第38話 断線

 

 話の途中で一度女性がお茶を取り替えに来たが、神崎は断った。

「……それで、君は私に、何を望んでいる」

 経緯を話し終えた彰に、神崎は静かに問う。

「まず第一に知りたいのは、美馬坂くん達が外に出ることは今もできないのか、ということです」

 慎重に話を切り出すと、神崎は首を振った。

「できない」

 彰の心の中に、さあっと黒い幕が下りる。

「と、思う」

 するとひと呼吸置いて相手がそう続けたのに、無意識の内にうつむきかけていた顔を彰ははっと上げた。

 隣で磯田がわずかに目を大きくしてこちらを見る。

「私が少し大きな病気をして、在宅で仕事をするようになったのは五年程前のことだ。そしてそれからもすっかり手を引いたのが二年少し前。私はその間ずっと、仮想空間内での『眠り』について研究してきた」

 二人は固唾を飲んで神崎を見つめた。

「仮想空間内で眠れない、という問題は本来の目的の為には絶対に克服が必要だ。その為に私は、脳が眠っても仮想空間との接続が断線しない方法を研究してきた」

「断線?」

「そう」

 神崎はうなずくと、説明を始める。

 眠った後にログアウトできなくなるのは、眠っている間に脳と仮想空間との接続が途切れてしまうからではないか、と彼は考えた。

 仮想空間に入った後の脳波は、レム睡眠時のそれに非常に似てくるのだという。そのせいか『パンドラ』においても体験後に「夢を見てるみたいだった」という意見が多く聞かれる。

 だが仮想空間の中で本当に眠ってしまうと、いきなり深い睡眠時の脳波に切り替わるのだそうだ。

 英一が話してくれた通り、最初に仮想空間内での睡眠を試そうとした時には、原因不明のノイズが出てそれを阻んだ。

 神崎が言うには、それは今思えば脳の本能的な防衛行動だったのではないか、と。深い睡眠状態に陥ることで、仮想空間との電気的な接続が絶たれることが致命的な問題をもたらす、と脳には判ったのではないかと。

 原因を考えずにノイズをただ単に機械的に取り除いてしまった、あれはまさに致命的なミスだった、と神崎は語った。

「あの中での睡眠は、言うなれば夢の中で眠ることに等しい。そして接続が切れている、つまり現実界との接触が絶たれた状態で夢の中の眠りから覚めると、それが脳にとって『現実の目覚め』と認識されてしまってそれ以上目を覚ますことができない。彼等が陥ったのはそういう状況だと私は考えている」

 そこで神崎は、仮想空間内で眠っても接続が途切れない方法に合わせ、仮想内で目覚めている時の英一達の脳が「今自分は眠っている」と認識できるようにする方法を研究してきたのだという。

「だがそもそもこれ等の原因が推測できるまでにまず時間がかかった。その間に彼等の脳はすっかり馴れてしまって、完全な仮想誤認が確立してしまった。それを揺り動かすのは簡単なことではない」

「二年前に、やめられたというのは……もうすっかり、諦めてしまわれたから、ということなのですか?」

 説明を聞けば聞く程暗い気持ちになってくるのを止められないまま彰が尋ねると、神崎は首を横に振った。

「それにはいろいろと事情があるが、その話は後回しだ。先刻君に言った『と、思う』という言葉には二つの理由があって、まず一つは私がやめた後に研究を引き継いだ人間がそれを完成させているかもしれないこと。それからもう一つは、君の話を聞いていて、また別の方法が思い浮かんだ」

「え?」

「脳の認識を覆すのに、私達は化学的だったり物理的な方法を模索していた。脳への電気的な刺激とか、肉体への直接刺激とか、薬物の投与とか、そういうやり方だ。

 でも君の話を聞いて思い至ったのだが、精神的な刺激、というものを……私達は試みたことが、無かったな、と」

 彰は思わず、磯田と顔を見合わせた。精神的な刺激?

