第六十九話

 頬を撫でる優しい夜風に目覚めた彼は体を起こす。

 初めに覚えたのは違和感。普段通りに体を起こしただけだが、それだけの行いでも多少の痛みを伴うくらいの怪我を負っていた。

 けれども今は痛みを感じず。ギブスが装着されている腕も彼の意思に従って自由自在に動かせてしまう。

 まだ完治していないはずなのに、何故痛みを感じないのか。

 寝ている間に内なる何かが目を覚まし、傷を完全回復させたのは、それとも何かしらの外的要因によって怪我が治ったのか。

「……考えられるのはさっきの夢、か? いや、さっきのはそもそも夢なのか?」

 変化のない病室。誰かが踏み込んだ形跡はなく、扉や窓の先に得体の知れない闇が広がっているなどといった荒唐無稽な風景も無し。

 脱走する気になればいつでも脱走可能な、内側から逃げ出す者のことなど考えられていない作りの病院。

 尤も、入院する必要があるほどの怪我や病気の者が脱走することを考慮して建築された病院など、もはや所有者の趣味の領域のものだが。

「しっかし、珍妙な夢だった。健やかなる眠りの世界で骨董品屋の店主が湧いて出て来るとか、実は俺の心にはアイツへの熱い思いが宿っているとか?」

 自分の言葉を鼻で笑い、ベッドに横になって窓から差し込む月光を見つめる。

 太陽とは異なる優しい輝き。夜そのものは嫌いではないが、魔境の夜は不用意に外出する者の命を狙う。

 複数人で行動しているなら襲われることは滅多になく、襲われたとしても知性のない本能だけで動いているような者か、魔境に来て間もない新参者のどちらか。

 前者は面倒だが返り討ちにしても問題にはならず、後者は新参者故に他者の縄張りで好き勝手なことをしたツケを支払わされることになるため、何も考えずに逃げるだけで解決することが多い。

 ごく稀にどちらにも該当しない強大な人外と遭遇してしまうこともあるが、逆鱗に触れでもしない限りは見逃されるのであまり心配は要らず、最悪、適当な車に乗って走り出せばほぼ襲われることはなくなる。

 最も危険なのは一人で行動すること。夜に一匹狼を気取るには相応の覚悟と実力を持たなければならず、どちらも持たないまま、一人で動けばほぼ助からない。

「酒は飲んでも呑まれるな、か。この街で深酔いは命取り。まあある意味、酒の飲み過ぎ防止に役立っていると言えなくもないかもしれないが――おっ?」

 月光に交差する二つの影。

 人狼と吸血鬼が月を背に激闘を繰り広げており、空を飛ぶ吸血鬼を上回る機動力で翻弄する人狼が優勢気味。

 彼等の戦いを見守っていた仁は欠伸を漏らして目を閉じ、夢の世界へ旅立つ。

 翌日、怪我が完治していることを医師より知らされ、理由を追及されたが彼が持つ答えは変な夢を見たの一つだけ。

 到底、納得できるような話ではなかったが、怪我が治った事実は覆せず、一悶着の末に退院、スマホで各所に連絡を取りながら家に帰る。

「ただいまー」

『お帰りなさいませ、マスター』

「おう、一号、遅くなってすまなかったな」

『いえ、マスターの留守を預かるのも、私の大切な仕事ですので』

「ちなみに紗菜は?」

『学校へ行かれました。マスターは如何為さいますか? 学校へ向かわれるのでしたら準備は済ませてありますが』

「用意がいいな。んー、確認するが、変わったことは何もないんだよな?」

『はい。マスターがご入院中、紗菜様がいつものように問題を起こしておりましたが、そのことを除けば何も起きておりません。ところでマスター、そろそろ紗菜様の処刑の許可を頂きたいのですが』

「却下。アレでも俺の妹だ。まあ、お前の気持ちもわからんでもないが、アレはアレで面白くもあるだろう?」

『面白い、つまらないの問題ではありません。どうして紗菜様はあそこまでそちらの方面に奔放になってしまわれたのですか! 英雄、色を好むと言っても限度があります! 何より、掃除したばかりの場所でも構わず、特有の液体と臭いで汚染するのが我慢なりません!』

