第35話 しるし

  

「……うん。多分これで、抜けは無いと思うよ」

 ひと通り書き終えてから、彰はそれを、英一に差し出す。

 英一は自分は読まずにシーニユに手渡して。

 彼女はトランプを繰るようにざざっと流し見して、英一に突き返した。

 英一も同じように素早く中身を見ると、ふっと彰の方を見てにやっと笑う。

「?」

 きょとんとして見ていると、英一はくるくる、と紙を両手で丸めて球にすると、ぱくっと口に放り込んだ。

「え、美馬坂くん?」

 仰天して声をかける彰にぱっと口を開いてみせ――何も無い――それからふふっ、と笑みを浮かべて。

「ここ、仮想だよ。忘れてた? 読み込んだから、もう要らない。てか、残しといたらかえってまずい」

「……あ、ああ」

 そうか、いくら紙に見えても、あれ、紙じゃないんだもんな、彰は改めてそう思ってひどく不思議な気分になる。

 この何度かの滞在だけで、自分がすっかり、中のことが全部、外の世界とおんなじだ、と頭から思ってしまっていることに目が覚めるような思いがした。

 ――あっさりですよ、現実なんてね。

 いつか磯田が言っていたことを思い出す。本当に、そうなのかもしれない。

 そしてさっき英一が言った「外に出るのが怖い」という言葉を噛みしめる。彼にはもう、ここがすっかり、現実なのだ。

 先刻は英一のことを、「羽根がもがれてしまったようだ」と思った。けれど、そうやって空を飛ぶ自由をもがれながら、こんなところでこんなにも強靭な精神を保っている彼のことを、彰は素直に凄いと感じる。

「どう書き換える、シーニユ?」

「そうですね、初回にこの店に来られた時のことは残すべきだと思います。榊原さんの件はスタッフ側でも把握済みですから。クリスマスマーケットでお会いしたことについては、同席していた男性のシリアルナンバーが判りますので、その方の御堂さんと接触した部分のログを書き換えられれば良いのですが」

 英一の問いにシーニユはすらすらと答えて。

「ああ、ナンバーが判るなら大丈夫。よし、じゃ、僕達はこれから、ログを書き直す。御堂くんはここを出て、そうだな、三十分くらい街をぶらついて、それから図書館でログアウトまで本でも読んでて」

「あ、うん。判った」

「で、問題は次回なんだけど」

 そう言って英一がシーニユを見ると、彼女もひとつうなずいて。

「えっ?」

「次だよ。もう予約してるんだよね」

「あ、うん。一週間後」

 言いながら彰も、確かにそこは問題だ、と思う。

 今日はまだ良い。でも一週間後にはさすがに、清美の方から機関に彰の話が伝わってしまっているだろう。

「キャンセル、するべき……なんだろうけど、今までずっと毎週通ってて、このタイミングでいきなりキャンセル、て、それやっぱり探ってました、て言ってるようなもんだよね?」

 彰が言うと、英一は難しい顔をして大きく腕を組む。

「けど、キャンセルせずにしらっと来たとしても、今度は中での行動、逐一モニタされるだろうから、来たって結局、僕やシーニユに会って話をする、ていうのは無理だと思うよ」

