第37話 陽光
宏志の家を出て、彰はいったん、自分の家に戻った。今日ならまだ大丈夫だと踏んだのだ。
郵便やメールのチェックをひと通りして――清美からの連絡はやはり無かった――少し考えてから、来週以降の『パンドラ』の予約をすべてキャンセルする。
それから医者のアドレス宛に診察のキャンセル、食事やヨーグルトの宅配にもキャンセルを送ってひと息ついて。
皐月の両親宛には、調子が良くなってきたのでちょっと温泉にでも行ってのんびりしようと思う、だから食事の宅配をしばらく止めるが心配は要らない、という旨のメールを送っておいた。もし向こうがそれを不審に思えば真っ先に連絡を取るのは宏志だろうから、彼ならきっと上手く口裏を合わせてくれるに違いない。
宏志にすべてを話した後に彰が一番恐れていたのは、自分がもともと『パンドラ』に行こうと思った真の理由、仮想の皐月に逢いたい、という願いについて触れられることだった。咎められるのも諭されるのも憐れまれるのも、どれも嫌だった。
けれど宏志は、それには何も言わなかった。
そして、そういう事情であるなら自分が今後の英一やシーニユとの連絡先をすればいいんだな、と簡単に言った。
この期に及んで、まだそれを頼むことに躊躇があった彰はぐっと言葉に詰まったが、宏志はお構いなしに、にっと笑った。
「俺、その子に逢いたいよ。その、シーニユって子」
思わず「どうして」と聞くと、また歯を見せて笑う。
「お礼を言いたいんだ」
そしてそう一言だけ言って、すっと立ち上がった。
何の、とは結局聞けなかった。
磯田との待ち合わせは、相手の家の最寄りのバス停だった。
そこから歩くこと数分、冬枯れた山をバックに、海から五百メートル程の、潮風と枯葉の匂いの混ざったすっきりと冷たい空気に満ちた静かな土地にその別荘はあった。
相手は何年か前に大病をして以来、しばらくは在宅で研究を続けていたそうなのだが、今はすっかりそこからは退いて引退生活をすごしている。とは言え機関で名誉的立場にあるのは現在も変わらないらしい。
それなら機関から自分の話が伝わってしまっているのではないか、と彰は懸念したが、磯田は「もしそうだとしても、自分と御堂くんとの関係は誰も知る筈がないので相手方に先回りされるようなことはないと思う」と言った。彰のことは名前は言わずに「娘の友人を連れていく」とだけ伝えてあるらしい。
彰は緊張を抑えつつ磯田の後ろに立って、門柱のインターホンを押す彼の背を見つめて。
インターホンの横には黒御影石に白抜きで「
『――磯田様ですね。お待ちしておりました』
と、そこから年配の女性の声が流れてきた。
『どうぞ、お入りください』
言葉と共に、ぎい、と音を立てて門柱の間の鉄扉が開いた。
その奥に見えるのは二階建てで、大谷石の柱の間、奥まった玄関アプローチが重厚感を漂わせる、落ち着いた雰囲気の建物だ。
「奥様と、お二人暮らしで?」
玄関に向かいながら小声で聞くと、磯田は首を横に振った。
「今の方はお手伝いさんです。神崎さんはずっと独身で、おひとり暮らしですからね」
「そうですか……」
玄関扉の前に立つのとほぼ同時に、中から扉がすっと開く。
「ようこそお越しくださいました」
六十代後半くらいの、小柄な女性がぺこりと頭を下げて。
「神崎様が中でお待ちです。ご案内します」
「ありがとう。お邪魔します」
「お邪魔します……」
彰の家のそれの五倍はありそうな石敷きの土間に、恐る恐る足を踏み入れて。
靴を脱いでスリッパを履くと、手を差し出す彼女にコートとマフラーを預けて、後について奥へと入った。
「こちらです」
廊下をしばらく歩いて行き止まりの扉を開けると、思ってもみない程の広い空間が目の前に広がる。
「うわ……」
彰の口から、小さな声が漏れた。
