第十七話

 切り裂かれる肉。飛び散る濁った血と漂う腐臭。

 鼻につく不快な臭いに三人は顔を顰めながら換気するために扉を開けようとするものの、中庭へ続く扉は閉ざされたまま。

 試しに仁が回し蹴りで扉を蹴破ろうとするけれど、轟音こそ鳴り響いたが扉が動くことはなく、反動で痛みを全身に伝えながら痺れる足を抱えて転げ回る。

 神聖なる厨房に不愉快な轟音を響かせた挙句、無様に床を転がり回って料理の妨害を行っている。

 そんな風に受け取ったのかは定かではないが、肉を切り裂いていたコックの悪霊が床を転がる仁を殺意たっぷりの真っ赤な瞳で見下ろしている。

「仁、大丈夫?」

「だ、大丈夫だと言い張りたいのが思春期の男の子!」

「要するに大丈夫じゃないけど大丈夫なんだね」

「二人とも、そんなことよりマズいわよ」

「理香の料理が?」

「……あの包丁、ボロボロだけどかなり切れるみたい。それに料理人が包丁を刃物として使うことはほとんどないはずだけど、そんなルールを理性のない悪霊が守るなんて思えない」

「つまり?」

 言葉で説明する前に振り下ろされた包丁が仁の脳天を叩き割る。

 寸前で白刃取りで受け止め、力勝負に持ち込むことに成功するものの、体勢が悪い上にドーピングでもしているのかと疑いたくなるような怪力を発揮するコックに着実に押されていく。

 包丁が白刃取りを越えて仁の顔を両断するのも時間の問題。

 その怪力と包丁を振るう速度を目の当たりにした理香たちは正面からの戦いを危険と判断し、作戦を練る。

「いや、そんなことする前に助けてくださいませんかね!?」

「理香、どうしようか?」

「思い付いた策が一つだけあるわ」

「わかった。先に仁を助けよう。三人寄れば文殊の知恵って言うしね」

「…………」

 勝利を確信した余裕の笑みを浮かべる理香の策を聞くことなく、仁の救出に奔走する東間の背中に平手を叩き込み、痛がる彼の横を通り抜けてコックの悪霊に人差し指を突きつける。

「勝負よ、見ず知らずのコックさん!」

「待て、理香! 早まるな! 冷静になれ! 落ち着いて考えれば己の過ちに気付くことができる! 人間はやり直せる生き物なんだ!」

「そうだよ、理香! 考え直して! 君がここで暴走する必要はないんだ! 僕たちが力を合わせれば怪力コックさんなんてすぐに片付くから!」

「……料理で勝負よ! いくら亡霊といっても、料理人としての本能まで完全に失われたわけじゃないんでしょう! ならこの勝負、受けて立ちなさい!」

 男子二人の言葉責めに涙目かつヤケクソ気味に叫ぶ。

 言葉を理解できない悪霊ならば勝負を叩きつけたところで相手が何を言っているのかわからず、本能のままに攻撃を仕掛ける。

 だが理香の指摘が正しかったのか、コックの悪霊は振り下ろそうとしていた包丁から力を抜き、仁の傍から離れるとまな板の前に移動する。

「フン、だ。どうやらやる気満々みたいね」

「東間。今の内に逃げるのはどうだろうか」

「ダメだよ、仁。僕たちは逃げられない。誰もこの悪夢から逃れることなんてできないんだ。僕たちの運命は既に決まっている」

「そこで諦めるからお前はいつまでも二流なんだ。俺は諦めない! 諦めなければきっと道は開ける! だから開けゴマ! 開けゴマ! 開けゴマァァァァァァ!」

 扉付近で放たれる半狂乱の雄叫びを無視して料理するコックの悪霊とは別の調理台を使用し、この場にある調理器具と材料を使って調理開始。

 朽ち果てた道具と腐った食材で一体何を作ろうというのか、己の中に湧いた疑問に彼女は答えを出さず、流れのままに料理へと没頭する。

 互いに互いの存在を無視した料理勝負。

 相手が何を作っているのかなど気に留めず、己の作業だけに集中するその様はある種の職人芸に到達している。

 並外れた集中力。そこから織り成される匠の技。

 使い物にならない道具と腐った食材が生み出す調和により誕生した料理は比喩抜きで産声を上げ、全身から幾本も伸びる触手のように細くて長い腕がコックの悪霊の全身を掴む。

 意図せずして調理の妨害を行ってしまったが、幸いなことにコックの悪霊の方も料理が完成していたらしく、腐った食材を使った腐った料理が腐臭を放つ。

 しかしそれだけといえばそれだけのこと。

 腐った食材を使えば腐った料理が出来上がるのは至極当然のことに過ぎず、腐った食材を使用してドス黒く濁ったゼリー状の生命体を誕生させてみせた理香の足元にも及ばない。

 尤も、これが料理勝負ならばどちらが勝者なのかは一目瞭然。

 とはいえこの場には公平な判断ができる審判が不在のため、勝敗を決めるのは当事者か第三者であり、しかし肝心の第三者たちは狂乱状態に陥っているので当事者たちが勝敗を決める必要がある。