「確かに。じゃ、今後どうやって連絡取ったらいいんだろう」

「うーん……」

 英一は彰とシーニユの顔を交互に見たが、彼女もどうにもしようがないのか、無表情にそれを見返すだけだ。

「誰か、代理の……ああ、そうだ、先刻言ってたお医者さんにログインしてもらって話せないかな」

「あ、ごめん。言ってなかったけど、そのひと病気持ちで、『パンドラ』には入れないんだ」

「ああ、そうなんだ」

 英一は眉根を寄せて、テーブルに片手で頬杖をつく。

「残念、そういうひととなら交渉もやりやすかったのに」

「うん……」

 会話しながら彰の脳裏には、宏志の顔が浮かんでいた。いや、でも、そこまで図々しい頼みをするのは、さすがにどうなんだろう。

「……そのさ、満ちるを預かってくれたひと、その彼は、御堂くんがそこまで信頼できる、そういうひとなんだよね?」

 そう考えていたところに、英一から、彰としてはできれば避けたかった質問が来て。

「……うん」

 だがこの問いには、それが真実であるというのと共に、もし否定すれば「何故そんなところに妹を預けた」となってしまうという二重の意味でうなずく以外になく。

「とんでもない迷惑だってことは承知の上だけど、そのひとに、頼めないかな。『パンドラ』に来てもらって、僕等と御堂くんの、橋渡し役になってもらう」

「…………」

 もしそれを頼めば宏志はためらいなく承知する、そう彰には判っていた。判っていたからこそ頼みづらい。

「御堂くんがそのひとを巻き込みたくない、て気持ちは判る。すごく判る。僕だって満ちるのことは巻き込みたくなかった。でも実際、今の状況でそのひと以外に頼れる人が僕等にはいない。迷惑なのを承知の上で、どうか、頼むよ、御堂くん」

 英一はテーブルの上に両の手をつき、頭を下げて。

 彰は一度深く呼吸して、小さくうなずいた。

「頼んではみるよ。でも、断られたらごめん」

 もし本当に頼んだら断られないことは判っていたけれど、敢えてそう言って。帰ってから一度磯田とも話し合って、その上でやはり巻き込みたくない、となったら英一には悪いが頼まずにおこう、そう思った。

「それは仕方ないよ」

 けれどそう言って薄い笑みを浮かべた英一の顔が、そんな自分の思惑をすべて見抜いているようで、ずきりと胸が痛む。

「そのひとにだって、暮らしや家族があるだろうしね。断られたら無理強いはしないで。満ちるを守ってくれてるだけで、僕はそのひとに返しきれない恩があるんだから」

 そしてそう続けた英一が、暗に彰のその思惑を「そうなったところで仕方がない」と受け止めてくれていることが伝わって、ますますいたたまれない気持ちになって。

「シーニユ」

 それから英一はシーニユに軽く視線を移す。

「はい」

「少し、二人だけにしてくれないかな。御堂くんと、二人で話したい」

「判りました」

 シーニユはうなずいて立ち上がると、小さく会釈して店の外へと出ていった。



「もしかしたら、もうこうやって直接には話せないかもしれないから」

 シーニユが外に出ていくのを見届けると、英一は座り直して改めて彰に向き直った。

 その言葉に、彰はまたずきりと胸が痛むのを感じる。

「まず満ちるのこと。迷惑かけてすまないけど、どうかよろしくお願いします」

 それからそう言って深々と頭を下げられ、彰は慌てて両手を振った。

「いや、どっちかって言うと僕が巻き込んだ側だから。美馬坂くんには、ずっと謝らなきゃ、て思ってた。本当にごめん」

 彰はそう言いながらさらに深く、頭を下げ返した。このことについては本当に申し訳ないと思っている。

 英一はそれに、微笑んで首を横に振った。

「御堂くんが来てくれなかったら、僕の頭の中にいる満ちるはこの先もずっと、小学生のままだった。何を考えて、どんな風に毎日過ごしているか、そんなこと絶対に知ることができなかった。だから、むしろお礼を言いたいよ。ありがとう、御堂くん」

 彰の胸の痛みが、より一層深くなる。

「僕さ、ほんとに……驚いたんだよ」

 英一はそんな彰の内心には気づいていない様子で、しみじみと呟いて。

「御堂くんと、ここで会った時。ああ、年をとってる、って」

 この店で再会した時に言った言葉と同じことをもう一度言って、英一は微笑む。

「不思議だよね、体感としては僕の方が御堂くんより長く生きてるんだ。二十一年だからね。なのに、都市での僕の見た目はちっとも変わってない」

 マスターの皺の寄った手の甲をためつすがめつ眺めながら、英一は感心したように首を振った。

「あの時さ、思ったんだ……ああ、真っ当に年をとる、ていうのはこういうことなんだなあ、って」

 小さく息をつくと、英一はマスターの手を撫でた。

「僕のここでの二十一年は、御堂くんの七年にはかなわないんだ、って。……ここから出られなくなったのはもう不可抗力だと思ってるし、ある意味で他の人にはできない面白い体験だとも思ってる。おかげで実家も助かったし、もうこれはこれで良いじゃない、そうずっと思ってた。今だってそう。だけど……あの時、御堂くんの、七年分年をとった顔を見た時、何か、刺さった気がした。細くて長い針みたいなものが、ここに」

