第五十七話
後悔先に立たず。
やり過ぎたと思った時には既に拳を振り抜いており、壁と激突した骨董品屋の店主に怪我をさせてしまったことを詫びようとした彼女の前には誰もいない。
メイドの時と同様、姿が見えなければ気配もない。
何か種があるとしても発見できそうにないため、彼女は手洗いを済ませてタオルで濡れた髪を拭く――
「……タオル?」
手の中にある柔らかい布は紛れもなく新品のタオル。
もちろん彼女はそのような物、持参していない。
それは仁や東間も同じ。持ってきていない物が手元にある不思議に困惑が深まるが、これ以上、彼等を待たせるわけにはいかないと髪と手を拭いてトイレを出る。
席に戻った彼女に仁が何かを尋ねようとして、東間がその口を塞ぐ。
彼が何を訊こうとしたのかは大体の想像がつくため、彼が余計な発言をする前にコーヒーを啜る神凪に改めてこれまでの経緯を尋ねる。
「ねえ、神凪君。まず最初に訊くけど、美鈴たちは無事なの?」
「無事」
「そう、良かった」
「じゃあ次、樹冥姫の本体はまだ生き残っている?」
「討伐。完了。帰還。まだ」
「……えっと?」
「片付け終えていたらとっくにみんなで帰っている。つまりまだ始末し終えていないから帰れないってことだろう」
「ああ、成る程」
自身の言葉をしっかり理解してくれていた仁の頭に手を伸ばし、何度も撫でる神凪にデコピンで応答。
額に一撃を入れられ、頭を押さえる彼の恨みに満ちた視線を涼しい顔で受け流しながら窓の外に見える景色を楽しむ。
「はいはい。じゃれ合いはそこまでね。で、まだ倒していないってことは美鈴たちが苦戦しているってこと? やっぱり、復活怪人みたいなものだとしても大妖怪に近い実力を持っていたっていうのは伊達じゃないわね」
「まあ復活怪人が弱いのは攻略法を知られているからだしな。新たな能力を得て蘇ったのなら強敵になることもあるし」
「そもそも僕たちにとっては復活怪人でもなんでもないけどね。何せ戦ったことはおろか、出会ったことさえないんだから」
「一応、花とは出会ったけどな。まあ勝った言えるかは微妙なところだが」
「苦戦?」
「というか、喧嘩していたらいつの間にか倒されていた。まあ倒したのは俺たちじゃなくてメイドさんだし、俺たちだけだったら死んでただろうな」
コーヒーを飲み干して一息つき、空になったカップに新たなコーヒーを注ぐべく、お代わりを注文。
今度はミルクと砂糖を大量に入れ、コーヒーの味が完全に失われた甘過ぎる液体を飲んでは表情を歪める。
「何をやっているのよ」
「コーヒーの限界に挑戦してみた」
「神凪君、君がここにいるのって僕たちが来ることを知っていたからだよね?」
「肯定」
「じゃあ君の役目は? 僕たちを現場まで案内すること? それとも僕たちを足止め、もしくは帰らせること?」
「後者」
「えらく素直ね。でも、私たちがその要求に素直に従うと思っているの?」
「否定」
「ってことは何か秘策持ちか? それとも足止めも帰らせるのも無理だから、おとなしく案内してくれるのか?」
「肯定。微妙。異なる。道。忘却」
「その通りだけど、少し違う。案内するつもりだったけど、道を忘れたから案内しようがない。で、いいのか?」
「肯定」
「嘘――じゃ無さそうだね」
真っ直ぐに三人を見つめる、純粋無垢な子供の瞳。
高校生がするものではない、眩い輝きを持つ両目に見つめられ、心が折れた三人は代金を支払い、喫茶店を後にする。
それなりに騒いでいたというのに無視されたのは暴れる若者たちへの慣れか、はたまた関わらない方が被害が少ないと判断されたのか。
冷たくも温かくもない、終始事務的な対応を取った店員たちにプロの業を見た仁は彼等の後を付け回し、その仕事ぶりを観察して己の業に活かそうと――
「主目的を忘れない!」
「ヘーイ」
幼馴染みがストーカー化するのを阻止した理香は神凪に道を尋ねても、宣言通り自身が何処から来たのかを忘れてしまった神凪は首を傾げる。
引き返す選択肢こそないものの、見知らぬ街の何処に行けばいいのか、皆目見当がつかない四人は立ち往生を余儀なくされる。
ネットの情報で大体の場所は判明しているが、それでも範囲が広過ぎる。
