第六十八話

 倒れた仁を神代がベッドまで運び、これ以上の会話は治療の障りになると判断した校長と保険医は神代とともに適当な別れの言葉を告げて退室。

 その後は特に何も起こらず、退屈な入院生活が過ぎていく。

 入院中に知人や友人、医師や看護師、患者を無差別に襲っては自らの色に染め上げるバカなどが見舞いに訪れ、また、比較的軽傷だった者から退院していき、最後に残された仁は退屈凌ぎに小説を読みながら孤独に黄昏れる。

 六人入れる部屋に他の入院患者が訪れないのは皆が健康であるからか、それとも彼と同室にするのを避けるためか。

 後者だとしても彼を小さな部屋に移せば済む話。それなのにいつまでも六人部屋を使用している状態に首を傾げる。

「うーん。俺の寝たベッドは誰も使いたがらないとか? だがそれも洗えば済む話だし、そもそも前に誰が使っていたかなんていちいち報告する必要もないから、俺がこのベッドを使うことに不都合は無いはずなんだが」

「逆に君が使ったベッドをみんな使いたがっているのかもしれないよ?」

「それは無い。俺が老若男女全てを魅了するような、特殊な恋愛シミュレーション系のゲームの主人公でもない限り、取り合いになんか――」

 自分以外は誰もいないはずの部屋で聞こえる第三者の声。

 聞いたことのある声に視線を向けると、彼の想像通りの人物が窓に腰を下ろして手を振っている。

「ヤッホー。久しぶりだねー。僕のこと、覚えてる?」

「忘れた」

「じゃあ改めて自己紹介。僕は骨董品屋の店主です。名前はまだない。趣味は観察で、面白いものを見つけると弄りたくなる衝動に駆られる困ったちゃんなのです」

「名前くらい、自分で付けたらどうだ? 固有名詞が無いと色々不便だろう」

「まあねー。でも、これはこれで結構便利。名前があると縛られることがたくさんあるし、ほら、悪魔とかも自分の真実の名は隠している場合が多いでしょ?」

「知らんが。悪魔とは関わったことがほとんどないし。天使も同じく関わってないから何も言えん」

「もー。ダメだよ、そんなんじゃ。もっとたくさんのことに興味を持たないと、大きくなってから立派な大人になれないって、僕の元マスターが言ってたんだ」

「へえ。それは素敵な格言だな。その元マスターとやらにせいぜい感謝しろ」

「もちろん、感謝感激雨霰だよ。まあ結構前に死んじゃったんだけどねー」

「それは残念、俺も一目くらいなら見てみたかったんだが」

「鏡を見ればいいと思うかなー」

「鏡?」

 手渡された手鏡を注視しても写るのは自身の顔と、病院内に蠢く無数の霊魂。

 苦しみを訴えるように手を伸ばす者がいれば、錯乱して狂気の奇声を上げる者、更には手鏡の中から手を伸ばして仁の顔を掴もうとする者まで現れる。

 触れられる前に手鏡より伸びた腕を掴み、捻り上げるとおとなしく鏡の中へ引っ込んでいくが、健在であることは鏡内の呻き声からも明らか。

 殺意も敵意もなく、微笑んでいる犬耳の少年の頭を掴み、現在持てる全ての力を注ぎ込んで彼の頭を握り潰しに掛かる。

「痛いよー。いきなり何をするのさー。この扱いは流石に酷いよー」

「喧しい。なんだ、この鏡は。ビックリし過ぎて小便をチビるところだったぞ。こんなところでお漏らしなんかしたら、俺はこの先、どうやって看護師さんを口説き落とせばいいんだ。教えてくれ、ゴヒ!」

「ゴヒってなんだよー。っていうかー、ここって男の看護師さんの方が多い気がするんだけどー、それでも看護師さん狙いなのー?」

「無論だとも。登る山は高ければ高い方がいい。そして俺色に染め上げた後、微塵も情を移さずに捨てるのが通な楽しみ方だ!」

「ワーイ、ゲスだー。紛うことなきゲスな考えだー。貴方、最低です!」

「何を今更。んで、結局、この手鏡は何なんだ? まさか本当に俺を驚かせるためだけに用意したとかいうオチは無いよな?」

「ううん。その通りだよー。このくらいで驚くとは思っていなかったしー、予想通りの無表情で淡々と処理したからー、あんまり面白くはなかったけどねー。ナースコールを押しても意味は無いよー。ここにいるのは僕と君だけなんだから」

