第49話 意思

 

『昨日は取り乱してしまってすみませんでした』

 次の日、朝一番に満ちるから通話がきて、彼女が開口一番言った言葉がそれだった。

 宏志は店の仕込みなのか、その場にいるのは満ちるだけだ。

「急にあんな話聞いたら、誰でも取り乱すよ。こちらこそ、知ってたのに今までずっと黙っていてごめん」

 頭を下げる彼女に、彰はそう言って手を振ってみせる。

『あの後、羽柴さんが夜中まで、わたしの話を聞いてくれて』

 満ちるが言うには、突然の英一の生存を聞いて激しく混乱と困惑を覚えたこと、姉や両親への恨みが更に募ったこと、ついには兄にまでどうしようもない反発を覚えてしまったこと、そういう様々な諸々を、宏志は何時間もじっくり聞き続けてくれたのだという。

 そして、こんなにぐちゃぐちゃになってしまって自分でも自分の今の気持ちが判らない、一体これからどうしたらいいのか、と訴える満ちるに、宏志は真顔で「それ、今決めなくちゃいけない?」と言ったのだそうだ。

「お母さん達、お姉さん、洋次さん、お兄さん、それぞれに対してどういう感情を自分が持ってるか、て、それ今決めなくちゃ駄目?」と。

『今すぐ決めないと何か困ることある、て聞かれて、そう言われたら確かに別にこの場で結論出す必要ってないんじゃないか、て気がして』

 どこか苦笑まじりに、それでもどこかひどく柔らかな表情を浮かべて、満ちるはそう言った。

『じゃ満ちるちゃんが今一番優先したいことって何、て聞かれて、そしたらもう、兄の無事、兄が今いるところから出て、この世界に、わたしの近くに戻ってきてくれる、それ以上に優先させるものなんかない、そう思ったんです』

 すると宏志は「よし、じゃ一日でも早く事故の話を世間に公表して、会いに行こう。それで兄さんを、中から引きずり出そう」と、それは熱く語ったのだそうだ。

『なんだか……羽柴さんの話、聞いてたら、ほんとにそれ、できるんじゃないか、て』

 満ちるはわずかに歯を覗かせ、ほんのりと微笑む。

 昨日のあの姿からたった半日で、彼女の笑顔が見られるなどと思いもしなかった彰は、改めて親友の底力に感動した。

『本当にそれが、かなうんじゃないか、て、そう思えたんです』

 そして今度こそ本当ににっこり、と微笑んで満ちるは彰を見つめて。

『母にも父にも姉にも、勿論兄にも、思うところは山ほどあります。言いたいことがたくさんある。全部言おう、そう思ってます。でもそれは、今じゃない』

 小さく首を振って、満ちるはほんの一瞬だけ目を細めた。

『何よりも先に、わたしは兄に会いに行きたい。そして兄をこちらに引き戻したい。だから、もしも、万一、姉が御堂さん達に協力できない、なんて言い出したら、わたしにも姉と、話をさせてください』

 そう言って軽く頭を下げられて、彰は慌てて何度もうなずく。

「うん。うん、勿論。その時にはぜひお願いするよ」

 それにしても、本当に……一日でこの変わりようってすごい。そしてそれを引き出した宏志にはつくづく感心させられる。

 もし同じことを自分が言っても、こんな風に腹の底から納得してはもらえなかったんじゃないだろうか。実際この二人、お互いにかなり脈ありな感じがする。

 そんな場合でないことは判っていつつも、彰は内心で親友の新たな門出を全力で応援した。



 そして更に二日後の夜、洋次から連絡が入った。

 清美は洗いざらい打ち明けた彼に対してたった二言、「まず自分と御堂さんだけで話をさせてほしい。それまでその件については何も話す気は無い」と言い放って、それ以来仕事以外では本当に一言も口をきかないのだそうだ。

