第31話 鐘の音

  

 大晦日の夕方、彰は磯田の家に向かっていた。

 どこか良い料亭にでも、と持ちかけた磯田に、彰は失礼を承知でそれを断った。この話は、他の誰にも聞かれたくない。

 すると「ご足労おかけしても良ければ」と磯田は自分の家を指定してきて、彰はほっとしてそれを承諾した。

 古い知り合いに美味しいふぐ鍋を出す店があるのでそこから仕出しを頼みます、年越し蕎麦も用意しておきますので御堂さんは美味い日本酒でも持ってきてください、と連絡してきた磯田に、彰は皐月の実家で彼女の両親がよく飲んでいた銘柄の一升瓶を携えて彼の家へと向かった。

 ――何だか、ほこほこする。

 年も押し迫って車の少ない、すっかり日が落ち切った住宅街を白い息を吐いて歩きながら、彰はひとりごちた。

 誰かの家にこんな風に向かうのは、何年ぶりだろうか。

 話そうと思っていた内容は最初に想定したより遥かに重たいものになってしまったのに、その重圧は確かに心にのしかかっているのに、それでも彰は、自分の心が奇妙に浮かび上がるのを止めることができなかった。

 自分がまだ本当に子供だった頃、こんな帰り道があった気がする。

 父も母も健在で、何ひとつ思い悩むことがなかった頃。

 角を曲がると家の灯りが明るく灯っていて、父の車と母の自転車が車庫に並んで、自分の好物の匂いが換気扇から流れてきて。

 飛び跳ねるようにして玄関を開ける、あの頃の帰り道。

 耳元から流れてくるナビの音声を聞きながら、彰は角を曲がった。

 電車の駅を降りて少し歩いてきた辺り、まわりは古くからの高級住宅街だ。

 その中でも外れの方の、今時ちょっと見ないような渋い平屋の日本家屋が、目的の場所だった。

「ごめんください」

 つられて年寄りめいた言いまわしで挨拶すると、からりと引き戸が開く。

「どうも、遠いところをご足労かけまして」

 暖かそうな濃紺のアランセーターを着て、磯田がにこやかに顔を出した。

「お邪魔します」

 中からほわり、と暖かい空気が流れてくるのを心地よく感じながら、彰は家へと上がった。

 外は見事なまでに風情のある日本家屋だったのが、中へ入ると綺麗にリフォームされていて、広いリビングの床は板張りで大きなテーブルが置かれていた。だが、天井から下がる明かりは和紙を使ったもので古木の太い梁も見え、窓は障子と、いかにも和モダン、といった感じの部屋だ。そしてやっぱり、しっかりと暖かい。

「祖父の代から少しずつリフォームしてきたみたいでしてね。わたしも多少は手を入れましたが、自分が子供の頃からもうこんな感じでしたよ。おかげで小さい頃は『日本家屋』というのはこういうものなんだ、と頭から思ってました」

「こういう家って、寒いものなんだと思ってました」

 脱いで手にかけていたコートを磯田が手を差し出してくれるのに、頭を下げて手渡しながら彰が言うと、磯田は微笑む。

「わたしが生まれた時には、その辺りももうすっかり対策済みでね。大人になってから白川郷みたいな、本当にきちんと古い日本家屋が保存されているところに行って、驚きました。昔の人はよくもまあこんな、隙間風の多い底冷えのする家で暮らしていたものだと」

 受け取ったコートを奧のどこかに置きに行き、戻ってくると磯田は反対側の奧の方を指し示す。

「普段は食事はリビングですけどね。今日はせっかくですから、和室でいただきましょう」

 そう言うのについていくと、リビングの奥に極薄の紫に細い波のラインが銀箔で押された唐紙の貼られた襖があって、そこを開けると実に真っ当な日本の客間があった。

「……すごい」

 その真ん中に設えられた大きな座卓の上に、すっかり食事の用意が整えられているのに彰は思わず小さく声を上げてしまった。

 卓上のコンロの上には既に土鍋がセットされていて、周囲には野菜やふぐの入った大皿が並び、そのまわりにも菊の花のように美しく盛りつけられたてっさを始め、あれこれと酒の肴的な小鉢が並んでいる。

