第53話 証し

  

 ものすごく久しぶりに、電車に乗った。

 その日は気持ちよくからりと晴れた暖かい気候で、扉の脇に立って流れる景色を眺めながら、彰はぼんやりと「病院とか刑務所とか、何らかの施設に長いこといた後の感覚ってこんな感じなのかも」と思う。

 急に解き放たれた籠の中の鳥のようで、どこにでも自由に行っていいのに、足元がふわふわしてどこかしら不安だ。

 それをずっしりと引き留めているのが肩にかけたバッグの重さだった。もともと最低限の着替えや洗面道具しか持ってきていなかったのに、今朝澄子が「返さなくてもいいから」といくつもの密閉容器に詰めた大量のお惣菜を持たせてくれたのだ。

 その重たさが、人混みの中でふっとひどく頼りなくなる自分の気持ちを安心させてくれる。

 窓から眺めている景色がだんだん見慣れたものに変わってきたのも、彰をほっとさせた。

 そうだ、帰る前に一度宏志の家に顔を出しに行こう。

 自宅の最寄りの駅まであと数駅となって、彰ははたとそう思いつく。今日帰宅することは言っていなかったし、澄子の家に移ってからは二人とは殆ど話せていない。あれこれと彰を構いたがる澄子の隣で、あまり長電話するのも気がひけたのだ。

 そうは言ってもさすがに会見の直後には端末を借りて宏志と通話をさせてもらったが、満ちるとは話はしなかった。澄子は勿論信用できる相手だったが、少しでも満ちるが宏志の家にいることを知っている人間を減らしたかったのだ。

 彰はぐい、と肩にバッグをかけ直して、開いた扉からホームへと歩み出た。

 


 ちょうど時間は昼営業の終わる直前で、彰は少し考えてから普通に店舗の入り口から入ることにした。

 がらり、と戸を開けると、聞き慣れた「はい、いらっしゃいませ!」という威勢のいい宏志の母親の声が、途中で裏返る。

「なに?」

 厨房からカウンター越しにひょい、と顔を出した宏志の目が、彰の姿をとらえてまん丸になった。

 彰はなんとなく照れ臭い気持ちになりながら、軽く片手を上げて。

「ちょっ……」

 宏志はすばやく菜箸を置いて、くるっとカウンターの端をまわってこちらへと出てくる。

「宏志、どうした?」

「御堂くん」

 厨房の奥側から店内に背を向けたまま尋ねる父親に、母親が近寄って小さく声をかけた。

「えっ?」

 振り返ってこちらを見る彼に、彰は小さく頭を下げる。

「お前、大丈夫なのか」

 目の前に立って心配そうに尋ねる宏志に、「うん」と軽くうなずいてみせて。

「お店、済むまで奥で待ってていいかな? いるよね?」

 満ちるが、というのを省略して上を指差して聞くと、宏志も「うん」と答えてうなずく。

「判った、じゃ上にいるよ。お昼終わったら呼んで」

 彰はそう言ってぽん、と軽く宏志の腕を叩いて店の奥へと入っていった。

 一階の居間の隅にバッグを置かせてもらうと、二階へと上がる。二階は宏志の部屋と両親の部屋があって、満ちるは夜は一階で寝ているが、昼間はうっかりお客さんに見られたりしないよう、店の営業時間は二階のどちらかの部屋にいることが多いらしい。

 宏志の部屋のドアをこんこん、と軽く叩いてみると、中から小さく「はい」と声がした。

「御堂です。久しぶり」

 そう声をかけると「え、えっ?」とひっくり返ったような声と同時にガタガタ、と音がして、それからがちゃり、と勢いよく扉が開いた。

「御堂さん……!」

 丸い目を更に丸くして自分を見上げる満ちるに、彰はくすっと笑って。

「ど、どうしたんですか。もう大丈夫なんですか」

 どもりつつ早口で尋ねる彼女に、彰はうなずく。

「うん。会見、見たよね。僕はもうすっかり無関係、てことに上手くしてもらったし、ああして全部さらされちゃった以上、今更僕や君に機関がどうこうする必要も無いし。そもそもそれどころじゃないだろうけど」

