第七十話
昼休みを除き、休み時間とは短いもの。
雑談に興じているだけで瞬く間に時が過ぎ、授業開始のチャイムが鳴る。
先日の死闘が嘘の如く平穏な時間が流れ、昼休みが訪れるとともに校長室への呼び出しを受けた仁は弁当を片手にノックして入室。
豪勢な椅子に座り、キセルを吹かして出迎える校長の眼前に置かれているのは木製の将棋盤と並べられた駒。
彼女が何を求めているのか、察した仁は用意されていた椅子に座り、弁当を食べ始めながら将棋を打つ。
「調子はどうだ、影月の子」
「なんか微妙に格好いい呼ばれ方だな。まあ悪くないぞ、九尾の妖狐」
「マネする必要は無い。しかしそうか。完治までもう少し時間が掛かると踏んでいたんだが、流石の回復力と褒めてやるべきか?」
「自力で治したわけじゃない。まあ説明したところで信用してもらえるか、微妙なところの話だけどな」
「フン?」
早速追い詰められ、王を慌てて逃がしている間に王手。
脂汗を掻きながら無言で話の続きを促し、彼の意識が将棋盤からそれた瞬間に九尾を駆使して視界を塞ぎ、将棋盤を反転させて自らが仁を追い詰めた形へ変える。
「実は夢の中に変なガキ――骨董品屋の店主をやっている犬耳のガキが現れて、そいつに腕を食われた後、闇に呑み込まれたら完全回復していた」
「……すまん。私も年を重ね過ぎたせいか、言っている意味がよくわからない」
「俺にもわかっていないから安心するといい。大体、夢の中によく知りもしないガキが現れるとか、マジで意味不明だよな」
「それも不可解だが、私が言っているのはお前の傷が治った理由だ。腕を食われて闇に呑まれたら完治していたなど、とてもじゃないが信じられない」
「だよなー。俺も信じられない。俺が校長の立場だったら俺の正気を疑う。王手」
「待った」
「ダメ」
追い詰めていたはずの者が、実は追い詰められていた。
よくある話であり、初めから彼女がそうするつもりであることを見抜いていた仁にとってこの逆転劇は茶番劇に等しい予定調和な出来事。
冷たい生徒の眼差しに、反撃の一手を打とうと頭を巡らせるが、その盤面から逆転することは不可能。
ならばと再び将棋盤を反転させようとするが、勝ち目がないことを理解している仁に尻尾を掴まれ、モフられたことで力を失い、敗北を認めざるを得なくなる。
「き、貴様、いつの間にそんな、テクニックを……!?」
「上手な狐の躾け方っていう本に書いてあった。試してみるのは初めてだけど、意外と上手くいくものだから自分でも驚いている」
「クッ……! この私を一瞬で腰砕けにさせるとは、末恐ろしいガキだ」
「どうでもいいけど、これで終わりか? なら俺はそろそろ――」
「待て、急かすな。もう一勝負と行こうじゃないか」
「どうせ、私が勝つまでやるとか言うつもりだろ? 相変わらず面倒な奴。そこまで言うなら絶対に負けない一手を思い付いたとか言って、勝者を名乗ればいいだろ」
「勝ち逃げは許さんが、そんな手で勝てば私は妖狐の主を名乗る資格を失う。安心しろ、そういつまでも若造に負けるほど、私は無意味に歳を重ねたわけではない」
自信満々に連敗記録を更新する校長に仁は深い溜め息を吐く。
やる気がないように見えても勝負事に手は抜かない。そんな彼の気をそらすため、校長は今回の件の顛末について語り出す。
「昔、私が樹冥姫と戦ったという話は覚えているか?」
「アンタと他の奴等が手を組んで奴を滅ぼそうとしたんだろ。で、失敗したから復活した樹冥姫が暴れ回ったと」
「その通りだが、少し違う。実はあの後、かつての樹冥姫退治について政府の者たちが掴んでいた情報を調べ上げてみたんだが」
「バレたらヤバ過ぎる橋を堂々と渡るなよ。バカじゃねえのか?」
「それは今、話題の中心にしていない。コホン。で、だ。その当時の資料を調べたところ、どうやら取り逃がしたと思っていた樹冥姫は通り掛かった古の幻獣に襲い掛かり、養分を吸い取ろうとして逆に食い尽くされたらしい」
「……成る程、命知らずな蛮行の代償として命を失ったわけか。ってことはもしかして、あの場に古の幻獣が現れたのは――」
「恐らくは食べ残した残飯を処理するために現れたのだろう。あるいは、意外と気に入った味だったのかもしれん。とにかく、当時の私が奴の死を確かめることができなかったのは、捜索中に食われていたことが原因だったわけだ」
