第36話 軸

  

 彰は『パンドラ』を出た後、今日はまだ大丈夫だろう、と思って宏志の家に寄った。

「御堂さん」

 宏志が夕飯をつくってくれる、というので店の席で待っていると、奥から満ちるが出てきたのに目を見張る。

「それ、一体」

「あっ……あの、羽柴さんの、ご両親が」

 満ちるはここへ来た時のシャツにセーターにジーパン、という地味な服装とは全く違う、ほんのりと袖のふくらんだ、お人形のようにかわいらしいワンピースを着ている。

 話を聞くと、とりあえず二人は、宏志の親に対して「亡くなった大学の同級生の妹で、事情は言えないが家族に理不尽な要求をされて家から逃げてきた」という、それなりに本当でそれなりに嘘である説明をしたのだそうだ。

 それに両親がいたく同情したのにあわせ、「もうひとり子供が欲しかった、できれば娘を」と思っていた母親のエンジンが入ってしまい、昼間に街に出て、あれこれと可愛らしい服を買いまくってきたのだという。

「着替えなんか、持ってこなかったので……ご厚意に甘えてるんですけど……似合わない、ですよね、これ」

 顔を赤くしながらもそもそと言う満ちるに、彰は思わずくすっと笑った。発奮している宏志の母親の姿が目に見えるようで。

「そんなことないよ。宏志のお母さん、きっと嬉しかったんじゃないかな、満ちるちゃんの服選べて」

「やり過ぎだよ。本人の好みも聞かずに、自分の趣味であれこれ買ってきちゃってさ」

 と、奥からご飯や豚汁と一緒に魚の煮付けを運んできた宏志が唇をとがらせて言った。

「今時の若い女の子と自分のセンスが合うと思ってんだぜ。どうかしてるよ、全く」

 どかっと彰の向かいに腰を下ろすと、なおも不満そうにそう言う宏志に、満ちるは悲しげに眉を曇らせて、

「……似合わないですか、やっぱり」

 と小声で言うのに、宏志は色を失って立ち上がった。

「いや! いや、そうじゃなくて! そういう意味じゃなくて、うちの親が図々しくて申し訳なかった、てことで、その」

 その勢いに彰が度肝を抜かれていると、早口に言い訳していた宏志の声が一瞬途切れて、それから「すごく、似合ってる」と小さく付け足して。

 目の前で先刻の比ではなくみるみる満ちるの頰が赤く染まっていくのに、彰はあ、と思って思わず二人の顔を交互に見た。

 これは……うん。これは全然、考えてもみなかったけど、すごくアリなんじゃ。

「うん。うん、似合ってる。童話のお姫様みたいだよ。すごく可愛い。なあ、可愛いよな、宏志?」

 彰が勢い込んで言うと、満ちるはますます顔を赤らめてうつむき、宏志の顔にもさっと朱が走った。

「何……何、御堂、急に」

「可愛いだろ? え、宏志、可愛くないって言うの」

「言ってないよ、そんなこと!」

 声を高くして真顔で否定する宏志に、彰はこらえきれずに吹き出す。

「なっ……んだよ、お前」

 更に顔を赤らめて、けれど何ひとつ言い返せずに、宏志はむすっとした顔つきでどすんと腰を下ろして。

「もう、食わないんなら下げるぞ」

「食べる。食べるよ。ありがとう、いただきます」

 両手をあわせて箸を持つ彰を、宏志はもう一度睨みつけて腕を組んだ。



 食事の後に、彰はまた宏志の店の電話を借りて、磯田に連絡を取った。

 磯田は先輩医師と連絡がついたようで、年始の挨拶という名目で二日後に訪問が決まった。彰のことは適当な言い訳をつけて一緒に上り込ませるつもりらしい。

 今後英一達とどう連絡を取っていけばいいのか、という彰の悩みに、磯田も案が思いつけずに二人して言葉に詰まる。

『まあ……まずはとにかく、先輩と話をしてみましょう。後のことは、その話し合いの結果次第です』

 磯田がそう言うのに、彰はうなずくしかなく。そもそもその相手が本当に自分たちと「話し合い」をしてくれるのか、彰としては甚だ疑問だが。

 電話を切って、明かりを落とした店の客席にふう、と息をついて座り込むと、奥でとんとん、と柱を叩く音がした。

 顔を上げると、宏志がこちらを見ている。

 すたすたとこちらに歩み寄ってくるその顔は、いつになくひどく真面目だ。

 宏志は彰の向かいに、かたん、と椅子をひいて腰を下ろした。

「……満ちるちゃんに聞いた、ゆうべ」

 そしておもむろに切り出された言葉に、彰はああ、と何とも言えない複雑な思いを覚える。

 満ちるや宏志の性格を考えれば、遅かれ早かれそうなってしまうだろうとは思っていた。それは今の彰にとって、できれば避けたくて、でもある意味では望んでいた事態だともいえる。

