第三十八話
早朝、登校中、登校後はもちろんのこと、授業中や昼休みにも変わったことは何も起こらず、変化の乏しい日常を堪能する。
慣れれば退屈、されど久しぶりにトラブルの起こらない学校生活にのんびり緑茶を啜り、あまりにも堂々と授業中に緑茶を啜った彼は大量の水が入ったバケツを二つ持った状態で廊下に立たされる。
それすら平和な日常の一部として受け取った彼は窓から外を眺め、天高くに舞う鳥たちを眺めて自由と不自由、どちらを選ぶべきかを迷って時間を潰す。
やがて午後の授業が終わり、バケツ持ちから解放された彼は帰りのホームルーム後、いつものようにリューグをからかって遊ぼうとするが、職員会議中であったので乱入できず、渋々帰り支度を済ませる。
「仁、今日はどうするんだい?」
「真っ直ぐ帰る。特に寄りたいところもないし、やることもないしな。理香は?」
「部活の助っ人。今日はバレーボール部ね。私の弾丸スパイクが唸るわ」
「やり過ぎちゃダメだよ。男子バレーボール部だって鍛えられているとはいえ、理香に比べたら貧弱なんだから。怪我をさせちゃったら可哀想だよ」
「どうして私が男子バレーボール部の助っ人に呼ばれたと思ったのかしら?」
「ただの冗談だよ。それとも、仁が言っていたってことにすれば許されるかい?」
「東間、その発言には些か憤りを覚えなければならなくなるんだが。責任転嫁はせめて本人のいないところでやってくれ」
「冗談。悪質。駄目」
「ゴメン、ゴメン、もちろん、これもただの冗談だよ。と、無駄話はこれくらいにして、僕もこれから部活があるから、そろそろ行くね」
「私も、もうすぐ時間だから。仁、私たちがいないからって小学校や中学校の女子更衣室を襲っちゃダメよ」
「理香ちゃん、その発言は東間君の発言と異なり、心がとっても傷付くのですが」
「冗談よ、冗談。アンタがそんなことをするタイプの変態じゃないってことは私もよく知っているもの。じゃあね、仁、神凪君、東間」
「バイバイ」
「また明日なー」
「うん。また明日」
手を振りながら教室を出る東間と理香。
彼等を皮切りに、部活に行く者は部活へ。下校する者は下校し、仁と神凪も途中までは同じ道であることから一緒に帰宅。
途中、本屋に寄って十数分間立ち読み。
読み終わったら次の本に手を伸ばすを繰り返し、途中で一冊の古本を掴んで発狂しかけた神凪を手刀で気絶させ、ある存在の皮で作られたラテン語の古本を元の場所に戻し、彼等を不気味な笑顔で見つめていた店主から逃げるように本屋を出る。
「うん。流石というべきか、まさかこんなところであんな物を発見することになるなんてな。っていうかあの店主、滅茶苦茶様子がおかしかったような」
「起床。理解。不能」
「理解する必要のないことも世の中には多いんだぞ、神凪君。例えばあの路地裏、薄暗い建物と建物の間で次光と美鈴が茨の触手に絡め取られて、もがけばもがくほど触手に生えた棘に全身を傷付けられているが、ああいう趣味だってことはわかっても理解はできないだろう?」
「同意。反論。趣味。違う」
「んっ? ……そういえば美鈴はともかく、次光の奴は受けより攻め側だったな。なのに茨に縛られているのはどういうことなんだ? そっちに目覚めたとか?」
「確認。重要」
「えー? だって如何にも巻き込まれそうな感じだしなー」
「文句。却下」
「ヘイヘイ。神凪様はお優しいことで。その優しさをほんの少しでいいから俺に向けて欲しいものですなーっと」
仁を盾にしながら接近を強要する神凪に報復の拳を打ち込んでから二人との距離を詰める途中、コンクリートの地面を貫いて茨の触手が彼等に絡みつく。
カラス天狗の兄妹を縛り上げている触手と同様、無数の鋭利な棘が生えた触手が彼等の体を捕らえると同時に刺し傷を付ける。
腕、脚、胴体、顔。至る所に突き刺さる棘は締め付ける力が強くなるたびに肉の内側へ深く食い込んでいき、傷口が大きくなるほどに出血も酷くなる一方。
対話などできない、する気にもなれない植物の暴力。
養分を吸い取る気配が見られないのは殺した後に搾り尽くすためか、養分ではなく殺すことそのものが目的なのか。
