第54話 感謝

  

 神崎に指定されたその日、彰は約束の時間よりずっと早くに家を出た。

 研究所に行く前に、もうひとつ用事があったからだ。

 前に待ち合わせたのと同じ、駅前の喫茶店で相手に会う。

 約束の時間にはまだ十分程あったが、数ヶ月ぶりに会うその弁護士はぴしりとスーツを着て奥の席に座って待っていた。

 店から入ってきた彰の方を見て、一瞬、わずかに目を見開いて唇を引き締める。

「すみません、お待たせして」

 近寄ってこようとするウエイトレスにコーヒーを頼んで、彰は頭を下げて向かいに座った。

「いえ、早く着き過ぎまして」

 相手はそう言って頭を下げ返して。

「それで、今日はどうなさいましたか?」

「あ、はい」

 テーブルに置かれたコーヒーに軽く頭を下げて、彰は坐り直した。

「あの、賠償金の裁判の件ですけれど、急ですみませんが僕を原告団から外していただけないかと思いまして」

「えっ?」

 前回もそうだったけれど、あまり個人的な感情を出さない相手の顔にわずかに驚きの色が走る。

「それは……何か、ございましたか? もし不都合でなければ、理由をお聞かせいただければ」

「そうですね、何と言うか……一言で言うと、もうお金が必要じゃなくなったので」

「御堂さん」

 肩をすくめてさらっと言う彰に、弁護士はきっといさめるような顔つきになって背を伸ばした。

「こういう事故の際の賠償金というのは、お金が欲しい欲しくない、ではないんです。必要不必要や額の問題ではなく、賠償金というのは、いわば償いのひとつのかたちです。物質的にも精神的にも、何かを大きく損なわれたことに対して、被害を受けた方が求める権利のあるお金なんです」

「はい。それはよく、判ってます」

 その相手の真摯しんしな態度が本心からなのか、それとも「仕事」として「顧客」である彰を逃したくないからなのか、今ひとつ読み取れないながらも、言葉としては間違いなく正しい、と感じられたのに彰は両手を上げてうなずく。

「でも、むしろ、だから、です」

「えっ?」

「僕の動機は……そういうのじゃ、なかったので。罪を償わせたいとか、相手に損失を与えたいとか、謝罪が欲しいとか、そのあかしを何かかたちにして手に入れたいとか、そういう当然の希望じゃなくて、本当にただお金が欲しい、少しでも余分なお金が入手できるなら方法は何だっていい、そういう不純な、動機だったので」

 そんな言葉をむしろさばさばと語る彰を、相手はわずかに眉をひそめて見返した。

「でもちょっと事情があって、もうお金、要らなくなったんです。だったら僕なんかよりもっとずっと、真面目にそれを求めてる、謝罪としても、これからの人生に必要な財産としても、そういう方々で分けてもらいたいと思ったので。僕なんかが取り分をもらったら、その方々の分が減ってしまう」

「…………」

 弁護士はまだどこか不審そうな顔つきをしながらも口をつぐんで、何も入っていないように見えるコーヒーをかちゃかちゃ、とスプーンでかきまぜる。

「事故を起こした人間達に何も求めない、ていう訳じゃないんです。法律的な罰は当然受けてほしいし、気持ちとしては一生塀の中から出てくるな、くらいのことは思ってます。でも、お金は僕より、他の人達で取って分けてほしい」

