第47話 潜入
約束通り、二月七日の早朝に二人はやってきた。
こらちで準備しますから、と事前に断ったのに、澄子はそれよりも更に早くやってきて、作業中にもつまめるようにとひと口サイズのサンドイッチを山とこしらえてくれる。
「わ、すごく美味しい! あの、これ、余ったら包んで持って帰っていいですか」
「あら、じゃもっと余分につくっておきますね。まだ材料、ありますから」
「わあ、すみません! ありがとうございます!」
「ほんと、遠慮って言葉を知らんな武田は……」
いそいそと台所へ消えていく澄子を見送って、彰の手の甲に皺とシミの施されたシリコンの型を貼りつけながら、真人は肩をすくめる。
「こんな美味しいものを前にして遠慮なんて莫迦莫迦し過ぎますよ! 機会損失というヤツです!」
「お前それ、使い方全然違う」
「細かいなあ大野先輩。だから老けるの早いんですよ。白髪増えてるし」
「おまっ、それっ、気にしてんだからなっ」
「気にすると増えますよ」
「…………!」
先日同様、まるで学生モードの二人の掛け合いを前に、彰は必死に笑いをこらえて。今は指の腹側に偽の指紋をつけたシートを貼っているところで、笑うと手まで震えてしまう。
「……まあでも、こんな細っかい作業してたら、そりゃ老けもしますよねえ……ほんと、凄いです、大野先輩」
その手元を横から覗き込みながら、麻美が感心しきりといった声をあげる。
「武田それ、ほめてんの? けなしてんの?」
「え、どうして? 激賞じゃないっすか」
「どうもそうは聞こえんのよなあ……」
ぶつくさ言いながらも真人は手早い作業で両手を仕上げると、次は顔のメイクにとりかかった。
「これは……大したものだ」
それも三十分程でやり終えて、白髪混じりのウイッグまでつけられた彰の姿を見て、神崎はうなるように感嘆の声をあげる。
「だが本当にカメラの顔認証もすり抜けられるのかね?」
「まあ今はいろいろな方式がありますけど、やっぱり一番重要なのは各パーツの配置と、それぞれの距離間ですね。特に目と目の間、それから目と眉とか、鼻の幅とか。あと、肌温度なんかも実は重要なんで、外側に肌表面に近い温度が出る素材を混ぜてつくってます。だから暖房効いてる部屋なんかだとちょっと蒸れるかも。我慢しろ、御堂」
神崎に向かって説明しながら最後の二言を自分に向けて言うのに、彰は「判った」と声に出してうなずいて、少し驚く。こんなにすっぽり顔にマスクをかぶせられて、口なんか聞けないかと思っていたのに、何と言うこともなく普通に話せる。
麻美が差し出してくれた手鏡を見ると、そこには六十前後くらいの、自分とは全く別人の初老男性の顔があった。
ちょっと垂れ気味につくられた目の位置は確かに元の自分のそれより少し間が狭いように見えて、でもそれ程視界が遮られている気もしない。この辺は真人の技術の成せる技なのだろう。
鏡を見ながら皺とシミの目立つ頰を手の平でなでてみると、触り心地もまるでヒトの肌だった。顔に触れている側はつるりとしたシリコンっぽい触感なのに、不思議な感じがする。
「すごいなあ……」
顔中をなでまわしながら彰が感心しきった声を上げると、麻美がぱん、とひとつ手を叩いた。
「はい、じゃあ次はこっちです」
そう言って下げてきた大ぶりのビニール袋からやたらもこもこしたシャツとズボン、それから茶色のジャケットを差し出して。
「むこう向いてますから、ちゃちゃっと着ちゃってください。あ、ジャケットはまだですよ」
そう言われて彰はうなずき、言われた通りに薄灰色のシャツとベージュのズボンを身につける。どちらも内側のあちこちにシリコンのような感触の物体が入った布袋が縫い付けられており、二つを着込むと立派な中年体型ができあがった。
「着ました? ……お、いいですね。じゃ、次こっちです」
そう言って麻美はジャケットを手に取る。
「ここね。ここ、判ります?」
と、ばっと裏側を広げてみせると、背中の裾、裏地と表地が縫われた部分を指で示した。
「ここ、爪でひっかけて、ほら」
するとそこには巧みに隠されたスナップがあって、それを外してみせる。
「この中に物が入れられるようになってます。A4の紙サイズが入れば良かったんですよね?」