「ああ……あ、どうぞ」

 毒気を抜かれたような顔で立ち尽くしていた満ちるは、はたと我に返って体をずらして部屋の中に彰を招き入れた。

 彰は満ちるを机の前の椅子に座らせて、自分は部屋の真ん中であぐらをかいて座りながら、

「だから満ちるちゃんも、ある程度実家の方が落ち着いたら、一度帰ってもいいんじゃないかな。マスコミがいなくなるまではこっちにいてほしい、てお姉さん言ってたけど」

 と、深く考えずにさらっと言うと、満ちるは真顔になって黙り込んだ。

 その顔に彰はあ、とと胸をつかれる。

「……あれから、お姉さんと話した?」

 慎重に聞くと、満ちるは目を伏せて「いいえ」と首を横に振った。

「義兄さんからは一度話してみたら、て勧めてくれたんですけど。でも、どうしても……まだ、整理が、つかなくて」

 言いにくそうにぼそぼそと呟いて、一度言葉を切る。

「御堂さんに兄の事故の話を聞いた後は、とにかく腹が立って、今姉と話したらきっとめちゃめちゃに責めてしまう、ううん、罵ってしまう、そう思ってて。会見を見ていても、何なのこの人、綺麗事ばっかり、て腹が立って……でも」

 膝の上で指を握りこむように手を組み、満ちるはきゅっと口元を引き締めて。

「でも……わたしは今まで一度も、この人の努力を、認めたことがなかったな、て、そんな風にも思えて。やり方は間違ってたと思うんです、でも、それでもきっと、姉はあれが自分にできる最高のことだと考えて実行したんだろうし、姉がそうすることを兄は理解していたんだろうな、て」

 満ちるはわずかに顔を歪めて、長く息を吐く。

「結局、わたしは子供で、だからずっとカヤの外に置かれてて……わたしの知らないところで兄と姉は、わたしを守る為にいろんなことをして、今がその結果で。だからわたしはそれを受け入れなくちゃいけない、そうは思うんですけど、でもやっぱりどうしようもなく腹も立って」

「うん。判るよ」

 彰は満ちるを見上げながら、できるだけ優しく声をかけた。

「宏志も言ってたでしょ? 今決めなくてもいい、て。今はまだ、お兄さんとお姉さん、どっちにも気持ちが混乱してるだろうから、最終的にどうしたいか、なんてまだ決めなくってもいいよ」

「……はい」

 ごくごくかすかな微笑みを浮かべてうなずく満ちるに、彰はほっと内心で胸をなでおろして。

「御堂? 満ちるちゃん? 入るぞ」

 と、外からノックの音がするやいなや、扉がぱたんと開いて、カップを乗せたお盆を持った宏志が顔を出す。

「はい、コーヒー」

 言いながらお盆を差し出してくるのに、彰は「ありがとう」とカップを受け取って。

「お昼、終わったんですか」

「うん。今日はいつもよりお客少なくて、さくっと締められたよ」

「じゃ、片付けとお掃除、手伝ってきます」

 満ちるはカップを受け取らずにさっと立ち上がる。

「御堂さん、ありがとうございました」

 そして頭を一度深々と下げ、すばやく部屋を出ていって。

「……なんて言ってた?」

 お盆を机に置いて、満ちるが座っていた椅子に座ると、宏志は心配そうに閉まった扉の方を見やる。

 彰はカップを持ったまま宏志のベッドに座り直して、満ちるの言葉を伝えた。

「ああ、うん、俺にもそんなようなこと言ってた」

 ずっ、とコーヒーをすすって、宏志は息をつく。

「まあ……そりゃ、仕方ないよな。だって、七年だぜ? 七年ずっと、兄貴は死んだと思い続けてて、でも実は生きてて、しかも姉貴が金を受け取ってそれを隠してた、て、そんな話、いきなり飲み込め、て方が無理だろ」