二十畳程のその洋間は二階まで吹き抜けになっていて、部屋の一番奥にはその壁の高さの七割程を占める巨大な窓があり、そこからさんさんと光が入っている。それでいて眩しさはなく、ぽかぽかとした暖かさとからりとした明るさだけを感じるのは窓ガラスに何か加工がされているのだろう。天井からは何本もの金属製の棒が下がっていて、その先に高さを変えた鋭角の白いライトカバーがついている。
窓の外には、冬の色の褪せた緑の目立つ日本庭園が見える。あまり広くはないが、白砂の映える美しい庭だ。
その窓の前に機械の取り付けられた大きなベッドがあって、そこに老人がひとり、濃藍に極細の白い縦縞の入った浴衣をきっちりと着て横たわっていた。
彰の喉がごくりと鳴る。
「お見えになりました。……どうぞ、お座りください」
女性がそう言って手で勧めるのに、入り口のすぐ横に置かれたソファに二人は並んで腰をおろして。
「お茶とコーヒー、どちらがよろしいですか」
と彼女に聞かれるのに、磯田が「ではお茶を」と言ったので彰はそれに合わせてうなずく。
「かしこまりました」
そう言って頭を下げると、彼女は出ていって。
どうにも落ち着かず彰がそわそわとあちこちを見回していると、奥から「ようこそ、磯田くん。あけましておめでとう。こんな姿で出迎えて済まないが」と、低く威厳のある声がした。
彰がはっと見ると、奥のベッドが低いモーター音と共にゆっくりと回転して、こちらへと近づいてくる。
同時にベッドの背が立ち上がって、相手は殆ど座っている姿勢になった。機械はちょうどベッドヘッドの位置をぐるりと取り囲んだU字形をしていて、肘掛のようにその両端が前に伸びている。
そこにすっぽりとおさまるかたちで、皺の多い、ふさふさとした白髪に厳つい顔つきをした、そら恐ろしい程痩せた老人がいて、こちらをじっと見ていた。
「あけましておめでとうございます。神崎さん、お久しぶりです。おうかがいしていたよりお元気そうで何よりです」
磯田がすっと立ち上がってにこにことそう言って頭を下げるのに、彰も慌てて立ち上がって「初めまして、御堂です」と名乗りながら頭を下げて。
下げた頭を上げながら相手の顔を盗み見たが、その顔つきには何の変化も無い。どうやら自分のことは話が届いてないと思っていいんじゃないか、彰はそう踏んだ。
……だけど、どこかで見たような気がする。
と、彰は内心で首を傾げた。実験の会場にいた研究者の中にはいなかった顔だと思うのだが。
「神崎さん、こちら御堂彰さん。娘の友人なんですが、彼ね、学生の時、あの仮想都市の実験に参加してたそうなんですよ」
「……ほう」
それまで特に彰に対しては注意を払われていなかった神崎の目が、「実験に参加していた」と聞いた途端にぐい、と動いてこちらを見た。
その、痩せて落ち窪んだ瞳の意外なまでの目力に彰はまた緊張する。
「御堂さん、こちら神崎
その目線の動きに全く頓着せずに、なおもにこにこと磯田は神崎を紹介して。
「どうぞ、座って。……それで実験には、最後までご参加に?」
「あ、ええ、はい」
座りながらもうなずくと、相手はわずかに目を細めた。
「そう。それは良い。あの実験は、本当に重要なものだったから。あの時は日本中の説明会に出向いて研究の意義について語ったものだったが、本当に脱落者が多くてね」
神崎の言葉に彰は成程、と内心でうなずいた。はっきりとは覚えていないが、説明会に来ているならその時に顔を見ているのだろう。
軽いノックの音と共に先刻の女性がお茶とクッキーを持って入ってきて、二人の前に並べた。
神崎のベッドの肘掛のように突き出した部分から、すっと板が伸びてきて、彼女は慣れた手つきでその上にカップを置く。甘いものは食べないのか食べられないのか、クッキーは置かなかった。
「ありがとうございます。……あ、こちら、つまらないものですが。大体のものは召し上がれるとうかがったので、お蕎麦を」
「これはお気遣いどうも。スミさん、受け取っておいてください」
「はい。ありがとうございます」
磯田が差し出した手土産を受け取ると、彼女は頭を下げて部屋を出ていった。
「わざわざすまなかったね。最近はもう年始になんぞ来るのは君くらいだ」
