Ⅱ-Ⅱ

『いや、避難のためではない。これは七使徒の末裔を交わした約定によるものじゃ』


「約定?」


『うむ。暗黒時代に入る少し前じゃったのう……人間どもに追い込まれたワシらは、コントスにおる七使徒の末裔を頼ることにした。と言っても、お主の後に召喚された者達との混血じゃったがな。今の当主とはどうも……』


「知ってるのか? トラシュスさんのこと」


『ときおり、ここに来るのでな。……ともあれ、ワシはその約定を守るためにここで生活しておる。ある場所への入り口を封じておいてくれ、とな』


「ある場所?」


 頷くヒュドラは、気だるそうに右端の首を動かした。

 その下には木の板がある。南京錠で閉じられた、古い木の板だ。


『この先は異空間に繋がっておってな。時が来るまでこれを封じてくれ、と頼まれたのじゃ』


「……そこまで言われると興味が湧いて仕方ないんだが、通ってもいいか?」


『……まあ構わんじゃろう。時が来れば、とはお主が来ることかもしれんしな。というかワシの方から頼みたいぐらいじゃ。トラシュスのやつが、別の入り口から向かおうとしておるのでな』


「アンタが止めるべきじゃ――って無理か」


『こんな小さな穴に入れるわけなかろう。異空間の存在は先祖代々語り継がれてきたのでな、新たに入り口を作られれば、ワシにはどうしようもない』


 言いつつ、ヒュドラは鎌首をもたげる。

 何をしようとしているかは言うまでもなかった。自分で塞いでいた開かずの扉を、自分の力で粉砕するためだ。


 木は、乾いた音を立てて砕け散る。


『これで良いか? 狭いようであれば、力尽くで拡張するが』


「おいおい、労わって欲しいんじゃなかったのか?」


『む、そうじゃったのう。……狭くても無理やり通れ、若者』


「そうする」


 まあ実際のところ、さらなる地下への入り口はミドリと並んで通れるぐらいの幅があった。彼の強引な助けを借りる必要はない。

 念のため俺が先行しようとして、ふと足を止める。


「……なあヒュドラ」


『うん?』


 彼はこちらを見下ろしながら、穏やかな眼差しを向けていた。

 そこには相変わらずの違和感しかない。敵同士の時期が長いのだから、当たり前と言えば当たり前かもしれないが。


「……」


 人間味の欠けた赤い瞳は、やはり好意的に見れるものではない。

 様々な予感が脳内に浮かぶ。こいつは本当にヒュドラなのか、そう語っているだけの別人ではないのか、と。


 一方で、気にしたって仕方ないと思う自分がいた。何か問題が起こるなら、毅然と対処するだけのこと。ドヴェルグから貰った魔石もある。


「ユウ君、声は下から聞えるよ。やっぱり女の人達だけだね」


「やっぱり捕まってる感じか?」


「うん。ただちょっと苦しそう。急いだ方がいいと思う」


 とのことだ。

 ヒュドラの正体が何者だろうと、ここで引き返すなんてことは出来ない。直ぐにでも囚われの彼女達を見つけ、ジュピテルに送り返さなければ。


俺は改めて前へ、ミドリを庇うように進んでいく。

 ヒュドラの視線も気配も、直ぐに壁の向こうへと消えていた。代わりに俺達を迎えたのは緩やかな階段。ここへ来る時に比べると、随分と歩きやすい。


 明かりは魔弾ではなく、壁にかけられた松明の仕事だった。何か魔術的な仕掛けを施しているのか、俺達が通り過ぎたところから消えていく。早く行けと急かすように。


「うーん」


「どうしたミドリ? 何か聞えたのか?」


「聞えるっていうか、なんだか変な感じがする。よく分かんないけど」


「……警戒だけはしておくか」


 魔弾の展開を済ませて、俺達は更に奥へと進んでいった。

 やがて見え始めたのは鉄の床。鈍い光沢を放ち、客が来るのを冷たい顔で待ち続けている。


 一瞬、その色遣いに鳥肌が立った。

 根拠なんてものはない。恐らくは原始的な、人間そのものが有する忌避感。人の理と相容れない存在が、向こう側で待っている。


「まさか……」


 覚えていた、この感覚を。

 緊張で喉が渇くことにも構わず、俺は駆け足で階段を下りていく。ミドリは文句も言わずについてきてくれた。


 鉄の平面に、踵が触れる。

 正面に広がっている光景は、かつて人類が抱いた嫌悪。世界を恐怖で染め上げ、獣の世界に変えようとした原動力。


 壁には様々な魔物の絵が記されている。いずれも禍々しいオーラを放ち、生きて動き出しそうなほど生々しかった。


「魔王城か……!?」