「あ、そうでした、これ、妻の田舎の方のお酒なんですが」

 下げていた風呂敷包みから一升瓶を取り出して手渡すと、磯田が相好を崩した。

「ああ、これはうれしいですねえ。じゃ、せっかくですからお燗にしましょうか。あ、どうぞどうぞ、お座りになって待っていてください」

 そう言って磯田がリビングの方へ戻っていくのに、彰は軽く一礼してから辺りを見回した。

 窓際はぴたりと雪見障子が閉まっていて、でも近づいてみても全く冷気はこない。

 そうっと触ってみると、障子は紙ではなく、何か硬い質感の板がはまっていた。見た目は完全に障子紙なのだが。

 少しだけ障子を開けて外を覗いてみると、板張りの縁側があってその向こうは窓だった。ちょっと首を伸ばして見ると、しっかり複層ガラスになっているのが判る。外はすっかり暗くて、庭はあるのだろうけど殆ど見えなかった。

 障子を閉めて、下座側の、木製の座椅子に敷かれたかなりぶ厚い座布団に座って、畳の上を手で触れてみるとほんのりと暖かい。おそらく床暖房も入っているに違いない。

「すみません、お待たせしました。……ああ、駄目駄目、お客様が下座に座っちゃ」

 磯田が魔法瓶と一緒にお盆に乗せた陶器製の湯燗セットを座卓に置くと、すぐにまたリビングへ戻って一升瓶を持って戻ってきて、彰を追い立てるように上座へと移らせる。

「じゃ、始めましょうか」

 コンロの火を付け、お猪口をひとつ彰の前に置くと、磯田はにっこりと微笑んだ。



 とりあえず本題は食事が済んでからにしよう、と彰は思っていたし、磯田もそのつもりのようで、だしのよく効いたすこぶる美味い鍋をつつきつつ、なごやかに会話しながら代わる代わるに向かいの相手にお酌をしあった。

 磯田が言うには、今はこの家には週末に風を通しに来るくらいで、普段はもっと職場に近いところに小さなアパートを借りているのだそうだ。

「ひとりで住むには広過ぎますからね」

 と、寂しそうな横顔を向ける磯田に、彰はかける言葉が見つからなかった。

 食事が進む内、互いに本題は避けてはいながら、やはり会話は『パンドラ』の話が中心となる。

「一にも二にも、学習ですね。とにかく莫大な量のデータを食わせます。それはもう、天文学的質量ですね」

 自分は人工人格の開発や教育の専門ではないから通りいっぺんのことしか話せないが、と前置きした上で、磯田は人工人格がどのように「人格」を形成しているかを彰に説明した。

「何より必要なのは、パターンです。会話や反応のパターン。集められる限りの文章や映像から、とてつもない数のパターンを学習させます。例えば『いい天気ですね』という一言だけでも、その後の会話は互いの性別や年齢、関係性、時間や場所、その一言に至るまでの状況から、万通り、億通りの切り返しがある。そのすべてを学び、分類して整理して蓄えるんです」

 前回同様、磯田はよく喋りながらも旺盛によく食べた。だからと言って食べ方が汚らしく見える、ということもなく、実にうまいこと言葉と言葉の合間合間に絶妙にぱくぱくと食べ物を口に運んでいる。

「それを続けていくと、全体が巨大な網のようになっていくんですね。ひとつひとつ、独立したパターンがどんどん繋がって広がっていく。複合的、複層的になっていく訳です。すると、学んだ中には存在しないパターンを自らつくり出す、そういうことが可能になる。それによって、非常に『ヒトの人格』に近い反応が出せるようになっていくんですね」

「でもそれだと、全員が殆ど同じ人格になっちゃうんじゃないですか?」

 燗酒と鍋とで胃袋の底がほかほかと温かくなっているのを感じつつ、彰は疑問を呈した。

「そこで生きてくるのが初期設定です。どこを突出させてどこを抑えるか、という話ですね。性別や年齢、興味のあるなし、食べ物の好き嫌い、様々な設定によって、読み込ませたものの取り込み具合が変わってきます。また、外向性か内向性か、というような違いで、同じように取り込んだとしても表層に出るものが異なってきます。まさに千差万別となりますよ」