「わたしはもう、ずいぶんと神崎さんにはお世話になりましたから」
目尻を下げてにこやかに笑って、磯田はお茶を口に含む。
「こんな歳になってもまだ仕事がある、というのは神崎さんのおかげです」
「どうかね最近、『パンドラ』の方は」
ごくありきたりな訪問時の挨拶を彰が聞き流していると、急に相手がそう言うのに勝手に背筋がぴん、と伸びた。
「と、おっしゃいますと?」
「ここ何年か、私の方にはとんと現状が来なくてね。まあこんなところで枯れ切るのを待つばかりの、口うるさい老人の意見などもうあちらには必要ない、ということなんだろう」
特に卑屈さや自虐のいろの無い、淡々とした口調で神崎は語って、お茶をひと口飲んで。
……ならやっぱりこの人のところには自分のことは伝わっていないんだ、彰は改めてそう思い内心で胸をなでおろす。
「経営的にはすこぶる順調ですよ。キャンペーンが効きまして、体験者の数がうなぎのぼりです。最近はあちこちから取材もありましてね。……そうそう、彼ね、『パンドラ』も体験しているんですよ」
とん、と軽く磯田に背を叩かれて、彰は飲んでいたお茶を吹きそうになった。まさかこんな早い時点でこっちに話を振られるとは。
「ほう」
神崎は目を大きくして彰を見た。
「それは興味深い。どうですか、実験の時と比べて、今の仮想空間は」
「……比べ物に、なりません」
軽く咳払いして喉の調子を整えて、彰は答える。
「少しいるだけで、ここが現実ではないということを忘れます。その癖、現実では味わえない、どこか独特の雰囲気を感じます」
「面白い。……人工人格は、どうですか」
「え?」
「実験の時には被験者が皆、人工人格をそれだと見抜けた。今の『パンドラ』の人工人格はどうです」
痩せて皺の寄った額の下の目をきらきらとさせて、身をわずかに乗り出している神崎に、彰は小さく息を吸った。
「自分には、区別ができません」
「ほう」
神崎がますます、大きく目を見張って。
「でも、人工人格にはやはりヒトとは異なる思考経路がある、ということは何人かの『パンドラ』の人工人格と接する内に判ってきました。ですがそれは、一概に悪いこととも言えないように感じます」
「何故だね」
神崎はどこかひどく機嫌の良さそうな様子で、本来メインの客である筈の磯田を置いて、すっかり体を彰の方へと向けている。
「そこは別に、ヒトと同じにならなくてもいいんじゃないか、と……判断の速さとか、決断に揺らぎの無いところとか、何て言うか、ある意味でヒトよりも信頼に値する、と思えることもあって」
どこか教壇に立つ教師に指された生徒のような気持ちで言葉を選びながら答えていると、神崎の瞳に一瞬驚いたような光が走り、それからふうっと、満足げな笑みが浮いた。
「御堂くん、だったね」
「あ、はい」
「君はなかなか、面白いことを言う。君にそう思わせた人工人格は、どこのどんな子だね」
彰はと胸を突かれて、ついぱっと磯田の方を見て。
磯田はまっすぐ神崎の方を向いたまま、わずかに青ざめた頰をしている。
彰はその横顔を見ながら、細く息を吸い、吐き出した。
「どうか?」
神崎が二人の様子に、どこか咎めるようなまなざしをして声を上げて。
「――神崎先生」
彰は一瞬で心を決めて、浅くソファに座りなおして背筋を伸ばす。
「何だね」
「僕は磯田先生がおっしゃった通り、学生時代に実験に参加していました」
「うん」
「僕の大学は、
英一と同じ大学名を口にしてひと呼吸置いたが、相手の表情に特に変化は無い。
大学名は忘れてしまっているのかも、彰はそう思い更に言葉を乗せた。
「仮想都市での実験で、同じ大学の学生に二度逢いました。……美馬坂英一くん、という経営学部の学生です」
胃の中にずしん、と鉄球のような重さがかかるのを感じながらその名を口にしたが、やはり相手の表情には毛筋一本程の変化も無かった。
……もしかして磯田先生の思い違いで、この人何も知らないんじゃないのか?