四肢を拘束され、身動きが取れなくなった仁には思考することしかできず、茨の触手に流れる水分を操作し、内側から破裂させて拘束より逃れる。
「雑魚。肯定。厄介。首肯」
空気中の水分を操り、生み出した水圧の刃で仁たちを縛る茨の触手を切り刻む。
下手な刀剣よりよほど切れ味のある水の刃に茨の触手は為す術なく切断され、地面に落ちて陸に上がった魚の如く跳ね回る。
「フゥ。助かったぜ、神凪君」
「礼を言う、神凪。お前がいなければ俺たちは死んでいたかもしれない」
「フン。まあ下等な河童にしてはよくやったと褒めてやる。だが勘違いするな。あの程度の窮地は私たちだけで乗り切れた!」
「感謝。不要。当然。行為」
強がる美鈴の発言を気に留めていないのか、聞いてさえいないのか、神凪は傷だらけの友人たちに凝縮した水をぶつけてやや強引に傷口を洗う。
ずぶ濡れにされた三人は、しかし直前で助けられた事実があるので男子二名は苦笑を漏らすだけで済まし、苦笑で済ませられなかった美鈴が感情を昂らせながら神凪に掴み掛かる。
「貴様! 何のつもりだ!?」
「水洗い。消毒。必要」
「これの何処が水洗いだ! 返答次第では貴様とて許さんぞ!」
「水。洗う。完璧」
「こんなものを完璧などと誰が認めるか!」
両肩を掴まれて大きく前後に揺さぶられながらも神凪は勝利のブイサインを仁と次光に見せ、激しく脳を揺さぶられたことで失神。
意識がなくなったことに気付かず、日頃の不満をぶつけるように揺さぶりを大きくする美鈴だったが、誰かに止められる前に地面から生えた茨の触手が絡みついたことで強制的に神凪と引き離される。
「ッ、コイツ、まだいたのか!?」
「どう見てもこれは本体じゃないからな。まだまだ出て来るんじゃないのか?」
「だろうな。資料によると本体は地中深くに潜んでいるそうだ。どうにかして地上に引きずり出すか、地中に直接、攻撃する手段を考えなければ退治できない」
「資料? ってことはこれは校長からの仕事の依頼ってことか?」
「……お前には関係のないこと、だ!」
コンクリートの地面を破って次から次へと生える茨の触手。
咄嗟にその場を飛び退いた仁と次光は回避に成功したものの、気絶したまま捕らわれてしまった神凪に脱出する方法はなく、翼を含めた全身を縛られた美鈴もまた自力での脱出は不可能――
「フン」
つまらなそうに鼻を鳴らした直後、吹き荒ぶ真空の鎧が触れる万象を切り刻み、粉微塵に磨り潰す。
神凪の助けなど必要なかったという先刻の言葉を証明するような風の蹂躙。
地表に出現していた茨の触手を殲滅直後、小さく固めた風の球を地面に開いた穴の中へ侵入させ、瞬間、爆発音と共に全ての穴から暴風が外へ噴出する。
「先程は不意を突かれたから迂闊にも不覚を取ってしまったが、たかだが植物如きの人外が天狗に勝てると思うな! 身の程知らずの下等生物が!」
高らかに言い放ち、以降に訪れるのは静寂。
如何に生命力の強い植物といえど、粉々に磨り潰されては再生できず、つまらなそうに鼻を鳴らした美鈴は倒れている神凪を抱き上げる。
「チッ。あの程度で意識を失うとは、やはり河童は軟弱者だ。種族的に仕方がないとしても、高位の妖怪として鍛え直してやる必要があるか」
「神凪君は今のままでも十分、強いと思うが」
「身体能力は貴様より大きく劣るであろう。いや、貴様だけではなく、人間である東間や理香よりも弱い。それでは妖怪としてあまりに情けない。河童共のことなど心底どうでもいいが、見過ごしたとあっては天狗の沽券に関わる」
「確かに神凪の身体能力はたいしたことはない。しかし神凪は水を操ることに関しては他の河童たちを凌駕している。その点は考慮しているのか?」
「兄上、それではダメです。如何に水を操るのが上手くとも、水がなければ何もできないのではいざという時に窮地を切り抜けられません。確かにどれだけ鍛えようと、我等天狗に及ぶことはないでしょうが、鍛えれば少しはマシになるはずです」
「さっき思い切り風に頼っていた奴がそんなこと言ってもなー」
「黙れ。とにかく神凪は私の手で鍛える必要がある。そう。まず健康状態を管理するために毎日、私が料理を作って、いや、その前にまず朝、起床時刻になったら私が直接、起こしに行って、身支度を済まさせてから一緒に朝食を――」