「……判りました」

 完全に割り切っている様子の彰に見切りをつけたのか、小さく息をついて相手はうなずいた。

「すみません、お手数おかけするだけおかけして、こんなお話で申し訳ないです」

「いえ。……御堂さん、何かありましたか」

「え?」

「その……店に入ってこられた時から思ってたんですが、前にお会いした時とは、ずいぶん雰囲気が違われたので」

「ああ」

 彰はかすかに微笑って、ふっと店の窓の外に目をやって。

 あと数日で三月が終わる外の光は、ずいぶんと明るい。

「そうですね……いろいろ、ありました」

 目を戻してもう一度にっこり笑うと、伝票を持って立ち上がって。

「せめてお詫びに、ここは僕が。本当に、ありがとうございました」

 そして相手が何か言う前にすばやく頭を下げ身を翻して、彰は店を後にした。



 研究所に着いた彰を、神崎と彼の車椅子を押す磯田とが出迎えた。

「お久しぶりです」

 二人の前で、彰は頭を下げて。

 変装してやってきて以来のそこは、もはや受付に生身の人はおらずモニタからの呼出になっていて、ロビーもがらんとしている。

「ああ、元気そうだね」

「神崎先生こそ」

 車椅子にこそ座っているものの、二週間ちょっと前にモニタ越しに会話した時よりずいぶんと顔色が明るくなり、棒のようだった腕や白衣の袖から覗く手も少し肉付きが良くなったようで、彰は安心した。

「この間の検査では、いろいろな数値がずいぶん良くなられてましてね。わたしが思うに、あと十年以上は長生きされますよ、神崎さん」

 先に立ってエレベーターに向かいながら、磯田は嬉しそうに言った。

「じゃ、澄子さんにもまだまだ頑張ってもらわないといけませんね」

「ええ、それはもうね。ご自宅は遠いですから、神崎さん、今は近くのマンションを借りられてるんです。彼女、住み込みで来てくださってて、毎日わたしの分もお弁当をつくってくれてね。ちょくちょく夕飯に呼んでくださったりもするんですよ」

「へえ、いいですね」

「おかげでここ近年で一番、充実した食生活を送らせてもらってます。今回の件で最大の役得ですね」

 そう言って本当に芯から楽しげに笑う磯田を見て、彰はほっと気持ちがなごむのを感じた。まだ数年とは言え、それなりに気持ちを込めて取り組んでいたであろう仕事の場がこんなことになって、それを毎日目の当たりにするのは辛いのではないかと心配していたのだ。

「そうそう、君の友人が紹介してくれた投資会社の役員の方だが、今度直接会って話をすることになった。実際的なことは専門の担当と詰めてもらうことになるが、おそらくそれなりの出資はしてもらえそうだ」

 と、車椅子からそう神崎の声がして、彰はそちらに顔を向けた。

「そうですか。それは何よりです」

「我々の今後の最大の懸念は資金源だったからね。今回のことは何から何まで君の世話になりっ放しだ」

「いえ、そんな」

「神崎さんの言う通りです」

 謙遜する彰に、磯田も首を振ってきっぱりとそう言い返して。

「ここは本当に、大変なことになりましたが……こうして一からやり直すきっかけを、あなたがくれましたからねえ。でなければいつまでもここは、ぐずぐずとどうしようもない泥の中を歩き続けるだけでしたよ」

 エレベーターを降りながら、磯田はしみじみと言う。

「なんと言っても、美馬坂さん達、事故にあわれた方がご家族と再会できる場を用意できることになったのは、本当に、御堂さんのおかげですからね。皆……一言では言えない感謝を、あなたにしているんですよ」

 大きな窓からさす日差しを受けながら廊下を進む磯田の噛みしめるような口ぶりに、彰は黙ってただうなずいた。口先だけで謙遜するより、しっかりと受け止めたい、そう感じたのだ。