今なお戦っているのならば戦闘の音ですぐに発見可能だけれど、戦っていないのなら見つけることは非常に難しい。
一応、スマホで地図を確認してみるものの、当然ながら樹冥姫についての情報など載っておらず、検索してもヒット数は0件。
まったくヒットしない理由は政府の情報操作によるもの。
ただ、好奇心は猫をも殺すと言われているように、好奇心旺盛な若者が向かえばたちまち養分として吸収されるため、情報規制は妥当な判断。
「ダメだな。ここから何処に行けばいいのか、見当もつかん」
「神凪君、何か思い出せない?」
「きゅうり。美味」
「きゅうりを三十本ほどくれたら思い出すかもしれないそうだ」
「三十。否定。三百」
「そういえば記憶喪失にはショック療法が有効だって聞いたことがあるわ。だから神凪君をしこたま殴れば思い出してくれるわよね?」
「記憶。復活。追跡」
理香の脅しに屈し、迷いなく走り出した彼の後を付いていく三人。
明らかに普通の道ではない、異様に狭かったり、悪臭が漂う裏路地を進むのは暴力に訴え出ようとした理香へのせめてもの報復か。
しかし彼等以上に神凪の鼻がダメージを負ったらしく、裏路地を出ると共に力尽きたように横たわり、鼻を抑えて呻いている。
「……華恋ちゃんも美鈴も、どうしてこんなのに惹かれているの?」
「君が仁に惹かれているのと似たようなものじゃないの?」
「否定したいけど否定できない! でも、この力一杯に握り締めた拳は一体何処にぶつければいいの!? 誰か私に答えを頂戴!」
「東間の顔にぶつけるのは?」
「ゴメン、僕が悪かったよ。確か華恋ちゃんは神凪君に命を救われて以来って聞いたけど、美鈴はどうなのかな?」
「さあな。俺たちが知らないお涙頂戴エピソードがあるのかもしれんが、外見が超好みだった可能性も否定できん。見方によっては合法ショタだし」
「合法。肯定。ショタ。否定」
「小学生に間違われている奴が言う台詞じゃない。で、鼻の方はどうなんだ? 回復したのなら案内の続きを頼みたいんだが」
「懇願。自動。販売。機械。きゅうり。ジュース」
「んなこと言われても、あんなマイナーなジュース、ここら辺に売って――」
噂をすれば影という諺を証明するかの如く、光り輝いている自動販売機の中に収納されている『きゅうりソーダ』なる飲み物。
薄い緑色の炭酸水はメロンソーダを連想させるのだが、間違えようがないほど大きな文字で『きゅうりソーダ』と書かれているため、試しに購入、神凪に与える。
喫茶店のコーヒーとは比べ物にならない速さで『きゅうりソーダ』を咽喉の奥へ流し込み、人目を気にせず盛大なゲップを吐く。
「おいおい、女子の目があるんだから、せめて手で押さえたらどうだ?」
「美味」
「聞いてねえな、コイツ」
「美味。以外。感想。皆無」
「まあ満足してくれているなら、それでいいじゃないか。神凪君、飲み終わったらちゃんと案内を――」
「欲望。優先」
有言実行。財布を取り出して『きゅうりソーダ』を購入する神凪の瞳は完全に血走り、それ以外の全てを忘却の彼方へと追いやってしまっている。
無言で行動に移すよりはまだマシかもしれないが、放置すれば何処までも『きゅうりソーダ』を求め、遠い異国の地へ旅立つことさえ辞さなそうな神凪を後ろから羽交い絞めして止める。
「放す」
「どんな味かは知らないが、そんなに買ってどうする? 保存場所もないし、持ち歩ける数には限度がある」
「気合い」
「東間、神凪君、運ぶの手伝ってくれ。俺だけだと抜けられる危険がある」
「わかった。任せて」
「非道。鬼。外道。畜生。塵芥」
声音も表情も変えることなく、両目から血の涙を流してみせたことで不気味さを際立たせる彼に、同じく表情を一切変えず、無感情に自動販売機から遠ざけ、既に買ってしまった『きゅうりソーダ』は理香が回収。
興味本位も手伝って『きゅうりソーダ』を試しに飲むと、ほのかなきゅうりの香りと味が口の中に広がり、それ以外は普通の炭酸飲料と大差ない味。
好みの差はあれ、不味いわけではない、むしろ美味しいに分類される『きゅうりソーダ』だったが、炭酸飲料であることに変わりはないので大量に飲みたくはならず、残りは全て仁に預ける。
