ちなみにノルマは百回だ」
「お前が二百回を目指すというのなら、私は三百回だッ……!? この痛み、この熱さ、確かに言うだけのことはあるか……!」
歯を食い縛って熱針山を往復する華恋の現在の往復回数は五十回。
初めて行う場合は二十回もできれば十分なのだが、彼女は本気で仁の記録を、彼が目標としている記録を大幅に超える三百回を目指している。
その熱意に気圧され、力尽くで押し退けることができなくなってしまった仁は泣きながら木人君たちを叩き続けている東間に近づく。
「やあ、東間きゅん。精が出るね――」
「ストップです。それ以上、近づいたら危ないのです」
「HAHAHAHAHA! 何が危ないというのかな? 俺はただ、華恋ちゃんに気圧されてしまった腹いせに東間きゅんの脇腹をくすぐりに来ただけだよ。たぶん、手加減なしの肘打ちが鼻の辺りに炸裂するだろうけど、それで鼻が潰れても本望さ!」
「貴方が変態なのは知っていますし、東間に本気でぶちのめされるのも割とどうでもいいですけど、今の東間は本気でパニックになっています。下手に近づいて余計なことをしたらたぶん、見境なく暴れ出すのです」
「フム。それの何が困るというのかな?」
「東間が理香のお義父さんに喧嘩を売るような真似をしたらどうなりますか?」
「OKだ。俺は全てを理解して引き下がる。お前はこのまま、東間きゅんのことを優しく温かく見守ってくれ。そしてもしもの時は体で説得するんだ」
「任せるのです。このないすばでぃな妖狐の魅力で一時的でも東間をメロメロにしてしまうのです。体で魅了するのはあまり気が進まないですけど、今回は非常事態ですからやむを得ないのです」
凹凸のない体のどの辺りに魅了できる要素があるんだ。
口内にまで昇って来た言葉を飲み込み、ついでに東間は幼少期からナイスバディに分類される体付きの人外に幾度となくストーキングされ、時には誘拐され、無理心中を図られたこともあるので体での魅了は無意味どころか逆効果、という忠告も教えない方が面白そうと判断し、胃の中に封印、胃酸で溶かして吸収する。
「……なんですか? 何か言いたそうな気配を感じましたけど。私の発言に対して何を言おうとしていたんですか?」
「別に何も。ただ、俺はお前のことを応援しているぞ。別にお前だけを応援するつもりはないし、基本的に東間の味方だが、それでも応援だけはしてやる」
「わけのわからないことを。まあいいです。応援してくれるというのなら、素直に応援されてあげますです」
「おう。頑張れよ、神代ちゃん」
仁から向けられる何処か憐みを含んだ眼差しに訝しみを覚えるけれど、追及はせずに東間を見張る作業を再開する彼女の瞳に色気はない。
魅了云々は冗談だったのか、それとも真剣に魅了するつもりなのか。真意は汲み取れず、戻って来た仁は開きっぱなしの裏口へ目を向ける。
「しっかし、さっきの師範は凄かったな。まだ子供とはいえ、カラス天狗の二人を飛ばせないまま取り押さえるなんて」
「義父さんならあれくらい、当然よ。でも、どうしてあの二人は飛べなかったのかしら? それどころか飛ぼうとした瞬間に転んでいたように見えたけど」
「俺の目には飛ぼうとした瞬間に二人の足元がブレていたような気がするが、もしかしてあの場所に何か仕掛けがあったのか?」
「なんだ、お前たち。師範が何をしたのか、見えていなかったのか?」
「その言い草だと華恋には見えていたっぽいが、お前にはあの時、何が起きたのか見えていたのか?」
「ハッキリと見えていたわけではない。ただ、恐らくはあの二人が飛び立とうとした瞬間に師範が並の視力では見えないほどの速さで足払いを仕掛けていたんだ」
「……冗談か?」
「冗談ならもっと面白いことを言う。ハッキリと目撃したわけではないが、理香の養父は相当な実力者。ならばそれくらい、できても不思議はないはずだ」
「いやいやいや。流石の師範でもまさか、そんなことは、なあ?」
同意を求める仁に理香は神妙な顔つきで首を左右に振り、未だ悲鳴が轟いている道場内にいる養父へ尊敬と畏怖の念を込めた眼差しを送ってため息を吐く。
その山を登り始めて早十数年。未だ山頂が見えないどころか、入り口付近で足踏みをしている状態なのではないか。
不安に駆られ、訓練用の特製巻藁に正拳突き。
強過ぎる衝撃と拳からの出血。痛みで涙を零した彼女を諭すように肩へ手を乗せた仁が空いている手の指先で頬を伝う雫を拭い取る。
「へえ。アンタも少しは優しくできるようになったんだな。見直したぜ」
「失敬な事を。俺はいつでも優しいぞ。ただ、その優しさの大半が俺自身に向けられているだけだ。故に俺は俺を優先する!」
「下手な嘘ね。アンタが自分を優先することなんて滅多にないじゃない」
「そんなことないもん! 俺はいつだって自分を優先する悪なんだもん! その証拠に今から神凪君の家にメロンジュースを持って行ってやるもん!」
「……メロンジュースを持っていくことのどの辺が悪の証拠なの?」