彰の心にじわりと汗のように焦りがにじむ。
「神浜大からの参加者はたくさんいたね」
そしてあっさりと相手がそう言ってお茶を飲む姿に、彰はますますその思いを深めて。
ちらっと隣を見ると、磯田もわずかに不安気な目をこちらに向けてくる。
「実験で彼に逢った時、彼が言ったことを覚えています。……人工人格には『ぶれ』が無い、『無駄』というものが無い、だから見抜けてしまうんだろう、って」
神崎は無言で、かちゃりと音を立ててカップを置いた。
胸の内に黒雲のように不安がわき上がるのを感じながらも、彰は言葉を続ける。
「じゃあどうやって人工人格に『無駄』を覚えさせればいいんだろう、そう聞いた僕に彼は言いました。感情を理解させればいいんじゃないか、て。ある意味それが、一番『無駄』なものだから、て、そう」
神崎の薄い胸がゆっくりと、心なしか少し大きく上下するのが浴衣を通してはっきりと見てとれる。
「先日、学生時代の友人に卒業以来、久しぶりに会いました」
それを見つめながら、少しずつ心拍数が上がってくるのを感じつつ彰は独り言のように話し続けた。
「彼も経営学部で、美馬坂くんと親しくしていて、けれど彼が突然退学して音信不通になったことに不信感と失望感を抱いていました」
その呟きを相手が全く口をはさむ様子もなく聞いているのに、彰はだんだんと、先刻までとは逆の核心を感じていく。
それと同時に、それでもやはり眉一本動かさない相手の精神力に内心で舌を巻いた。
「それを聞いた僕は美馬坂くんの実家を訪ねて、彼が退学後すぐに亡くなったことを知りました。……とても、残念です」
彰は一度言葉を切ってから、やや強めにはっきりとそう発音する。
「彼は豊かな発想力と、ものにとらわれない自由な精神と、四方八方に伸びる強い好奇心を持った、未来ある青年でした。彼がもしこの世にいたら、必ず様々な人の心を惹きつける、とてつもないものをつくり出したと僕は思います」
彰は敢えて、「生きていれば」ではなく「この世にいたら」という言葉を使って。
神崎はまた深い息をついて、ゆっくりと目を閉じてベッドの背にもたれた。
「僕はできることなら、彼をこの世に呼び戻したい。強く、そう思っています」
彰は逆に身を乗り出して、膝の上で両手を組んで強い口調でそう言い切る。
口をつぐむと、午後の光が斜めに差し込む室内に沈黙が満ちた。
神崎は目を閉じたままだ。
こうして改めて見ると、その体は本当に細く、枯れ枝のようだ。
静かな息の音が、やがて止まった。
「神崎さん……」
心配気に体を乗り出しかかった磯田を、その細い手が上がって押しとどめて。
「――美馬坂、英一くん」
乾いた唇からその名が漏れる。
神崎はゆっくりと目を開いた。
「懐かしい名前だ」
その瞳が動いて、彰をとらえる。
「もうずいぶん長いこと、彼の声を聞いていない」
磯田がはっとした顔をして、神崎と彰を交互に見た。
「彼の発想力は卓越していた。彼と話をするのはいつも楽しくて良い刺激だった」
彰はごくりと息を呑んで、まじまじと神崎を見つめる。
「……彼が今どこにいるのか、君は知っているんだね」
その目を見返しながら、神崎は静かに言った。
彰は息を止め、一度うなずく。
「そうか」
一言言うと、神崎はまた目を閉じた。
「それで、ここへ来たのだね」
「はい」
彰が声を高めて言うと、神崎は目を開け、軽く背筋を伸ばす。
「ならまずは、すべて聞かせてもらおう。何故それを、君が知るに至ったのか」
「――はい」
彰はうなずいて、軽く唇を湿らせ、話し始めた。
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