『正直ちょっと、僕にも彼女がどう対処するつもりなのか、見当がつきません……自分が説得して、一緒に戦いたい、なんて大口叩いた癖にまた御堂さんにご迷惑をかけてしまって』

「いえ。僕もお姉さんとは、一度お話をする必要があると思ってました。どうぞ、代わってください」

 彰が言うと、洋次は何度も「すみません」と頭を下げて、二人の寝室らしい部屋から出ていった。

 入れ替わりに奥に映っている扉から、殆ど黒に近い紺色の和服をきりっと着つけた清美が姿を現す。

 すべるようにこちらに近づいてくる姿は痛々しい程痩せていて、けれど切れ上がった瞳には強い光が覗いて見えた。

 すっ、と膝を折って画面の前に座ると、きっちりと四角く頭を下げる。

『初めまして、美馬坂清美と申します。この度は妹や夫が御堂様と羽柴様に多大なご迷惑をおかけしたそうで、本当に申し訳ございません。心からお詫び申し上げます』

 そしてまさに接客業の鑑と言うべき、淀みの無い、けれど上っ面な響きなどかけらも無い、真摯な口調で謝罪をされて、彰はひどく慌てた。

「いえ、あの、そういうことではないんです。そうではなくて、どちらかと言うと、僕がお二人を巻き込んだようなもので」

『いいえ。特に満ちるについては、とんでもないご迷惑をおかけして本当に恐縮しております。お世話をおかけしてしまい、お詫びの言葉もありません』

「いや、もう、本当に。僕が無理やり、こちらにひきとめたんです。どうか頭をあげてください」

 うなじが見えるほど深く頭を下げられたまま詫びられて、彰は途方に暮れつつ必死で言葉を繋ぐ。

 するとようやく、顔が見えるくらいまで清美が頭を上げてくれて、ほっと息をついて。

 けれど完全に背中を立てるでなく、ぴんと伸びた背筋をやや斜めにしたまま、というきつそうな体勢で清美は目を伏せたまま小さく息を吐いた。

『あの子の妄言につきあわせてしまって、御堂様にも羽柴様にも本当にご迷惑をおかけしました。明日にもすぐ迎えに参りますので、どうかご寛恕かんじょください』

「え? え、いや、待ってください」

 そしてそう続けられたのに、一瞬落ち着いたはずの彰はまた慌てて。

「あの、洋次さんから、お話聞かれたんじゃないでしょうか」

 急いで言うと、ほんの数ミリ、清美の眉根に皺が浮いてすぐに消える。

『……英一は七年前に亡くなりました。それが事実です』

「ちょっと待ってください」

 わずかに腰を浮かせて、彰は声のトーンを上げた。

「僕は弟さんに会ったんです。彼は、出たいと」

『あの子は亡くなったんです。お世話になっておきながら失礼を承知で申し上げますが、そのようなでたらめな話をなさって妹や夫を惑わせるのはおやめくださいませんか』

「清美さん」

 彰は身を乗り出しながら、こちらと目を合わせようとしない清美に必死で呼びかけて。

「僕がどういう立場にいる人間なのか、信じられないお気持ちは判ります。でも僕は決して、弟さんの敵じゃない。彼を助けたいんです。彼だって出たいと、ここを出て大きくなった満ちるさんの姿や、いつかはお二人の間のお子さんだってこの目で見たい、そう言っていました」

『…………』

 清美はやはり顔を上げずに、それでも今度は何も言わない。

「……僕が本当に弟さんと会ったことをあなたが信じてくれなかった時は、こう言え、と彼に言われました。最初に姉と取っ組み合いの喧嘩をしたのは四歳の時で、彼がつくったゴム飛行機を自分の夏休みの工作の宿題として持っていかれたからだ、て」