「あー、うん。それには同情する。うん。素直に同情する。けど、俺にはどうすることもできないから、諦めてくれ」

『なんですか、その悟りの境地に至られたような微妙な表情は! そもそもマスターには兄としての責任感が――』

 長くなりそうな説教を右耳から入れ、左耳より流す受け流しの体勢で回避。

 高速で階段を駆け上がり、本日の授業の準備を済ませて急いで階下に降りるも出入り口を一号の体で塞がれる。

 横にも縦にも大きい一号の茶筒型ボディが彼の行く手を遮り、自らの手で創り出した芸術的な体を内心で大いに称賛し、無理やり押し退けることを諦めて窓より出ようとするが、窓に鍵が掛かっていたことで一号に捕まり、逃走失敗。

 蹴破ってでも外に出ることを優先しなかった己の判断ミスを受け入れ、一号の説教をおとなしく聞き流そうとする彼に差し出されたのは弁当箱。

 不思議そうに弁当箱を見つめる仁に、一号は何処か照れたように咳払い。

『……行ってらっしゃいませ、マスター』

「――おう、行って来る。夕飯、よろしくな」

 弁当箱を受け取り、玄関の扉を開けて勢いよく外へ飛び出す。

 一号に見送られながら、もはや学生など一人も通っていない通学路を突き進み、閉じられている門を飛び越えて堂々と侵入。

 もしも何の事情も無かったのなら言い逃れが一切通じないレベルの大遅刻。

 けれど今回は事情を持っている彼は胸を張って靴箱で靴と上履きを入れ替え、走ってはいけない廊下を全力疾走後、授業中の己のクラスの扉を乱暴に開ける。

「おはよう、諸君! 今日もいい天気だね!」

「黙って席に着け」

「はい!」

 冷めたリューグの眼差しと言葉に従い、自席に座る彼をクラス全員が大小の差はあれ、気に掛けるが、今は授業中。

 幸いなことに休み時間まであと少しであるため、皆が我慢している中、仁は即興の鼻歌を歌いながら弁当箱を広げる。

「そこのバカ、何をしている?」

「早弁。実は今日、何も食べていなかったりします。なんやかんやと退院して真っ直ぐ家に帰って、授業の準備したら家を出ましたので」

「成る程。腹が減っては戦はできぬというからな。空腹では何をやっても失敗しやすい傾向にある。そういう意味ではお前の行動は間違っていない」

「少しは理解力が上がったようだな、リューグ。とはいえ、まだまだだ。その程度の理解力では紗菜をくれてやるわけにはいかん」

「要らん。押し付けて来たらダイナマイトを括り付けて返却する。で、だ。お前の行為は確かに間違っていないが、正解と言った覚えもない。腹が減っているなら、ここに来る前に学食へ行くべきだとは考えなかったのか?」

「俺は勤勉な生徒ですから。それに一刻も早く、クラスメイト達に顔を見せて安心させてやりたいと、俺の中の何かが囁いているんです」

「……焼きそばパンを一個、くれてやるから、弁当は仕舞え。そしてパンを食ったら授業に集中しろ」

「ワーイ」

 退院直後だからか、普段より甘い態度のリューグに子供のような喜びの声を発して手渡された焼きそばパンを数秒で平らげ、ついでにと渡された牛乳で流し込む。

 咽喉の奥に消え、胃を満たした焼きそばパンに満足し、食欲が満たされたら次は睡眠欲を満たそうと腕枕で寝ようとする彼を叩き起こして授業再開。

 しばらくしてチャイムが鳴り響き、リューグが教室から出て行くと同時、理香や東間、神凪たちが彼の周囲に集まり、急な退院に付いての質問攻めが始まる。

 律儀に応答――といっても彼に理解できている部分は少なく、持っている答えは医者に説明した時のものと同様。

 俄かには信じがたい話だが、実際に骨董品屋の店主と会っている東間と理香、特に理香は犬耳の少年の不気味さを思い知っているので彼の話に疑いを持たない。

「――これまでの話を要約すると、だ、よくわからない骨董品屋の店主が寝ているお前に何かしたということか?」

「断言はできないが、その可能性が高い。あの怪我を一晩掛けずに治したんだからたいしたものだと褒めてやりたいところだZE!」

「本音は?」

「不気味なんで一発か二発、思い切りぶん殴りたいでござんす。こう、真っ直ぐに突き出した必殺の左ストレートで一気に」

「外見。子供。暴行。裁判」

「大丈夫、大丈夫。もし仮にその一撃で死んだら適当に埋めて野菜の肥やしにするし、万が一、目撃者がいたなら消せばいい。クックックッ。久しぶりに俺の妖刀が唸りを上げて敵を叩き潰すZE!」