「フーン。でも、どうして政府の連中はそのことを隠していたんだ? 別に知られても問題ない情報のはずだろう?」
「どうやら政府の連中は古の幻獣が食った樹冥姫の破片を入手し、密かに培養して兵器とするつもりだったらしい。尤も、危険過ぎるという理由で却下され、計画は瞬く間に頓挫してしまったそうだが」
「頭の固い連中にしては――ああ、頭が固いからこそ危険な生物兵器の制作に反対したわけか。今回はグッジョブと言ってやろう」
「その件に関してはそれで終わり、と言いたいところだが、実際に奴は復活していた。これの意味するところは語るまでもなくわかるな?」
「当然」
進められた歩の駒が飛車の前に立ちはだかる。
逃がすのは簡単だが、既に王将が追い詰められ掛けている段階。
飛車を逃がせば王将が更に追い詰められ、かといって飛車を失えば形勢が不利になるのは明白。
悩む彼女は掌を仁の前に突き出し、応じるように頷くのを見ると嬉々として三手ほど前まで駒を巻き戻す。
「今回の一件、奴の中途半端な復活について政府は関係していない」
「といっても、政府も一枚岩じゃないし、単に調べられなかっただけで関係している面があってもおかしくないじゃなイカ?」
「その通りだ。いくら私でも政府の全てを把握することは困難を極める。だから確信を持って断言はできないが、いずれにしても黒幕はそれなりの資金源を確保していると見て間違いはない」
「まあ、破片から本体を蘇らせるなんて結構な大金が掛かりそうだしな。設備を維持するのもタダじゃないし、他にも植物妖怪を使役していたところを見るに、黒幕さんのバックには結構な金持ちがいても不思議じゃない」
「そして保険医の弟子だけあってかなりの科学力を有している。表舞台に出て来ないところから察すると、内向的な性格か、狂科学者かのどちらかか」
「後者だろう。あの保険医の弟子が内向的な性格とか――そもそもまともな性格をしているなんて思えん。俺とは別方向に狂っていると考えていい、王手」
「待った」
「待ったは三回まででいイカ?」
「心優しい生徒を持って、私は嬉しい」
嬉しそうな笑顔の校長が十手ほど駒の位置を戻している間に弁当を食しながら机の上に置かれていたお茶を勝手に飲む。
自分のお茶を無断で飲む生徒の蛮行。
教師として叱るべき場面だが、駒を戻している最中に叱っても欠片の説得力も生まれないので、黙々と駒を戻す作業を続ける。
「で、保険医は今回の一件について何か言っているのか?」
「何も。黙り込んだまま、一切を語ろうとしない。恐らくだがこの件は彼女にとっても複雑なのだろう。何せ己の弟子が関わっているのだから」
「あの保険医がそんな細かいことを気にするのか、甚だ疑問に思うが」
「女心とは複雑なものだぞ。それに元弟子といってもどのような関係にあったのかは、その詳細を私たちは知らない。あるいは、語りたくても語れない、お涙頂戴の感動ものの物語が語られるかもしれんぞ?」
「感動ものの物語? 保険医の口から? 校長、あまりにも歳を取り過ぎておかしくなったのか? 良ければ一度、頭部を掻っ捌いて頭の中を調べてやろうか?」
「……今の発言、心から心配しての言葉であることがわかってしまうから、叱りたくても叱れんな」
「それはどうも。で、また王手だけど、どうする?」
「待った」
「これで最後だな。さて、今度は何手巻き戻す――って、おいおい」
掟破りの盤面戻し。
全ての駒を初期状態に戻すというまさかの行いに呆れ果てるも、表面上には浮かべないが、内側である種の興奮状態に陥っている校長の眼差しに気圧される。
下手に口出しすれば爆発――は無いとして、何をするかわからない。
だから黙って駒が元の位置に戻されるのを待ち、改めて一から打ち始める。
「オッホン! それで、保険医の弟子についてだが、私なりに調べてみてもあまり詳しいことはわからなかった」
「へえ、ってことはかなりの隠蔽能力を持った組織に所属しているってことか?」
「一応、調査中だが、あまり期待はできない。これ以上、叩いたところで埃さえ出て来ないのなら叩く意味はない」
「なら埃以外も出てくるように、気合いを入れて調査すればいいんじゃなイカ?」
