第七十二話

 投擲された眼球のない女の頭部を片手で受け止めた犬耳の少年は彼からの贈り物として愛おしそうに生首を抱き締める。

 切断された首の傷口から滴り落ちる多量の血液が衣服を汚染することも構わずに頭を抱き締めていた彼であったが、まだ生きていた――初めから死んでいる可能性も十二分に考えられるのだが――頭部が腕に齧り付いた刹那、氷点下を下回る絶対零度の眼差しで眼球のない女を見下ろす。

 凍えるような寒さの瞳。見つめられているだけで物理的な痛みを伴うような底冷えする視線に、怨念の塊である眼球のない女の頭が怯むことはない。

 彼女はただただ目の前に存在している肉を食い千切る。

 咀嚼し、飲み込まれた犬耳の少年の肉が何処に送り込まれているのかはわからないが、肉が外に出ていないため、少なくとも咽喉を通っていないことが窺える。

「ゴミめ」

 掴み、持ち上げられた眼球のない女の頭が床に叩きつけられ、真っ赤な血と脳漿が飛び散り、店内を赤く汚す。

 半壊した頭部はそれでもまだ動き、肉を求めて飛びついたところ、人間の限界を超え、大蛇が如き大口を開けて待ち構えていた犬耳の少年に丸呑みにされる。

 咽喉の奥へ流し込まれ、胃に到着後も暴れていた眼球のない女の頭だったが、一秒ごとに抵抗は小さくなっていき、一分もしない内に動きを止めてしまう。

 彼の胃の中で何が起きたのか、大いに興味を引かれるも覗き込めば戻って来られなくなる深淵の類いであることを直感で理解した仁は開き掛けた口を閉ざし、頭部を失って倒れている上半身に八つ当たりが如く蹴りを入れる。

 数発、蹴りを入れて満足したのか、爽やかな面持ちで上半身と下半身を掴み、再び動き出す前に外へ出ると路地裏に移動して着火。

 油無しでもよく燃える、眼球のない女の上半身と下半身に感心している間に近所の住民が通報したのか、彼の予想よりも早く消防隊が駆けつける。

 逃げることは容易かったが、逃げても捕まるのがオチとなることが簡単に想像できたため、その場で待機。

 事情は不明だが、仁が放火したことは疑いようがなく、衝撃の事実に戸惑いながらも連携の取れた消火作業で瞬く間に炎が消える。

 ただ、中途半端な段階で炎が消えてしまったことで完全に燃え尽きなかった眼球のない女の上半身と下半身が更なる怨念を纏って復活。

 一番近くにいる仁を飛び越え、消防隊に襲い掛かっては誰彼構わず命を奪おうと肉を裂き始める。

 防護服に身を包んでいても関係ない超力は彼等の骨肉を砕き、奪った肉と骨を自らに吸収させることで膨張、肥大した体が異形へと変化を遂げ、新たな頭を創造。

 如何に訓練された消防隊員といえど、理解不能な化け物に襲われては一溜まりもない――と、侮っていた仁はすぐに陣形を立て直し、異形の化け物となった眼球のない女を相手に冷静に立ち回る彼等を見て評価を改め、感心して頷く。

「ところでー、避難しなくていいのー?」

「何処に避難しろと? というか逃げてもたぶん、逃げ切る前に追いつかれるぞ。あの化け物、思っていた以上に素早くなっているっぽいし、背を向けると危険だって俺の本能が叫んでいる。あと、いきなり俺の背後に立つんじゃねえ」