「そんな物、持ってたっけ?」

「倉庫にぶち込んである。まあ錆び付いて使い物にならなくなっているが、頑張ればきっと使いこなせると信じている」

「まず錆を落とすことから始めようよ」

 東間の冷静でつまらないツッコミは総スルー。

 無視されて落ち込む彼を黛が励ましとともに、傷口に塩を塗り込むような発言を繰り返し、更に落ち込む東間を黒澤が微笑ましく見物。

 悪意のない黛はまだしも、友人の慌てる顔や落ち込む顔を見て愉快そうに微笑んでいる黒澤に気付かれない程度の音量で皆が畏敬の念を込めた拍手を送る。

「ま、まあアレだ。何にしても、その骨董品屋の店主の元を訪れた方がいいんじゃないのか? 話を聞く限り、紆余曲折の末にお前が負っていた怪我を完治させたんだから、少なくとも敵対する意思はないんだろう?」

「敵対する意思がなくても味方である保証はない。それに、なんとなくだけどあのガキからは危険な臭いがする。こう、芯から腐り果てている木の棒に無理やりアイスを接合させた、みたいな?」

「例えがよくわからん」

「同意」

「もうちょっとわかりやすく例えられないの?」

「シュールストレミングがいい匂いに思えるような悪臭」

「それはキツいわね」

「悪臭。腐臭。死臭」

「フン。貴様等如きの鼻ではそれが限界だろうな。だが私たち、天狗は違う。例えどのような悪臭であろうと見事耐え抜いてみせる!」

 先程までの話を聞いていなかったのか、臭いが例えの類いであることを理解していないまま、会話に参加してきた美鈴が自信満々に胸を張って断言。

 なお、彼女は昔、納豆の臭いに耐え切れず、失神してしまったことはクラス内で有名な話として語り継がれている。

 が、当人がその事実を否定――どころか、失神したことを覚えていないため、特訓を重ねるなどといったことも行っていない彼女の自信が根拠のないものだと誰もがわかっており、それ故にツッコミを入れるのは無粋と口を噤む。

「どうした? 早くその悪臭とやらが持ってこい。確かシュールストレミングとかいったか? どんなものかは知らないが、天狗の鼻の敵ではない!」

「次光」

「バカな妹で本当にすまん」

「兄上? 何故頭をお下げになられているのですか? 兄上が頭を下げなければならないような失言、失敗は行われていないはずですが」

「強いて言えばお前が失言で失敗だ」

「兄上、遂に狂われましたか? よりにもよって己の非を私の非として押し付けようなどと、死んだ大兄様が聞かれたら悲しみます。思い出してください、大兄上が死ぬ三日前に、我々へおっしゃられたことを」

「死んでいないぞ!」

「そう。それは家族への愛。肉親同士が憎しみ合うなど愚の骨頂。他種族がどれだけ醜く、内輪揉めを繰り広げていようと、我々天狗は身内同士でいがみ合うべきではないのです。そうでしょう、兄上!」

 ハイテンションで、普段の彼女なら例え思っていたとしても絶対に口に出さない妄言の数々に仁たちや実兄たる次光、果ては黒澤まで沈黙し、固まってしまう。

 彼女に何があったのか、理由を問い質そうにも我を失っている彼女に話しかけること自体が時間の無駄。

 困り果てた末に彼女のことは放置、話を戻して骨董品屋の店主について感じたことをありのままに語り尽くす。

「――とまあそんな感じで、わかっているのは信頼、信用しちゃいけない類いの相手だってことだな。アレはマジで信じられん」

「保険医とどちらが信頼、信用できない?」

「僅差で店主」

「……マジか」

「マジ」

 保険医をよく知る弟子の言葉に、聞き耳を立てていたクラス中が騒然となる。

 次光や神凪、黒澤たちが冗談と疑ったのはほんの数秒。

 嘘を語る時とはまったく異なる、静かな断言は彼の言葉に信憑性を生まれさせ、真実味を帯びさせる。

「……あの仁さんがあそこまで警戒されるなんて。疑っていたわけではありませんけど、彼女の報告は真実だったようですね」

「委員長、どうしたの?」

「なんでもありませんよ、黛さん」

「そう、かなー?」

 黒い慈愛の笑みを浮かべる黒澤に、秘密めいたものを嗅ぎ取った黛は深く踏み込もうとする――直前で動きを停止。

 黒澤の表情に変化は無い。黒さと慈愛が入り混じる笑顔もそのまま。

 しかしその笑顔の中に何か得体の知れないものを感じ取った一個の生命体としての本能がそれ以上、追及することを阻止。

 同時にこの警告に逆らえば死に直結すると直感した彼女は狙いを変更、ハイテンションに意味不明なことを口走っている美鈴に取材を敢行した。

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