第27話 眠り

   

 そのテストを始めた時には、研究者側の方もかなり慎重、と言うよりおっかなびっくり、と言った方が近いくらいの恐々とした試し方だったらしい。

 仮想空間の中にいる時に、現実の肉体の髪を軽く引っ張ってみるとか、仮想の中で人の手を軽くつねってみる、程度の。

 前者の方は、仮想側の人間には全く認識されなかった。しかも、吸盤で皮膚を吸ってみる、というような体に跡が残ることをしても、それは研究者達の目の前で驚く程すぐに消えていったのだ。

 あまりに無反応なのにだんだんテストの内容も大胆になっていって、最終的には軽く指を切る、レベルの行為までしてみたが、その傷も一瞬で塞がって跡形もなくなってしまったのだという。

 だがそれとは逆に、仮想の中で肉体に与えられた刺激は、現実の肉体にダイレクトに現れた。

 英一はあの、窓を殴りつけた後、ログアウトした際にまだじいんと拳に痛みが残っていることに気づいて驚いたのだという。

 だが正直、この結果は研究者達を困惑させた。最終目標である長期移動中の仮想空間の利用、けれど万一、中で怪我をするような行動をして現実の肉体が損なわれたとしても、それを治すものはそこにはいないのだ。

 その頃の技術では、痛覚のみを調節することはできなかった。できるのは、視覚・聴覚・触覚のそれぞれを、調整するのではなく完全に落とすことだけだ。ちなみに当時は、味覚や嗅覚はまだ仮想内では再現されていなかった。

 研究者達はまず、触覚を切れば現実の肉体への反映はなくなるのではないか、と考えた。だが意外なことに、触覚を完全に落とした状態でも、叩いたりつねったりされた時には痛みを感じたし、その感覚はログアウト後の肉体にも残っていた。

 次に試されたのが視覚だった。

 これが驚く程の効果を発揮したのだ。

 視覚のみを切った状態で仮想の体に与えた刺激は、切っていない時に比べて反映度が遥かに低かった。そして、視覚と触覚、両方を切った場合、ほぼ反映されない、ということが判ったのだ。

 最初は弱い刺激から試して、最終的には深く体に傷をつける、というところまでやってみた。が、視覚と触覚を切った被験者の現実の肉体は、わずかにうっすらと赤みがさした程度で終わったという。

 そして、そのようなテストを進めながら、同時に行われた実験がある。

 それが、仮想空間での長時間滞在だった。



「仮想空間を最初に作り出して、研究者達だけで実験していた時にも、長時間滞在を試したことはあったんだって。でも、その頃は本当に、中に何にもなかった上に、現実での一時間がこっちでは三時間あることが判って、とてもじゃないけど何時間もいられたもんじゃなかったらしいよ」

 英一の説明に彰は思わず、「それ、どうしてなの」と口をはさんでしまった。この間磯田と別れた後に、聞けば良かった、と思った謎だった。

「さあ。判らない」

 が、英一はあっさりそう言って肩をすくめる。

「確実にこうだ、て言える理由は不明。でも多分、夢に似てるんじゃないか、てのが今の主流の仮説」

「ゆめ?」

「ん。邯鄲かんたんの夢、て聞いたことない? ちょっと眠っただけなのに一生分の夢を見た、てヤツ。あれと同じ理屈ね。夢の中では時間がうんと凝縮されることがある。それと同じ現象が、ヒトが仮想に入ると起きるんじゃないか、てのが研究者達の意見」

「……成程」

 何となく納得してしまって、彰はうなずいた。確かに最初に『パンドラ』を出た後、まるで夢を見た後みたいだ、と感じたものだった。

「理由は不明だけど、複数の研究者達が中に入って、明るさや光源の動きを現実と同じにしたりして試した結果、中での体感時間は約三倍だ、て判ったらしいよ。だからまだろくに物が無い、ネットも繋がってないような空間の中に長時間いる、ていうのはもう全然、無理だったんだって」