 そう言って胸元に手を当てる英一の姿があまりに痛々しくて、でも目を背けるのは許されない気がして、彰はぐっと下唇を噛む。

「もうそういうの、完全に捨てたと思ってたのに、強烈に……ああ、どうして自分はこんなところにいるんだろう、って。本当ならあった筈の時間、あった筈の自分、そういうのがいっぺんに胸に押し寄せて、あの日は眠れなかった」

 そんな話をしながら、英一は何故か目を細めて笑った。

「今となっては外に出るのは恐いけど、そうなってる自分も含めて、口惜しかった。あの時あんなことにならなかったら、こんな臆病な自分じゃなかった筈なのに」

「……美馬坂くん」

 彰はきつく両の手を握りしめて、ともすれば震えそうになる声を何とかこらえてその名を呼んで。

「僕はまたいつかきっと、ここに来るよ」

 英一はふい、と目を動かして彰を見た。

「今までのこと、証拠を見つけて、必ず公表する。多分大騒ぎになる。でも君達がいる以上、『パンドラ』はともかく、都市を閉鎖することはできない筈だ。ここと『パンドラ』はいわば地繋がりな訳だから、それなら同じ方法で都市にも入れるだろう? そうなったら、どんな手を使ってでも、必ず君に、会いに行くよ。満ちるちゃんを連れて」

 英一はゆっくりと呼吸しながら、彰をじっと見つめて。

「……ありがとう、御堂くん」

 彰は小さくかぶりを振って立ち上がった。

「もう行くよ」

「もし、そうなったら」

 彰の言葉を無視して、英一は声をあげる。

「もし、君が都市に来られたら……その時は今度こそ、皐月さんに会えるね」

 椅子の位置を直そうとしていた彰の動きが、ぴたりと止まった。

 ゆっくりと顔を動かして、英一の方を見る。

 向こうはそれ程の他意もなく言った言葉らしく、いつもの人なつこい笑顔でいかにも「良かったね」という顔つきでこちらを見返して。

 彰の唇がわずかに開いた。

「……忘れてた」

「え?」

「そんなこと、忘れてたよ」

「御堂くん」

「考えも……しなかった」

 彰は目線を落として、深く呼吸して。

「皐月のことを、忘れてた訳じゃないんだ。それはもう、どんな一瞬だって忘れられない。だけど、そっちじゃなくて……何て言うのかな、ここにいる皐月に何としてでも会うんだ、ていう、それに全部をしがみつかせて、のめり込んで……そういう、執著? 妄執みたいな、そういうの……忘れてた、ここしばらく」

 彰は英一に向かって話す、と言うより独り言のようにそう呟きながら、長い息を吐いた。

 皐月を失った後、しばらく無感覚な日々が続いて、それから『パンドラ』のことを知った時、生き返ったような気がした。世界に色が戻ってきたような。

 けれど実のところ、それはゼロを指していた頭の中のすべてのチャンネルを一斉にそちらに切り替えたに過ぎなかった。とにかくそのことだけを一散いっさんに考えていれば、自分は生きられる。すぐ脇にぽっかり開いている大きな穴に気づかないようにして。

 それがどういうことなのか、ということからは目を背け耳を塞いで感覚と感情を殺して走ってきた、けれどシーニユの存在が自分に「こころ」を取り戻させた。

 何もかもを吐き出して自分の中のどうしようもない執著を肯定された、それがかえって、その執著を和らげてくれた、そんな気がする。

「……そう」

 彰の呟きに、英一は柔らかく微笑んだ。

「うん。……君とシーニユのおかげだと思う。ありがとう」

 改めて頭を下げると、英一は笑って手を振る。

「それはもう、僕じゃなくてシーニユだよ。……行く前に、ちゃんと話、してあげて」

 彰は軽く瞬いて、英一の顔を見直して。

「僕はここで、たくさん……本当にたくさん、もの凄い数の人工人格の教育をしたよ。直接の教育は勿論、外から入ってくる情報を仕分けて渡したりとか、そういうことも」

 英一は数を数えるように、指先でとんとん、とテーブルを叩いた。

「彼等は確かに、それぞれに個性を持ってる。僕が客として『パンドラ』に入ったらきっと気づかないだろうな、て仕上がりの子もたくさんいる。でも、シーニユみたいな子はいなかった。今までひとりも」