「うん」
「ならばっちりです。着てみてください」
言われるままにはおってみると、少しゆるっとしたサイズ感だ。
「大きめの方が多少厚めのものを入れても判りにくいですし、お年寄りは余程のおしゃれさんじゃなければ、どちらかと言うとゆるめの服を着られますからね。その方が多少猫背でも楽ですし」
言いながら麻美はぱん、と軽く彰の背中を手で叩いた。
「歩き方は少し猫背、前に傾いてる感じで、歩幅は狭く。足はあまり高く上げずに、すり足気味で。膝は伸ばしきらない。ほんのちょっと左右に体揺らして歩くとリアルお年寄り感増しますけど、まああまり幾つもいっぺんに、て言うのも難しいでしょうから、その辺は程々に」
「留意するよ。ありがとう」
有難いアドバイスに微笑んで見上げると、麻美がちょっと変な顔をして軽く吹き出して。
「……ああ、なんかすごく、変な感じ。こんなオジさんから御堂先輩の声がするって」
「ああ、声は難しいね」
「男の人は、逆に少し高い感じにすると年取った感出ますよ。かすれめで高め」
「判った、気をつける」
彰がうなずくと、麻美はにこにこと笑ってぱん、と軽くその背を叩いた。
「じゃ、頑張って正義の味方、してきてくださいね」
「気をつけろよ」
後に続いて真人が言うのに、彰はもう一度「ありがとう」と言って深くうなずいた。
自身の体力的なこともあるし安全面のこともあるし、ということで神崎は研究所までリムジンを頼んでいた。結構な料金になるんじゃないか、と彰は内心思ったが、この姿で車椅子を押してバスや電車を乗り継ぐのにはやはり多少の不安があったので、正直ほっとする。
神崎は彰と並んで後部座席に座ると、運転席との間の仕切りを閉じてしまう。どうやら行き先などは既に伝え済みのようだ。
その中で二人はもう一度今日の打ち合わせをした。
彰は体調を崩した澄子の代わりに臨時に派遣された、地元のボランティアヘルパー、ということになっている。名前は
資料の受け渡し方法などを確認しあった後、神崎は先日彰が頼んでいた、英一以外の二人の被験者の状況について話し始めた。
当時英一と同じ学生だった、萩原
だが、父親が不注意で起こした人身事故の巨額の賠償金の支払いに苦しんでいたこと、それを補填しようと先物取引に手を出した兄が失敗し更に負債を大きくしたこと、その兄夫婦の子供に重い障害があったことなど、幾つもの問題を抱えていた萩原家は、結局金での解決を受け入れた。それについて当時の雄介自身は、そもそも出られない、という面での諦めはありつつも、気持ち上は相当、怒りを覚えていたという。
坂口
「萩原くんは、本人が望めば家に戻ることは可能だろう。坂口くんはどうか判らないが……そもそも本人が出たがらないかもしれない」
「確かに、そんな状況ならそうかもしれませんね」
「私がまだ研究をしていた当時も、彼は一番、仮想都市の中にいることに満足している様子だった。『出たいと思ったことがない』と言っていたよ」
「もし当人が望めば、そのまま、ということは可能なんでしょうか?」
「うーん……」
神崎はわずかに眉をしかめて腕を組んだ。
「世間に事故のことが明るみになった後、彼等を目覚めさせる方法が見つかったら、それなのに出さない、ということはなかなか難しいように思う。いくら当人が希望している、とこちらが言ったとしても、世間からしたら『人権無視だ』『洗脳だ』とか言われることは目に見えている」
「……そうですね、確かに」
神崎の言葉に彰は小さくうなずいて。
「それに、彼等の肉体の維持費はそれなりにかかる。公表すれば『事業』は勿論、『パンドラ』からの稼ぎもしばらくは見込めなくなるから、そういう意味でも出ていけるなら出ていってもらいたい、という要望は出るだろう」
「それもまた、そうですね」
何となく暗い気持ちになってきて、彰は小さく息をついた。萩原氏は英一の話からも、出た後の社会生活にもすぐ適応できそうに思うが、坂口氏についてはどうも難しそうだ。
「無論、当時支払った金を返せ、などということにはならないし、それどころか相当の慰謝料を払うことになるのは間違いない。だから当座の生活に困る、ということはないと思うが、それ以降の生活の保証、とまでは面倒を見られるかどうか」