 英一達が仮想都市内に長時間滞在する実験を行った時には、もう中の環境がほぼ整備されていた。ひとり一室、ホテルのような部屋が与えられ――風呂やトイレはそもそも不要なので無かったそうだが――テレビや読書用の端末もあり、映画や本やゲームや音楽が楽しめるようになっていたのだそうだ。リストに無くてもリクエストすればすぐに反映されたし、リアルタイムではなかったがテレビ番組も普通に見られたという。

「まあそれだって、退屈な時は退屈だけどね。でも別に部屋に閉じこもってる必要はなくって、街を歩いたり他の被験者の人と話をしても良かったから。それに感覚テストも一緒にやってたし」

 現実時間で二時間程度からスタートした実験は、少しずつ時間を伸ばされていく。

 そしてその開始から三ヶ月程が経った頃、八時間、つまりは仮想空間内で丸一日、二十四時間滞在する初めての実験が行われたのだ。

 その実験に参加したのは、英一を含め五人、偶然だが全員男性だった。本来のものと違い、こちらの追加分の実験では参加できない回があっても即失格ではなかったが、始めてみたらやはり日程的にきつかった、などの理由で何人かが辞退していたり、その実験日に都合がつかなかった参加者がいたりで、それだけの人数しか集まらなかったのだ。

「僕はそのことを、良かったと思ってるよ」

 英一はテーブルに肘をつき両の手を重ねた姿勢で、しずかにそう言った。

「実はそれまでの長時間滞在実験では、許可されてない行動がひとつあったんだ」

 それは、眠ること。

 仮想空間の中で眠ってはいけない、そう研究者側から言われていたのだという。

 後になって英一が聞いた話によると、研究者達自身で実験していた頃に、空間内で退屈のあまり居眠りした人が何人かいたそうである。が、眠りに入った、その瞬間に、データを採取している機械にもの凄いノイズが出て計測不能となり、時に機械が壊れることもあったのだそうだ。

 仮想にいる側の方では「耳元で凄い音がして目が覚めた」と皆一様に言ったらしい。

「実験の最初に個々の脳波パターンを取ったよね。あの時、睡眠時のそれも取ってる筈なのに、どうしてログインしてる時の入眠だとエラーになるのか、いろいろ仮説はあったけど結局確実にこれだ、と言い切れる原因は見つからなかったみたい。でも、ちょうど僕等の実験をやってた頃、機械の方を調整して異常な情報をバッファすることに成功したらしくて、そこで僕達には『眠る』ことが命じられたんだ」

 仮想空間の中で、眠る。

 そんなこと考えたこともなかった。

 彰は一瞬、ちらっと隣の、先刻から話を聞いてるのかどうかも判らない程変化の無い表情で座っているシーニユを見やった。

 彼女達は、眠るのだろうか。

「それまでは、長時間いる間にもし眠くなったらその場で申告するように、て言われてた。でも実を言うと、僕眠くなったことが一度もなくって」

 ふふ、と口の端で笑う、その奇妙な明るさが彰の胸を刺した。

「だって街を探検してるだけで面白かったからね。だから寝るなんてきっと無理だろう、て思ってた。……でもさすがに、二十四時間いると、きついね」

 話す口調がどことなく独り言めくと、英一はふうっとどこか遠くを見るようなまなざしになる。

「ずっとは起きてられなかった。初めてだったよ、仮想の中にいて。普通の眠気とは違ってた。何だか急に、飲み込まれるみたいにまわりがどんどん暗くなっていって、足元がぐるぐるして、宙に浮いたみたいな感じになって……突然全部の感覚が落ちて、真っ暗闇になった」

