第三十九話
連れて行かれた友の冥福を祈り始めて早一分。
祈り疲れた仁は自動販売機でリンゴジュースを購入。一気に飲み干してペットボトルを握り潰し、ペットボトル用のゴミ箱に捨てる。
二人が見えなくなるまで後少し。言い換えれば今ならまだ追跡可能な距離。
頭を掻いた仁は大きなため息を吐き出して、あくまでも退屈凌ぎと自分に言い聞かせながら両足を高速で行使する。
目標物を視界に収めながらの全力疾走。
形振り構わず走っているわけではないので真の意味で全速力を引き出せているわけではないが、それでも並の自転車では追いつけない速さ。
交通安全を守る小学生たちの頭上を飛び越え、降って来た猫の首根っこを掴んでは道端に放り捨てて走り続ける。
不幸に見舞われたのはその直後。捨てられた猫が偶然、化け猫の類いだったため、乱暴に扱われたことに怒りを覚えて変化、巨大化して仁を追い回す。
「おいおいおいおい! 捨てられたくらいで騒ぐなよな、猫!」
巨大化した化け猫は見た目にそぐわぬ俊敏性と猫特有の柔軟性を発揮して仁を追い詰め、袋小路に追い込む。
追いかけっこ――狩りの愉しみで野性を取り戻してしまったのか、怒りが失われている代わりに獲物を前に涎を垂らす姿は虎に近い。
殺すか、殺されるかが自然界の掟。積極的に命を奪う気にはなれないが、身を守るためには命を奪うことも辞さない覚悟を決め、正面から猫に挑む。
が、捨てる神あれば拾う神あり。世の中は存外、上手く回っているもの。
袋小路に偶然、生えていたエノコログサに興味を移した化け猫は甘えるように転がりながらエノコログサこと猫じゃらしを弄る。
巨体を飛び越えて袋小路から逃げる仁などもはや眼中になし。
猫の気まぐれさに感謝しつつ、完全に見失ってしまった次光たちの飛んで行った方角を予想して再び駆け出す。
いつの間にか鬼や天狗、河童など妖怪たちが住む山に着いていたが、昔から幾度も登った、整備された山道に迷う必要はなく、更にまだ日が昇っていることも手伝って彼は山に恐怖を覚えない。
それが失敗だったことに気付いた時、彼は既に動けなくなっていた。
体に異常はない。全力疾走を継続したことによる疲労の蓄積はあるが、今すぐに動けなくなるほど疲れているわけではなく、下山できる体力は残っている。
けれど動かない、動けない。動こうとしても足が竦んで動くことは叶わない。
山の中腹、山道と妖怪たちの住処の中間位置。
時折、鬼と遭遇することがあるその場所で彼が出会ったのは魔境にて決して触れてはいけない最凶の存在。
体色は緑。丸い形の頭部に付いている二つの目は垂れている上に眠さを訴えるような半開き状態。
口元には二本の前歯が飛び出しており、背中には特徴的な背鰭が、そして腹部には黄色とピンクの縞模様が構成されている。
全長は比較的小柄。仁と同程度か少し小さい程度の大きさで、横幅は人間より大きいが脅威と呼ぶには値しない。
古の幻獣。名を名乗らず、言葉を発しない生物がそのように呼ばれるようになったのはいつの頃からか。
彼ががいつから魔境に住んでいたのか、あるいは魔境が誕生する前から生息していたのかは定かではない。
しかし並み居る大妖怪たち、大妖怪も迂闊に手を出さない魔神や邪神、それ等を狩ることを生業としているプロたちでさえ彼に手を出そうとはしない、考えない。
息と唾を飲み込む仁の全身から吹き出る汗。遭遇した瞬間から自分が食われる側であることを確信し、止めることのできない震えに襲われる。
焼かれたマンガ肉に齧り付く、ある種のギャグ漫画的光景も癒しにならず、それどころか淡々と食い千切られるマンガ肉が自身の辿る運命と錯覚してしまうほどの恐怖に支配されてしまう。
未知との遭遇ではない。これが初めての遭遇というわけでもなく、彼は一度、古の幻獣と戦ったことさえある。
否、それは戦いとは呼べないお粗末なもの。恐怖から突貫した仁が指一本で殺され掛けただけの出来事。
偶然――真実、偶然にも友人であり恩人である歯科医が駆けつけなければ彼の首が繋がることはなく、その場で死んでいたことは明らか。
以来、脳内と心に焼きつけられたのは恐怖と絶望。