 磯田の言葉を聞きながら、彰はシーニユの幾つかの様子を思い返していた。

 お店のことを「好きかどうか判別できない」と言っていた姿。おそらく磯田が設定したのであろうコーヒーの飲み方を、「好まれるようだ」と表現した言葉。

 つまり「このような反応はすべて初期設定に過ぎない」と彼女は考えていたのではないか、彰はそう思い至った。自分が選んだことではなく、ただの上からの条件付けに過ぎないと。それは人間が言う「好き」とは違うのではないか、そう。

 すべてにおいて厳密な彼女が考えそうなことだ、と彰はわずかな苦笑と、少しの胸の痛みと共に考えた。そこを割り切ってしまえないシーニユの不器用な物事への向き合い方が、どこか自分に似ているような気がして。

 初めて『Café Grenze』で出逢った時の彼女の姿を思い出す。一番奧の席に座って、黙々と本を読んでいたその姿。

「……本、読む必要ってあるんでしょうか」

 思い出すと同時に、問いが口から出ていた。

「えっ?」

「あ、いえ、あの、本を読んでいる人工人格を街で見かけたことがあって。でもお話聞いてると、世界の大半の文学作品は学習済みなんですよね。なら読まなくたって話は全部、頭に入ってるのに」

「まあまず、『読書好き』て設定なのかもしれませんね」

 少し身を乗り出して彰のお猪口にお酒を注ぎながら、磯田は言う。

「それに学習は、『読書』というのとはかなり異なりますし。切り刻んで流し込む、とでも言いますか。重要なのは分類なので、こう、じっくりと文章を最初から最後まで順を追って味わいつつ読む、というのとは全く違うものですから、改めてそうやって『読む』行為を行う人工人格がいても不思議じゃないと思いますよ」

「そうなんですねえ」

 そういえば何の本を読んでいたのか結局聞いてなかったな、彰はそう思いながらぬるめの燗酒の注がれたお猪口を唇に運んだ。

「でも、面白いですね」

 磯田が実に楽しそうな顔をして、ぱくりと煮えたふぐの身を口に入れて。

「勿論『設定』でそれをしている人工人格もいるんでしょうが、もしかしたら本当に楽しんだり味わったりする為にそういうものに触れている人格も、きっといるんじゃないでしょうか。もともとの人工人格開発者達がどういうゴールを想定していたかは知りませんが、もしかしたら今の彼等は、そこを軽々超えているのかも判りませんよね」

「……そうですね」

 またシーニユの姿を思い浮かべながら、彰はうなずき、鍋に箸を伸ばして。

 その内に鍋の具材はすっかり空になって、最後には磯田が手づから雑炊に仕上げてくれた。これがもう実にしみじみと美味しくて、口に入れた瞬間、彰は文字通り震えた。

 すっかりお腹もくちくなって、これじゃ年越し蕎麦なんて到底胃に入らないのでは、と彰は危惧する。

 それから「お客様にはさせられません」としきりに遠慮する磯田をなだめつつ二人がかりで後片付けを済ませて、再度お湯をわかして燗を付けた酒と、漬物や乾き物など、ちょっとしたつまみ程度のものを卓に並べ直して改めて二人は向かい合った。

「――では、わたしは少し、黙りますよ」

 互いにお酌をしあってから、磯田はゆったりと座り直して微笑む。

 その姿に背中を押される思いがして、彰は逆に背筋を伸ばし、口を開いた。



 すべての経緯を語り終えた時には、もう日付の変わる時刻までわずかとなっていた。

 宣言した通り、磯田は多少の事実確認以外、シーニユのことにも英一の話にも殆ど口をはさまずに、じっと彰の言葉に耳を傾けていた。だがその間、顔色が厳しくなったり悲しげになったり蒼白になったりわずかに瞳に涙がにじんだりと、表情だけでも十二分に内心の動きが彰には伝わった。

