第30話 一線

  

 残り時間を、彰は自分の思考をまとめてみたくて「ログアウトまで少し散歩するから」と言って外に出た。

「ご一緒します」と言ってシーニユが後についてくる。

 ……後これだけの時間じゃ、磯田先生の話をするのは無理だな。

 ごくわずか、肩半分程後ろについてくるシーニユをちらりと見て、彰はひとりごちた。それに、そのことより先に彼女には聞いてみたいことがある。

 先行すべき問題から片付けていくのが良い、と言ったのは彼女だしな。

「シーニユ」

 そんなことを思いながら名を呼ぶと、彼女はそれを予想していたかのように「はい」と即座に返事を返す。

「君は、どう思う? 美馬坂くん達のこと。公にするべきかどうか」

「現代日本の標準的な倫理観に基づけば、発表するのが筋だと推断されます」

 その問いに彼女はいつものように間をおかず、彰からすると少し意外な返答をした。

「倫理観?」

「はい」

「それは、どういう基準で構築されてるの?」

 純粋な好奇心で尋ねると、シーニユはわずかに小首を傾げて。

「人工人格は全員、教育の最初に膨大な資料を学習します。国や年代を問わず、文学、映像、各種の芸術、歴史、現実のニュース、莫大な量です。それ等を精査していくと、『一般的にヒトはどういう生き方が正しいと考えるのか』という指標が現れてきます。それを『倫理観』だと機関は定義しています」

 シーニユの言葉に、彰は少し考え込む。

「何が良くて何が良くないか、ていう判断を人工人格側でする訳?」

 ということは「善悪の把握」ということができるのか、と思った彰に、シーニユは小さく首を振った。

「いえ、基本的には仮想人格の方々がその判定をします。ですが、例えば文学やドキュメンタリー、実際の事件で法律で裁かれる内容などから『ヒトはこう生きるのが正しいと社会で定義されている』という内容を分類整理するのは人工人格にも可能です」

 成程、と彼女の説明に彰はうなずいて。確かに法律というのはかなり大きな指標になりそうだ。

「てことは、すべての人工人格にとっての『倫理観』は完全に同一ってこと?」

「いいえ」

 考えながら問うと、シーニユは即座に首を横に振った。

「ある一定量までは全員が共通ですが、そこからどの部分を強く取るか、というのは個々の人格によって変わってきます。科学に興味がある設定の人格は、何より技術発展を重んずる、などのように、それぞれの傾向が出てきます」

「成程なあ……じゃ、先刻の美馬坂くんのことを発表するべきだ、ていうのは、シーニユにとっての『倫理観』的回答、てこと?」

 確認の為にもう一度聞いてみると、彼女はわずかに小首を傾げた。

「主観と言うよりは一般的、いわば教科書的な『倫理観』です。死者が出たり、致命的な事故が解決できないままという事態は、その舞台が何であれ、隠蔽しておくべきではない、というのが普通の倫理観ではないでしょうか」

「うん、確かにね。正しいよ、それは」

 先刻あれ程までに苦しみながら英一に返した内容を、実にさっくり言われてしまって、彰はどこか拍子抜けしつつうなずく。うん、ほんと、そうなんだよな。隠しとく方がどうかしてるんだ、あんな話。

 ……でも。

「でも、だけど……発表することで、美馬坂くん達の家族が、お金のことや周囲から糾弾されて苦しむかもしれない、ていうのは……どうなんだろう。それに、発表することでこの研究が止まったら、『パンドラ』だってなくなってしまうかもしれない。それでもやっぱり、発表するのが正しい?」

 言いながら彰はふっと、「トロッコ問題」のことを思い出した。どちらを選んでも苦しい、あの問題を。

「それとこれとは別問題ではないでしょうか」

 だがそんな彰を尻目に、シーニユはあっさりそう言って。

「発表することで何が起きるか、というのは単なる予測です。その予測の為に、なすべきことをなさないというのは、筋が通らないのでは」

 ……正論だ。うん、正しい、いやでも、そうなんだけど、でも。

 彰が絶句していると、シーニユは普通の顔で続けた。

「発表をすることで現在の状況は変化する訳ですから、それで何かが発生する、というのは当然のことであるとも言えます。もし何かが起きたとしても、それぞれに解決していけば良いだけのことではないでしょうか」

「……うん」

 彰はふっと足をゆるめて、シーニユの横顔を見た。

 ごちゃごちゃになっていた気分が、すうっと晴れやかになっていく。

 だが同時に、気持ちの底が、ぐんと重みを増した。

 そう、発表する、ということは……この問題について、自分が大きなものを背負う、ということだ。隠すことで感じる負担は自分だけのものに過ぎないけれど、公表するのであれば、その後の問題にもきちんと関わっていかねばならない。言うだけ言ってハイさようなら、という訳にはいかないのだ。