「決着はお互いの料理を試食して――」

 話し掛けている途中で触腕がコックの悪霊を引き寄せ、黒いゼリー状の生命体がコックの悪霊を取り込んでしまう。

 それだけでなくあらゆる方向に伸ばされた触腕は掴んだ物を手当たり次第に引き寄せては体内に取り込み、厨房を荒らし回る。

 元気に活動する己の作品に理香は冷や汗を流しながら頬を人差し指で掻き、対戦相手と対戦相手が作った料理が消滅したことで不戦勝したと己に言い聞かせる。

「わ、私に恐れを為して逃げ出したのね。さ、流石は私。たいしたものね!」

 自身が何を言っているのか、理解している彼女はコックの悪霊がいた場所を直視できず、適当な方向へ目を泳がせる。

 このような物が勝利ではないことを、少なくとも自身が望んでいる勝利などではないことを自覚する理香は更なる精進を目指して拳を握り締める。

 未熟ということはまだ先があるということ。すなわち成長できるということ。

 成長のために必要な物は何か。黒いゼリー状の生命体の腕が幼馴染みたちを捕らえているのを注視しながら彼女は二、三度、首肯する。

「そうか、塩ね。あの時、塩を入れなかったのが失敗だったのね!」

「東間! 理香がバグったぞ! なんとかしろ!」

「仁がなんとかしてよ! というかなんなの、この状況!?」

 触腕に引きずり込まれそうになる二人は必死に抵抗を繰り返し、逃れようと全力で抗うが徐々に引き寄せられていき、靴が黒いゼリー状の生命体に触れんとしたその瞬間、黒いゼリー状の生命体は全身から腐臭を放ちながら崩壊する。