かつて戦った時より力と経験を身に付けたと確信を持って断言できたとしても、身の程を思い知った彼は例外こそあれ、古の幻獣に挑む気にはなれない。
幸いなことに古の幻獣の興味はマンガ肉にだけ向けられているため、離れた場所で棒立ちしている仁に視線を向けることはない。
逃げるならば今の内。震える両足を𠮟咤してミリ単位で動かし、亀のような足取りで一歩ずつその場から離脱する。
物音を立てないように、石ころのようにほぼ無価値で大半の者に興味を持たれることのない、どうでもいい存在へと己を変化させて古の幻獣が見えなくなるまで離れようとするけれど、必要以上の慎重さは失敗の元。
古の幻獣のみを注視していたことで他への注意力が散漫になった結果、落ちていた木の枝に気付かず思い切り踏みつけて軽くて高い音を鳴らす。
心臓が停止したのは錯覚ではなく現実。止まった時間は僅か数秒だったが、彼の心臓は確実に止まり、脳の機能は停止した。
復旧までさほど時間を要しなかったのは子供の頃に受けていた訓練のおかげだとして、今の彼にとって目を覚ましてしまったことこそ悪夢でしかない。
ハッキリと――目と目が合ったと誰もが認めざるを得ないほど明確に古の幻獣の垂れた瞳が仁を映している。
仁の瞳の中にも古の幻獣の瞳が映り込んでおり、自覚してしまったその瞬間から口から魂が抜け出し、天へ昇っていく。
ただ、肉体の生命活動が停止したわけではないので天へ昇る魂は尾で肉体と繋がっており、何をしたところで空の上へ逃げることは叶わない。
魂の仁が肉体の呪縛から抜け出そうと無駄な足掻きを続けている間に残りの肉を骨と一緒に口の中へ放り込み、豪快に噛み砕いた古の幻獣が立ち上がる。
危機に対する反射は魂を肉体へ強制帰還させ、我に返った仁に向かって古の幻獣が一歩ずつ近づいていく。
もはや動くことは叶わない。離脱しようにもその行動が古の幻獣の怒りに触れてしまえば八つ裂きにされる。
ならばこのまま動かないのが正解なのかと尋ねられればこれも否。
もしも古の幻獣が仁のことを目障りだと思っているならば動かずに留まることは彼の怒りを買うことに繋がってしまう。
動くべきか、動かざるべきか。確率二分の一の賭け。賭けるのは己の命。
勝ったところで何かが貰えるわけではなく、負ければ死が待っている理不尽なギャンブルに仁は考えた末に逃げることを選択する。
尤も、選んだところで動けなければ無意味。
先程までは震えながらも辛うじて動かせていた両脚は、臨死体験によって彼の支配下から離れ、独立した一個の生命体のように脳の命令を拒絶。
声すら上げられない状態に置かれた彼は己の足に文句を言うことさえできず、自身を覆う影に顔を上げれば古の幻獣が眼前に。
己が選んだ答えとは異なる選択肢を選ばされてしまったものの、今からでは動いても動かなくても変わらないため、覚悟を決めて立ち尽くす。
確実に仁を見下ろしていた、眼中に入れている古の幻獣は口を開かず、何かするでもなく彼の横を通り過ぎる。
体内の水分、全てを放出する勢いで冷や汗を掻いていた彼は自身が知らぬ間に失禁していたことを理解するも、その程度で済んだことに心から安堵。
異変を察知したのは胸を撫で下ろそうとした時。右腕で胸部を触ろうとして指や肘の感覚が失われていることを認識してしまった瞬間。
彼が右腕を失ったことを自覚したためか、真っ二つにされた切断面から血が噴き出して山の土を赤く塗らす。
「ッ、マジかよ。クソ」
絞り出せたのはとても小さな悪態。
首を動かして古の幻獣の方へ振り返れば、切断された彼の右腕を服ごと齧っている後姿が視界に入る。
いつ、どうやって切り裂かれたのかは不明。考えてもわかることではなく、恐らくは方法がわかっても防ぎようがないので対策は立てられない。
噴き出す血を止めるにも包帯や医療器具は持っておらず、山の中腹にそのような物を置いてある施設などない。
「進むか戻るか留まるか、選択肢自体は他にもあるかもしれないが、取り敢えず止血しないと何も始まらないよな」
左手でスマホを取り出し、掛ける相手は自宅で家事をしている一号。
呼び出し音数回の後に繋がり、苛立ちを含んだ一号の声が静かな山に響く。