「緑色の液体。すなわちきゅうりジュースと勘違いした神凪君が意気揚々と飲んでみたら実はメロンジュースだったことにショックを受ける。とか?」
「小さっ!?」
「あまりにもショボ過ぎて思わず絶句しそうになっちまったぞ」
「ショボいとは失礼な! これでも俺が考えた大犯罪リスト(改訂版)の上から三番目に載っている犯罪なんだぞ! 友の信頼を裏切るのはとっても罪深いことなんだぞ!」
「アンタ、一体何を作っているのよ」
「だがまあ、確かにダチの信頼を裏切るのは罪深いことだな。つーか、上の二つは何なんだ? ダチの信頼を裏切ることより大変な犯罪なのか?」
「一番上は最終戦争による世界の滅亡。二番目は銀行強盗」
「スケールが違い過ぎて何をツッコめばいいのかわからない!」
「ツッコむだけ時間の無駄ってやつじゃねえか? それに一番上は途方もねえが、銀行強盗は普通に言い逃れのできねえ立派な犯罪だなっと、これでちょうど百五十回目だ。三百回まであと半分だぜ!」
「フッ。流石だと言いたいが、甘いぞ、華恋ちゃん!」
もうすぐ自身の自己ベスト記録を追い抜こうとしている華恋への嫌がらせを実行に移そうとした仁を背後から羽交い絞めにして拘束。
だがしかし、理香に行動を見抜かれていたことは彼にとっても想定内のこと。
想定外だったのは彼女の体が温まっているからか、それとも彼の肉体が修行の影響で疲弊していたからか、羽交い絞めから抜け出すことができないこと。
彼女を挑発すれば拘束から抜け出ることは可能。
ただしその場合、怒り狂った彼女を宥めなければならず、失敗すれば暴走する彼女が何を仕出かすか、わからなくなってしまう。
何よりも危惧するべきは師範の乱入。
今のところ、天狗の兄妹の相手に集中しているので外に出て来る気配はないけれど、すぐ近くで娘が暴走したならば、ほぼ確実に道場から出て理香を止め、暴走の原因を突き止めようとする。
そして華恋が傍にいる以上、言い逃れはできず、彼女に責任を押し付けようとしたところで師範に仁の嘘は通じない。
その後に課される地獄の特訓を想像し、そのような目に遭うことになってでも華恋を止める価値はあるのかと自問。
即、彼女を止めることをやめた仁は両手を上げて降参の意思表示を行い、彼の意思が偽りではないことを悟ったことで理香が拘束を解く。
「ハッハァ! 騙されたな、我が麗しの理香ちゃん! この俺がこんな簡単に諦めるとでも――諦めると、でも……」
ハイテンションに華恋の妨害を実行に移そうとする仁を見つめる理香の瞳は無色透明で何の感情も浮かんでいない。
そこにあるのは絶対の信頼。裏切ることなど微塵も考えていない、穢れを知らない純粋無垢な子供の眼差し。
「……えっと、あーっと、うーっと?」
口籠る仁は視線をさまよわせ、咳払いをして気不味げな空気を断ち切り、気を取り直して華恋を襲おうとするものの、理香からの眼差しは変わらず。
凄まじくやり辛い空気の中、大きく掲げた両腕を下ろして戸惑う仁が落ち着かないようにあちこちを歩き回っても理香の瞳に変化は現れない。
居心地の悪さを覚え、逃げ出すことを考えても師範からは逃れられないと足を止めて、最終手段として理香の眼前で土下座を敢行し、許しを請う。
「すみません、理香さん。どうか勘弁してください」
「何が?」
「いえ、その、そんな風に見られますと悪ふざけができないと申しますか、変態行為に及ぼうとすると罪悪感に苛まれると言いますか、とにかく俺のことを掛け値なしに信じ抜くような視線はやめてください、お願いします」
「私がアンタのことを信じるのに何か不都合でもあるの?」
「不都合などございません。ただ、俺が凄まじく居づらいのです。なんかこう、改心しなければならないような使命感が湧いてくると言いますか、今までに犯した全ての罪を懺悔しなさいと、殴り殺したくなるような女神の声が頭の中に反響すると言いますか、とにかく居心地が悪いのです」
「そう。でも、私はアンタのことを信じるのをやめないわ。だって私はアンタの幼馴染みですもの。他の誰がアンタのことを信じるのをやめたとしても、私はアンタのことを信じて、信じて、信じ抜いてあげる」
「さいですかー……」
土下座している仁からは見ることができないが、理香は口調こそ変化させていないけれど、信じると断言した際に顔を羞恥で真っ赤に染め上げている。
仁が理香の言葉を真実と判断するか、偽りと判断するかはわからないけれど、熱針山を往復中の華恋は彼女の表情と顔色からその言葉が真実と断定。
そこまで言っておきながら、自身の想いをぶつけようとしない彼女のことを内心で呆れつつ、自身も彼に想いを伝える勇気を持てないことから共感を抱き、なんとなくムカついたので仁が絶対に抜けない大記録を作り上げようと足の痛みを堪えながら往復速度を上げた。
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