 黙ってしまった清美に少し考えてから英一の言葉を思い出してそう言うと、彼女の顔がさっと上がった。

 驚いたような目で青ざめた頰のまま、こちらを見ている。

「あれは本当に会心の出来だった、今思い出しても口惜しい、そう言っていました」

 続けて言うと、その瞳が更に丸く開いた。

『……あの、それだけですか』

 一体何を言うのか、固唾を呑んで待っていると、しばらくして清美がそう言ったのに彰は梯子を外されたような気分になる。 

「え、……えっ?」

『それだけですか。それ以外には、何か言いませんでしたか』

「ええ……?」

 彰は首をひねってあの時の英一との会話を思い返してみたが、それ以上の詳細は聞いた覚えが無い。

「あの、はい……この件については、これしか」

 何だろう、もっと何か、キラーワード的なものが他にあったのか? もう、そんなの教えておいてくれないと、美馬坂くん。

 焦り出す彰の前で、ほう、とかすかな音を立てて清美が息をついた。

 そして背中を伸ばして、まっすぐ体を立てる。

『……信じます』

 それからそう一言言ったのに、彰はえ、と軽くのけぞった。

「えっ……え、本当に?」

 信じてもらう為に言葉を尽くしてきたのに、思わずそう聞き返してしまう。

『はい』

 清美はあっさりとうなずくと、わずかに肩を動かして座り直した。

『すみません、御堂さんが何故あの子の為にそこまでしてくださるのか、正直見当がつかなくて……もしかしてこれは機関側の何かの企みで、こちらが賛同することであの子の身がかえって危なくなるのではないか、もしかしたら既にあの子は中で死んでいて、それをごまかそうとしているのではないか、などといろいろ考えてしまい、すぐには信用できませんでした。申し訳ありません』

「あ、いえ、それは当然だと思います」

 また深々と頭を下げられて、彰は慌てて手を振って。

「僕の方も、状況がこんな風になるなんて最初は考えてもみなくて。何て言うか……ごめんなさい、ある意味成り行きで、ここまできてしまったようなもので」

 言い訳がましく言うと、清美は顔を上げて小さく首を横に振った。

『……あたしが、壊したんです』

 そしてぽつん、と、水滴のような呟きをこぼす。

「え?」

『ゴム飛行機。宿題として出して、その後、家に持ち帰るでしょう。その時……あの子の目の前で、足で踏みつけて、壊したんです』

「…………」

 彰は言葉を失って、わずかに紅潮した頰と潤んだ瞳をした彼女を見つめた。

『理由は……何でしょうね、今となっては、自分でもよく。単に嫌がらせしたかったのか、返すのが惜しくてそれくらいなら、と思ったのか、自分より器用な弟への嫉妬だったのか……多分、どうでもいい、他愛のないようなことなんです。そういうつまらないことで小さな弟の心を踏みにじれる、あたしはそういう姉だったんです』

 小さく息をついて、清美はほんの少しだけ肩を落とした。

 けれどそのわずかな動きで、今までぴん、と張り詰めていた背筋が緩み、急に年をとったように見える。

『ぐしゃぐしゃに踏み潰して、笑って立ち去りました。その後あの子が怒ったのか泣いたのか、それとも何にも言わなかったのか、壊れた飛行機を一体どうしたのかは記憶にありません。多分、どうでもいいことだったからです』

 一度言葉を切った唇の端が、かすかにひきつる。

『言わなかったんですね、あの子』

「え?」

『飛行機を持っていかれた話だけして、壊された話をしなかったんですね』

「あ……あ、はい。それは、今初めて伺いました」

 彰は清美の言葉にうなずいて。そんな話、聞いたら忘れる訳がない。

『だから……信用しました。もし機関が何かあたし達を罠にかけようとして、その為に英一から無理やり昔話を聞き出したのなら、きっとあの子は、そこまで話すでしょう。そうではなく、あの子が本当に、御堂さん達のことを信用して、あの件を公表したい、その為にあたしに証言をさせたい、そう思っているから……そこまでしか、話さなかったんだと思います』

