第七十一話

 紆余曲折の末、最終的に引き分けに終わった対局。

 決着がつけられなかったことをわざとらしく悔いる校長への仁の対応は冷たく、教え子から適当な扱いを受けた校長は一人寂しく自らの尻尾をモフる。

 尤も、他妖狐の尻尾をモフるのならともかく、自身の尻尾をモフったところで胸中に湧いてくるのは果てなき虚しさ。

 儚い笑顔で嘆きの吐息を漏らす校長を半眼で見つめ、無言のまま退室した彼は背中に突き刺さる悲しみの視線を無視し、午後の授業が始まる前に席に着くべく、廊下を駆けて教室へ滑り込む。

 ギリギリであったこと、廊下を駆けたことなどを教師から注意されるものの、それ以外は何もなく、瞬く間に過ぎていくは平和な時間、平穏な日常。

 騒動らしい騒動も起きない穏やかな時は放課後になっても続き、部活へ向かう幼馴染みたちを見送った仁は頬を叩いて気合いを入れ、単身、骨董品屋に乗り込む。

 明かり一つない薄暗い店内。窓から差し込む陽光のおかげで完全な暗闇に包まれることは無いものの、店の奥は闇に閉ざされている。

 夢で見た深淵の闇とは異なる、夜になれば何処にでも見られる一般的な暗黒。

 静けさが支配する暗闇の中に気配はなく、しかし用心に越したことは無いと仁はその場に留まって声を上げる。

「おーい、誰かいませんかー、店主さーん」

 呼び掛けに応じる声は皆無。

 相変わらず何の気配も感じないため、仕方なく仁は店内を見て回ろうと闇へ足を向けては飛び出してきた真っ赤な人型の何かを拳で迎撃。

 綺麗に顔面へと突き刺さった拳に、しかし真っ赤な人型の何かは動じず、充血した瞳と血だらけの歯で彼の手に思い切り嚙みつき、血を流させる。

 引き剥がそうと伸ばされた手を逆に掴み、腕をへし折ろうとするその力は明らかに人知を超越した怪力。

 鉄パイプ程度なら簡単に捻じ曲げられる恐るべき力が彼の腕を蝕み、折られるのも時間の問題と察した仁は舌打ちを漏らしつつ、火事場の馬鹿力を発揮して両腕を大きく振るい、人型の何かを床に叩きつける。

 物理的な衝撃にたいして怯まなかった真っ赤な人型の何かは起き上がり、再び仁へ襲い掛かろうとするも偶然、窓より差し込む太陽光を浴びた途端に耳障りな絶叫を上げながら体中から煙を噴き出し、見る間に灰と化して崩壊。

 崩れ落ちた死体は溶けるように消えてなくなり、突然の出来事に困惑と訝しみを覚えた仁は真っ赤な人型の何かが溶けた床を調べる。

 調査の結果、判明したことは何もわからないということだけ。

 白昼夢を思わせるほどにその場所から何かを見つけることは叶わず、真っ赤な人型の何かなど初めから存在しなかったのでは、と、自らの記憶と感覚を疑い出し始めた頃、背後に気配を感じて振り返る。

 視界に広がるのは相変わらずの暗闇。

 けれど今度は闇の中に確かな人の気配が感じられるため、警戒を解かずに近くに置いてあった土器を投げつける。

 放物線を描く土器は空中で停止。真っ直ぐに投げ返されたことで反射的に両手で受け止め、再び投げ返しては何者かの手に受け止められる。

 闇の中から生えた幼さを感じさせる腕。その根元と言える少年の体が闇の中より姿を現し、土器を他の商品棚に載せるともう片方の手に持っている本を開く。

 唱えられるのは小さな呪文。長くはないが、本能に恐怖を宿させる不気味さを有している呪いの声に油断なく身構える仁へフレンドリーに手を振る。

「やあ、また会えたね。嬉しいよ」

「俺は嬉しくない。で、これは何なんだ?」

「いきなりだね。何なんだ、って訊かれても、質問の意図がわからないと答えようがないよ。君は何が知りたいんだい?」

「これの正体、これが襲ってきた理由、これを生み出した黒幕」

「一つ目は僕にもわからない。適当に召喚したら何か出て来ただけだから。二つ目はたぶん、肉が欲しかったんじゃないかな? それとも不安定な自分を現界させるための依り代を欲しがっていたのかも。三つ目は言わずもがな、僕さ!」