「そこはご自分で何とかしてもらうしかないですよね、勿論」
まあそれは当然のことではあるのだが、でもどうにか何か受け皿になるような場所が準備できるといいのに、彰は内心でそう思う。機関の為に閉じ込められて、機関の勝手で放り出される、なんてあまりに気の毒だ。
「まあ、私の今の仮説が正しければ、彼が本気で外に出たがらなければ脳が反応せずに目覚めないまま、という可能性も高いが。出られないものを出す方法は無いからね」
「あっ、そうか。そうですよね」
彰は神崎の言葉に、小さく口を開けた。彼の脳が「仮想誤認」から抜け出さなければいい訳だ。
……でも、もし美馬坂くんや萩原氏が出ていってしまったら、いくら都市が好きだと言ってもずいぶんさびしくなるんじゃなかろうか。仮想人格達とは離れて暮らしている訳だし。
想像すると自分には到底耐えられないと感じて、小さく震える。
「今の坂口くんのご家族の状況については、また改めて誰かに調べさせよう。七年も経っていれば、向こうの考え方も変わっているかもしれないし」
「そうですね、お願いします」
彰は会ったこともない坂口登の為に、神崎に向かって深々と頭を下げた。
車窓の景色に、磯田と再会した時の健康診断を受けた施設の建物が見えてきたのに、彰は本格的に緊張してくるのを感じた。
「あちらの棟が病院メインの施設で、こちらが研究棟となる。今日行くのは研究棟の方だ」
神崎がそう言いながら窓の外を指差して。
車が玄関に近づくと、事前に知らせていたのかそれともカメラか何かで見張っているのか、中からスーツ姿の男性が現れるのが見える。
「大丈夫。今の君は、どこからどう見ても人畜無害のお年寄りだ」
神崎が珍しく励ますような口調で言って、ぽん、と軽く肩を叩くと玄関前で止まった車の窓を開けた。
「
「神崎先生、お待ちしておりました」
黒いスーツの四十代くらいの短い髪をした男性がきっちりと頭を下げ、外から車の扉を開いて。
「そちらは」
そして不審そうに彰の方を見たのに、思わず生唾を飲む。
「いつもの家政婦さんが体調が悪くてね。臨時でお願いした地元のヘルパーの関口さんだ。……関口さん、車椅子を出してくれるかね」
「はい」
彰はつい顔をそむけがちになるのをこらえながら急いでうなずくと、自分の側の扉を開き、運転手にトランクを開けてもらうようお願いして。
折り畳みの車椅子を下ろして組み立てると、うつむきがちにそれを押して神崎の側の扉、細井のすぐ目の前につける。
「神崎さん、失礼します」
事前に澄子に教わって練習した通りに神崎の体を抱き上げて。
神崎の体は猫のように軽く、気を抜くとそれこそ片手でも上げられそうな勢いになってしまうのを、できるだけ重そうに、それ程腕力が無いようなそぶりで車椅子に移す。
「では、ご案内します」
細井が前に立って、入り口の中へと入る。
彰の背筋がわずかに緊張で強張ったが、扉の上部に設置されたカメラの下を通って中に入っても、特に周囲の気配は変わる様子は無い。
「ご承知の通り、携端を含めお荷物と上着はこちらでお預かりいたします。申し訳ありませんがヘルパーの方もご同様にお願いいたします」
入ってすぐの受付の前で、細井はそう慇懃無礼に言って頭を下げて。
「判りました」
彰は内心で胸をなでおろしながらうなずいて、神崎から借りた携端のリモコンを耳から外し、荷物やコートと一緒に受付のカウンターに置いた。神崎のものも預かり、同様に並べる。
「こちらが預かり証となります。お帰りの際にお出しください」
受付にいた男性が荷物を持って背後の扉に消え、別の女性が二枚のタグに合わせ、神崎の名の書かれた札と、「GUEST」と書かれた札の下がったネックホルダーをこちらに差し出した。
「ありがとうございます」
彰はそれを受け取り、タグはジャケットのポケットに入れ、ホルダーを首から下げて。
「それでは、こちらへどうぞ」
細井の後に続いてエレベーターへ向かう途中にも、何人かが「あ、神崎先生!」と声を上げ深々と頭を下げてくる。
その中には細井と同じ、どこかよそよそしさを感じさせる者もいれば、磯田のように心から神崎のことを尊敬している様子の者もいた。