「君と『パンドラ』内で出逢って、美馬坂くんは相当なショックを受けたのだろう。君と自分の年のとり方の違い、無意識にずっと子供のままだと思っていた妹がすっかり成長していたこと。そういう方向から……脳の仮想誤認を崩して認識の変換をうながせる可能性があるのではないか、と今思いついた」

 神崎は軽く体を揺するようにして座りなおすと、改めて彰を見た。

「彼は外に出るのが怖い、と言っていたそうだね」

「……はい」

 その問いに、その言葉を発した時の英一の痛ましい姿を思い出し、彰の胸が苦しくなる。

「そういう気持ちも、ブレーキになっているのかもしれない。認識したくない、目覚めたくない、そういう感情が脳の変容を止めているのかも」

 彰は思わず、深く息を吸い込んだ。もしそうなら、それは本当に切なく痛ましい。

「君よりももっと近しい人達に仮想空間で彼と話をしてもらい、現実とずれてしまった認識の修正と、外に出たい、という強い欲求とを起こさせ、同時に今まで研究してきた脳への化学的な働きかけを行うことで新しい結果が得られるかもしれない。それは試すだけの価値がある手段だと私は思う」

 だが神崎の言葉がそう続いたのに、彰は胸の中にすっと曙光がさしたような気持ちがした。ああ、できるなら今すぐ『パンドラ』に飛び込んで、二人にこの話をしたいのに。

「だが、それは今の状況では、正直難しい」

 ところが神崎がそう言って首を振ったのに、また心臓が冷たくなるのを感じる。

「何故ですか」

「私は既に、研究からは離れている。現場復帰が認められるとは考えにくい」

「……何故、ですか」

 二度目の、同じ言葉の問いは磯田の口から出た。

 確かに不思議だ、彰は胸の内で呟いた。

 健康状態的に無理だと言うなら、それは「現場復帰はできない」とか「不可能だ」とかそういう言い方になるだろう。でも「認められない」とは?

「神崎さんが現場に戻られるなら、歓迎こそすれ、認めないなんて訳が」

 同じことを考えているのか、少し気色ばった様子で磯田は身を乗り出して。

「先刻も話した通り、私は二年前に研究から手を引いた」

 それをなだめるような穏やかな顔つきで神崎は磯田を見た。

「それは自分から言い出したことだが、同時に向こうから追い出されたようなものでもある」

 磯田の細い目が大きく見開かれる。

「私の目指すものは今も昔も変わらない、ヒトが長期の低活動状態下で脳のみを活動させる為の理想の仮想空間をつくりあげることだ。……だが、今の機関の中枢の考えは、もはやそれとは異なっている」

「えっ……」

 彰は思わず息を呑んで、磯田と顔を見合わせた。

「いや、でも……それ以外に、何が」

「彼等は仮想空間の別の利用方法を考え、その幾つかは既に実施されている」

 心臓の鼓動がどんどん大きくなってくるのを感じながら、彰は神崎を見つめて。

「今や彼等が仮想空間に望むのは、恒星間移動の為の利用ではないのだ」



 ――だから、何か……訳が、あるってことだよ。機関が仮想空間の研究をやめずにまだ続けてる、てことには。

 彰は神崎の言葉を聞いて、自分が英一に言ったことを思い出した。長時間滞在することができない、という致命的な問題があるのに、仮想空間の研究を止めない理由が、何か機関側にはあるのではないか、という。

「君は美馬坂くんから、彼が表向きとは別に受けていた実験の内容について、詳しく聞いたのだね」

「はい。仮想と現実、それぞれで肉体にダメージを受けた場合に、実際の体がどう反応するか、という」

「そう。最終的に痛覚や触覚をコントロールできるようになったので、今の『パンドラ』では、例えば壁に足をぶつけても殆ど痛みや衝撃を感じないように設定されている。だから中で何か肉体にダメージを負っても、実際の肉体には反映されない。まあ、それに完全に馴れてしまったら本来の目的の為には困るのだが、とりあえずその問題は先送りにされている」