「そうか」

 確認を終えた以上、彼に用はない。

 真っ直ぐに突き出された拳が頭を穿ち、頭蓋を超えて脳を揺さぶられたことで立っていられなくなった犬耳の少年は尻餅を突く。

 無論、それだけで済ませるつもりがないのは彼が全身より漲らせている殺意が証明しており、無抵抗で無害を装う犬耳の少年の脳天を躊躇なく肘打ちで粉砕。

 頭蓋を砕く嫌な感触が肘から伝わり、頭の中の汁を頭部の穴という穴から飛び散らせて倒れる彼を見下ろしながら落ちた本を手に取る。

 瞬間、頭の中に渦巻く異界の知識。

 知ってはいけない禁断の情報が彼の脳を蹂躙し、シェイクされるような感覚に襲われながらも本を開いて文章に目を通す。

 その本の正体を一言で言い表すなら魔導書。

 何が書かれているのかは読めない。古代の文字で書かれていることは把握できても、読み進めるためには専門的な知識が不可欠となる。

「だが、こんな本は読めない方が良さそうだ。ったく、俺の頭はそれなりに繊細だっていうのに、こんなにかき乱すなんて。下手すると二日酔いになるぞ」

「お酒を飲まなければ二日酔いにはならないよー。少なくともその本だけじゃ酔うほどのダメージを負ったりはしないさー」

 倒れていた犬耳の少年の体が浮くように立ち上がり、砕けた頭が再生。

 まず骨が治り、次に肉と実に気持ち悪い光景を目の当たりにしながら仁はこの場に誰も連れて来なかった自身の選択を英断と褒める。

 見慣れている彼でも吐き気を催しそうになるグロテスクな光景。

 皮膚が再生し、髪の毛が生え終わると隙間から耳が生え、鼻に詰まった血を息の力で体外に噴出しながら手を回して首の凝りを解す。

「痛いなー。頭を潰すくらいなら耐えられるけどー、体にめり込ませるような真似はやめて欲しいんだよなー。おかげで首が痛くてしょうがないよー」

「頭を潰されても生きているお前が悪い。大体、頭を潰されたのならさっさと死ぬのが生き物としての最低限の礼儀なんだぞ」

「僕に礼儀を期待されても困っちゃうんだよねー。ほらー、僕って見た目通りの礼儀知らずのクソ野郎だしー、君だってそれくらいはわかっているんだろう?」

「そりゃまあ、な。俺も出合い頭に殺したくなるような奴なんて、お前を除けば今のところ、一人もいない」

「つまり僕が君の初めてを奪ったってわけか」

「誤解を招くような言い方はやめろ。って、ツッコんで欲しかったのか? だがこんなところでツッコんでも誰も聞いていないぞ?」

「聞いているよー。この店に巣食うたくさんの悪霊さんたちやー、骨董品に詰めらえた作り手さんの生前の妄執とかー」

「前者は取り敢えず置いておくとして、後者は聞いてくれなさそうだぞ」

「彼等はツッコむことが仕事じゃないからねー。とまあそういう人たちが常に僕たちを見守ってくれているんだからー、ツッコミを入れる価値はあるのさー」

「ああ、そう」

 理解できずとも見ているだけで頭痛がする本を閉じ、他の骨董品にぶつけるのを避けるように床へ放り捨てる。

 床へ落ちた本は勢いよく開かれ、風も無いのに高速で捲られるページがある場所で止まり、瞬間、本の中から血の涙を流す、眼球のない女が顕現。

 先程の赤い人型の何かと同種の気配を発し、金切声を上げて二人の耳の機能を麻痺させ、同時に発せられる不気味な音が彼等の精神を削る。

「なんだ、コイツは。新手のゾンビか?」

「さあ? ただ、君が乱暴に本を扱うから、怒って出て来ちゃったんじゃない?」

「つまり謝れば許してくれる類いの亡霊と?」

「そんなことを言った覚えはないけど、試しに謝ってみたら? もしかしたら許してくれるかもしれないし、許されなかったら戦えばいいだけだよ」

「気楽に言ってくれる。俺はこう見えても病み上がりの身。本来なら実戦をしていい体じゃないんだぞ。というわけでお前に任せたいんだが、引き受けてくれるか?」

「嫌だよ、面倒臭い。どうして僕が戦わなくちゃいけないのさ。呼び出したのは君なんだから、君がどうにかしてよ」

「嫌に決まっているだろ。こんなの真面目に相手をしていたら俺のSAN値がマッハで削り取られて発狂する」

「最初からSAN値0の君のSAN値をこれ以上、どうやって削れって言うのさ?」

「それはもちろん、マイナス領域に突入させるのさ! というか俺の正気度は既にマイナスの領域の壁を突破してそれはそれは凄いことになっているんだZE!」

