第39話 天命
「それはつまり……犯罪者の逃亡
わずかの間の後に磯田が発した声は、悲痛な程に震えていた。
「それに近い」
その動揺を、神崎は淡々と受け止めて。
「例えば政治家や芸能人のような、公共の場に顔を知られていて、不祥事の類でその世界から追放されたり、薬物や詐欺などで実際に実刑を受けた者がその刑の終了後に完全に顔を変えて別天地で暮らしていく、そういう為に」
「でもそれは、逃亡幇助とは少し違うのでは」
「問題を起こした政治家が良く言うね。『すべて秘書に任せていた』などと」
すがろうとするかのように言った磯田に、神崎は子供をなだめる教師のような口調で言った。
「もしそれが事件にまで発展した時に重要なのは、その当の秘書の証言、ということになる」
磯田の顔から、はっきりと血の気が引く。
「そういうごく重要な立場となった人間が突然自殺したり事故死する、ということが昔はよくあった。……ここ数年、『事件の鍵を握る人間が突然失踪した』というニュースを耳にしたことがないかね?」
「…………」
彰は自分の顔も蒼白になっていくのを感じながら、あくまで淡々と話し続ける神崎を見つめた。確かに、今こんな状況で思い出せる限りでも、ちらちらとそんな事件があったように思う。
「また、国内外を問わず極めて高度な潜入捜査、まあつまりはスパイ行為だが、そういう職業にも顔の大きな変更が必要だ。特に危険な場所に潜入を終えて戻ってきた人間は、そのままの顔ではいられない。
だがそうやって顔まで変えても、普通は精神の方まではなかなか変えることはできない。それまでの自分と今の自分は全くの別人だ、この先の人生はその別人として生きていくのだ、などと思い込める人間など殆どいない。それで結局は正体がバレてしまうこともよくある話だ。……だがそれを、仮想空間は可能にする」
「でっ……でも」
喉を詰まらせながら、磯田が口をはさんだ。
「でも、そんな……何の、為に」
「金だ」
一言で返されて、磯田は絶句する。
「経営的に順調だと言っていたね。きっと私がいた頃よりも相当多くのその手の利用者を受け付けているのだろう。日本だけでなく、海外からも」
「そんな……」
「特に海外からの人間で、根本的に顔を変えて別人となることを希望するような状況にいる者は、破格の金を払うことが多い。政治犯や、何らかの理由で亡命することになった政治家などだ」
磯田はもう何かを言う気力もないのか、青い顔のままぐったりとソファの背に体を沈めた。
「きっかけは、もっと……そう、磯田くんの言うような、ヒトに貢献する為だった」
神崎が言うには、最初にその実験を受けたのは、研究員の親戚のごく普通の女性だったのだそうだ。
彼女は実の両親から精神的な虐待を長く受け続け、就職してからも給料をすべて親に取り上げられるような生活をしていたのだという。その親から裕福だがふた回りも年の離れた相手と結婚させられそうになり、さすがにそれは断り切ったが、相手がストーカー化してひどい目にあったのだそうだ。
彼女を気の毒に思った研究員は行政や警察の手を借りて何とか彼女を救い出そうとしたが、彼女自身が精神的に完全に親に支配されている上、ストーカーに対しても親が「自分達の友人を家に招いているだけだ」と言い張るのにどうにも手の出しようがなくなってしまったのだという。
そんな時にその研究員が最初に思ったのが、「彼女にもう少し自信をつけさせればいいのではないか」ということだった。
彼女自身は割とかわいらしい顔立ちをした女性だったのだが、着飾るな、という親の言いつけによる垢抜けなさと、小さい頃からお前は不細工だ、と言われ続けたせいですっかり自身のことを「醜い」と思い込んでいた。その認識を、仮想空間に入れることで変えられるのではないか、と思ったのだ。
その持ちかけには、神崎も賛成した。精神的に明らかに病んだ状態を仮想空間で緩和できるのではないか、というのは既に研究者達が考えていたことだったのだ。
その際に、六日のブランクがあっては脳の状態が落ち着いてしまって効果が無かったので、まずは五日で試された。だが効果は薄く、最終的には一日置きに仮想空間に滞在することで、彼女の自己認識はみるみる変わったのだという。
そして覚醒した彼女が決意したのが「整形」だった。
