第31話 過去の影

「松元先生、しばらく休みなんだって」

結愛が準備をしながら、話しかけてきた。

松元先生は毎年この時期に旅行に行くらしい。

「え、じゃあ2診でまわるのかな?」

夏菜子がそう、眉をしかめる。

「院長先生は代理の先生を探すって言ってたけど。良い先生だといいけどなぁ」


医師によっては癖があるので、サポートにつく由梨たち看護師は慣れるまで神経を使う。


「あ、先生たちきた朝礼はじまるね」


そこにいる、苑田先生、雪村先生と並び、立っていたのはかつての勤務先で知っていた田中先生と…そして渉だった。

「しばらく、大学病院から助けてもらう事になりました。田中先生です」

苑田先生がそう言うと田中先生の目が由梨に向かう。


「あれ、君は確か…まえに新館4階にいた…」

「はい。花村です、田中先生。おひさしぶりです」

「だよな?」

「じゃあ、花村さんが田中先生について」

夏菜子がそう言ってくる。

「わかりました…」


「白石先生は、もうすぐ研修が終わるから勉強がてら連れてきた」

「白石です」


(なんで…)


由梨は泣きそうになる…。


「花村さん。ひさしぶりだね、本当に。相変わらずかわいいな、結婚でもしたのか?」

「いえ、まだです」

「そうか、勿体ない。白石となんかどう?年頃も合うしな」

屈託なく言う田中先生はもちろん、二人の過去など知らないからこんな風にさらりと言えるのだろう。

「そんな…先生に迷惑ですよ」


「そんな事ないよな?医師を支えるのはやはり看護師がぴったりだと思うけどな、白石もそう思うだろ」

「そうですね」


(そうですね、って何よ…)