「……成る程、納得」

 何度もナースコールを押していた左手を自由にさせ、読み掛けの小説を閉じ、角で犬耳の少年の頭を叩く。

 厚くはない本の角の威力はたかが知れているものだが、不意の鈍痛に呻く彼を押し退けて素早く床を転がり、廊下へ続く扉を開けてから立ち止まる。

 その先に広がっているのは闇。

 単なる漆黒とは異なる、煙のような不明瞭さを有しながらも黒以外の色は一切用いられていない、本物の闇を前に半歩後退する。

 遮る物は何もないので突入は可能。しかし本能と理性が同時に入ることを拒否しており、彼自身、その先に一生遊んで暮らせる大金が有ったとしても絶対に入りたくない、入れば間違いなく死ぬと確信を持つ。

「あれれー? 君らしくもないねー。いつもの蛮勇さはどうしたのさー? それともこれってー、押すなよ、絶対に押すなよ、って前振りかなー?」

「ボケるべき時とそうでない時くらいは俺にもわかっている。で、廊下への扉がこの状態ってことは、たぶんそっちも――」

 踵返して外へ繋がる窓を開ければ夜の闇が広がる――が、窓から身を乗り出した次の瞬間、天と地を闇が覆い尽くし、幻想的な夜景を丸ごと呑み込む。

 まるで何か得体の知れない化け物の腹の中にでも迷い込んでしまったような、常識が通じない異界に引き込まれてしまった事実を冷静に受け止め、自身を巻き込んだ張本人なのであろう犬耳の少年の胸倉を掴み、持ち上げる。

「幼児虐待はんたーい。僕は何も悪いことをしていないのにー、こんな扱いを受けるなんてー、訴えたらたぶん僕が勝っちゃうよー」

「棒読みで言われてもな。もう少し、感情表現豊かにはできないのか?」

「えー? だってー、いちいち感情を込めて発言するのって面倒じゃなイカー。そんな面倒なことをするくらいだったらー、棒読みの方が色々楽ができるだろー?」

「まあお前の考え方はどうでもいいとして、俺を引き込んだ理由は?」

「ゆっくり話をするためだよー。あの場所であんまりのんびりしているとー、変なものを呼び寄せちゃうかもしれないからねー。それにー、男同士の内緒話はー、誰もいない密室の中で行うべきものだよー」

「お前を闇の中に落としたらどうなるんだ?」

「どうにもならないよー、普通に戻って来るだけだねー。どうしても試したいのなら止めはしないけどー、どうするー?」

 感情の込められていない言葉と瞳。

 何も感じないのだから嘘か本当か判別も不可能。吐かれた言葉の真偽を知る者は発言者たる犬耳の少年ただ一人か。

 しかし彼の言葉が真実であれ、偽りであれ、試してみたくなるのが科学者の性。

 犬耳の少年の頭を掴み、引きずりながら廊下側にある闇の中に彼を放り込む。

「あーれー」

 悲鳴――なのかもよくわからない、叫び声のようなものを上げながら闇の中に吸い込まれて姿を消す犬耳の少年。

 しばらく待っても反応がなく、うっかり入らないよう扉を閉めて振り返れば窓に顔を張り付かせ、中々拝めない顔を晒しながら仁を見つめている。

「……なんでそっちから戻って来るんだ?」

「演出」

「そうか」

 顔を窓から剥がし、カサカサと黒光りするGの如き動きをして先程、仁が開けた窓から中に戻り、ベッドに寝転がって厭らしく微笑む。

 不快感を煽る微笑みは多分に嘲笑を含んでおり、完全なる挑発だとわかり切っているので仁は誘いに乗る――フリをしてベッドに座り、読書に専念する。

「なんだよー、拍子抜けしちゃうなー。ちゃんとこっちを向いてよー。そして僕のことを見てよー、見てくれないとー、僕ってば寂しくて泣いちゃって、最期には死んじゃうかもしれないんだよー」

「じゃあ死ね、すぐ死ね、骨まで砕けて死ね」

「辛辣だなー、もう。でも僕はそう簡単には死なないのでした。凄いでしょー! ところでたいした意味もなく、壊されちゃった東間きゅんの家ってどうなったの?」

「いきなり話題を変えるんじゃねえよ、ったく。今回の件で壊された家々ならとっくに修理し終えているぞ。修繕費は全額、校長が負担してくれたし、仕事が早くて正確であることで知られている鬼の棟梁たちの腕を嘗めたらあかんぜよ」