「自慢できることじゃないよね、それ。でもそっか。話せる狂人って君みたいな人のことを言うんだね。君が人なのかはわからないけど」

「お前にだけは言われたくないぞ。犬耳の人外よ」

「そういう言い方はダメだよー。それに僕が犬の耳が生えているだけの健全な青少年の可能性が微レ存だし」

「ハッ」

「鼻で笑うとか人としてどうかと思います! それともやっぱり人でなし?」

「鼻で笑えるようなことをほざく方が悪い。大体、お前は存在自体が健全じゃないだろうに。短い付き合いだが、断言してやる!」

「凄い傷付く一言。僕は結構怒りたい気分かも!」

 ゆっくりと、這うように距離を詰める、眼球のない女のことなど眼中無しで口論に没頭する仁と犬耳の少年。

 それが気に障ったのかは不明だが、地面に這い蹲っていた眼球のない女の姿が突如として消失、凄まじい勢いで彼等の眼前に迫る。

 怒涛の勢いで目の前に現れた眼球のない女に流石の仁も肝を冷やしたのか、半歩ほど後退――するフリをして逆に一歩前進後、右ストレートを叩き込む。

 顔を穿つ拳に怯んだ眼球のない女は仁を明確な敵性体と認識。

 両腕で彼の腕を掴み、鋭利な爪を肉に食い込ませる。

「わー、痛そう。大丈夫? 泣きそうならいつでも胸を貸してあげるけど」

「逆に俺の胸に飛び込んで来い。コンクリートに詰めて海の底に沈めてやるから」

「今の声音から本気の色を感じ取った。この人、本気だよ。見目麗しい美少年を剥製にするならまだしも、コンクリートと一体化させて海の底に落とす気だよ」

「似合いの最期だと思うが、不服かッ!」

 裂かれた腕と飛び散る血。

 指先にこびり付いた肉片と血液を店内に撒き散らし、狂喜の悲鳴を上げながら仁の肩に噛みつこうと両手で彼の両肩を押さえつける。

「調子に乗るなよ、クソ女」

 怪力を上回る剛力で眼球のない女の手を押し退け、逆に女の両肩を掴んでは飛び膝蹴りを顔面に炸裂させ、前歯を砕く。

 倒れる眼球のない女に馬乗りとなった彼は痛む両腕の恨みを晴らさんと、拳を振るって顔の形を無理やり変形させる。

 特に歯は念入りに叩き折り、入れ歯を用いなければ何一つ、噛むことができないほど壊し尽くしたことで気が晴れたのか、彼女の上から退き――起き上がる前に顔面を靴底で踏みつけ、頭蓋を踏み砕いてすり潰す。

 徹底的に頭を狙い、破壊する彼に犬耳の少年は感嘆の意味を込めた口笛を吹き、落ちていた本を拾って開かれていたページに書かれている呪文を唱える。

 その行為に悪意はない。

 呪文を唱えたのは単純な好奇心で、今回ばかりは意図的に行ったわけではない。

 それでも彼の余計な行動によってそれは起こった。

「――なに?」

「おおっ!?」

 間違いなく踏み砕かれた頭が一瞬で復元を果たし、彼の足首を掴んで転ばせるとお返しとばかりに馬乗りになって仁の頭に齧り付く。

 完全に砕いたはずの歯も全て元通り。抵抗しようにも不意を突かれた影響か、体勢が悪く、上手く力を入れられないために眼球のない女を押し退けられない。

 突き刺さる犬歯が血を流させ、垂れ落ちる血が目に入り、視界を塞ぐ。

 傍から見ても極めて危険な状態。

 蹴りを入れてもまったく怯まず、執念に近い怨念を全身に纏い、顎の力を強めて彼の頭蓋を噛み砕こうとする。

 何故そこまで仁の頭を壊すことにこだわるのかは不明。考えられるとしたら自身の頭を壊されたことへの復讐か。

 何にしても仁に思考を巡らす余裕はなく、意識して頭に力を集中させ、眼球のない女の歯の進行速度を遅くする。

 しかし現状で彼にできることはそれだけ。

 歯の食い込む速度を遅くしたとして、時間稼ぎ以外の意味は持たない。

 彼女に体力という概念があるのなら話は別だが、生命の鼓動を感じない眼球のない女に体力があるとは考え難いので望み薄か。

「一難去ってまた一難、とでも言うのか。笑えねえな、クソが!」

 退院したばかりの自身の身に降り掛かる災難の連続。

 動物ほどの知性も持たない、怨念の塊に食い殺されるなど死んでも御免と、キレた彼は怒りの感情と追い詰められた状況により潜在能力を一時的に解放。

 眼球のない女の体を天井まで蹴り飛ばし、落ちてきたところに回し蹴りを入れて上半身と下半身を乖離させ、首を踏み潰して胴体と頭部の繋がりを断ち切ると頭を持ち上げ、傍観者を気取る犬耳の少年に向けて全力で投げ付けた。

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