「確かにね」

 彰はうなずき、自分もコーヒーを口に含んだ。

 その味に、ふっと記憶がよみがえる。

「宏志、会見の前に『パンドラ』入ってもらった時のこと覚えてる?」

「へ? て、二度目の? え、なんかあったっけ?」

「コーヒーの味、しなかったか」

「コーヒー?」

 オウム返しに言葉尻を上げて、宏志は一瞬、手の中のカップに目を落とした。

「……あ、ああー、うん、言われてみれば。なんか、甘いヤツ、クリームみたいな」

「そう、それ」

 彰は勢いづいて少し前のめりになる。

「それ、どんな味だった? 美味かった?」

「えー……俺、普段、コーヒー甘くしないからなあ。うん、まあ、でも、美味かった、と思うよ。こんなにちゃんとコーヒーの味するんだ、てびっくりしたもん」

「……そっか」

 ふっと口の端に笑みを浮かべて、彰はカップに残ったコーヒーに映る自分の顔を見つめた。

 美味しかったってさ、シーニユ。

「どうした、御堂」

 宏志が怪訝そうに聞いてくるのに、彰は「いや」と笑って首を振って。

「普段つくらないひとが淹れてくれたから。味、気にしてたんで」

「ふうん?」

 宏志はまだ不審そうな顔をしながらもうなずいて、それからあ、という顔になる。

「そういや、宮原から連絡あったぞ」

「えっ?」

 久しぶりに聞いた名前に、彰は顔を上げた。

「会見見た、って。今はまた中国にいるそうなんだけど。ものすごい興奮してたよ」

「そうなんだ」

 想像するとちょっと可笑しくて、彰はくすっと笑って。まあでも、きっと何年も何年もずっとひっかかっていたのであろう英一のことが判って、それも生きていたと知って、彼がどれだけ嬉しかったろうと思うと自分のことのように嬉しい。

「それで、例の出資者に『パンドラ』の話したら、金出してもいい、て言ってるって」

「へえ?」

 話が思ってもみないところにいって、彰の声がひっくり返る。

「今はそんな大それたことやらかした後だからそれどころじゃないだろうけど、将来的に医療とか娯楽とかで充分収益が得られるシステムなんじゃないか、てさ。だったら誰も手をつけたがらない今の内に、自分が出資者としてある程度の権利を握れれば、て思ってるらしい」

「それは……神崎先生に話したら、興味持ちそうだ」

 彰は真顔になってうなずいた。国からの補助金、多数の企業からの寄付金、『パンドラ』での稼ぎ、そして「事業」の稼ぎで成り立っていた機関が今後どうやって資金源を得るか、そこは悩みの種のひとつだと神崎は言っていた。何とか寄付金を引き上げないよう磯田達に企業行脚をしてもらわないと、そんなことも。

「だろ? だからお前にその辺に渡りをつけてほしい、て宮原が」

「え、俺? なんで?」

「タイミング的に考えて、あの先生の言ってた『外部の匿名の協力者』てお前だとしか思えない、てさ。あいつ一応それなりの人に見込まれただけあって、いい勘してる」

「確かに。すごいな」

 彰は素直に感心してうなずく。

「次に帰国する時また連絡する、て言ってたから、そしたら伝えるよ。いいよな?」

「うん、勿論」

 彰はもう一度うなずいて、コーヒーを飲み干した。



 宏志の店を出ると、もう一度重いバッグを肩にかけて、彰は家に帰った。

「……ただいま」

 誰もいないことは当然判っていて、けれどさすがに二ヶ月ちょっと放置していた家そのものに何も声をかけないのも悪い気がして、小さく声に出して言いながら靴を脱いで。

 中はしん、と静まり返って、カーテンのぴっちり閉められた薄暗い部屋は隅まで四角く冷えている。

 けれど何故だか、ほっとした。

 今はもう自分だけの家だけれど、それでもやっぱり家は家だ。誰かと話せたり食事をしたり面倒をみてもらえたとしても、他人の家とは気持ちが違う。

 何とも言えない落ち着きを感じながら彰はキッチンへと移動して、バッグの中身を次から次へと冷蔵庫に詰めた。

 満ちるを最初に宏志の家に預けて自分はビジネスホテルに行く前、一度帰宅した時に調味料的なものを残して後は殆ど捨ててしまって、ほぼ空っぽに近かった冷蔵庫の中があっという間に一杯になる。

 その眺めにふっと笑みをもらしながら、彰はコーヒーを淹れた。

 ソファに座るとテーブルの端に放ったまんまの携端が目に入ったが、きっと凄まじい数の未読メールがたまっているのだろうと思うと何とも面倒な気がして、あえて目をそらす。

 それでも一応リモコンは耳につけて、けれど連絡系の機能はすべて無視して音楽をかける。

 特に曲は選ばずランダムに始めさせたのに、最初に流れてきたのは『韃靼人の踊り』だった。

 それはオーケストラ曲ではなく女性のコーラスでアレンジされたもので、いつか皐月が奏でていたあの有名な主旋律が、澄んだ声に乗って柔らかい大きな布のようにふわりと広がって全身にかぶさってくる。

 ……ああ、帰ってきたな。

 自分ひとりしかいない家、そこに満ちる思い出の深い曲、それはかつての自分には堪え難い痛みと喪失が突き刺さるだけのものだった。なのに、今はひどく安らいだ、馴染んだ服を身につけたような心持ちがする。