「そういえば、御堂くん、美馬坂くんに会うかね?」

 と、神崎がふっと顔を上げてそう問うてくる。

「え?」

 そもそも今日は都市に入れるから、ということで呼んでもらったのでは、そう思って彰は首を傾げる。

「本当の、美馬坂くんだよ」

 続いた言葉に更にきょとんとすると、神崎はわずかに苦い笑みを浮かべた。

「伊豆の施設から運んできたんだ。彼等の肉体は、この先にある。勿論、今もまだ眠ったままだが」

 そう言って細い指を廊下の奥にかかげるのに、彰は思わず足が止まってしまう程の衝撃を覚えた。

 今、この場所に、あるのか……彼の、体が。

 あれから七年間、眠ったまま年をとった、その肉体が。

「御堂くん?」

 二人が怪訝そうに自分を見るのに、彰は小さく首を振ってまた足を動かす。

「大丈夫かね?」

「ええ。……ええ、あの、でも……今は、やめておきます」

 もう一度首を振って、彰ははっきりとそう言った。

「目覚めた時に……今の彼の体に、今の彼の心が入っている状態で、会いたいので」

 自分が一度も見たことのない「ナマ」の英一の姿、しかも七年分年をとっている、それを彼本人が見ていないのに先に見てしまうのは、英一に対して何となく申し訳ない、悪いことのように感じたのだ。

「……そうか」

 神崎はひとつうなずいて。

「なら、ますます私は頑張らないといけないな」

「そうですね。まだまだ、弱られてる場合じゃありませんよ、神崎さん」

 磯田が笑ってそう言って、軽く神崎の肩を叩いた。



 磯田に連れられて部屋に入ると、そこには今まで『パンドラ』に入っていた時と同じ繭型の機械が置かれていた。

 機械の隣には白衣の、磯田と年の近そうな、白髪混じりの髪をぴっちりと後ろに固めた背の低い男性が立っていて、こちらにぺこりと頭を下げてくる。

「御堂くん、彼、本橋さん。すみませんがわたしと神崎さん、ちょっと急な取材が入りましてね。セッティングは彼にお願いしてありますので。また後で迎えに来ますから」

「あ、はい」

「じゃ、本橋さん、頼みます」

 磯田と本橋はもう一度軽く会釈しあって。

「初めまして、御堂さん。本橋です」

 磯田と神崎が部屋を出ていくのを見送って、三度頭を下げてくる。

「御堂です。今日はよろしくお願いします」

「そちらにウェアと帽子が用意してありますので、お着替えください。下着はお持ちくださいましたよね」

 そう言いながら部屋の隅に置かれた衝立ついたてを手でさししめすのに、彰は「はい」とうなずいた。

 衝立の影には着替えを入れるカゴの置かれた棚とパイプ椅子があって、カゴの中にはたたまれたウェアと帽子がある。

 ごそごそと着替え始めると、向こうでも何か準備をしているのか、カタカタと軽い音を立てながら本橋が話しかけてきた。

「お会いしたいと思っていました」

「えっ?」

 セーターを脱ぎながら、彰は顔を上げる。

「総会の時に、書類を持ち出してくださったでしょう。あれ、準備したの、わたしなんです」

「ええっ?」

 彰は思わず、ひょい、と衝立から顔を出した。

 カプセルに繋がれた機械の前に座って何かを操作していた本橋は、そちらに顔を向けて少し照れ臭そうに笑ってみせる。

「じゃ、神崎先生に『事業』のことを教えたのも」

「はい、わたしです」

 彰が聞くと、彼の顔からはすっと笑みが消えて、何故かさみしそうな表情になって。

「それが結果的に、神崎さんをここから追い出すようなことになってしまって。それなのにわたしは、自分の立場を失うことを恐れて保身に走りました。ずっと、償いたいと思っていたんです」

 彰はすっかり手を止めて、相手をまじまじと見つめた。

「神崎さんと磯田さんから、今回のことに御堂さんがどれ程ご尽力くださったか、お話は聞いてます。わたしに……機会を与えてくださって、ありがとうございました」

 すると本橋は立ち上がって深々と頭を下げてきて、彰は思いっきり恐縮する。

「いえ。いえ、あの、そんな。そちらこそ機関の中にいながら、あんな危険を冒してくださってありがとうございます」

「何だか若い頃を思い出しました。久々に楽しかったですよ」

 頭を下げ返す彰に、本橋は沈んだ表情をぬぐって微笑んでみせて。

「どうぞ、お着替えください。今日のことは美馬坂さんにも連絡がいっています。きっと、待っていますよ」

 そしてそう言われて、彰は急いで着替えを再開した。

  

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