 ……だけど。

 彰の歩みが遅くなったのに、シーニユもふっと足を止めた。

 ふわっと風が起こって、その髪が揺れる。

 それで『パンドラ』がなくなってしまうかもしれない、ということについても、彼女はやっぱりこんな風に、淡々と受け入れられるのだろうか。

 そう一瞬考えて、だが「人工人格は迷わない」と話していたことを思い出す。

 そうだな、きっと彼女は、そこには悩むまい。



「御堂さん?」

 立ち止まったまま彼女を見つめていると、片眉をわずかに一ミリ程上げてシーニユが声をかけてきた。

「……君はトロッコ問題は、どう答えるんだろうな」

 その灰色の瞳を一瞬じっと見て、彰は口の中で呟くとまた歩き出して。

「トロッコ問題、ですか?」

 後に続きつつ問い返す彼女に彰はざっと説明する。

 するとシーニユは即座に、

「それは、人工人格が現実界にいる、と仮定してのことで良いですか? またその場合、線路にいるのはヒトでしょうか、人工人格でしょうか?」

 と続けざまに質問をしてきて、彰は少し面食らった。

「答えが変わる訳?」

「はい」

 こくりとうなずく彼女に彰は狐につままれたような思いで、「現実界、ヒトで」と言ってみた。

「何もしません」

 と、またも予想外の答えが飛んできたのに彰は軽くのけぞる。

「え、えっ、なんで?」

「それはヒトの世界の問題であって、人工人格が関与すべきことではないと思料されるからです。ヒトの命の問題に、人工人格が手を出すというのは分不相応です」

「そうきたかー……」

 内容を聞くとそれはまあ確かに人工人格的にはアリだろう、と納得してしまって、彰は目頭を押さえて。いや、でも。

「もし君が人工人格でなくヒトだったら?」

 どうしても「彼女自身」の思う答えが聞きたくて、彰は更にそう聞いてみる。

「それは前提にできません。人工人格の『倫理』や『感覚』は、あくまでヒトの形成したものの模倣やヒト側からの設定に過ぎないからです。自らがヒトならばどう考えるか、という仮定がそもそも、人工人格にとっては枠外なのです」

 が、すらすらとそう返されて、彰はさすがに内心で白旗を上げた。

 でもまあ、確かにそうだ。もしも世界に本当に「神様」がいたとして、人間が「自分が神様なら」て仮定して何か考えたところで、結局それは「ヒトの頭で考えた神の考え」でしかないのと同じ。真の神様の思考や論理は、神様にしか判らない。

「……えーと、じゃ、人工人格なら?」

「分岐を切り替え、一人を犠牲にします」

 それでもまだ重ねて聞くと、今度も即答される。

「それは何故?」

「人工人格は作成するのにそれなりのコストがかかる、つまりは資源です。破壊されるのは少ない方が良いですから」

「……成程……」

 ある意味本当に判りやすい判断基準で、彰は妙にさっぱりした気分になってしまった。もう本当に、正しい。

「……君がいてくれて、良かったよ」

 その気分のまま、小さく呟く。

 シーニユが何かを問いたげに、ほんのわずかだけ眉を寄せた。

「判断基準が、ぶれなくて済む。芯がきっちりしてるのが、ほんとに有り難い。俺なんかすぐあれこれ雑念が混じるから、君みたいな人工人格の迷いの無さがすぐ傍にいてくれるのは、すごく助かるよ」

 シーニユは足を止めると二度瞬きをして、まっすぐに彰を見る。

「人工人格の特性をそんな風に形容される方を、初めて見ました」

「えっ?」

 つんのめるようにして、彰も立ち止まった。

 シーニユはいつもより更に真顔でこちらを見ている。

「これは、克服されなければならないことだと機関側には考えられています。人工人格がより『ヒト』に近づく為に、越えねばならない一線だと」

 胸の辺りに白い手を当てて、シーニユはその真面目な顔で言った。

 彰は思わずまともに彼女に向き直って。

 視界の端で赤いライトが点滅して、残り時間五分を告げる。

「人工人格は、仮想空間でのヒトのサポートをする為に存在しています」

 揺れの殆ど無い灰色の瞳で、彼女は彰を見つめながら言葉を続けた。

「大勢の人工人格は、その任務を的確にこなしています」

 いつもと同じ、淡々とした口調で語るその声に、彰は何かを感じた。

 ――あんな風につくってしまって、困っているんじゃないかと。

 彼女について磯田が語っていたことが、脳裏に甦る。

「ヒトが言葉にされた要望をかなえることはそう難しくありません。ですが」

 彼女はそこで、珍しく一度言葉を切って。

「御堂さんが以前に言われていたように、わたしは下手なのです」

 続く言葉を待っていると、いきなりそう言われて彰は慌てた。二度目に聞く「わたし」という一人称と、前に自分が彼女に不用意に言ってしまったことに。

「あのね、シーニユ」

「ですから」

 急いで言い訳をしようとする彰の声を、シーニユが遮る。

「このままで、人工人格としての特性を隠せないままでも、ヒトの助けになることが可能だ、という、新しい視点を得ることができました。ありがとうございます」

 そして腰を折って実に丁寧なお辞儀をされたのに、彰はますます焦った。

「いや、あのね」

 小さく手を振って早口に言う彰に、シーニユは顔を上げて。

「下手だ、って言ったの、あれはほんとに悪かったよ。忘れて。て、無理か……ええと、俺が言いたいのはさ、シーニユはシーニユのままで充分てことで、ほら、ヒトにいろんな性格があるみたいに人工人格にだっていろんな性格、個性があるんだよ。だから君は君のまま、自然体でいてくれればいい。君をつくったひとだってそう言ってた」

「――え?」

 自分の失言を何とかリカバーしようと早口にあれこれ言う内、勢い余って口にしてしまった言葉にシーニユの瞳と薄い唇がふわっと開いた。

 ……こんな顔、初めて見た。

 その「驚き」がはっきりと顔全体に現れた彼女の顔をまじまじと見つめた瞬間に、『ログアウトします』という黄色い文字が視界一杯に点滅して、それをかき消した。

  

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