 何もかもを喋ってからふう、と息を吐いて、もう言うべき言葉が何ひとつないことに彰は気がつく。

 しいん、と部屋の隅にまで四角い沈黙が満ちた。

 しずかに呼吸をしながら彰が見ると、向かいで磯田がゆっくりと長い息を吐く。

 それからふっと、目線を上方に動かした。

「――ああ、もうこんな時間ですか」

 彰がつられて振り返ると、壁の柱に古びた時計がかけられている。

 こんなに長いこと喋っていたのか、彰は改めて驚いた。

 だが気分は妙にすっきりしている。何と言うか、腹の底の底まで、すべてを取り出して並べて洗ってきちんと詰め直した、そんな感じだ。

「いけませんね。蕎麦を食べなくっちゃ、年も越せない」

 先刻まであんなに重たい話をしていたのがまるですべて無かったことのように、磯田はそう言いながら立ち上がって。

「いえ、あの、遅くまですみません、もうおいとましないと」

 それにどうせもう蕎麦なんか腹に入らないし、内心でそう思いながら後に続けて立ち上がると、いつの間にかすっかり胃袋が軽くなっているのに彰は驚く。座ってただ話していただけなのに、一体どれだけ自分は消耗したのか。

「御堂さん、明日は何かご用事でもあるんですか」

 台所へ向かうと、どんどん蕎麦の準備を始めてしまいながら磯田が尋ねて。

「いえ、特には」

「なら泊まっていってください。今は本当に人の立ち寄らない家ですから、たまにこういうことがあれば、きっと家だって喜びます」

 たっぷり水を張った鍋を磯田の手から取ってコンロに置きながら、彰はふっとその横顔を見た。

「――じゃ、お言葉に甘えます」

 小さく頭を下げてそう言うと、磯田はにっこりと笑って彰の方を見た。



 つるつると喉越しの良いざるそばを向かい合ってすすっている間に、年が明けた。

「ああ、食べ終えられませんでしたねえ」

 磯田が少し残念そうに言いながら、立ち上がって障子を開け、縁側に出て窓を開く。

 下からすうっと忍び込んでくる冷気と共に、外の暗闇から除夜の鐘の音がした。

 彰が住んでいる辺りではもうほぼ生では聞けないその音に、しみじみと耳を傾ける。

「すみません、冷えてしまいますね」

 窓と障子を閉めて磯田が部屋に戻ってくると、下がった室温を元に戻そうと空調が勢いよく動き出して。

「蕎麦湯飲みましょう。暖まりますよ」

 そう言って磯田が持ってきてくれた蕎麦湯を、彰は有り難くすすった。

 体の外側と内側からゆっくりと温められて、気持ちがすとんと胃の腑におさまってくる。

「――前にわたしを『パンドラ』に引き込んだ先輩医師がいる、という話をしましたね」

 向かいで同じように蕎麦湯をすすりながら、磯田が何気ない口調で口を開いた。

 彰は思わず顔を上げて、向かいの相手を見る。

「おそらくそのひとなら、何もかもを知っています」

 そして磯田が淡々とそう言うのに、鼓動が一瞬で跳ね上がった。

「そのひとはもう一線を退いて、今は葉山で暮らしています。もう長いこと、寝たきりに近い療養生活を営んでいますが、頭は全く、衰えてはいません」

 磯田は一度言葉を切って、目を上げて彰の視線を受け止めた。

「わたしがそのひとに、会いに行こうと思います」

 彰はすっと息を呑む。

「御堂さんとわたしには、共通点がある」

 磯田は彰の目を捉えたまま、しずかな声で語った。

「それは大きな、とてつもなく大きなものを、永遠に失ったことです。その痛みがいか程のものか、わたし達はよく知っている。……そしてこの世のどこかに、たった今、本当は失ってはいないのにそう思い込まされて苦しんでいる人々と、失わずに済んだものを奪われたままの人達がいる。それは明らかに間違った、正されるべき状況だとわたしは思います」

 ……ああ、似ている。

 その淡々としていながらもきっぱりとした口調と、底に潜む強い意思、そして迷いの無い「倫理観」に、彰は確かに、シーニユの片鱗を見い出す。

「彼に会って、すべてを聞き出します。――そして必ず、この状況を正します」

 磯田はそう力強く言い切って、彰にうなずいてみせた。

   

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