 他にどうしようもなくて満ちるの身柄を頼んでしまったけれど、できることならこれ以上は宏志のことは巻き込みたくなかった。安全圏にいてほしかった。

 けれど英一達のこともある。もしそれを宏志に頼むなら、満ちるの事情も説明しなくてはならなくて、でも自分の口からは到底言える気がしなかった。だから彼女が話してしまったことは、ある意味で彰の心を軽くしたのだ。

 ……ずるいな、俺は。

 真剣そのものの宏志を前にして、彰はじくじくと胸が痛むのを感じる。

「一階の居間に布団敷いて寝てもらってたんだけどさ。夜中に、水が欲しくなって……いや、うん、ほんとのとこ気になって、様子見に行ったら、布団にも入らないで膝抱えて泣いててさ。それで……無理に、話させた。彼女は最後までお前との約束があるから話せない、て言ってたんだぜ」

「うん。判ってる、いいよ」

 早口に満ちるをかばおうとする宏志に、彰はふっと笑って。

 目の前で宏志の顔があからさまにほっとするのに、また胸が痛む。

「それでさ」

 打ち明けてしまって安心したのか、宏志が緊張の解けた様子でぐっと身を乗り出してきた。

「俺、『パンドラ』申し込んだから」

 そして続いた言葉に、彰は心底、度肝を抜かれる。

「え、えっ……ええっ?」

 内心の痛みも何もふっとんで、軽く腰を浮かせて声を上げると、宏志はいつもの明るい表情でにやっと笑った。

「いいなあ。そこまで驚いてる顔、初めて見たかも」

「だっ……だって、宏志、なんで」

 一体どこで何があったらそうなるんだ、彰の頭の中は大混乱に陥る。

「宮原ならともかく、美馬坂とお前の繋がりって、あの変なバイトだけだろ。それなのにそこまで深く関わってく、てのは、お前がお人好しだから、てだけじゃさすがに無理があると思って」

 彰の驚愕っぷりをさらっと流して、宏志は得意げに指を振って。

「つまりはあのバイトの中で相当、何かがあった、てことになる。で、その何か、は、多分今も続いてる。でなきゃあんなに必死に、満ちるちゃんを隠す必要、ないからな。じゃ、あのバイトから今も続いてるものって何だ、てなったら……『パンドラ』だ、て思った」

「…………」

 彰はもう完全に言葉を失ったまま、すとん、と椅子に腰を落とした。

「健康診断とかはこれからだから、まだ完全に入れるって決まった訳じゃないけど、ま、持病も無いし、多分問題ないだろう。一週間くらいはかかるかもしれないけど、入れるって決まったら教えるから」

 宏志はそこで言葉を切ると、ずい、と頭を突き出して下から彰を見て。

「だから……もしそれ以外に、俺に何か協力できることがあったら、何でも言ってくれ」

「……宏志」

「お前は今、その『何か』を何とかする為に奔走してるんだろ? それ、俺にも噛ませてくれよ。……十一月、頃からかなあ、お前、見るからに変わってきて……て言うか、元に戻ってきて。勿論、医者にちゃんと行ってるからなんだろうけど、でもそれだけじゃない感じがして。何か、張りがある、て言うか、目的がある、みたいな」

 宏志はすっと座り直すと、また生真面目な表情に戻った。

「それが何なのかは知らないけど、でも、今こうやって美馬坂の問題に関わってるのは、そこからずっと、繋がったものなんじゃないか、って。切り替わらずにずっと来てる感じがするから。だとしたら……俺はそれが、上手くいってほしいよ」

 彰の喉の奥に、腹の底の方から何かがせりあがってきて、ぐっと詰まるような感覚がする。

「俺が彼女にふられた時、ずっと横にいてくれたろ」

 その彰の目の前で、宏志はちょっと照れた顔で笑って鼻の頭をかいた。

「何にも言わずに、ずっと隣にさ。あれ、すげえ有り難かった。……だから恩返しが、したいんだ」

 ……ああ。

 彰は深くうつむいて一度深呼吸して、目の奥が熱くなるのをこらえる。

 自分は早くに親を失った。それは大きな不運で、けれど……でも、それがあったから、自分はあの高校に進んで宏志に出逢って、そして皐月に、出逢ったのだ。こんなに凄い、親友と、あれ程愛した、人生の伴侶に。

 ――「彰」は「諦めない」の「アキラ」でしょ。

 あれ程辛かったことが、軸となって今の自分の人生を動かしている。

 まだ、捨てなくていい。諦めなくて、いいんだ。多分。きっと。

 彰は深く息を吸って、顔を上げた。

「――聞いてくれ、宏志」

 そしてひとつひとつ、すべてのことを、順を追って話し始めた。

   

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