「えっ?」

「な、なんだ? 何が起こった?」

 唐突な解放と黒いゼリー状の生命体の最期に驚きを隠せない二人。

 彼等が戸惑っている間にも黒いゼリー状の生命体の崩壊は進み、骨すら残さず崩れ落ちて完全な消滅を遂げる。

「え、えっと。何が起きたんだろう?」

「腐っていたのか? それとも早過ぎたのか?」

「たぶん前者よ。腐った食材を使ったせいで体の腐食が急速に進んだみたい。それと悪霊や腐った料理に腐った食材を大量に取り込んだのも影響しているかも」

「……ま、まあ取り敢えず助かったから、これでいいのかな?」

「いいわけないでしょ。私はまだ上り始めたばかりだもの。いいえ、ずっと前から上っていて、未だに上っている途中なの。この果てしない料理道を」

 やる気の炎を両方の瞳に宿し、決意の拳を固める理香にツッコミを入れようとして仁は無駄なことはしないと口を閉ざして俯く。

 と、下に向けた視線が捉えたのは錆び付いた金属製の鍵。

 落ちていたのはコックの悪霊が料理を作っていた位置。落とし主が誰なのかを察し、黒いゼリー状の生命体に取り込まれなかった奇跡に感謝しながら鍵を拾う。

「仁、それは?」

「鍵だ」

「見ればわかるわよ。で、それは何処の鍵なの?」

「さあな。何も書かれていないから何処の鍵なのかはわからない。ただ、悪霊を倒して鍵を手に入れたんだから、使う機会はあるだろう」

「まるで探索型のゲームみたいだね」

「命懸けのゲームなんてほとんどロクなものじゃないわよ」

「ほとんどじゃなくて全部だと思うが。まあ使わないなら使わないで、後で捨てるなり骨董品屋に売るなりすればいい」

「骨董品屋はゴミ処理施設じゃないんだけど」

「気にしない、気にしない、さっ、次に行こうか」

 コックの悪霊が消滅したからか、蹴り破れなかった扉は容易く開き、中庭へ戻った三人は別の扉を探して歩く。

「次は一体どのような罠が我々探検隊を待ち受けているでしょうか」

「罠とは限らないよ。さっきのコックの悪霊だって罠だったわけじゃないし」

「いい人ではなかったけど、熱い勝負を繰り広げられたのは私にとっていい経験だったわ。ライバルとして記憶に留めてあげてもいいかも」

「東間きゅん、解説よろ」

「僕は女の子じゃないから、理香の思考を理解することはできないみたいだ」

「……いいじゃない。思い出くらい美化しても!」

 叫ぶ彼女を憐むように見つめる仁と東間はこれ以上、話を続けても彼女を傷付けるだけだと勝手に判断し、前置きなく露骨に話題を変える。

「ところで東間、あの緑色の液体」

「触るの禁止。完全に手詰まりになったら調べることを許可するよ」

「むう。俺の第六感がビンビン唸っているのに」

「だからダメなんだよ。君の第六感は危険なものにしか反応しないだろう?」

「失礼なことを。俺の第六感は色々な物に反応を示す。これは俺の経験則に基づくものなのだよ」

「はいはい。あっ、あっちに未知への扉があるよ。行ってみよう」

 拗ねる理香と拗ねようとしている仁の手を掴み、強引に引っ張って行っては両手が塞がっていたので扉を蹴破る。

 厨房と同じく暗闇に包まれた部屋。

 腐った食材によって腐臭が充満していた厨房とは異なり、部屋中に満ちているのは乾いた血の臭い。

 足を踏み入れた途端、先と同じく人魂が部屋全体を輝きに包み込み、照らされた室内はあちこちに赤黒い染みが付着している上、何に使うのか尋ねたくないような血の染みが付いた人間の残虐性を証明するような道具が散乱している。

「……ここって」

「俗に言う拷問部屋だな。中庭から拷問部屋に行けるとは、過去に住んでいた旧華族さんは他人に言えないような趣味を持っていたらしい」

「吐き気がするわね。いっそ屋敷をぶっ壊した方がいい気がしてきた」

「壊すにしても巣食っている悪霊どもをどうにかしないと、何が起きるかわからないぞ。だからこそ俺たちに任せられたわけだしな」

「わかっているわよ、そんなこと」

「だったら文句を言わず――おや?」

 拷問部屋の中央、真紅のドレスを纏い、踊るように華やかな動きを見せているのは全身を赤い血に濡らした少女。

 生前は綺麗もしくは可愛いと言われていたのであろう半分だけ原形を留めている顔はもう半分が醜く焼け爛れている上にところどころ骨が剥き出しになっている。

 踊る少女は侵入者たちの存在を認知しながらも無視。愛おしそうに笑顔で拷問器具周辺の移動する。

「なんだ、あれ?」

「コックの悪霊と同じく、部屋に縛られた悪霊っぽい?」

「つまりあの子がこの部屋で拷問をしていたってこと? 見た目通りの年齢だとしたらちょっと信じられないわね」

「事実は小説よりも奇なり、だ。生まれついてか環境の影響かはわからんが、あの少女が拷問好きな少女なのは間違いないだろう」

 移動を繰り返している血の少女に近づくため、仁が一歩を踏み出した刹那、踊りをやめた彼女は彼を真っ直ぐ見つめる。

 その瞳にどのような感情が含まれているのか、悪霊故に読み取ることはできないけれど歓迎はされていないと臨戦態勢に移行した仁は指を鳴らす。

「まあなんだ、無駄話をする気もないし、時間を掛けたくもないから、さっさとお前を祓ってこの部屋から出させてもらう。文句はないな?」

 口を開かない血の少女へと更に一歩近づき、小さな音を立てて揺れ動き始める拷問器具を見下ろす。

 それは警告か、はたまた獲物を脅すための仕掛けか。

 仁が血の少女へ近づくたびに揺れが大きくなっていき、手を伸ばせば触れられる距離まで接近すると重力に逆らって宙に浮かび上がる。

「これってポルターガイストなのかねー?」

「他に分類できるものもなさそうだから、たぶんそうだと思うよ」

「油断は禁止。また痛い目に遭いたいの?」

「理香ちゃんに心配されるならそれも一興?」

「傷口に料理を塗り込んであげようかしら?」

「やめてください、汚染されてしまいます。というわけで拷問少女よ、俺は理香の料理がとても怖いからお前を始末することにした」

「うん。仮にこっちの言葉を理解していたとしたら、コイツは何を言っているんだろうって思うだろうね。僕もそう思う」

 後方にいる東間の言葉を戯言として聞き流し、吐息が当たるほどに血の少女との距離を詰めて嘲笑う。

 それが開戦の合図。仁が何かする前に血の少女が腕を伸ばして彼の顔を鷲掴むと同時、浮かんでいた拷問器具が一斉に仁へと襲い掛かった。

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