 彰は何だか心配になって、体をまともに英一の方に向けて。

「シーニユは……そんなに、変わってる?」

 そんなんじゃまわりと溶け込めずに本人がしんどいんじゃないか、そう思う彰に英一は軽く笑ってみせる。

「いや。……あ、いや、変わってるのかな……でも、普通なんだよ。すごく普通」

「へ?」

「いるよなあ、て思うんだよ。変わってるんだけど、こういう子、いるよなあ、て。すごく当たり前にさ。どこかの街中できっとすれ違ってるんだろうな、てレベルで」

 意味が判らず目をぱちくりさせていると、英一はまた歯を見せて笑った。

「『パンドラ』の人工人格って、基本サービス用だから。だからある意味、全員サービス業のプロみたいな出来上がりな訳。一般客のふりをする子達だって中身はそう。いわば、銀座の一流のホステスやホストの人が、普段の日常でそのトークテクを披露してる、みたいなさ。多少機嫌の悪い様子や議論になっても、それもやっぱり、皆サービスなんだ。相手側が何を望んでるのかを計算して、先回りしてふるまってる。……だけど、シーニユは違う」

 彰の胸がどきん、とひとつ打った。

「あの子は普通だ。本当に普通。当たり前に社会のあちこちにいる、ちょっと変わった子。あの子がやってることは『サービス』じゃない。計算はゼロ。でもきっと、だからこそ君のこころを打ったんじゃないかな。僕はそう思う」

 ……ああ、そうだ。

 彰は深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、わずかに微笑んでうなずいて。

 彼女が彼女として、「客の相手をする人工人格として」ではなく、彼女自身として対峙してくれたことで、自分はあんなにも自らを解放できたのだ。

「うん。僕も、そう思うよ」

 英一が彰を見上げて、ふっと目を細めて笑った。



 店を出ると、少し離れた街灯の下に立っていたシーニユがこちらをまっすぐに見た。

 彰はそちらに向けて歩いていく。

「美馬坂さんは」

 短く問うてくる彼女に、小さくうなずいた。

「店で待ってる。……君と少し、話がしたくて」

 最後になるかもしれないから、とは自分には言えない、内心でそう思う。

「あのね。君を、つくったひとのことだけど」

 深呼吸をして話し出そうとしていた彰を、シーニユは片手を上げて止めた。

「?」

「そのお話は不要です。その情報は、特に必要ではありません」

「シーニユ」

 彰は驚いて彼女を見直して。

 意地を張っていたり強がったりしているのではないか、そう思っていつもの無表情なたたずまいの奥にあるものを見抜こうとじっと見つめてみたが、声にも態度にも、取り立ててそんな様子は見られなかった。まるで普段通りだ。

