第八十話

 両手両足、果ては全身至るところに包帯を巻くことになった仁の前で、煙草の箱よりも小さくなって正座する理香を東間たちが苦笑しながら見下ろしている。

 剥けた皮の手当て。ただ、それだけの行いのはずだったのに、どうして仁が瀕死にまで追い込まれてしまっているのか。

 それは実際に治療を行った理香はもちろん、治療を受けた仁も、まばたきせずに一部始終を見ていた東間たちでさえわからない。

 それでも起きた現象を端的に表現するならば、気が付いた時には仁が瀕死になっていたの一言に尽きる。

 目に映らないほどの速度で何者かが奇襲を仕掛け、誰かに認識される前に仁の五体を切り刻んだと説明された方がまだ納得ができる神の御業。

 不器用の限界の壁を三枚ほど突き抜け、その先にある人類未踏の領域に足を踏み入れた彼女の不器用さはもはや誰にも測れないほど極まっている。

 尤も、彼女にとって己の不器用さは忌むべきもの以外の何物でもなく、仁が意識を取り戻した後もひたすらに土下座をして許しを請う始末。

 彼自身は特に機嫌を損ねた様子はなく、マッチ棒よりも小さくなって反省する彼女に笑い掛けて許す器の広さを見せる。

 そこに下心が有るか否かは関係ない。

 また、故意ではないにしろ、加害者を被害者が許したのなら、わざわざ第三者が口を挟んでもロクなことにはならないと、東間と神代は口から出そうになった言葉を飲み込み、和解した彼等に拍手を送る。

「本当に、この短い間に色々あって疲れたが、まあもう夜遅いことだし、そろそろ家に帰ろうか」

「そうだね。それじゃあ、お金は明日の内に集めて、できる限り早めにみんなであの焼肉店に謝りに行くってことでいいかな?」

「そ、それじゃあ私が連絡を入れておくわね。私の場合、もう既に帰宅済みなわけだし、電話を掛けるのも簡単だから」

「別に構わないが、迷惑を掛けたのは全員で、更なる迷惑を掛けたのは俺の妹なんだから、俺が詫びの電話を入れるのが筋なんじゃばばば!?」

 夜風に流され、飛んできた木の枝が腕に当たった痛みで転がり、転がったことで絶大な痛みに襲われて苦悶の呻き声を漏らす。

 数分ほど痛みに悶えていた仁が涙目になりながら立ち上がり、東間が彼の肩に腕を回して体を支える。

「仁、無茶は禁物だよ。今の君の体は古の幻獣にやられた時よりも深い傷を負っているんだから、下手すると本当に死ぬかもしれないよ」

「……ゴメンナサイ」

「り、理香が謝ることではないぞよ。この痛み、この高揚感こそが戦争の醍醐味!」

「誰と戦争しているのさ。まあ、理香の不器用さはもう神の悪戯か、悪魔の呪いレベルの異質なものだし、君が気にしても仕方がないよ」

「で、でも、少しは上手くなったのよ! 本当なんだから! こ、この前だってちゃんと包丁でできた切り傷を治療できたのよ! それなのに、こんな! こんな……」

「叫ばずとも、お前の言葉を疑う気はない」

「僕も、疑ってなんかいないよ。だからこそ不可解なんだ。そもそもどんな治療を行おうと、ほぼ無傷の状態から死に掛けるなんてあり得ない。あるいは、誰かが時間を止めて、仁を攻撃して去った後に時間を解除したのかも」

「時間停止なんてあるわけないだろう? ファンタジーやメルヘンの世界じゃないんだ。時を止める能力なんて現実にあるはずがない。東間、意外とゲーム脳か?」

「本当に無いって断言できるような環境じゃないからね。特にこの魔境は異世界への扉が開いたり、新種の生命体が生まれても不思議じゃないんだから」

「理香、東間きゅんがいよいよ重傷だ。頭の芯までゲームに汚染されている。これはゲームの病気だ。今すぐに怪人を倒さないと」

「アンタも十分、ゲームに汚染されているわよ。と、とにかく! アンタはさっさと帰って傷を治すこと! アンタの生命力ならすぐに治るとは思うけど、お店への電話は私が済ませておくから、休んでいなさい!」