家を出てどこか遠い場所で暮らしても、あの人達がこの世に生きている限り自分は決して安心できない。それはたとえ海外であっても。毎晩毎晩、いつ彼等がやってくるかびくびくしながら眠るのは嫌だ。だったら完全に顔を変え、名前も変えて別人となって生きていきたい、と。
だが当然のことながら、完全に判らない程に顔を変えるのには相当な費用がかかる。そもそも給料を取り上げられていた彼女にそれをまかなうことはできなかったし、裁判などで親から取り返すのにも相当の費用と時間がかかる話だった。
自己認識を修正した時点で実験は終了していたが、彼女がそういう希望を抱いているんだ、と研究員が周囲に話した際に、「それも実験できないか」と言い出した者がいた。
英一達の事故で、仮想と現実とでの肉体損傷系の実験はほぼストップしていたが、それをもう一度やってみたい、それに合わせて単なる「自己認識の修正」ではなく「自己認識の完全な変換」が果たして仮想空間で可能なのかを試したい、そういう声が出たのだ。
神崎はそれに、強く反対した。
手術や怪我の傷の回復、ということのみなら仮想空間の利用も有意義だ。だが、ヒトの精神を完全に別物に作り変える、などという行いはみだりにしてはならない。
研究者達は賛成派と反対派に分かれて、大いに紛糾した。
そして最終的に、負けたのは神崎の方だった。
だがその時には、神崎としては「負けた」と言うより、「この場合のみなら致し方ない」という捉え方をしていた。実験に協力してもらう見返りに整形費用は機関側でもつ、改名や除籍の手伝いや遠方に引っ越して新しく仕事を始めるまでの金銭的面倒もみる、と語る研究者達に説得されたのだ。
だがその後も彼の知らないところで実験は繰り返され、秘密裏に「事業」は開始されていた。
当時の機関の財政は
しかも英一達の事故により、最終目標の「長期低代謝下における利用」が大きく危ぶまれることとなった。研究者達はそれぞれに、何とか今まで積み上げてきた仮想空間の研究をつぶすことなく存続させられないか、ということに必死だったのだ。
五年前から自宅で研究をするようになった神崎は、「事業」が裏で行われていたことに長いこと気づけずにいた。
その状況に耐えられなくなった部下からの告白で、その収入が当時の機関に欠かせないものとなっていたこと、更にその金で私腹を肥やしている幹部達がいることを知り、神崎は研究から離れたのだ。
「どうして、告発しなかったんですか」
彰は思わず声を上げた。きっかけはそもそも意図しない「事故」であった英一達の件より、その「事業」はある意味遥かに罪深い。
神崎はそれまでなめらかに話し続けていた口を閉じ、目も閉じた。
それから深く、長い息をつく。
「神崎さん」
「……私はあの仮想空間に、長い年月、自分の理想と情熱を捧げてきた」
磯田がためらいがちに声をかけると、目を閉じたまま神崎が呟く。
「私は結局、この年まで独身ですごしてきたが、ある意味あれは私の伴侶、私の子供だ。告発することで、あの世界が、あの場所で生きているたくさんの人格達が……この世から抹消されるかもしれないと思うと、耐え難いと感じた」
そう語る神崎の声が本当に切実に聞こえて、彰は何とも言えない気分になった。その奥に垣間見える強い愛情やどうしようもない執着が、皐月を失った後、どうにかして彼女の幻想を捕まえようとしていた自分に通じるものがある気がして。
「研究からは退いたが、機関に籍を残しているのもその為だ。いつか……どうにかして、今の状況を是正できないか、と。あそこをかつて、私が夢見ていた理想の場所に戻したい。そうしてもう一度あの仮想空間を、こころゆくまで研究し尽くしたい」
まなざしをどこか遠くに投げて、まるで歌うかのようにとうとうと話していた神崎の言葉が、不意に止まった。
彰は奇妙に思って、でも何故か声をかけるのもはばかられるような気がして、ただ相手のその姿を見つめる。
神崎はゆっくりと息を吐き、目を伏せた。
「……医者から私は、おそらくもって後二年、どれだけ長くても三年は越えられないだろう、と言われている」
「…………!」
磯田は大きく目を見開いて、ソファから腰を浮かせた。
「そんな……神崎さん、それは」
「私の内臓の多くは、人工臓器に入れ替えられている。だがそれを支えるだけの体力も、機能が衰えてきたものを交換する手術に耐える力も、今の私の体には無い。全身の血管を交換でもできればまた話は違うのだろうが……根幹となる肉体そのものの余力が、私にはもう無いのだよ」