「ただ、ひとつだけ確認したいことがあります」

 するとシーニユがそんな言葉を続けて、彰ははっと彼女を見直す。

「その方は、カプチーノの最後に砂糖を入れて召し上がるのでしょうか」

 そして続いた台詞に、ゆっくりと彰の口元に笑みが浮かび上がった。

 彰は小さくうなずいて、

「うん。……若い頃、奥様に教わって、やってみたら美味しくて、それで好きになったんだって」

 と答えると、シーニユがかすかに顎を動かす。

「教わって、美味しくて、好きに」

 そして小さく呟くように繰り返すのに、大きくうなずき返して。

「そう。教わって、美味しくて、好きになったんだ」

 君と同じに、そう続けたいのを敢えて飲み込む。

「設定」だから好きになった、でもそれは「もともと自分は知らなかったことを教えられて好きになった」のとそんなに違いがあるだろうか。

 天上から与えられたものであっても、美味しいと思うならそれはもう「好き」で良いじゃないか。先生の娘さんだって、そうやって「好き」になったんだ。

 そういうことを全部飲み込んでじっとシーニユを見つめていると、しばらくしてから、彼女は納得したようにわずかにうなずいた。

「判りました。ありがとうございます」

 小さく会釈したと思うと、すっと店の方に戻っていこうとするシーニユを、彰は驚いて呼び止めて。

「もう行くの?」

「はい」

 半身だけ振り返って、シーニユはうなずく。

「これから書き換え作業がありますから。全面的に書き換えることを考慮すると、御堂さんがここにいる時間は短ければ短い程良いです」

「……まあ、そうだね」

 一分の隙も無い正論を言われて、彰は不承不承首を縦に振った。

「でも、こうやって直接話せる機会はもう無いかもしれないから」

 けれどやっぱりもう少し話をしていたくてそう言うと、シーニユは真面目にいぶかしげな顔をしてまともに向き直る。

「そうでしょうか」

「え?」

「御堂さんが美馬坂さん達の現状を公表する、ということは、御堂さんがこの問題の中心人物のひとりになるということです。そして原因がある、つまり劣位となるのは機関の方ですから、この問題にきちんとメスが入れば、優位側である御堂さん達がその際に都市や『パンドラ』を訪れることはそれ程難しいことではないのではありませんか」

「…………」

 ごくごく当たり前のようにそう話すシーニユを、彰はまじまじと見つめて。

 つい先刻、自分は英一に言った。またいつか必ず、会いに行くと。

 けれどもそれは「いつか」の話、どこか夢物語に近かった。何もかもがすべて終わった、何年も何年も先のことで、しかも今『パンドラ』に英一が来ているような、通常とは異なる、こっそりとしたやり方を何となくイメージしていた。そしてその時には都市はともかく、『パンドラ』は無いだろう、そう漠然と思っていた。

 まずそもそも、今回の告発が果たして上手くいくのか、それすら自分にはおぼつかないのに。

 けれどシーニユの発想はもっと真正面で、そして告発が成功すれば、かなり現実的となる話だった。

 確かにきちんと事態が糾弾されれば、ごく近い将来、マスコミが都市や『パンドラ』の中に入って取材をしたりすることもあるだろう。ならばその際に、告発者となる自分がそこにいることは、可能性として普通に有り得る。

 そう思うと同時に、少し感動する。自分が必ずこの問題を何とかする、必ず告発を成功させる、それを一ミリの疑いも無く信じている、彼女に。

 その信頼は、彰のこころを暖めて勇気づけた。

 磯田が話していた、「誰かの心にじっと寄り添えるような存在であってほしい」という言葉を思い出す。

「……ありがとう」

 口元に自然に浮かんでくる微笑みと共にお礼を言うと、シーニユは小首を傾げる。

「お礼をいただくような覚えがありませんが」

「俺にはあるよ」

 いつかと同じ会話を交わして、彰はもう一度微笑んだ。

「シーニユ」

「はい」

 名を呼ぶと、いつものように彼女は即座に反応する。

「君にずっと、聞きたいと思ってた」

「何でしょうか」

「初めてあの店で逢った時、君は奥の席で、本を読んでいたよね」

「はい」

「あれは、何を読んでいたの?」

 彰の問いに、彼女は珍しく数秒の間を開けた。

「プルーストの『失われた時を求めて』です」

 そして返ってきた答えに、ああ、と深く納得する。

 間違いない。誰が何と言おうが、それは定義として違うだろう、と言われようが、自分には間違いの無い、確かな事実。

 彼女には確かに「こころ」がある。

 彰はゆっくり息をついて、柔らかに微笑んだ。

「俺はそれ、読んだことがないんだ」

「そうですか」

「でも、読んだひとが言ってた。……『シーニユ』とは、ヒトの人生にあらわれて真実と生きる力を与えていく『しるし』なんだ、って」

 シーニユはすっと唇を引き結んで、灰色の瞳でまっすぐに彰を見る。

「君が正しいよ」

 彰はシーニユに一歩近づき、手を差し出した。

「君の言う通りだ。――また必ず、ここで逢おう」

 一言一言に力を込めて言うと、シーニユは背筋を伸ばして彰の手をぐっと握って、「はい」と小さく、うなずいた。

  

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