「要求」
「終わったら返してやる。だから協力しろ」
「約束」
「ああ、約束だ。神凪君。ちなみに俺は約束を破ることで名が知られて」
「余計な茶々を入れない」
「ヘイ。安心してくだせえ、ちゃんと約束は守りやすから」
「確定。破る。針。千本」
「わかった、わかった。念を押さなくてもちゃんと約束は守るって」
「…………」
「いや、怖いからそんな目で見るなよ。本当にちゃんと守るから。影月仁はたまにしか嘘をつかない。これ本当」
「…………」
冗談のない本気の目。
加えて未だ左右からしっかりと捕まえられているためか、血涙を流しながら憎しみと怨念の込められた瞳で仁たちを睨みつけるも、この場では報復に出るつもりはないのか、三人の案内を再開――直後に彼の果てしない憎悪に惹かれた、自我無き下級霊たちが集まってくる。
所詮は自分を持たない下級霊。
そのままにしておけば迷いの果てに悪霊と化す者も現れる可能性は否定できないが、悪霊となれる者は良くも悪くも自我を持っているため、何かしらの切っ掛けがなければ彼等は無害に等しい。
しかしごくごく稀に強い感情に引き寄せられ、群体と化した悪霊は極めて厄介な性質を持つことがある。
その状態になれば下準備無しで攻略することは不可能。
現在の仁たちの装備及び実力では対処し切れない事態が今、彼等の眼前で起ころうとしている。
「……仁?」
「なんだ?」
「これ、どうしようか」
「大事になる前に逃げるぞ。今はまだ群体になっていない。神凪君の憎悪が原因なら、奴等から離れれば自然と分散されるはずだ――んっ?」
「憎い憎い憎い左の角憎い憎い憎い直進憎い憎い憎い憎い突き当たり憎い憎い憎い右憎い憎い憎い憎い直進憎い憎い憎い」
「……おいおい」
集まる下級霊たちに触発されたのか、怨嗟の声を漏らす神凪の憎悪が膨れ上がり、彼の憎悪に更に多くの下級霊たちが引き寄せられる悪循環。
このままでは取り返しがつかなくなるので、仁は懐からある物を取り出す。
「困った時はぁ~『きゅうりソーダ』ぁ~」
子供たちに大人気の、不思議なポケットを腹部に張り付けた青い狸型のロボットの動きをマネて取り出された『きゅうりソーダ』を彼に渡す。
途端、溢れんばかりの憎悪が霧散し、一口飲んだだけで至福の笑みを浮かべた彼が進むべき道を指し示す。
「そっちに行けばいいのか?」
「肯定」
「んじゃ、進みますか」
歩き出す彼等の背後、憎悪が失われたことで下級霊たちも散って行き、結びつき始めていた一部の霊たちも段々と離れていく。
群体が誕生していたならそれはそれで面白いことになっていた。が、誕生しないのなら誕生しないで別に構わない。
そんな微笑みを浮かべている骨董品屋の店主に四人は気付かない。堂々と彼の目の前を通り過ぎたにもかかわらず。
骨董品屋の店主も彼等に声を掛けずに姿を消し――数歩前進後、理香だけが足を止めて骨董品屋の店主が立っていた場所を睨む。
「……?」
「どうした、理香」
「……ううん、なんでもない。ちょっと変な感じがしただけ」
「小便なら待っていてやるから済ませて来い。大きい方なら待たないが」
「とっくに済ませてあるから大丈夫。アンタたちこそ、いざという時に行きたくなったとか言い出さないでよ? そんな理由で戦線離脱された敵わないから」
「……言ってくれるじゃねえか。流石は俺の愛しき女。素敵だぜ」
「ありがと」
下ネタと冗談半分の愛の言葉を笑顔で返され、余裕を見せつけられた仁は彼女にツッコミを入れさせるべく、更なる下ネタ発言を述べようとして東間に小突かれ、頬を膨らませながら先に進むことを優先。
けれど道中で『きゅうりソーダ』を飲み干した神凪が再び憎悪を解き放ったことで下級霊たちが集まり、そのたびに『きゅうりソーダ』を飲ませて落ち着かせる。
まるで中毒者に定期的に薬品を投与しているような感覚に襲われ、相手が子供の頃からの友人である親しいクラスメイトということも手伝って、やるせない気分に陥りながらも仁は彼に『きゅうりソーダ』を与え続けた。
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