「神崎さん……」
磯田は声を震わせて、すとん、と力なく腰を落とす。
「医者からその宣告を受けたのは去年の秋だ。それから私は……考え始めた。何とかしてもう一度、仮想空間の研究に戻れないものかと」
神崎は首をめぐらせて、そんな磯田をちらりと見やった。
「その為になら、何を犠牲にしても構わなかった。……私は『事業』や美馬坂くんのことを世間に暴露することを考えた」
「えっ……」
彰の口から、思わず小さな声が漏れる。当時明かさなかったのは、仮想空間が、そしてその研究がなくなってしまうことを防ぐ為、だったのに、何故今になって。
「たとえ『事業』についてどれだけ多くの批判が出ようが、美馬坂くん達のことがある限り、仮想空間そのものを閉鎖することはできない。彼等を目覚めさせる為にこれまで行ってきた研究について、最も把握しているのは自分だ。美馬坂くん達の件について、もしか私も何らかの罪に問われるかもしれないが、それでも彼等の覚醒の為には私を研究に戻す以外、方法はあるまい」
そう言いながら、神崎は彰をねめつけるように見直した。
その、落ち窪んだ瞳の中にぎらぎらとした光があるのに、彰は戦慄する。
「私が死んだ後に仮想空間が抹消されたとしても、そんなことは構わない。あと二年、できれば三年、今まで思考してきたすべてを、あそこにつぎ込みたいのだ」
ああ……そういう執着なのか、彰は内心で合点した。とにかく自分の知れるところぎりぎりまでを知り尽くしたい、やれる限界までをやり尽くしたい。もしそれができなくなったのなら、その後はどうだっていい。
身勝手だけれど、いや、身勝手だからこそ切実な願いなのだろう。
「神崎さん」
磯田が細い目尻を下げて、今にも泣き出しそうな顔で神崎に声をかける。
「……すまない。君の言いたいことは判っている」
異様なまでの目の輝きを少し和らげて、神崎は磯田を見た。
「だが私にはもう時間が無い。だから君や、あと何人か……信頼できそうな研究者達に、それ以外のことを頼もう、そう考えていた。私は私だけの研究に没頭したい。今言った通り、それは三年未満で終わるだろう。その間に……君や他の研究者達で、あの場所を守ってもらいたい」
わずかにうつむきがちになっていた磯田の顔が、ぱっと上がって。
「君にも判っている通り、あの場所は物理的な怪我や手術の回復には非常に有効だ。そして精神的な問題の解決にも大きな貢献をするだろう。そういう方面と……正直なところ、先刻までは私の残り時間で美馬坂くん達を目覚めさせるのは無理だと思っていた。だから、もし研究に戻れても、表向きはともかく実際はそこに手をかけるつもりはなかった」
彰は神崎の言葉に内心で舌を巻いた。何と言うか、ここまで徹底していると腹を立てる気にもなれない。骨の髄まで研究者、というのはこういうものか。
「だが先刻の御堂くんの話を聞いて、試してみたいアイデアが幾つか出てきた。そしてそれは、もともと私が望んだ、長期滞在できる仮想空間の完成につながるだろう」
神崎はわずかに体を動かして、二人を正面から見た。
「三年の間に、それ等を……仮想空間の日常社会へのメリットと、本来の目的である恒星間移動に不可欠な技術であることを世間に強くアピールし、私の死後や美馬坂くん達が仮想空間から脱出できた後でも、あの場所が抹消されないよう
磯田は下唇を噛んで、何も言わずにただじっと神崎を見つめる。
「去年の秋に医者の話を聞いてから、私はこれ等を実現させることを考えていた。君が年始にやってくると聞いて、機関の現状をある程度聞き出した上で、君を含め、誰にこの計画を打ち明けるか決めようと思っていた。――そこに君が、御堂くんを連れてきた」
磯田がはっとしたように、どこか絶望的なまなざしを彰に向けた。
彰はそれを受け止めきれずに、そっと目をそらす。
「これは天命だ、そう思ったよ」
神崎は小さく息をつくと、すっかり体力を使い果たした様子でベッドの背に深く体を沈ませて。
「君が私に、それを授けに来たんだ、磯田くん」
斜めに差し込んだ冬の陽光に照らされて、磯田の頰に涙が光るのを彰は見た。
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