「ヘーイ」

「はい、は一回!」

「はいじゃなくてヘーイ――うん、なんでもありません」

 蛇に睨まれた蛙、ではないが、彼女の鋭い眼差しを受けて仁は口を閉ざす。

 そもそも意地になった理香に食い下がるだけの気力と体力は残っておらず、口論しても疲れるだけなので、彼女に見送られながら全員で理香の家の敷地外に出る。

「……あー」

「つか、れた……」

 誰かが吐露したつぶやきは彼等全員の本心。

 華恋と美鈴も疲弊気味で元気はなく、神代と東間も何処か疲労感を滲ませ、次光に至っては歩くのに杖を必要とするほど疲れ果てている。

 唯一、神凪だけは元気を漲らせていたが、マイペースな彼もその場の空気を読んだのか、周りに合わせてゆっくり歩く。

 力のない足取りで帰路に就き、途中で山へ帰る者たちと別れた仁と東間は薄暗い夜道に足音を響かせながら我が家を目指す。

 不気味なほど静けさに包まれた道は学校への通学路。

 昼間とはまるで違う、夜の顔がいつ彼等に牙を剥くのかわからないので、できるだけ急いで舗装された道を進む。

「なあ、東間」

「なんだい?」

「こうしてお前が俺を支えながら歩くのって久しぶりじゃなイカ?」

「そうかな?」

「たぶんな。最後に支えてもらったのはいつだったか、覚えていないが、お前を支えることの方が多かった気がする」

「うん。それには僕も同意するよ。昔僕が女の人に誘拐された時とか、君と理香が真っ先に駆けつけてくれて、誘拐犯の鼻を蹴り砕いたりしていたね」

「悪人に容赦をしても仕方がない。それに抵抗するには力不足のガキを狙う犯罪者は顔が壊れるくらいの制裁がちょうどいい」

「そのせいで誘拐犯の身内に君が狙われたりもしたっけ。悪いのは僕を誘拐した向こうなのに、理不尽な話だよね」

「赤の他人の被害者より、身近にいる犯罪者の方が大切なんてことは多々あることだ。俺だってお前が殺人を犯したらかばうぞ?」

「本当に?」

「表面上はかばって、密かに警察と内通、お前が安心し切った辺りを見計らって逮捕してもらう」

「なんだろう。人として決して道を踏み外した行いじゃないはずなのに、褒める気になれないよ。なんかこう、もうちょっと、説得とかした方がいい気がするよ」

「東間。悪いことをする奴に説得なんて無意味なんだ。何故なら説得の通じる奴は犯罪を行った後に自責の念に駆られて自首し、そうじゃない奴は説得したところで聞き入れたりはしない。人間とはそんな身勝手な連中なのだよ」

「うーん。耳が痛いような、痛くないような――」

 木々に掴まっていた蝙蝠たちが飛び立ち、不穏な風が二人の間を突き抜ける。

 生温かく、湿った突風。冷たくはないが背筋に寒気を感じた彼等の背後には赤い服に身を包んだ長い髪の女が佇む。

 突然、生えた何かの気配。振り返るのは危険と判断し、前進する二人と一定の距離を保ちながら音を立てず、滑るように長い髪の女が動き出す。

「東間きゅん。俺は今、背後を振り返りたくてしょうがないという衝動に駆られてしまっているのだが、こういう時はどんな顔をして、どうすればいいと思う?」

「振り返ったら確実に襲われるって、わかっていての発言だよね? ああいうタイプは振り返らなければ襲って来ないはずだから、無視するに限るよ」

「しかしだな。振り返ってはダメと言われると振り返りたくなるのが生物の性と呼ばれるものであって、俺はその性に逆らってはいけないと愚考する」

「愚考しなくていいから。いつもの君ならともかく、今の君は瀕死だってことを忘れちゃダメだよ。それに今は聖水とか、除霊用の道具を持っていないんだから、戦いになっても勝ち目がないよ」

「実は懐に凄い聖水を隠し持っていたりしても?」

「……冗談なのか、本気なのか。いまいち区別がつかないけど、どっちにしても君の体のことを考えるなら許可できないよ。お願いだから、ここはおとなしく僕の指示に従って欲しい」

