Ⅱ-Ⅰ

 もうかれこれ、三十分ぐらいにはなるだろうか。

 奥にあったのは、長い坂道だった。ためしに魔弾を撃ってみてもゴールが見えない程で、俺達はそこを進んでいる。


 といっても、海竜の中に乗せてもらった状態だ。それで三十分。まだ目的地は見えず、案内人へ尋ねても曖昧な返事しか返ってこない。


 それ以上に肝心なことが、彼女の意識を占めているんだから。


『あの子、大丈夫でした? ここに帰る時、いつの間にか逸れてしまったんですよ。怪我とかしてないといいんですが……』


「あ、怪我はしてましたよ。でも、ゴブリンさん達が手伝ってくれまして。近いうちに治ると思います!」


『あらあら、そうですか。……村の人達にまでご迷惑をかけてしまって、本当にごめんなさいね』


 巨体を揺らしながら、海竜はおっとりとした口調で話しかけてくる。

 それに応じるのはミドリの仕事だ。俺の方にも念話は届いているが、わざわざ割り込む気はないので視聴者に徹する。


『本当は探しに行こうかと思ったんですよ? でもあの人が、子供だろうと強く生きねばならん、って止めるんです。まあそろそろ巣立つ年齢ですから、ちょうどいいかな、とは思ってたんですけど』