『マスター、何の用ですか。私は今、忙しくて手が離せないのですが』
「何があったのかは知らないが、そうカリカリするな、一号」
『カリカリしていません。呆れと怒りを覚えているだけです。どんなプレイをするのも勝手ですが、家の中を汚さないで欲しいですよ、まったく!』
「あー、またあの馬鹿妹が色々ヤったのか」
『ええ。そういうわけでマスター、掃除が忙しいのでくだらない用件ならもう切りますよ。マスターの無駄話に付き合っている時間が惜しいですから』
「くだらない用件なら俺も大変嬉しかったんだが、残念なことに緊急の用件だ」
『緊急? マスターにしては珍しいですね。何があったんですか?』
「古の幻獣と遭遇して、右腕を持っていかれた」
いつもと変わらぬ口調。明日の天気の話でもするような軽過ぎる言葉。
だからこそ、飾り気のない単調な発言故に真実味を帯びており、ふざけた態度でなければ真面目過ぎる口調でもない声に一号が息を呑む。
『……ご無事ですか、マスター』
「だから右腕を持っていかれたって言っているだろう。あと、滅茶苦茶汗を掻いてついでに小便も漏らしたから服が大変なことになっている」
『畏まりました。着替えと治療道具を持って直ちに参ります。現在位置の特定のため、スマホの電源は切らないようお願いします』
「ああ、任せた。って、右腕を意識していたら段々と痛みが酷くなってきたかも。このままだとマジで出血多量で意識を持っていかれるかもな」
「すぐに応急処置を施しますので、少々お待ちください」
「ああ、ありが、とう?」
一号とは違う高い声に首を傾げ、失われた右腕を確認すれば以前に出会った黒澤家に仕えているはずのメイドが治療道具を片手に止血を施している。
状況が呑み込めず、困惑している間にも凄まじい手際の良さを発揮して止血と消毒を終わらせ、包帯を巻く。
「応急処置ですが、これでしばらくは保つはずです」
「……えっと、ありがとう、ございます」
「お礼を言われるほどのことはしておりません。これはあくまで応急処置。すぐに病院へ行かれて本格的な治療を受けられた方がよろしいかと」
「ハァ、わかりました?」
感情の読み取れない瞳。変わることのない顔色。
距離に関係なく整っていると断言できる、何処か儚ささえ覚える顔に仁の顔が間近で観察しなければわからない程度に桜色に染まる。
古の幻獣と遭遇した時とは別種の鼓動の高鳴り。
何より彼女の顔に対して拭い取れない疑惑、既視感が困惑を深める。
『マスター、お待たせしました――?』
空から降りて来る一号は既に治療を終えている仁と、付き従うように彼の傍に控えているメイドとを交互に見て、言い知れない敵愾心を燃やす。
自分自身でも把握し切れない負の感情。涼しい顔をしている彼女に対し、間に割って入るように降り立ち、内蔵されているドリルアームを装備する。
「お、おい、一号。何をしている?」
『――何をしているのかと問われますと、何も言えません。ええ、はい。申し訳ありません、マスター。私自身、理解できませんが、何か異常が発生したようです?』
「珍しいな。後でメンテナンスするか?」
『いえ、今は落ち着きましたので、一時的なバグか何かが発生したと思われます。今度、定期メンテナンスもありますので、この程度のことでしたら今すぐにメンテナンスを行う必要はないかと』
「そうか。まあお前がそう言うなら別にいいが――あれっ?」
『如何されましたか、マスター?』
「如何って言うか、さっきまでそこにいたはずのあのメイドさんは何処に行った?」
『何処に――?』
一人と一機が辺りを見回してもそこにいたはずのメイドの姿は発見できず。
一号が己の全索敵機能を駆使して周囲一帯を捜索するが、幽霊のように消えてしまったメイドの痕跡さえ見つけられない。
土に足を付けて立っていた以上、靴跡は必ず残されていなければならない。
にもかかわらずそこにあるべき靴跡さえ確認できないという明らかな怪奇現象に当惑しながらも仁の治療を優先して下山した。
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