第十九話
真円を描く月が世界を照らす夜。
月に所縁のある者たちが喜びそうな見事な満月に照らされ、仁は神に祈りを捧げるように両手を絡ませて跪きながら頭を垂れる。
「仁、何をやっているのかは敢えて聞かないけど、死にたくなければそんなところに跪いていないでもっと遠くへ逃げるべきじゃない?」
「HAHAHAHAHAHA! 相変わらず理香ちゃんは面白いことを言う。この俺が逃げるなんて、そんなバカげたことがあるわけないじゃなイカ!」
「どうやらあの隠し通路、屋敷の外に直接繋がっていたみたいだね。無事に屋敷から出られたのはいいけど、このまま放っておくわけにもいかないな」
「概ね賛成。でもどうするの? 私たちの力じゃ、あのアメーバみたいな奴を倒すことは難しそうよ」
「理香ちゃんよ。困難な山ほど登り甲斐があるというものなのだよ。俺を見習って何の準備もせずに登山を行い、遭難して生死をさまよってみればこの山男的な気持ちを理解してもらえると思う」
「仁、今は真面目な話をしている。それもあのアメーバみたいな奴が溢れ出て来るまでそれほど時間は残されていないから、無駄話をしている時間はないよ」
「心配性だなー、東間きゅんは。そんなに焦らなくてもああいう奴は屋敷の外にまでは追って来ないのがお約束?」
「…………」
無言で隠し通路の奥を指差した東間に従い、中を覗き見れば視認可能な距離まで緑色の液体が溢れている。
仮に出口を閉ざしたところでたいした時間稼ぎにはならないことは確実。
かといって何処まで体積を増やすかわからない相手を放置して逃げ出せば惨事が巻き起こるであろうことに疑いの余地はない。
「……どうしましょう?」
「幸いにも増える速度自体はそれほど速くない。まだ考える時間はある」
「三人寄れば文殊の知恵、ね。一人、どれだけ窮地に立たされても真面目に考え無さそうなバカがいるけど、頼りにしていい?」
「もちろんだ、理香ちゃん。俺はいつでも何処でもふざけられる」
「真面目に考えたなら明日、お弁当を作ってきてあげるから」
「――」
海よりも深い静寂が仁を包み込む。
一秒が永遠に引き延ばされてしまったような、達人同士の戦いの如き感覚が異常に研ぎ澄まされて時間が停止状態に陥った彼は己が何をするべきか、真剣に悩む。
理香の弁当に対して肉体と本能は拒絶反応を示している。
全身から発せられる赤信号。耳が痛くなりそうな警報に、理性や魂もまた全面的な同意を示す。
しかし同時に彼の心には理香の弁当に立ち向かう勇気の炎が燈っている。
逃げ出すわけにはいかないと。正面から挑み、勝利を掴まなければ嘘になると彼の体の奥底に眠る何かが叫んでいるのを自覚できてしまう。
拮抗状態に陥る思考。
肉体と理性と魂に対抗する何かの存在を把握できず、外界からの情報を完全に遮断した彼は傍からは廃人と化したように映ってしまうほど動かなくなる。
「ちょ、ちょっと仁、どうしたの?」
「ダメだ、理香。今、仁は自分自身と戦っているんだ」
「なんでよ」
「そこに関して僕から言えることは何もない。ただ一つ、確かなことはこのままだと仁はあの緑色の液体に呑み込まれてしまうということだけだ」
「要するに大ピンチってこと?」
「要しなくてもその通りだよ。理香、今回ばかりは君の責任だ。仁が正気に戻るまで僕たちがなんとかするしかない」
「えっ、私が責められるの? どうして?」
不本意そうに首を傾げる彼女の疑問に答えず、東間は確実に近づいてきている緑色の液体を睨みつける。
意思を持たず、体積を増やし続ける緑色の液体に敵意や殺気をぶつけたところで怯ませることもできない。
流体故に物理的な攻撃はまず通用しないと考えた方が良く、触れるのも危険な存在に接近戦を挑むのは蛮勇を通り越した無謀。
「となるとやっぱり火炎放射器かな。液体は燃やすのが一番ってね」
「ここ、郊外の森の中よ。火なんてないし、そもそも下手に火を使って木々に引火でもしたら大変なことになるけど」
「放置しても大変なことになるのなら多少のリスクを背負ってでも実行するべきってね。まあ万が一、森が燃えちゃったら――」
「燃えちゃったら?」
「……校長先生に泣きつこう。仁が」
「その時は私が事細かに説明してあげるから、三人で怒られましょう」