真顔で、恐らくは大真面目に語っているのであろう美鈴に仁は次光と顔を合わせて呆れたように肩をすくめてため息一つ。
平静時ならその態度に怒りを覚えたであろう美鈴は既に自分の世界に埋没しており、二人が聞き流し状態に入っているのも構わず、壮大な計画を語り聞かせる。
何故か自信に満ち溢れた発言の数々。現実が見えていない妄想の爆裂。
神凪が目覚めていることにさえ気付かず、平日を除いた日々を共に過ごすための目論は無関係な仁と当事者である神凪が思わず拍手を送り、次光が頭を押さえながら壁に寄り掛かってどうしようもないくらいに深いため息を吐き出すほど。
十数分ほど語って満足したのか、自動販売機でスポーツドリンクを購入、咽喉の奥へと流し込む彼女を見て、腕に抱かれている神凪が物欲しそうに手を伸ばす。
「……何の真似だ?」
「飲料水。求む」
「欲しければ自分で買え。如何な低脳でもその程度のことはできるはずだ」
「小銭。無い」
「……チッ。仕方のない奴だ。これは貸しにする。いいな?」
「了承」
「まったく、本当に世話が焼ける。ああ、まったくもって世話の焼ける河童だ」
中身を全て呑まれることを警戒してか、ペットボトルそのものは渡さず、赤ん坊にミルクを与える母親が如き姿勢で彼にスポーツドリンクを飲ませる。
美鈴はともかく、神凪は非常に飲み難そうにしていたのだが、真顔で緊張し切っている彼女は神凪の様子に気付くことができず、無理やり飲ませる形でスポーツドリンクを半分ほど消費してからようやく彼の口よりペットボトルの先端を離す。
「ケホッ。ケホ、ケホッ」
「――す、すまん! 大丈夫か!? わ、私としたことが、このような失敗をするなど、天狗として恥ずべき行為!」
「天狗は関係ないと思うが。しかしまあ、確かにらしくないミスだよな。いつものお前ならあんな風に太いものの先端を無理やり押し込んで咽喉の奥に流し込むなんて真似はしなかっただろうに。一体どうしてそんな真似をしたのかねー?」
「そ、それは……!」
彼女がミスした理由。その真実を理解していながらとても意地悪そうに尋ねる仁を背後から打ちのめすは次光の拳。
兄の手助けに心から安堵した表情を浮かべた美鈴は自身を見つめる神凪の目に気付いて二、三度咳払い。
毅然とした態度で如何にも余計なことをしたと言わんばかりに強気な雰囲気を全身より滲ませながら次光を睨む。
「余計な真似を為さらないでください、兄上。この男が何を言おうと私は意に介すつもりはありませんし、惑わされたりすることもありません」
「……まあ、犯罪さえ行わなければ何をしようとお前の勝手だ。兄といえどそこまで深く介入するつもりはない。そういうわけだ、仁。打てば響くような反応をするからといってあまり俺の妹を弄らないでくれ」
「ういー」
「兄上! 弄るとはなんですか! 私がこのように下等な人間――人間? に弄られているなどと、そのような出任せを吐かれないでください!」
物理的に噛みつかんとする勢いで唾を飛ばしながら迫る美鈴を面倒くさそうに手で制し、翼を羽ばたかせて大空高くに飛翔。
苛立ちのままに後を追って飛び立つ美鈴を飛べない仁は地に足を付け、飛んで行く彼等を見上げる。
「つーか、何を急いでいるのか知らないが、別れの挨拶くらいしていったらどうだ? 明日、学校で今日のことをネタにいびってやろうかねー。神凪君――」
そこにいると思い込んで掛けた声に応える友人は不在。
空き缶入れや自動販売機の下など、絶対に隠れられそうにないところを重点的に探してから無意味な行いをやめ、ふと美鈴が神凪を抱きかかえていたことを思い出し、豆粒のように小さくなってしまった二つの影を正視するが、視認不可能な距離にまで達してしまったので断念。
スマホで電話を掛けても応答はなく、メールや他の方法で連絡を取ろうとしても一切反応が返ってこなかったため、無力感に駆られた仁は意図せずして連れ去られた友の冥福を祈った。
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