第五十六話
喫茶店内に満ちる芳醇なコーヒーの香りを楽しむ四人の顔は穏やかそのもの。
昼間の喧騒を忘れ、穏やかに流れる時を乱す一部の若者たちが撒き散らす騒音など気にも留めず、豆を挽いただけの純粋なコーヒーを口に含む。
含有されるカフェインに疲労回復機能はない。眠気覚ましにはちょうど良いとしても若い彼等が眠る時間はまだまだ先。
しかしコーヒーそのものが安らぎを与えてくれないとしても、四人を包む空気が精神的な癒し効果をもたらし、精神の安らぎは肉体の安らぎにも繋がる。
まったりとした時間を過ごす彼等は完全に戦意を失い、美味しいコーヒーを飲み終わったら後は電車に乗って魔境に帰るだけ――
「な、わけにはいかないでしょ」
「そもそも電車に乗って襲われたのに、何も解決しないまま、電車に乗って帰ろうとしたら今度こそ本当に終わりかもしれないよ」
「というわけだ、神凪君。いくら奢りでもコーヒーじゃ納得できない。せめてもう一つか二つ、欲望を刺激するような何かを用意するべきだったな」
「奢り。否定。仁。奢り」
「あっ、俺が代金を支払うのね。理香、東間、割り勘でよろしく」
「仕方ないわね」
「元々、奢ってもらうつもりなんてなかったから。もちろん、神凪君もだよね?」
「文無し」
「おい、誰か縄を持ってきてくれ。この河童を吊るしてドブ川に捨てて来る」
「大人げないわよ、仁」
「同級生、それもクラスメイト相手に、大人げないも何もない気がするけど?」
「理香。正解。東間。不正解。罰金。奢る」
「調子に乗るな、バカガッパ」
デコピンを額に受けて大きく仰け反った神凪は後頭部から転倒し掛けるも、メイドによって頭を支えられ、椅子と共に元の位置に戻される。
いきなり――本当に唐突に現れた彼女に驚くのは神凪一人。
他三人はすっかり慣れた様子でコーヒーを啜る――ただしその足は驚愕の影響で大いに震えており、メイドは全てを見透かしたような瞳で彼等を見下ろした後、心からの忠誠を誓った騎士が如く優雅に一礼する。
「お待たせ致しました、仁様、東間様、理香様」
「遅かったですね、メイドさん」
「想像していたよりも強かったんですか?」
「いえ。ただ、数だけはいましたので、処理に手間取ってしまいました。そのせいで遅れてしまったこと、心よりお詫び申し上げます」
「まったくだ。メイドさんが足止めを食らったせいて俺たちは喫茶店で一服する羽目になってしまったんだぞ。ここはメイドさんの奢り――いや、それだけじゃ足りないな。せめて膝枕くらいして貰わないと割に合わない」
「お望みとあらば、今すぐに行いますが」
「冗談だからそんなに怒らないで――へっ?」
使われていない椅子を無断で運び、姿勢正しく背筋を伸ばして座った彼女は枕にしやすいように自身と仁の位置を調整。
通ると思っていなかった要求が通ってしまったことへの焦りと戸惑い、加えて向かいの席にいる理香の途轍もない重圧を含んだ視線が突き刺さり、仁の全身から夥しい量の汗が流れ出る。
「如何為さいましたか? 膝枕の準備は既にできておりますが」
「フーン。仁ってばもうおねむの時間なんだー。へえー、早寝なのねー?」
「お、お、おう?」
険悪とまではいかないが、だからこそ居心地の悪い空気を払拭するべく、仁は男友達の力を借りようとして二人が置き手紙を残し、消息を絶つ瞬間を目撃。
小柄な神凪は男子トイレに駆け込み、東間は自分が飲んだコーヒー代をカウンターに叩きつけて入り口から逃げ遂せる。
薄情な友人たちを恨んだところで現実は変わらない。
気付かない内にメイドの視線も何処となく険しくなっており、触発されるように理香の瞳も鋭いものへ変化を遂げている。
見る者によっては羨むべき両手に花状態。が、間近で見て初めてわかる、二輪の花は棘だらけ。
両手どころか全身を棘に刺されている彼が選んだ道は土下座。
何日、何か月、何年間修行を積めばそこまで違和感のない動作が行えるのか。
あまりにも自然体過ぎて誰も反応できず、土下座をする彼に毒気を抜かれる――ようなことはなく、冷たい眼差しが更に冷たくなる。
「仁様、膝枕をご所望されていたはずですが?」
「仁? 今更、アンタの土下座くらいで何か変わると思ったの?」
「男の土下座は安いものではありません」
「男の土下座が安くないとしても、アンタの土下座は安過ぎるのよ。これで合計何回目の土下座か、ちゃんと数えてる?」
「昨日までの時点で」