「でもシー君、お母さんと会いたさそうでしたよ?」


『あらあら、やっぱりですか。……せっかくだし、黙って会いに言っちゃおうかしら? 主人はどうせ、外のことなんて気にも留めないでしょうし』


 そうしましょう、と人妻海竜は自身の考えを肯定する。

 聞いていたミドリは同調するだけだった。……俺ぐらいは、蔑ろにされている旦那さんの肩を持つべきかもしれない。


 でも当人の顔が浮かぶと、途端にその気は失せていく。

 俺は正直、あの堅物が苦手だ。常に喧嘩腰だし、隙あらば攻撃してくるし。酔い癖も酷くて、手のつけられない暴れん坊である。


 今さらだが、彼が味方になったのは奇跡でしかない気がする。まあ前提条件として、ワシを倒すこと、なんて無理難題を吹っ掛けてきやがったのだが。


『あら、そろそろですね。お二人とも、気を付けてください』


「へっ? 何でです?」


『主人は昔、とっても悪い海竜だったんですよー。自分のテリトリーに入った人間の船も、木っ端みじんにしてしまうんです』


「……ユウ君、頑張って!」


「俺一人が頑張るのか……」


 まあ、言われずとも警戒はする。

 ましてやここは地下の世界。ヤツが本気で暴れれば、俺とミドリは崩れた天井の下敷きだろう。ま、予感できる段階で脱出するけど。


『旦那様、お客さんですよ』


 いつの間にか新たしい空洞へと出ていたようだ。直ぐそばに『王』がいるらしく、巨大な生物の気配も伝わってくる。


 軋むような音を立てて、何か重いモノが持ち上がる。


『おお、すまんのう客人。そんな小さい明かりでは不便じゃろう? いま点けてやるからな、しばし待っておれ』


「へ……」


 なんだ、この穏やかそうな老人の声は。

 かなり奥の方にいるらしく、魔弾の光では薄っすらと影しか映らない。もう少し強く光らせようと思えば可能だが、これ以上は目が疲れそうなので止めておこう。


 彼の台詞通り、手前から電灯を点けるように明るくなっていく。壁や地面へ立てられた燭台に火が灯っているのだ。

 魔術によるものではなく、自然の暖かな光が洞窟を照らしていく。


『――あ?』


 お互いの姿を確認したところで、海竜の王――ヒュドラは不快だとばかりに声を送り込んできた。


 最奥には確かに、九つの頭を持つ竜がいる。

 しかしそのうち八つは熟睡中だった。相手をしてくれるのは真ん中の一つだけ。しかしそれすら、あんぐりと口を開けて王の威厳など皆無だった。


『い、異界人の小僧!? なぜ生きとるじゃ!?』


「そっちこそどうした。本当に丸くなってさ」


『黙れ小童! ふん、良い機会じゃ! この場で生き埋めにして――』


 案内してくれた雌海竜よりも大きい巨体が、いま起きようとする。

 しかし続かなかった。ヒュドラは九つの首をすべて持ち上げた後、再び眠りについてしまったのだ。もちろん、中央の一つを除いて。


『いかんのう、歳じゃ歳。もうワシは戦えん』


「……」


『? 何を驚いておる、小僧』


 そりゃあ驚くに決まってる。

 歳や疲労は、昔のヒュドラには考えられないものだった。俺と戦った時も、三日三晩ぶっ通しで殺し合いをしている。


 当時だって数千年を生きていた個体だ。彼にとって、後の千年などあっという間に流れた時間でしかないんだろう。

 まあ今の様子を見る限り、老いとの戦いではあったようだが。


『あー、頭が痛い。念話で怒鳴るのも疲れるわ』


「王さまがそんなんでいいのか……」


『ああ、問題あるまいよ。なにせ海竜族は、滅びかかっておる。暗黒時代以降に子供は生まれず、一族の数も激減した。……今残っておる子供は、ワシの子だけじゃ』


「何かあったのか?」


 相手が王という立場にも関わらず、俺は砕けた口調で尋ねていた。

 一度本気で戦っている相手のためか、ついついこんな調子になってしまう。協力関係に至った後も、そこまで接点は持っていなかったし。


『単純な話じゃよ。我らは人間に攻撃され、その結果に数を減らした。それだけのことじゃ』


「でもゴブリンは――」


『はっ、あの矮小な存在と、我ら竜種を同列で語るでないわ!』


 脳を直接揺さぶられるような、大音声だった。


 念話で話しているっているのに、つい耳を抑えてしまう。ミドリの方も同じで、余裕を保っているのは雌の海竜一匹だ。

 ヒュドラの方にも覇気はない。力を使い果たした彼は、さっきと同じように項垂れている。


『ああ、いかんいかん。つい興奮してしまった。脳の血管が千切れてしまうぞ』


「……お大事に」


『今さっき挑発してきた男に言われたくはないのう。……まあ、分かるじゃろう? 人間どもは当時、確かに魔物を救った。しかしそれは、奴らが手に負える場合に限ってじゃ。自分達の生活を脅かしかねない、強大な魔物には手を出さんかった』


「敵意があったとか、そういう理由もなく?」


『あるわけがなかろう。当時の人間どもは、生きることしか考えておらなんだ。自らの信念を貫くことより、無意味な生存を選んだ。……危険を排除したい、それだけの動機じゃよ』


「危険を……?」


 しかしそれは、生き物として当たり前のことではないのか。

 でもヒュドラにとっては違うらしい。彼は首を横に振りながら嘆息して、前置きを作りってから話し始める。


『貴様はこう言いたいのだろう? 魔王との戦いとて、危険を排除するための行いではなかったかと』


「……ああ」


『では逆に聞くが、あの戦いでどれだけの人間が死んだ?』


「――」


 志半ばで命を落とした、同士達の顔が瞼に浮かぶ。

 彼らは危険を犯していた。いつ死ぬか分からない魔物との戦争に身を置いて、人の世界を存続させるべく戦った。


 願った平和と安全は、生き物として当たり前のこと。

 しかしその過程には、計り知れない危険が存在していた。


『千年前に生きていた人間は、ワシにとって目が眩むほど輝いておった。強大な敵に挑み、なおかつ理想を捨てぬお前達が眩しかった』


「つまり嫉妬してたんだな?」


『しとらんわ馬鹿者! 気高き竜の王が嫉妬なんぞ――って怒鳴らせるのは止めんか! 年寄りを労われ!』


「でもそれぐらい元気だったら、逆に安心だ」


『はっ、まだまだ若い連中には負けんわ!』


 少し息を切らしながら、ヒュドラは威厳たっぷりの笑い声を届かせた。

 にしても、彼の告白には驚かされる。昔は人間に対して、口を開けば罵詈雑言するヤツだった。称賛など、俺の知るところでは一度も行った試しがない。


「……ところで、ここにいるのは避難のためか?」


 ヒュドラが落ち着いたところを見計らって、俺は次の問いを放っていた。

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