「気合いでどうにかなるのなら誰も苦労はしない。よし、これで飛車は頂きだ」
「おっ?」
序盤の内に飛車を奪い取るという、優勢な展開に校長は機嫌よく駒を動かし、仁の軍勢を追い詰めていく。
劣勢に立たされた彼は舌打ちを漏らし、自身が彼を着実に追い詰めている事実にご機嫌となったからか、仁の瞳が冷たく笑っていることに気付けない。
「でも、要するにその保険医の弟子は魔境に喧嘩を売って来たわけだろう? いくらなんでも政府がそこまでバカなことをするとは思えないから独断専行だとして、上の連中がおとなしくしているのか?」
「知ったなら報復を行おうとするだろうな。下手をすればこの国との戦争、そのまま世界中を巻き込んだ世界大戦が勃発するかもしれん」
「そうなったら数の差で俺たちが負けるだろうな。外の連中が上手く連携を取れるかはわからないが、こっちは確実にバラバラに行動するだろうし」
「最悪、古の幻獣が暴走して世界を滅ぼすやも知れぬ。そうなっては勝ち負け以前にこの世の終わりだ。それだけは避けなければならない」
「つまり、他の大妖怪や邪神様たちには何も言っていないと。それでいいのか?」
「樹冥姫に関しては報告した。だが、その裏に控えているかもしれない者たちのことについては報告する義務や義理は無い。そもそもいると断言できるほどの確証を得ていないのだから、報告しようがない」
「そういうのは屁理屈って言うんじゃないのか?」
「屁理屈上等。化かすのは狐の専売特許だ。尤も、彼等は彼等で独自のルートを通じて情報を得ているかもしれないが、な!」
一手ずつ、着実に追い込んでいく校長の心は有頂天。
初めてハンデ無しの――追い詰められ、待ったによる情けの再戦であることは既に忘れている――真剣勝負で仁を敗北寸前まで追い込んでいる。
何度辛酸を嘗めさせられてきたか。何度屈辱の泥に塗れてきたか。
勝利まであと僅か。数手先に存在する栄光を手にするための道は見えている。
「――まさか今になって待ったを掛けるような真似はすまいな?」
「するわけないだろう。勝てる勝負で待ったを掛ける意味がない」
「そうだな、その通りだ。あと三手で私の勝利が確定するのだから、待ったを掛ける意味はない。私にとっては、だが」
校長室内に響き渡る駒を打つ軽快な音。
敗北が決定しているにもかかわらず、眉一つ動かさない仁の精神力に称賛の拍手を送りたい気分になったが、敗者に鞭打つような真似をするのは流石に憐れなので彼女は笑顔になろうとするのを堪えつつ、終局の一手を打つ。
勝利まで残り三手。迷わず打つ仁の無謀な攻勢など無視し、確実に勝利を手にするための追撃の一手を放つ。
「王手」
「…………なに?」
「王手」
「…………」
この子は何を言っているのだろう。
呆けた眼差しで盤面を見つめる校長の顔が青褪める。
確かに自身の駒は仁を追い詰めているが、しかし彼の駒は王将の前までたどり着いており、その駒を排除すれば別の駒に王の首が取られる布陣。
かといって王将をその場から逃しても別の駒に追い詰められるので、王将を逃がすという行いは敗北までの時間稼ぎ以外の意味を持たない。
「攻めるのはいいんだが、守りを疎かにして勝てるほど甘い勝負じゃない。飛車を囮にして俺の駒が切り込んでいたことに気付けなかったアンタの負けだ」
冷酷な宣言に慈悲は無い。
例え待ったを掛けても彼は聞く耳を持たず、勝負を継続させる。
もはや彼女に勝ち目はない。あと二手で仕留められる段階までたどり着いたのだが、校長に仁の次の手を凌ぐ術はない。
勝利を確信した後に突き付けられる敗北の味はいつも以上に苦く、飲み込めたものではないので彼女は口直しにキセルを咥えて紫煙を吐く。
何をすればこの状況を逆転できるのか。恥も外聞も投げ捨てて、裸体を晒して誘惑すれば勝つことができるのだろうか。
否、将棋盤と校長を見つめる冷淡な眼差しを動揺させることは不可能。
悟った彼女はひたすら時間を引き延ばし、昼休みが終わるまで駒を動かさずに待機することで引き分けに持ち込むという、あまりにも情けない道を選んだ。
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