「汚いから舐めないよ。鬼の顔なんて汗臭そうだし」

「大工なんてやっていれば、種族問わずに汗臭くなるだろう。汗を掻かない連中はもちろん、除外するけどな」

「といった感じになんだかんだで相手をしてくれる君が大好き」

「死ね」

「ワーオ。ストレートに告白したら死ねで返されたりすると、今の時代なら訴えれば普通に勝てそうだねー。嫌な時代になったものだよー」

「知るか。訴えられたら仮に負けたとして、その後にキッチリ報復してやればいい。最悪、物言わぬ骸になってもらえば面倒事もなくなる」

「皆さーん! この人(?)マジですよー! 本気と書いてマジと読む系の言葉を吐きましたよー! 親の顔が見てみたいレベルで歪んでいますよー!」

「皆さんって、お前が異界だか、閉鎖空間だかに俺を招き入れたくせに、一体誰に向かってほざいてい」

『オオォォォォォォォォ……』

 犬耳の少年の声に応えるように床や壁、天井より半透明で体の一部が欠損している、見るからに不健康そうな肌をした人に似た何かが生え、仁たちを取り囲む。

 理性はおろか、本能さえ持っていない生気無き瞳は見る者の心に根源的な恐怖を宿させ、正気を蝕み狂気へ導く。

 掴もうとしても掴めない、実体を伴わない腕だが、触れても悪影響がまったくないとは言い切れないので仁は人差し指で自身の頭を押さえ、驚いたように目を見張りつつも瞳を輝かせている犬耳の少年を盾にする。

「これは一体、何の真似かなかなー?」

「肉盾」

「わかりやすい答え、本当にありがとねー。でも、僕を盾にしたくらいで止まるなんて思わない方がいいよー? だってコレ、僕が操っているわけじゃないもん」

「だろうな。もしもコイツ等をお前が操っているならもっとシンプルに不意打ちを仕掛けてきそうだ。で、コイツ等は何なんだ?」

「さあ? 元からここに住んでいる悪霊の類いじゃない? 鬱陶しいからさっさと消したいけど、僕じゃ力不足でどうにもならなさそうだー」

「……へえ」

 掌底とデコピン、ウインクと投げキッス。

 四つの動作だけで彼等を取り囲んでいた悪霊たちは消滅。

 それも成仏のように天へ昇って行くのではなく、地の底に引きずり込まれるでもなく、力尽くで魂を排除される死者にとって最も惨い除霊方法。

 苦しみの中で消えていく悪霊たちを嘲笑しかない笑顔で見送り、親にすり寄る仔犬が如く座る仁の膝に頭を乗せて寝転がる。

「ごろごろにゃーん」

「お前、犬だろう。猫マネなんて恥知らずな行いだとは思わなイカ?」

「全然。だって僕にとって犬とは猫、猫とは鼠、鼠とは青い狸型ロボットを指しているのだー! だからこうして思い切り甘えても許されちゃうのだー!」

 転がる犬耳の少年を見下ろす仁が気を抜いた瞬間を狙い、男の急所に牙を突き立てて噛み千切る――直前、動きを先読みしていた仁の右掌に遮られ、小指を一本、食い千切る羽目になってしまい、不味そうに痰と一緒に吐き捨てては口直し。

 噴き出る血を舐め取る犬耳の少年の頭を掴んで壁に叩きつけ、床に投げ捨てては足の裏で頭を踏み砕く。

 流れる一連の動作に一部の隙も無く、頭を失った犬耳の少年はベッドの下から自身の頭部を取り出して首と接合、慣らすように軽く回す。

「いったいなー、もう。目が見えなくなっちゃいそうになったよ?」

「失明程度で済むなら安いものだろ。俺だって小指を失ったんだし」

「大丈夫、大丈夫。ほら、その証拠に――」

 人間ポンプの要領で胃の中から吐き出される唾液塗れの新品の小指。

 傷のない小指を血が溢れ出ている傷口に接合させ、一舐めすると傷が完全に塞がり、問題なく動かせるようになる。

 なお、彼が痰とともに吐き捨てた小指は床に残っているので、彼が胃から吐き出した小指は仁のものではない。

 だというのに、妙に馴染むのは彼が初めから小指を食い千切るつもりで、あらかじめ代わりとなる小指を用意していたということなのか。

「んー、そろそろ帰る時間かなー。色々聞きたいこともあるだろうけどー、それはまた今度って言うことでいいよねー」

「できれば二度と会いたくないんだが」

「またまたー。好奇心旺盛な君が僕みたいな得体の知れない存在に興味を持たないはずがないじゃなイカー。それにー、君の意見は聞いてないよー。だって君は何処まで行っても僕の玩具でしかないんだから」

 邪悪な笑みを浮かべたのは一瞬。

 しかし一瞬あれば目の前にいる子供の姿をした化け物を敵と認識するには十分。

 咄嗟に貫手を放って咽喉を貫き、息の根を止めに掛かるが、血を流す彼の顔に苦痛の色は存在せず、爽やかな笑みで仁の頬に口付けをする。

「気持ち悪い」

「僕もだよ。じゃあ、またね」

「ああ、またな」

 別れの挨拶は非常に簡素なもの。

 消える間際に指を鳴らし、崩壊する病室内に仁だけが取り残される。

 逃げる選択肢は初めからない。だからといって立ち向かうにしても相手をすべき存在は疾うに逃げており、完全に消息不明。

 崩れ落ちる病院の一室、できることなど何もない仁は現在起きている出来事を他人事として受け止め、小説を読み進めながら闇の中へ落ちて行った。

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