「99822回という回答は認めません」
「…………」
全てが読まれている、完全な詰み。
理香ならまだしも、出会って間もないはずのメイドに己の考えていることを看破された彼はショックのあまり、走馬灯を介して現実逃避を始める。
一秒が無限に引き延ばされた精神世界の旅。
工夫を重ねれば一瞬で何年分もの修行を積み重ねることが可能なのではと、科学者的観点から思考の海に埋没。
ただ、沈めたのは僅か数秒。埋没しようと手刀という名のクレーンで現実の陸に引き上げられ、逃れられない無慈悲な世界を直視させられる。
「仮眠を取られるのでしたら私の膝をお使いください。自分で言うのは気が引けますが、使い心地はそれなりに良いはずです」
「へえー、それは寝心地が良さそうですね」
「理香様もお試しになられますか?」
「いいえ、私はやめておきます。メイドさんも私じゃなくて仁に使って欲しいんですよね? だったら私が先に使うわけにはいきませんよ」
火花散る二人の視線が交じり合う空間。
自力ではどうすることもできず、援軍の類いも期待できない孤立無援な現状を突破する手段を考えていた仁だったが、思考開始から数秒で諦観の念を抱き、明日の朝食は何にするべきかを考える。
ただ、駅弁を食べたのは腹は空いておらず、満たされたお腹は新たな食べ物を想像しても食指を動かさない。
仁が無駄な思考に時間を費やしている間に二人の静かなる舌戦は、しかし突如として終わりを告げることになる。
「――理香様」
「なんですか、メイドさん」
「急用ができましたので、失礼させて頂きます」
「急用? それって――」
具体的な内容を尋ねようとした時にはメイドの姿はそこにはなく、無人となった椅子が置かれている。
掌で触ってみれば人が座っていた温もりがあるため、彼女がそこに座っていたことは誰にも否定できない真実。
しかし真実がどうあれ、現実で彼女の姿はない。
姿形だけではなく、どれだけ神経を研ぎ澄ませて気配察知に集中してもメイドの存在は感じられない。
実体を持っているので霊体の可能性は皆無。考えられる可能性としては空間転移が妥当なところだが、予備動作もなくそのような真似が可能なのか。
「……普通のメイドじゃないってわかっていたけど、目の前で消えられるとなんて言えばいいのかわからなくなるわね」
「うんうん。やっぱりメイドさんは僕たちより格上みたいだね」
「同意。委員長。メイド。凄い」
「……アンタ等はアンタ等でいつの間に戻って来たのよ」
「失礼な。僕たちは最初からここにいたよ」
「潜伏。緊張。楽しい」
「ああ、そう。私は別に構わないけど、仁が正気に戻ったら大変なんじゃない?」
「うむ。大変なことになるぞ。というか大変なことにする。今すぐに」
復活と共に彼等が行動を取る前に両掌で頭を掴み、全力で握り締める。
立ててはいけない音を立てる頭蓋骨。
痛みの悲鳴を上げることさえできず、両手で仁の腕を掴み、必死の抵抗を行うが、振り解くことはできず、しばらく制裁を加えられてからようやく解放に至る。
「痛たたた、酷い目に遭ったよ」
「同意。痛い。とても」
「俺は裏切り者には容赦せんのだ」
「その割には制裁を加えるだけで勘弁してあげているじゃない」
「裏切り者には死すら生温い。潰れるまで使ってこそ真の経営者!」
「すっごいブラック思想。こういう人の元では働きたくないね」
「同意。労働。拒否。怠惰。至高」
「おい、そこのダメ河童。ブラックで働けとは言わんが、しっかりしないと本当にヒモ生活を送ることになるぞ」
「最高」
素敵な笑顔で肯定の意を示し、親指を立てる神凪の頭を掴んで再度制裁。
頭蓋骨の耐久値を鑑みてか、先程の制裁に比べればだいぶ穏やかに、かつ砕け散らないギリギリの力加減を見極めてアイアンクローを仕掛ける。
神凪が必死の抵抗を行う中、熱くなっていた理香は一人トイレに向かい、冷水を頭から浴びて物理的に頭を冷やす。
「――フゥ。私、どうしてあそこまで熱くなったのかしら?」
自問に対する答えは既に見出している。
が、答えが一つだけとは限らない。相手は黒澤の従者、それも自分たちのサポートのために駆けつけてくれた命の恩人。
そのような相手にあそこまで熱くなって噛みついたのは何故か。そもそも彼女はどうしてあのような行動を取ったのか。
まだ付き合いが浅いため、神凪のように真面目な顔をしてふざけるタイプであることは否定できない。