 一度口をつぐんで、英一は軽く息を吐いた。

 それから目を上げて、まっすぐ彰を見る。

「他の皆も、そんな風に眠りに落ちた。

 ――そして、二度と目覚めなかった。現実の、肉体は」

 英一の細い瞳に映った彰の目が、大きく見開かれた。



 その眠りが何時間続いたのか、英一には判らなかった。

 あてがわれた部屋には、時計がなかったからだ。

 いや、そもそもこの世界で時計を見たことがない、ということにその時初めて、英一は気がついた。

 目を開けて最初に見えたのは、部屋の天井だった。

 しばらくそのまま、じっと横たわってそれを見つめる。

 ……あれ、なんで起きないんだろう。

 少ししてぽかっと頭に、そんな考えが浮かんだ。

 どうしてかそれを思いつく瞬間まで、自分がこの体勢から体を、と言うか指の一本さえも、動かせるということが全く頭に浮かばなかったのだ。

 それはまるで、全身麻酔にかかっているのに目は開いて視界だけがある、というような感覚だった。体全部が自分のものではないようで、重い石みたいに動かせない。

 いや、でも、そんな筈はない。もう全然眠くなんかない。起きよう。

 英一は改めてそう考えて、手や首の筋肉に「動け」と命じた。

 すると驚く程あっさり、体が動き出す。

 なんか、変な夢でも見たのかな。全然覚えてないけど。仮想の中で見る夢、て面白そうなのに、残念だ。

 そう思いながら英一はベッドから出て、また「あれ」と思った。ベッドに入った記憶などない。

 チューブからクリームを絞り出すように頭をひねって、英一は「眠り」に入る前の自分の行動を思い返してみた。が、街を散歩していたところまでしか覚えがない。

 外で寝てしまったのを運ばれた? それとも、眠くなったから急いで部屋まで戻った? ……ああ、駄目だ、思い出せない。

 首を傾げながら英一は立ち上がって、何気なく扉に歩み寄った。他の人にどんな風に眠りについたか、夢は見たかを聞いてみたかったのだ。

「……あれ?」

 ところがドアは開かなかった。

 こんなことは初めてだ。

 英一は怪訝に思いながら、ドアノブを調べてみた。そもそも鍵穴さえ存在していないのに、何故かノブはぴくりともまわらず、扉そのものを押してみても壁のように一ミリも動かない。

『――美馬坂英一くん』

 と、突然自分の背後で声がして、英一は飛び上がる。

 その勢いで振り返ると、部屋の隅に置かれたテレビが光っていた。

 そして画面の中に、見覚えのないふさふさとした白髪の老人が、厳しい顔つきで白衣を着て座っていた。

 英一はぱちぱち、と瞬きをしながら、ゆっくりとそちらへ歩み寄る。

『座って。落ち着いて、聞いてほしい話がある』

 人に何かを命令するのに慣れている声だ、英一はそう思った。そしてそれを相手が聞くことを、当たり前だと思っている。

 だから英一は、机の前の椅子を引き寄せ、素直に腰をおろした。もしここで反発したとしても、相手は初めて見る異国の奇妙な動物を見るような顔をして、言葉が通じない相手に伝えるように辛抱強く自分の要望を繰り返すだけだろう、と判ったのだ。 

 すぐに腰をおろした英一に、相手はほんの一瞬、ほっとしたような顔をした。それで英一は、他の四人がそうではなかったことを読み取る。

『君が仮想空間に入ってから、現実界で現在、十二時間が経過している』

 そして話し出された内容に、英一は一瞬、きょとんとした。え、寝過ぎ?

 だがすぐにいや、と思い直す。そんなことでこんな風に、向こうからアクセスをしてくる必要なんてない。

『事前に説明してある通り、今回の実験時間は八時間で設定されていた』

 淡々と続けられる説明に、英一はうなずく。つまりは四時間も超過している訳だ。

 この分のバイト代ってちゃんと出るよね。延長分割り増しで。

 ちらっと頭の片隅でそんなことを考えながら、英一は相手の話に耳を傾けた。

『八時間が経過した時点で、入眠中の被験者が三人、一度眠ったものの、その時点では起きていた被験者が二人いた』

 自分は眠ったままだったのだろうから、もしかして眠ったままだとログアウトができなくて今の今まで時間が超過してしまった、ということなのだろうか?

 いぶかしく考える英一に、相手は言葉を続ける。

『だが何故か、君達五人をログアウトさせることができなかった』

 その想像を超えた事態に、英一は驚く。起きていても、駄目?