エレベーターは十四階で止まり、三人は続いておりる。
明るく清潔な白い廊下を曲がって、「第一会議室」と札のかかった部屋の前で細井は立ち止まり、ドアを開いた。
「会の時刻までまだ間がありますので、他の者は来ておりません。すみませんがしばらくお待ちください」
「ああ、構わないよ」
車椅子を押して中へ入ると、そこは壁一面が窓になった
「先生のお席はこちらです」
細井の案内に従い、彰は車椅子を上座の方向に向け、名札の置かれた席に寄せて。
「お茶をお持ちしますので、しばらくお待ちください」
席に着いた神崎に細井はそう言って、小さく頭を下げると部屋を出ていった。
「……ずいぶん、久しぶりに来たな」
神崎は小さく呟いて、手の平でテーブルをなでる。
「総会では何を話し合われるんですか」
「話し合う、と言うより年間の事業や研究、経理の報告会のようなものだな。まあその内容によって次年度の事業方向や研究費の大体の割り当てなどを決めるから、そこは多少の紛糾もあるが」
「そうなんですか」
ならこの場に神崎が来たことはそれ程機関側が警戒するようなことではないのかもしれない、彰はそう思って胸をなでおろして。
扉がノックされ、お茶の入ったボトルとグラスを持った細井が現れた。
「すみませんがもうまもなく会議の時間ですので、ヘルパーの方は外でお待ちいただけますか」
「あ、はい」
彰は慌ててつい背筋をぴん、と伸ばしてしまいそうになり、更に内心で慌てる。
「今のエレベーターで二階に降りて、左に進むと従業員用の食堂がある。そこでコーヒーでも飲んで待っていてもらえるかね。会議が済んだら館内放送で呼び出そう。細井くん、それで構わないね」
そんな彰に実に自然な様子で神崎がそう声をかけて。
「はい、伝えておきます」
細井がすぐにそう答えて頭を下げたのに、彰はほっと息をつきそうになるのをこらえて「判りました」とうなずく。
と、細井が前に立って「ご案内します」と言うのにまたどきりとする。
「いえ、大丈夫です」
彰はあくまで遠慮がちに首を振ったが、「もし行き先を間違えられると困ります。ここは研究がら、機密の多い場所ですので」と断固とした口調で言われてしまい、仕方なく歩き出す彼の後に続いて。
細井の後を追い部屋の扉を出ながらちらりと見ると、神崎がこちらを見ながら安心させるように、ひとつうなずいてみせた。
エレベーターを二階まで降り、神崎の言葉通り左に進んで廊下を曲がると、そこに従業員食堂の入り口があった。
片手で扉を開きながら、細井は彰をもう一方の手でうながす。
「大変申し訳ありませんが、先程申し上げました通り、ここ以外の場所には立ち入られないようお願い申し上げます。もし出歩かれた場合、すみませんが外に出てお待ちいただくことになりますので、お気をつけください」
「あの」
彰は急いで、でもできる限り声に焦りが出ないように気をつけながら口を開いて。
「はい」
「あの、お手洗いも、いけませんか」
「ああ」
厳しい顔つきをしていた細井の眉が、わずかにゆるむ。
「それはどうぞご自由に。食堂の向こう側の扉を出た隣になります。ですがくれぐれも、それ以外の場所には立ち入られませんよう。神崎先生はああ言っておいででしたが、お帰りの際も私がお迎えにあがりますので、それまでこちらから動かれないようお願い申し上げます」
「判りました」
彰はうなずいて食堂に入りかけてから、はっと気づいて、
「あの、もし会議中に神崎さんの具合が悪くなるようなことがありましたら、すぐにお呼び出しいただけますか。その時はすみませんが、細井さんを待たずに直接会議室に伺います」
と言って。
その真面目な口調に、それまでどこか彰のことをうさんくさい目で見ていた細井の雰囲気が、少しやわらいだように見えた。
「判りました。その時はすぐにお呼び出しします。……では、すみませんがしばらくこちらで、お待ちください」
そう言って軽く頭を下げて去っていく細井の背中を、彰は内心で胸をなでおろしつつ見送った。
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