非協力的な理香に東間は舌を出して抗議の意思を示し、持ってきた道具から火を点けられそうな物がないかを漁ってみる。
もちろん、元々悪霊退治を目的として来た上、何の準備もしていなかった二人に火点けの道具などない。
あるのはハンカチとティッシュ、そしてスマホと携帯用鉛筆削りのみ。ハンカチやティッシュは燃やすことができるとしても火そのものがないため役に立たない。
そもそも悠長に火を灯している時間もない。必要なのは緑色の液体を焼き払うための大火力であり、即席で得られないのならば無意味に等しい。
「どうする? この状況、やっぱり仁を覚醒させるしかないのか!?」
「あの、東間、思ったんだけど」
「でもどうすればいい! 仁は完全に己の世界の中に閉じ籠もってしまっている! 例え木の枝で鼻の穴や口の中を貫いても無反応を貫きそうだ……!」
「スマホがあるんだから誰かに助けを求めた方がいいんじゃない?」
「クソッ、僕じゃどうすることもできない。僕はなんて無力なんだ。このまま三人一緒に仲良く呑み込まれるしかないのか!?」
「…………」
半発狂状態に陥った東間から視線を外してスマホを弄る理香は時間がないことを考慮し、今すぐにこの場へ来られる人物に助けを求めた方がいいと考えてとある人物に電話を掛ける。
『……もしもし』
ノイズの中から聞こえるか細い女性の声。
無事繋がったことに内心で安堵しながら彼女はしっかりと言葉を紡ぐ。
「助けてください、先生。割と真面目に命の危機です」
『……わかりました。スマホの電源を付けたまま、地面に置いて離れてください』
「はい!」
指示に従い、スマホを地面に置いて幼馴染みたちを引きずりつつ後退。
数秒後、スマホの画面にノイズが走り、中から一本の青白くて細い腕が伸びる。
不気味さの塊と呼べる青白くて細い腕は掌を地面に突き、次いで頭、胴体、下半身がスマホの画面から外界への現出を果たす。
「……お待たせしました」
「貞娘先生! 来てくれたんですね! ありがとうございます!」
「……大切な生徒の危機ですから。駆けつけるのは教師として当然です」
長い長い黒い髪の隙間から覗く剥き出しの眼球。
気弱な人間なら卒倒してしまいそうな迫力のある視線に理香はただただ感謝の念を込めて頭を下げる。
「……それで、どうしたんですか。また仁さんがヤンチャしてしまったんですか?」
「いえ、今回は違います。詳しい事情を説明している時間はありませんが、後ろを見てください」
「……後ろ?」
振り返る貞娘先生の瞳に映るは隠し通路の出口から溢れ出て来る緑色の液体。
草木を始め、何もかもを呑み込んでしまいそうな液体は屋敷中から溢れ出ており、屋敷や仁たちを始めとした万物を取り込まんと迫り来る。
「……これは?」
「校長からのお仕事の最中に遭遇した、よくわからない液体です。私たちじゃどうすることもできなくて、かといって放っておくわけには」
「……わかりました」
一歩、また一歩。
優雅とは言えず、洗練されたわけでもない普通の歩み。
堂々と緑色の液体との距離を詰める貞娘先生に理香は息を飲み、生徒の不安な気持ちを察したらしい貞娘先生はとても優しい笑顔――ただしその顔が優しい笑顔だとわかるのは一定以上の付き合いを持つ者たちに限るが――を浮かべて彼女を安心させようとする。
「……任せてください。理香さん。このくらい――」
それは突然の事態。
体積を増やすだけだった緑色の液体が明確な意思を宿したかのように一カ所に集まると貞娘先生へ強襲を掛ける。
一カ所に集まろうと液体は液体。払い除けることもできず、助けようと駆けだし掛けた理香の目の前で貞娘先生は緑色の液体を掴んだ。
「――へっ?」
素っ頓狂な声を漏らしたと彼女が自覚したのは貞娘先生がその青白くて細い腕を振るった後のこと。
目に映らない速度で振るわれた拳が緑色の液体と接触すると巨大な音を立てて緑色の液体がはじけ飛ぶ。
飛び散り、霧散する緑色の液体。それも屋敷内から溢れ出ていた全ての緑色の液体に衝撃が浸透したのか、完膚なきまでに砕け散った緑色の液体は蒸発し、この世界から完全なる消滅を遂げる。
信じられない、理解するのに時間が掛かる出来事。
放心する理香に貞娘先生は再び笑顔を見せ、生徒たち三人の身嗜みを整えるとスマホの画面に潜る。