 それが地下にある正体。その一室へと、俺達は足を踏み入れている。


 視界に映るのは巨大なホール。高さは五十メートルにも及び、翼をもった竜でも縦横無尽に飛び回れるほどの広さがった。


 客席まであって、古代ローマのコロッセオを連想させる。壁や床には点々と血の跡が残り、魔物たちの歓声が聞こえてきそうだ。


 悪寒が背筋を撫でる。

 ここなら――きっと、ヒュドラのヤツも好きなだけ暴れられるだろう。アンブロシアにある西の海、そこを支配していた大海の主として。


「ゆ、ユウ君、後ろ……」


「うん――」


 無い。

 階段がない。視線の先にはホールの一部が広がっているだけで、出入口に当たる場所まではかなり距離がある。


 どうも罠だったらしい。魔王城には幾つもの魔術的仕掛けが施されているため、別に珍しくはないのだが。


「しかし、なんだってここに……」


「と、とにかくドヴェルグさんの魔石で移動しようよ! ここ、何だか冷たい声が聞こえるし……」


「怨霊とか、そういうのか?」


「うん。皆、凄い唸ってる。魔物なのかな? 内容までは分からないけど……」


 歓迎しているわけではあるまい。この魔王城では、何十何百という魔物が、人間が命を落としている。怨嗟の叫びが残っていても不思議はない。


 長居は禁物。元来の目的を果たしていない状態で何だが、ミドリの提案通り一度戻った方がいいかもしれない。イオレーやアデルフェに相談するか。

 俺はドヴェルグから貰った魔石を手に、目的地を思い描いて――


「逃げるのであれば、彼女達の命はないぞ」


 数時間前に聞いた声によって、中断された。

 トラシュスだ。いつの間にかコロッセオに現れていた彼と、その背後。手を掲げる動作に従って、数本の十字架が起立する。


 張り付けられているのは、いずれもユキミチの護衛を担っていた者達だった。意識がないようで、ぐったりと項垂れている。


「ようこそ、英雄王。改めて宣戦布告と行きたいのだが、どうだろうか?」


「仲間にならないと後ろの人質を殺す、とかじゃないのか?」


「そんな無駄な真似はしないよ。貴方が本気になれば、私を倒した上で彼女達を救出することも可能だろう? 一瞬だけ注意を引きたかったのさ」


「何……?」


 直後。

 同じく彼の背後に、巨大な円陣が現れた。

 コロッセオを埋め尽くすような光。実態化していく巨獣の姿は、もはや見間違えることなど出来ない。


 ヒュドラ。

 九つの首、十八の眼を開いた海竜が、俺の前に立っている。


「さて英雄王、逃げるのであれば逃げるといい。それを実行できる隙があれば、の話しだが」


「……」


 トラシュスの指摘に嘘はない。魔術陣が起動し、転移が完了するまでの数秒間。その間にヒュドラが攻撃を行えば、転移の発動が失敗に終わる可能性がある。


仮に俺が陣内で防衛に入っても、異なる術式が入り混じるため転移に支障をきたすだろう。行うのであれば外から守りを行う必要がある。

 俺はヒュドラから視線を逸らさず、ミドリに魔石を投げ渡した。


「ユウ君……」


「それを使って戻っててくれ。いくらなんでも巻き込みそうだしな」


「……大丈夫なの?」


「もちろん。俺はコイツに一回勝ってんだぞ? まあ頼むことがあるとすれば――」


 全力で戦うのは必至。

 この世界に来てから一度も味わっていないものを、ここは頼むべきだろう。


「飯作って待っててくれ。腹減らして帰るから」


「え、ええええ!? そんなことでいいの!?」


「ああ、やる気も数倍に膨れ上がる――」


 鞭のように迫るヒュドラの首。

 あまりに正直すぎて、魔弾の軌道から逃れられる余地はなかった。


 呆気なく首が宙に舞う。赤い尾を引いて、コロッセオの片隅に落ちていく。


「……というわけで宜しく頼む。土産にコイツの肉でも持って帰るから」


「た、食べたくないんだけど……」


「竜種の肉は滅茶苦茶堅いらしいからな。ま、話のネタにはなると思うぞ? 少なくとも自慢にはなる」


「……そっか。じゃあ、楽しみに待ってるね!」


「ああ。ところで使い方――」


 大丈夫なのかと思いきや、彼女の気配は消えていた。


 無事に町へ戻れたと祈ろう。自分の未熟ぶりを押し付けてしまったような感じもするが、今回はだけは大目に見てもらおう。

 二十発ほどの魔弾を展開しつつ、俺はヒュドラの巨躯を観察する。

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