渉が軽く動揺もせずにそう返事をするのがまた気に障る。


「そろそろ、お呼びしても大丈夫ですか?」

「はいはい」


田中先生がゆったりと、椅子に座る。


田中先生は、口調は軽いが患者さんに対しては当たりは柔らかいし、そして丁寧に診察をしていく。そして渉はそばに立って控えていた。


「白石、ついててやるから代わってみろ」

「はい」


途中で渉が椅子に座るので、由梨は田中先生に予備の椅子を出した。


渉は立派に医師らしく、にこやかに応対している。

「…花村さん。採血と点滴、この薬も追加で」

「はい」


指示を確認して

「あちらで点滴をさせてもらいますね」


そして点滴の準備をしていると、

「あの研修医、わりと素敵よね」

こそこそと結愛が言ってくる。

「花村さんの事、見てたね」

「え?」

「うふふ。三角関係に?とか…。エリートリーマンと医師に挟まれて…なんてドラマティックだわぁ」


てきぱきと準備をしながら、結愛はさらに話しかけてきた。

「梅崎さん…」

「あの、イケメン過ぎる彼より、苦労は少ないかもよ」

くすっと笑われて由梨は

「そんな事はありえませんよ」

そう言ったときには結愛はすでにきびきびと立ち去っている。


由梨は点滴をし終えて、戻れべまた診察が開始する。

診察後の入力画面をみて、声をかける。

「白石先生、その指示なんですけど…」


「ん?」

「さっきの患者さん、前回種類が変わったんです。その指示は前の物になってます」

「あ、ほんとだ。ありがとう」


患者さんの中には、時々子供がいる。

この日も、大きなお腹の妊娠中のワーキングママが3歳の子供を連れてきた。


子供はなかなか嫌がっている。渉はうまく対応しようとしているがなかなかの暴れっぷりだ。

「たくまくん、看護師さんがだっこしても良いかな?」

目線を合わせた由梨に、子供は涙に濡れた目を由梨に向ける。

「ママはお腹が大きいでしょ?ママ苦しいから、たくまくんも少しだけ我慢できる?」

「おねえちゃんがだっこ?」

「うん。それでお腹のぽんぽんしてもらおうね、先生は優しい先生だから痛くないよ」

子供がうなずいたので、

「お母さん、少し私が抱かせてもらいますね」

「あ、お願いします」


汗だくで宥めていたお母さんはほっとして見えた。

「たくまくん、じゃあお腹からね~」

無事に診察を終えて、お母さんと渉がやり取りをしている。

「頑張ってえらかったね」

と、由梨は病院にある子供向けのシールを渡す。

「おねえちゃん、ばいばい」

「ばいばい」


そんな風に、色々とありながら午前診が終わる。

「いや、ありがとう。花村さん君もしっかりしたなぁ」

田中先生に言われて由梨は苦笑した。

「もう、大人ですよ」

「いや、いつも泣いてるイメージがね」

笑われて由梨は居たたまれなくなる。

「それ、いつの話ですか…」

「うーん、学生?いや、一年目かな」


夏菜子たちが外にランチに出掛けたので、由梨は一人でスタッフルームで、お弁当を食べていた。


ノックされて開けると、それは渉だった。


「…一人?」

由梨は顔を伏せて、黙った。


「見たら、わかりますよね?」

「電話…かわった?」


「知らない番号には出ないんです」


そうそっけなく言うと、渉が口を開く。

「由梨…俺は、ずっと謝りたかった」

でも、そう言われてももうそれは由梨にとっては遠い過去のこと。


「あのとき…俺は…試験に対する不安でいっぱいだった、本当にどうかしてた」

あのときとはつまりは2年以上前の事だ…。

「由梨も、必死に慣れない仕事をしていたの、わかってたのに、先に仕事を始めた由梨に置いていかれたような気持ちになった」

渉はまっすぐに目を見て話す。

あの、知り合ったときのチャラチャラした雰囲気はどこにもなく、その眼差しは真剣だった。

「友達と誘われて、つい飲みすぎた俺は…あのときの彼女と、間違いを犯した…」

「間違い…」

「少しして、彼女が妊娠したとエコーの写真を見せられて記憶の怪しかった俺は…信じてしまった。だけど、それは彼女の嘘だった」

「嘘?」

「それは、彼女の友達のだったんだ」

「そんな…」

「次の、診察についていくと言ったら彼女は、流産したと言ったから、なおさら病院に行こうと言ったら、彼女は嘘だと白状した。どうかしてた…由梨に、すぐにやり直せないかと言いに行こうと思っていた。だけど、あんな酷い別れたかたをして、騙されてたから、よりを戻したいなんて都合が良すぎるよな…。だから、せめて医師になってからと、思ったんだ」


渉はそう、苦しそうに言った。

「彼女は、俺が医学部だと知って騙したんだ」

由梨ははっと渉を見た。


「由梨…俺は、ずっと由梨が好きだ…由梨が必要で側にいて欲しい。それで、いつか自分の病院を持ったら今日みたいに隣にいて。それが今の夢だ」

渉はとても、真剣で…。懐かしさとかつてのいとおしさがこみ上げる。だけど…

「渉…。私はもう、付き合ってる人がいるの」

由梨はそう言った。


「そ、か。だよな…もう、2年経ってるのに、俺はアホか…」

くすっと渉は笑う。

「でも、さ。待っててもいいか?」

「え?」

「こんなことを言うのは、卑怯だけど…もし、別れたら」

一旦言葉を切る。

「もし、今の彼氏と別れたら…俺の事を思い出してくれないかな」

「渉?」

「…待つよ」

渉は立ち上がると、


「由梨と過ごした4年は…付き合ってることに、ひたすら甘えて、お金がないとか忙しいからって由梨の事をどこにも連れていってあげられなかった。俺はもう、大人だし、4月からは一人前、とはいかないけど研修医は終わる。由梨といた時、俺はとても安らいで、心地よかった」