「背後を取ったのはなんとなくだからお気になさらずー。で、だからってー、参戦する気がないのなら邪魔にしかならないんじゃないのかー?」

「まあ邪魔かもしれないが、俺がいるくらいじゃたいした問題にはならん」

「そうかなー? それはちょっと、相手を甘く見過ぎている気がするよー。肉を食えば元気になれるとかー、中々面倒臭いじゃなーい」

「同意だが、甘く見ているのはお前もだ。ほれ」

「んー?」

 仁の人差し指で示された先では消防隊員たちが眼球のない女だったモノを逃がさないよう取り囲み、静かに間合いを詰めている。

 彼等の手元に武器はない。

 人外たちは己の種族特有の能力を活かして自前で武器を作る、自らの体の一部を武器とするなど工夫が可能だが、人間の武器はせいぜい、消火用器具程度。

 そのことを知ってか知らずか、眼球のない女だったモノは人間の消防隊員を先に狙い、肉を貪ろうと食らいつき、頭部を拳で打ち砕かれる。

「ほおー、今のは中々凄いねー!」

「肉を切らせて骨を断つ、か。単純だが効果的な作戦だ。それに密着しているから素早く動けようと関係ない」

「実際にやる人なんてそうはいない、大道芸みたいなものだよねー。君とか結構好きそうだけどー、混ざりたくはならないのー?」

「プロが仕事をしている最中に割り込んでも、それこそ邪魔になるだけだ。素人は素人らしく、離れた場所から見守るのが通な楽しみ方なのだよ」

「ぶっちゃけー、こんな風にバカなことを言っている暇があるならー、避難するべきだよねー。そんなだからー、非難される上に説教されちゃうんだよー」

「先も言ったが、ここまで来ると下手に動く方が危険だ。まあ巻き込まれたら自己責任として処理するさ。それに他人事みたいに言っているが、アレを復活させたお前にも責任はあると思う」

「残骸に火を点けたのは君なんだからー、君が責任を取るべきなんじゃないのー?」

「それに関して言い訳をするつもりはない。言い訳しても無意味だしな。しかしそれとこれとは話が別だ――おお、ここでコークスクリューか。見栄えは悪くない」

 天高く吹き飛ばされる眼球のない女だったモノ。

 地面に落下して肉片が散乱するが、一つ一つが意思を持って活動を始め、消防隊員たちを襲撃しては返り討ちにされる。

 けれど返り討ちにされた個体を本体のような物体が吸収。

 肉片を取り込むたびに大きさを増し、生えた手足と巨体を活かして消防隊員たちを押し潰そうと大きく跳ね、直後に蹴り飛ばされる。

「素早さでは完全に負けているな。巨体を活かそうにも全部、避けられている」

「でもあんまり効いている様子もないねー。もしかするとー、物理攻撃はあんまり効果がないのかもしれないよー」

「俺たちの攻撃は通じたんだし、除霊系の道具が必要にも見えないが――まさかお前の胃袋の中で頭が突然変異を起こし、頭の影響を肉体が受けて変化したとか?」

「無いとは言い切れないのが僕の体の不思議かなー。君の行動を予測してー、事前に呼び出していたんだけどー、まさかここまで芸を見せてくれるなんてー、いやはや、やっぱりこの街は面白いねー」