 ここが自分の居場所だ、そう強く思う。ここが、自分の帰るべき場所なんだと。

 それは勿論、他人の家に長居し続けたことに自分で意識する以上に神経がすり減っていたから、というのが大きいと思う。ずっと無意識に気を張っていたのだろう。

 けれど落ち着く理由は、それだけじゃない。

 カップの底を無意識に指でなぞりながら、彰はゆっくりと室内に目をすべらせた。

 壁にかけられた小さな海の絵は、結婚した時に皐月の古い友人でイラストレーターをしている女性が贈ってくれたもの。テレビ台は彰がもともと使っていた大きめの茶色の濃い木製のものを持ってきて、それにあった色のローテーブルを置きたい、と皐月があれこれ探し回っていた。

 テーブルの下に敷かれた草色の毛足の長いラグマットは皐月の両親からの結婚祝いだ。結構有名なブランド品らしいが、今はもう名前を思い出せない。カーテンはその色にあわせて、リーフ模様の入った薄い黄緑のものをふたりで選んだ。

 座っているこのソファ、これは決めるのになかなか苦労した。座り心地、色、サイズ、予算、どれにもお互いの好みがあって、何軒も店を回っては議論しあったものだ。

 今こうして使っているカップ、これは新居、つまりこの家に越す時にせっかくだから、と揃いで買ったもの。どちらもひとり暮らしだったから、一緒に暮らすのにそれぞれの食器を持ち寄れば数も種類も問題なかったけれど、当然柄やブランドはバラバラだ。これから少しずつ揃いの物を買おうね、とこのカップを最初に、少しずつ少しずつ、お皿やお椀、ちょっとだけ良いものをそのつど買い揃えてきた。

 食器だけじゃない、ここのすべてがそうだ。

 彰はもう一度、部屋の中にゆっくりと目をすべらせる。

 それぞれの歴史、ふたりで暮らすことを決めてからの時間、その中でだんだんと足されたり引かれたりしながら今のこの場所がある。

 ここのすべては、自分と皐月、ふたりでつくりあげた空間なのだ。だからこんなにも、魂がしっくりくる。

 たとえ皐月そのひとが、今ここにいなくても。

 それでもここにいると、はっきりと彼女の時間が、彼女の人生が、その魂がすぐ隣にいて自分と同じように息づいていると感じる。

 ……良かった。ちゃんと、いたんだ、ここに。

 彰はカップを置いて、ソファに深く沈み込む。

 確かにあったんだ、ここに。

 記憶を失っても変化が失われる訳ではない、そう言ったシーニユの言葉を思い出す。

 多分、それと同じだ。

 皐月の存在、そのものは失われてしまった。けれど彼女が自分に与えてくれた大量の変化は、彼女と共に培ってきたすべては、決して失われない。こうしてちゃんと、自分の傍にある。

 自分には何にも無い、そう思って生きてきた。あの火事の日、皐月にそう言ったように。

 なくすのが怖かったから。

 父と母のように、すべてが消えてなくなることが怖かったから、だったら何にも手に入れないで生きよう、そう思っていた。大事なものも綺麗なものも、何ひとつつくらない。何も求めない、誰の目にも止まらない、そんな風に生きよう、と。

 けれどどうしてもどうしても我慢できなくて、皐月を欲しい、共に生きたい、そう強く願った。

 なのにそれも奪われた。

 また失った、すべてが消え去った、自分の中は空っぽの底無し穴だ。

 そう、思っていた。

 天井から下がっている木製フレームのシーリングライトを見つめて、彰は目を閉じる。

 あれは、皐月がひとり暮らしを始めて最初の誕生日にバイト代で自分で自分に買った、そう話していた品。

 ……ああ、あったんだ、ここに。

 閉じたままの彰の目の端から、つうっと涙が流れて落ちる。

 消えてない。なくなってなんかいない。ちゃんとあったし、今もある。

 今も全部ここに、そして自分の中に、ちゃんと在る。

 シーニユ、君が正しい。

 いなくなることは魂が引き裂かれるように辛い、喪失は底無し沼のように深い、けれど……残り続けるものが、確かにこの世には在るのだ。彼女と自分とが同じ時間を生きた、そのあかしが。

 君が正しいよ、シーニユ。

 閉じた目の裏に、最後に見た彼女の笑顔が、そのきゅっと細まった瞳に何かがきら、と輝いた姿が、さっと現れて消えた。

 

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