ふざけ半分――否、ふざけ全部で要求したのは仁だが、その要求に応える義理も義務もないのだから本当に膝枕を行っていたとは限らない。
だが、もしも彼女が望んで仁の要求に応えようとしていたのなら――
「……バカバカしい」
冷水で顔を洗い、くだらない考えを頭の中で一蹴。
外見は確かに美形に分類されるかもしれないが、少しでも一緒に過ごせばその言動に幻滅して百年の恋も冷める。
そこから更に長く付き合えば良いところと悪いところの両方を知ることができ、改めて恋心が芽生えるかもしれないとして、そこまで至るためには相応の歳月を共に過ごさなければならない。
彼女とは長い付き合いになることもあり得るとして、今現在は長い付き合いではないのだから心配の必要などない。
「それなのに、なんでなのかしらね」
結論は既に出ていて、納得もしているはずなのに否定したがる自分がいる。
湧き上がる焦燥。アカエリオンちゃんとはまた別の不安感が胸の内に湧き、拭い取ろうとしても心にへばり付いて離れない。
何を不安がっているのか、どれだけ尋ねても何も答えてくれない心に苛立ち、そこにあるわけでもないのに自分の胸を強く叩く。
「ッ、ケホッ、ゲホッ、コホッ!」
胸部を強く叩いた衝撃でむせてしまい、咳き込む彼女は落ち着こうと再び冷水を頭部に浴びて熱くなった脳を冷ます。
頭を振って水を切り、目を開けて鏡に映る自分を見る。
「……えっ?」
見つめ返してくる鏡の自分は邪悪な笑顔を浮かべており、咄嗟に自身の顔を触って確認してみると、彼女の頬は緩んでいない。
しかし鏡の中の自分は確かに笑っている。それも邪悪な妖怪変化がゲスな策略を巡らせている時のような醜悪さで。
『慌てなくても、優勢なのは事実なんだから、落ち着いていけばいいよ』
「――誰っ!?」
鏡から目を離して周囲を警戒しても、トイレの中には彼女以外誰もいない。
嫌な予感を覚えて鏡から距離を取った時、鏡に映る自身の顔は笑っておらず、彼女が浮かべている険しい表情と同じものを張り付けている。
それから一秒、二秒と時間が過ぎ、十秒経過した頃に警戒しながら鏡を調査。
入念に調べた結果、出た回答は何の変哲もない鏡というもの。
店で探せば安売りしていそうな、工夫を凝らされていない普通過ぎる鏡。
何かが隠れ潜んでいる様子はなく、細工が施された痕跡も見当たらない。
尤も、彼女の調査能力はたかが知れているものであるため、何か仕込まれていたとしても気付けない確率の方が高いことを彼女自身も自覚しているのだが。
「……なんだったの?」
「なんだったんだろうねー」
「それを訊いているのよ。まあ答えなんて期待してない――」
本日、何度目になるかわからない驚愕に、もはや驚きを通り越して苛立ちを覚えながら振り返る彼女の視界に誰の姿も映らない。
しかし先の声は聞き覚えのあるもの。それもつい最近聞いたばかりの、忘れたくても忘れられない邪悪さが多分に含まれている嫌な声。
「酷いなー、そんなに嫌悪しなくてもいいじゃないかー。今回はどちらかといえば協力してあげたのにー」
「……話をしたいのなら、せめて姿を見せてくれない?」
「嫌だよー。だって姿を見せたら絶対に殴るでしょー。痛いのは勘弁願いたいからねー。そもそも僕はこう見えても立派なオトコノコなんだからー、女子トイレに入ったことがバレたら怒られちゃうもん」
「じゃあどうして女子トイレに入って来たの?」
「んー、いつまでものんびりしてないで、さっさと行けって忠告かなー? 僕としては三角関係な展開も楽しめるから、そこまで焦らす必要は無いけどねー」
「わけのわからないことを」
「本当に? わけがわからない? フーン、そうなんだー」
耳障りな声は神経に障り、急速にストレスが溜まって行く。
行き場のない拳に苛立ちを募らせ、鬼の形相で彼の姿を探しても何処にいるのか見当もつかない。
だから彼女は迷いなく拳を振るう。
視認できないということは死角に存在しているということ。
そして女子トイレという狭い空間で身を潜められる場所は個室くらいなものだが、彼女が動くたびに声の発生源の位置が変化しているため、一ヶ所に留まっているとは考え難い。
ならば考えられる声の出所は一つ。見ることのできない背後に向けて全力で放たれた拳は犬耳骨董品屋の店主の頬に突き刺さり、壁へと激突させた。
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