 確か磯田も同じような話をしていた、と彰は思った。どこまで現実を反映させるか、その調整が難しいのだと。

「そして、仮想に反映させない現実の傷は、異常に治りが速い。この事実を、利用しようと考えた人間がいる」

「あの、それは、つまり……現実に怪我をしたり、手術をしたりした人間を、仮想空間に入れることで治癒を早める、ということですか?」

 磯田がどことなくおどおどとした様子で言った。

「もしそうなら、それはむしろ、仮想空間の有効利用と言えるのでは……無論、神崎さんの本来の目的とは異なることでしょうが、人類社会の為、と考えれば、悪いことではないのでは、と思いますが」

 そういえば最初に健康診断で会った時、磯田は『パンドラ』を精神的な治療の面で使うような研究も考えている、と言っていた。確かに、物理的な傷ではないが、あの脳の「馴れ」を治療に応用する、ということはできそうな気がする。

「その通りだ」

 すると意外にも神崎がそう首肯したのに、彰は少し驚いて。本来の目的以外の利用なんてもってのほかだ、というタイプだと思ったのに。

 隣で磯田も、ほっとしたような息をもらす。

「万民が利用できる、正しい利用法がなされるのなら」

 が、すぐにそう神崎が続けたのに、二人ははっと息を呑む。

「君達がもし何かの手術を受けるとして、それを周囲には隠しておきたい、と思うのはどんな場合だね」

 そしてそう問いかけられて、二人は顔を見合わせる。

「ええっと、そうですね……スポーツ選手で、故障を隠したい、とか」

「ああ、成程ねえ」

 彰が考え考え言ったのに、磯田がぽん、とひとつ手を打つ。

「そうか、ならあれですね、痔とか後頭部の毛根を前頭部に移すとか、ちょっと恥ずかしい方面なんかもありですね。胸を大きくしたりとか……」

 言いながら磯田は何かに気づいたように、はっとした顔を神崎に向けた。

「……整形」

「そう」

 神崎は大きくうなずいた。



「整形の技術そのものは、今は本当に高い。街中のその辺の医者でも、受けた人間の顔を見て『整形だ』と見抜ける人は殆どいないだろう。だが、ある程度大きく顔を変えようとする時には、どうしてもメスを入れる必要がある。しかしその場合、顔の痛みや腫れが引いて状態が落ち着くにはある程度の時間が必要となる」

「それが、仮想空間に入れば早められる」

「その通り」

 神崎はまた、大きくうなずいてみせて。

「また、仮想空間には単純に治癒時間を短くする、という以上のメリットがある。仮想の自分の姿を最初から『整形後』の容姿にしておくことで、大幅な整形をした後の当人の違和感をなくして精神状態を安定させるのだ」

「あ……」

 思わず彰の口から、小さく声が漏れた。成程、そういう使い方ができるのか。

「いや、でも、間を六日空けないといけない訳ですから、結局は」

 口をはさんだ磯田を、神崎は首を横に振って黙らせた。

「ブランクは空けない。数日間連続で、眠りこまない最長の時間まで滞在させる」

「そんな……!」

 彰の隣で、磯田が殆ど立ち上がりかけながら絶句して。

 一方彰も、度肝を抜かれて神崎達を交互に見た。今まで仮想空間についていろいろと聞いてきた話を総合するに、それは最大のタブーではないのか。

「ほんの数日で、その人間は新しい容姿がもって生まれた自分のもの、あるいはそれと殆ど大差が無いもの、と認識するようになる。元の自分の写真を見ても、自分だと認識できなくなる程に」

「いや、でも、待ってください……だって、そうは言っても結局はたかが整形なのに、何故そこまで強力な認識の変換が必要なんですか」

 必死に食い下がる磯田の声を聞きながら、彰ははたと思い至った。それ程に強力な、肉体のみでなく、精神までも「整形」が必要なシチュエーションを。

「それは美容の為ではなく、顔かたちを変える必要がある人間が、この世にいるからだ」

 彰の思いを裏打ちするかのように、神崎が重々しくそう告げた。

  

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