「むう。幼馴染みの気になるオトコノコにそこまで言われると聞かざるを得ない」

「なんだか微妙に不快な発言だったけど、面倒だし、言うことを聞いてくれるなら僕も深くツッコまないでおくよ」

「ありがとう」

 歩く速度を上げて振り切ろうとしても、案の定、長い髪の女の滑る速度も比例するように上昇し、振り切れない。

 加えて長い髪の女の存在感の影響か、東間も背後が気になって仕方なく、僅かでも気を抜けば振り返ってしまいそうな衝動に駆られ、唇を噛んで己を戒める。

「東間、結構辛そうだが、大丈夫か?」

「大丈夫――に見えるかな?」

「見えないな。うん。かなり無理をしているのがよくわかる。我慢は体に毒と注意したいところだが、お前に我慢を強いている元凶はやはり後ろのアレか?」

「だろうね。僕も耐えるのが辛くなってきたかも。でも君のため、そして僕自身が助かるためにも、なんとか耐え抜いてみせるよ」

「頑張れ、オトコノコ!」

「……微妙にやる気を失くさせるような応援の仕方はやめて欲しいな」

 一人ではないことに安堵と心強さを感じる彼等の背後。

 一定の距離を保っていた長い髪の女が急激に距離を詰め、吐息が当たる位置にまで接近を果たし、冷え切った手で二人の首筋を撫でる。

 走るのは怖気。悪寒に刺激された本能が振り返ることを強制するのだが、舌を強く噛むことによって痛みで自制を促し、本能を押さえ込む。

 髪の長い女は二人の肌に触れはしたが、そこから害を加えることはない。

 彼女が攻撃に移るのは、あくまでも二人の内、どちらかが振り返った後。

 そのために様々な工作を仕掛けるが、東間は恐怖と、そこから湧き上がる憤怒で振り返りそうになる肉体を制御。

 仁は東間とは異なり、恐怖も憤怒もあまりないが、彼女が直接仕掛けてきたことで彼女の思惑通りになることが気に入らないと、徹底抗戦の構えを見せる。

 想像以上に強情な二人に髪の長い女は作戦を変え、音もなく離れて気配を消す。

 何も感じられなくなった背後。数秒から数十秒は疑いを持つであろうが、数分もすれば安堵し、油断して振り返ることが多い。

 それは髪の長い女の経験則による回答であったが、残念なことに彼等はその手のパターンにも慣れており、髪の長い女の気配が消えても振り返らずに進む。

 業を煮やした髪の長い女は一気に距離を詰め、気配を消したまま彼等の首に温もりを感じさせない吐息を浴びせる。

 震え上がる彼等はなおも背後の存在を無視。

 頑なな彼等の態度に怒りが頂点に達した髪の長い女は遂に下半身を彼等の背後に置いたまま、上半身だけを彼等の眼前に現す。

 生気を感じさせない青い肌。死に装束の如き真っ白な着物と、頭から流れ落ちる真っ赤な液体と若干だが割れた頭部。

 お化け屋敷に登場しそうな、お世辞にも美人とは呼べないおばさんのような外見の髪の長い女に向けて唾を吐き掛け、鬱陶しそうに睨めつけながら先を急ぐ。

「仁、いくら死人で悪霊といっても、女の人を相手にそういう態度を取っちゃいけないよ。傷付いて暴走したらどうするのさ」

「その時は縄張りを荒らしたバカ女を始末しに、別の住人が現れるさ。縄張り意識が薄い奴でも、騒ぎ過ぎたら制裁を受けるのはよくあることだろう?」

「でも、そんなことになったら僕たちも巻き込まれちゃうよ。夜の住人たちが僕等みたいな夜道を歩く学生に遠慮はしないだろうし」

「あー、その時は近くの民家に助けてもらう方向で。運悪く、夜の住人たちの争いに巻き込まれてしまいましたって言えば、たぶん上がらせてもらえるだろう」

「そういう手口の強盗がつい最近、上がり込んだ家で半殺しにされて捕まったってニュースが流れていたけど」

「……過剰防衛はいけないと思うんだ。例え相手が強盗殺人犯だったとしても、穏便に、爪を全て剥がして、指を全部へし折った後、抜歯すればいい」

「その拷問のどの辺に穏便さがあるのか、激しく気になるけど――それ以上にコレの方が気になって来たな。唾を吐かれても平然としていられるのは流石だけど、いつまでも目の前にぶら下がっていられると困っちゃうよ」

「まったくだ――ヘイ、そこの車、ストップ!」

「ちょっ!?」

 通り過ぎようとした乗用車の前に仁が東間ごと躍り出る。

 突然の飛び出しに対し、急ブレーキを掛けて辛うじて止まった車から怒り心頭な顔付きで降りたリューグの前で胸を張る彼に鉄拳を振り下ろす。

 包帯塗れの怪我人であろうと容赦のない、猛烈に傷口へ響く一撃を受けて悶える彼から東間を引き剥がし、怒りを収めて呆れながら肩をすくめる。

「――で、お前等、こんな時間になんで出歩いているんだ? それにどうしてそこのバカは包帯塗れなんだ? この前、退院したばかりだろうに」

「えっと。話せば長くなるんですが、リューグ先生、その前にコレをどうにかしてもらえませんか? さっきから付き纏われて、ほとほと迷惑しているんです」

「コレ? ああ、ソレのことか。お前は相変わらず、色々な女にモテるんだな。男として少し、羨ましくなる時があるぞ?」

「変わってくれるのなら今すぐにでも変わって欲しいです。それで、先生はコレを祓えますか? 無理でしたら貞娘先生を呼んでくれると助かるんですけど」

「見縊るな。この程度の亡霊、祓えないような奴に魔境で教師は務まらない。祓う方法は教師によって異なるがな」

 標的は東間たちであり、憑りついた先も二人なので髪の長い女は自身を葬ろうとしているリューグに気付いていても手出しはできない。

 そのことを承知しているからリューグは焦ることなく車に戻り、グローブボックスの中に収納されていた小型の拳銃を引っ張り出し、サプレッサーを取り付けてから狙いを定めて髪の長い女の頭を撃ち抜き、消し去った。

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