『普段のログアウト手続きには全く反応がなかった。突発的な事態の対処の為に強制ログアウトシステムが用意されているが、それにも君達は無反応だった』

 英一はゆっくりと呼吸しながら、画面の相手を見つめた。

『今現在、現実での君達の肉体は、いわゆる「昏睡状態」にある。点滴や酸素供給などの措置は取っているので、肉体の健康に問題はない。そこは安心してほしい。脳も正常に動いていることも判っている。だが』

 だが、目覚めない。

 英一はその後に続く台詞を、口の中で呟いた。

『我々は今、全力をもって君達をログアウトさせ、現実の肉体を目覚めさせるよう手を尽くしている。が、もうしばらく時間がかかってしまうかもしれない。本当に申し訳なく思っている』

 言いながら相手は真っ白い頭を下げて。

『もし現実の世界で、緊急に連絡をしたい相手があれば連絡先を申し出てほしい。こちらで対応させていただく。大学の方には国を通じて要請しておくので、単位や学費のことなどは心配しないでほしい』

 それから続けられた言葉に、英一はほっと胸をなでおろした。正直実家のことを考えるとこのまま在学していいのか、と思ってもいたけれど、とにかく続けている間は学費の軽減がなくならないよう、成績は落としたくないのだ。

 とりあえず英一は、大学や他のバイトの連絡先などを相手に伝えて。少し考えたが、実家に伝えるのはやめておいた。ただでさえ大変な思いをしているだろう家族に、余計な考え事を付け加えたくなかったのだ。

『それからしばらくの間は、申し訳ないがこの部屋の中にとどまっていてほしい』

 伝えた連絡先の確認を取った後、相手は続けた。

『今の時点で何が原因でログアウトできないのか判らないので、あまりイレギュラーな行動はしてほしくない。仮想空間の側に何か問題が起きているかもしれないので、危険を回避したい』

 その説明には合点がいったので、英一はうなずいた。それからふっと、思いついて口を開く。

「あの、もしここにいて、また眠くなったら、寝てしまってもいいんでしょうか?」

 その問いに、淀みなく話していた相手が初めて口をつぐんだ。

『……そういう可能性は、考えもしなかった。君は大学でさぞ優秀な学生なんだろうね』

 そして少し間を置いて言われた褒め言葉を完全に無視して答えを待っていると、相手は少し考えてからまた口を開いた。

『この、ログアウトできない、という事態は今まで一度も発生したことがなかった。今までと今回との差は、時間の長さと中で完全に入眠したこと、この二つだ。つまり今回の事態には、眠りが関係している可能性がある』

 確かにそうだ、と英一はうなずく。

『だからできれば、可能な限り眠らないでほしい、というのがこちらの希望だ。が、今のこの状況が後どれ程続くのかは判らない。よって、ぎりぎりまで我慢してもらいたいが、どうしようもなくなった場合は致し方ない、としかこちらからは申し上げられない。不確かなことですまないが』

「いえ。よく判りました。ありがとうございます」

 英一は首を振って素直にそう言った。相手の説明はすべて明解で筋が通っていて、きっと自分が同じ立場でもそう言うしかないだろう、という内容だった。それならもう、自分があれこれ何かを考えたところで仕方がない。待つ以外に無いのだ。

『……落ち着いて聞いてもらえて、本当に助かった。こちらこそ礼を言う』

 まるで鋼のように動きがない顔がほんの一瞬ゆるんで、すぐに引き締まる。

『それではもうしばらくの間、そこで待機していてほしい。もし何か体調に異変を感じたら、すぐに片手を上げて大声でフルネームを名乗るように。即コンタクトを取る』

「判りました。よろしくお願いします」

『全力を尽くす。――待っていてほしい』

 ふっ、と画面が暗くなり、英一はひとり、部屋に取り残される。



「それから七年、中の時間で二十一年、僕達は目覚めてない」

 そしてまっすぐに目を見て言われた言葉に、彰の全身に戦慄が走った。

   

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