渉はとても悲しそうで、切なくて…。そして大人になっていた。こんな渉があんな写真を撮ったり送ってきたりはしない…。

「写真…あれは…渉じゃ、ないのね?」

「え?写真?」


「ううん。なんでもない」

「話せて、良かった。怒らずに聞いてくれて、ありがとう由梨」

「うん…」

「俺って、本当にアホだよな…。好きな女に言い訳ばっかり」

「ふふっ、ほんとだ」


笑える自分に由梨は驚く。

ひさしぶりに見た渉の笑顔に由梨も笑みを向ける。

「ありがとう、渉…。私も…ごめんね…あのときは私も少しも余裕がなくて…」

「それは、そうだろ」

「自分から連絡もしないくせに、いつも、渉の都合に合わせてる、そんな気になってた…」

「うん。だからさ、今度こそはやり直せると、そう思わないかな…ってさ。病院に由梨が居なくなって、慌てた…。俺のせいかと思って」


「お礼奉公、終わったし…。ターミネーターは怖いし」

ターミネーターこと、峰田みねた 湖都音ことねは由梨の勤めていた新館4階の師長だ。いつの間にか、イメージと名前をもじって影ではそう呼ばれている。

「あー、ターミネーターほんとに怖いよな。うん、俺も何回も怒られてる」


「そうだね、研修医の先生たちはみんな怒られてるね」

クスクスと由梨は笑った。


「あれ、なんか楽しそうだね、花村さん。と、白石先生?」

夏菜子たちが帰って来た。

「あ…」

「もしかして…付き合ってた?」

結愛に言われて、ドキッとした

「はぁん、図星だ」

「花村ちゃんは、イケメンと縁がありますなぁ~」


結愛たちに圧倒されたのか

「じゃあ、俺はこれで」

と渉は去っていく。


「で、で?」

「なーに話してたの~」

結愛がツンツンとつついてくる。


「昔話ですよ…」

「より戻そうとか?」

「…」

「花村ちゃんはほんとに分かりやすいね」

黙りこんだ、由梨に結愛はからかう。


「でも、良い雰囲気だったよ?白石先生と花村さん。ねぇ?」

「うんうん」

「でも、彼氏がいるって言いましたから」


「可愛い子はいいね。細いのにおっぱいもちゃんとあるって所も、かなり羨ましいぞ」

結愛は可愛らしいサイズの胸を気にしてる。胸を触られて由梨はきゃっと声をあげた。


「確かに、わりとちゃんとあるよね」

白衣はわりと胸があると目立つ服になっている。

「エロい」

「え、エロって」

夏菜子に言われて由梨は胸を押さえた。


「今日もまだ残ってるじゃない?そこにマーキングのあと」

「の、残ってないです」


あ、と言ってしまってから頬を押さえる。にやにやとされてしまう。


「そ、それよりお二人はどうなんですか?合コンの後とか」

「まあ、慎一とは時々遊びにいく感じかな。良い子だしね」

「悠太はちょっと子供っぽすぎかなぁ。遊んでそうだしね」

うーん、と結愛が言う。


「で、結局ダメ男と…って私、人の事構ってる場合じゃないよね」

結愛が珍しくため息をついた。


「あ、そうだ。みて、マンションのカタログ」

夏菜子がそう言ってカタログを広げる。


「見て、頑張れば、たぶん私にも買える」

「へぇ…いやいや、でも買っちゃうと結婚遠ざかりそうな気がしない?」

「だけどさ、男なんてあてになる?梅崎さん」

「…ならないね…うん。ならないわ、その通りだわ、私も考えよ。そして、いつでもあいつを追い出してやる」


「そう、そのいきよ!」


由梨はマンションのカタログを手に取った。

「これ…ほとんどファミリー向けですよね」

「そうだよ~だから、貸せるんでしょ」

「水川さん、現実的…」

「なんでよ、看護師なんて大概みんなそうでしょ?こうして、恋ばなしててもさ、恋だけじゃ生きていけないしね」


「花村さんなんてさ、衛看でしょ。えらいよね15やそこらでこの道を選ぶなんて」

「いえ…単に就職に困らないかなぁ、って」

「やだ、花村さんもやっぱり、現実的じゃない」

「そう。ですね」


「だいたいさ、すごいイケメンエリートと付き合ってて、がっつかないってかなり現実的な証拠だと思うわ」


「そうだよね、仕事が手についてるなんてそういうことだよね」

二人に笑われて由梨はそうかな…と思わず考え込んだ。


一つの懸念、渉がいやがらせをしている可能性が消えた事が…ホッとしてもいたし、しかし全くわからなくなった相手がまた不安を大きくさせた。

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