「……それではお仕事頑張ってくださいね」
「……あっ、はい」
辛うじて返事をした理香はノイズが収まったスマホを拾い、未だ呆けている頭に渇を入れるため、両手で頬を叩く。
「いやー、やっぱり貞娘先生は凄いな。俺たちの常識なんか通じない人だ」
「人に分類していいのかな?」
「他に分類しようがないからな。検査でも霊長類だったし」
「って、アンタ等、いつの間にか正気を取り戻していたの!?」
「いつの間にかっていうかついさっきだ」
「あんな轟音を耳にしたら流石に我に返るしかないよ。それにしても救援を呼ぶなんて流石は理香、僕たちは考えもしなかった」
「失敬な。俺は考えていたぞ。ただ、救援を要請すると食券の枚数が減る可能性があるからなるべく呼びたくないんだ」
「減る可能性って、減らないこともあるの?」
「割に合わない仕事の場合は減らない。今回は――まあアレは現状の俺たちじゃどうしようもなかったから、大丈夫か?」
「僕に訊かないでよ。で、無事にアメーバ退治が完了したけど、まだ屋敷の調査を続行するの?」
「当たり前だ。あのアメーバが元凶だとしても、アレが元凶だったという証拠を掴む必要がある。それがないと仕事を達成したことにはならない」
「私の勘だと、アレは元凶じゃないって感じだけど」
「だったら尚更調査を続行だ。着実に敵の数は減っているはずだし、そろそろ大ボスが出て来てもおかしくないはず!」
「できることなら楽な相手が出てきて欲しいよ」
「同感。最低でもあのアメーバみたいなのとはもう遭遇したくないわ」
「それには俺も全面的に同意するが、まあこんなところでグダグダとしゃべっていないでさっさと進もう、そうしましょうっと」
自力ではないが危機を乗り越えた反動か、鼻歌交じりに隠し通路から拷問部屋に戻ろうとする彼の首を掴み、正門の方へ移動して改めて中へ入る。
緑色の液体に覆われた影響か、外壁の損傷及び腐敗が進行している様子が見られる屋敷は幸いにも崩壊する気配はない。
中で大暴れすれば話は別だろうが、多少派手に動き回っても問題ないくらい強固な造りになっているのは流石旧華族の豪邸と褒めるべきなのか。
玄関から中に侵入を果たすも、入り口の扉が勝手に閉まることはなく、また屋敷の外壁同様に内部も最初の頃に比べて荒れている。
「これは棚から牡丹餅的な展開か? 悪霊を滅したおかげで屋敷全体に漂う悪なる気配が弱まっている気がするんだじぇ」
「悪なる気配って何?」
「言いたいことはわからなくもないけど、変な言い方しない」
「それくらいいいじゃなイカー、もう」
不貞腐れながら二階へ上がる彼等を妨害する物は何もない。
鍵が掛かっていたはずの扉も半ば開かれた状態で放置され、誰かの寝室らしき部屋の中は緑色の液体によって荒らされた痕が残っている。
「ほうほう。アレは制御不能なモンスター系な奴だったのかねー。アイツのおかげで俺たちの探索が捗る捗る」
「感謝する気にはなれないけどね。命の危機に晒されたわけだし」
「大体、あの変なのが荒らしてくれちゃったおかげで手掛かりもなにもなくなっちゃった可能性もあるんじゃない?」
「その時はその時だ。それに理香ちゃんが先程言ったように、親玉はまだ屋敷内に潜んでいそうだから、そいつを片付ければまあ大体OKだろう」
「またいい加減なことを」
「まあ僕たちにできることなんて、それくらいだろうけど。取り敢えず悪霊の気配さえ完全になくなれば大丈夫だと思うよ」
「そうそう。東間きゅんの言う通り。俺たちは俺たちにできることをすればいいのだよ。理香君、わかったかね?」
「なんかムカつく言い方ね」
「ゴメンナサイ」
「謝ったから良し。ここには何もなさそうだし、次の部屋に行きましょう」
「うん」
「へいへーい」
素直な返事とやる気のない返事。
されどどちらも不平不満の色はないので理香が先頭を歩み、隣の部屋の扉を開けて中を調査するが、手掛かりらしい手掛かりは発見できず。
緑色の液体の暴走の爪痕は酷く、骨董的価値がありそうな物なども悉く破損して元の価値を失っており、その事実を目の当たりにして嘆く仁の襟を掴み、引きずりながら更なる探索を進めた。
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