「……いつの間に消防署に連絡なんてしていたんだ? 俺の記憶が正しいならお前にそんなことをしている暇は無かったはずだが」

「いいオトコノコには秘密が多いものなんだよ」

 ウインクする犬耳の少年の額にデコピンを入れ、吹き飛んできた眼球のない女だったモノの腕を反射的に掴む。

 途端に腕だったモノが珍妙な肉塊へ変化、包み込むように二人の周囲を覆うが、仁は犬耳の少年を盾にしてやり過ごそうとする。

「それは人間、人外関係なくやっちゃいけない行為だよー」

 のんびりとした声音で批判しつつ、縮まって行く肉塊を丸ごと吸い込み、味わうように咀嚼して飲み込む。

 怨念の塊を躊躇なく体内へ取り込んで見せる彼にドン引きしながらも、もしもの時の防具として使えると、彼を抱えたまま消防隊員たちの熱い死闘を観戦する。

「だからさー、いくら何でもこの扱いは酷いと思うんだよねー。これじゃあ完全な盾じゃなイカー」

「使えるものは親でも使う。それが俺の正義」

「正義って言葉の意味を辞書で調べてくることをお勧めするよー」

「正義。手前勝手で不条理な主張を行い、無茶な言い分が通らなければ暴力など実力行使に出ることを指す」

「それが正義なら世界は終わるよー。色々な意味でー」

「おい、てめえ等! いつまで呑気に話してんだ! さっさと失せろ、邪魔だ!」

「さーせん!」

 乱暴な言葉遣いの隊員の指示に従い、そそくさとその場から立ち去ろうとして見えない壁のような物と激突。

 ただし、ぶつかったのは犬耳の少年であり、彼の両足を掴んで鈍器の如く振り回して透明な壁に幾度となく叩きつける。

「うん、これが君の言う正義なんだね。ちょっとずつ殺意が育ってきたよ」

「だってこの壁、張ったのお前だろ? 差し詰め、俺をこの場から離脱させないようにするために結界を展開させたってところか。理由は単なる嫌がらせ」

「……そこまで完全に見透かされるとは思わなかった。今、初めて君のことを凄いと感じたよ。どうしてわかったの?」

「俺がお前ならそうしているから」

「得心が行った。やっぱり君こそ僕のマスターに相応しいよ」

「生憎と、信用できない犬ころを手元に置いてやるほど、俺は寛容じゃない。志や理想だけで他者は導けんのだ。そうだろう? 餌がなければ平然と主人の首に食らいつく駄犬」

「失礼な。僕は餌があっても主人の首に食らいつくタイプの駄犬だよ。例え殺処分が決まっても保健所で他の犬と職員を食い殺して脱走するかな」

「駄犬というより危険生物の類いだな。保健所よりも海に沈めた方が確実か」

「そのくらいでどうにかなるなら、誰も苦労しないと思うけどねー」

 何度見えない壁に叩きつけ、確かな手応えを感じているのに犬耳の少年は無傷。

 打撲も裂傷も負わず、無抵抗に振り回される彼の顔にあるのは喜びの笑顔。

 空恐ろしくなる喜色の笑み。痛みを与えられていることやぞんざいに扱われていることを喜んでいるのではなく、別の何かに喜びを見出している。

 その喜びの源泉が仁にはわからない。だからこそ恐怖を覚え、そこに疲労が重なったことで振り回すのをやめ、彼を下ろして盾として持つ。

「盾代わりなのは変わらないんだねー。ある意味、安心したかもー。ここで下手に下ろされちゃったらー、君のことを呪いたくなってたかもしれないからねー」

「うむ。俺も学習した。やはり子供は鈍器として振り回すより、盾として身代わりに使用した方が安全かつ確実に危機回避ができると」

「君って本当に成長しないよねー。それとも実は色々と成長しているけどー、敢えてやっているのかなー?」

「どちらかといえば後者でありまする。真面目な話ほどぶち壊したくなる衝動に駆られてしまうのです。と、ここで自画自賛ではないが、驚異的な反射神経を発揮!」

「ほあ?」

 見えない壁にぶつかりそうになる、飛来する眼球のない女だったモノの生首を犬耳の少年の体で受け止める。

 腹部にボウリングの玉を直撃したような重い一撃に息を吐き出し、白目を剥いて意識を失う犬耳の少年の腹に齧り付く生首。

 体を張って受け止めた恩を仇で返すその所業に、勝手にキレた仁が犬耳の少年をその場に捨てて生首の頭を踏み潰す。

 虫けらを踏み躙るように、念入りにすり潰され、赤い液体だけを残してミンチ肉状態になった、映像として残されるのなら確実にモザイク処理が行われるグロテスクな肉の塊を掬い取り、臭いを嗅ぐ。

「……理香は普通の材料で料理を作ると失敗? する。ならば初めから食材として扱われないようなナマモノを使用すれば、あるいは――」

 成功すれば彼女の欠点の一つを克服するための、一筋の光明が見える反面、失敗すれば魔境といえど、タダでは済まなそうな恐るべき企み。

 自らの思考に恐怖し、身を震わせながらも抑えられない好奇心から肉塊を回収しようとする彼に、消防隊員たちの苛烈な攻撃によって追い詰められた眼球のない女だったモノが悍ましい唸り声を発しながら突撃する。

「あのバカ、まだ逃げてなかったのか!?」

「逃げろ! 早く! その場から!」

「クソッ、こんな奴に!」

 消防隊員たちの叫び声で己の身に迫る危機を理解した彼は現状確認をしている間も惜しんで犬耳の少年を持ち上げ、見えない壁と衝突。

 勢いが良過ぎたため、強く打ってしまった鼻から血が流れ落ち、滴る血に反応した肉塊の一部が彼の鼻に飛びついてきたため、即座に犬耳の少年で防御。

 鼻の穴に侵入する不気味な肉塊に咽る彼の背中を優しく擦っている間にも、当然の如く巨大な肉塊が迫っており、逃げ場がないことを悟った仁は諦めて犬耳の少年を解放するとともに前へ突き出し、許しを請うように頭を垂れる。

 そんなことをしても意味がないのは重々承知の上。

 故に彼は頭を下げた体勢のまま、静かな口調で告げる。

「命令だ。アレを潰せ」

「――イエス、マスター」

 感情のない、簡潔な承諾の言葉。

 胃のような機関を剥き出しに、棒立ちしている二人を丸ごと呑み込まんとする巨大な肉塊を無視して振り返り、仁の腕に噛みつく。

 甘噛みではない本気の食らいつき。服ごと皮と肉を食い千切り、流れ出る血を体内に取り入れた彼は後方に掌を翳す。

 直後に眼球のない女だったモノの動きが止まり、そのまま緩やかに浮遊すると、ゆっくり閉じられていく彼の手の動きに合わせて徐々に圧縮されていき、完全に手が閉じられると同時、粉微塵に潰れて霧散した。

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