 清美はそう言うと、きゅっと口の端を歪めて苦い笑みを浮かべた。

『もしそこまで話してしまったら、御堂さんはそんな人間に英一を助ける為の協力を乞うことはためらったんじゃないかと思いますし……それに、敢えてそこまでしか話さないことで、この話を御堂さんにしたのは本当に自らの意思で、真実なんだ、てことをあの子はあたしに伝えようとしたのだと思います』

「ああ……成程、判ります」

 彰はいつか洋次が話していた、清美と英一、二人の関係性のことを思い出していた。お互いに信頼関係があり、認め合っていた、と。

『出たいと思ってるとか、満ちるの将来の姿やあたし達の子供が見たい、とか、そんなことはあの子の内面をろくに知らなくても、言えることですから……でも、その話をそこで止めて、それをあたしに伝えるよう言った、というのは、間違いなくあの子の意思を感じます』

 清美はすっかり落ち着いた様子で、青ざめた頰にもいろが戻ってきた。それと同時に、また背筋がぴん、と張ってくる。

『あの子がもうすっかり覚悟を決めているなら、こちらも腹を据えます。……どうか、よろしくお願い申し上げます』

 そしてまたきっちりと深く頭を下げたのに、彰はまたも恐縮しながら、自分も同じように頭を下げた。

「いえ、あの、こちらこそ。ご家族にもお仕事にも、大変なご迷惑をおかけすることになりますが、どうかよろしくお願いいたします」

『その件ですが』

 彰の挨拶に顔を上げた清美は、ふと眉を曇らせる。

『満ちるは……もし可能なら、この後もしばらく、そちらにお預かりいただくこと、お願いできないでしょうか』

「え?」

『公表したら、おそらく取材が、大量に旅館にも来るかと思います。あの子を巻き込みたくはないんです』

 思わず相手の眉根を寄せた表情を見つめると、彼女ははっとなってこちらを見直した。

『あの、勿論、ご迷惑でしたら構いません。ただ、その場合でも、できればそちらの近くでウイークリーマンションとか、そういうところを探していただけないかと……勿論、今までの分もこれからの分も、ご迷惑をおかけした費用についてはお支払いいたします』

「あ、いえ、そんなことはいいんです、どうでも」

 生真面目な顔でそんなことを言い出す清美に、彰は急いで首を振った。宏志が嫌という訳はないし、公表について自分が無関係な立場になるのなら、うちに彼女を置いて自分がウイークリーマンションに行ってもいい。

『今はあたしからあの子の大学には、母親の介護ということにして、休学届けを出してありまして……騒動が落ち着いたら戻れるでしょうし、商売がこの後どうなるかは正直判りませんが、どうしようもなくなったら売ってしまえば、この後あの子がひとり立ちするくらいまでのお金はできるでしょう』

 すると思いもよらぬ程さばさばと清美がそう言うのに、彰は度肝を抜かれる。

 清美は照れたように笑って、そんな彰を見た。

『夫から、聞きまして……姉さんは家族を守る為に旅館を守ろうとして、結局家族を壊したんだ、て、確かにその通りです。あの子の言う通り』

 そしてまた、ふふ、と笑うその顔は、どこか嬉しそうにも見える。

『生意気ばっかり言う子供だと、ずっと思ってましたけど……正論です。ぐうの音も出ません』

 清美は遠くを見上げるように、すっと目線を上げた。

 そのまなざしは綺麗に透き通っている。

『うちの家族は、もうすっかりバラバラです。それを無理やり、旅館というカゴの中に入れることでかろうじて保っていたようなもの。満ちるの言う通り、旅館なんて手放してしまって、英一を取り戻して、それからそれぞれが好きなところで好きなように生きていけばいい、そう思いました』

 そう言って瞳を細めて笑う姿に、彰はああ、やっぱり彼女と英一は似ている、改めてそう思った。

 

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