第26話 AとB

  

 彰は結局、満ちるに連絡は取らなかった。

 何もかもが不確かな、こんな状態で彼女に適当なことを言いたくなかったのだ。

 健康診断を受けた次の日に立ち寄った宏志の店で、年越しに来ないか、と誘われたのを「約束があるから」と彰は断った。目を丸くして「誰と」と尋ねられたのに「恩師、みたいなひとだよ」と適当な、けれど心情的にはぴったりの言葉で告げると、宏志は「そうかあ」と何とも嬉しそうに笑った。

 そして年もいよいよ押し迫った頃、彰は五度目となる『パンドラ』へと足を踏み入れた。



 広場からはツリーも屋台も綺麗さっぱり消えていて、元の彫像が戻っていた。

 辺りを見渡して、カジノの入り口に驚く程大きな門松が立っているのに彰は思わず吹いてしまう。まあ時期として間違ってはいないけれど、でもヨーロッパ的街並の、しかもカジノの前に、というのは実に何とも、シュールな眺めだ。

 シーニユからは今日も店で待っている、という連絡をもらっていたので、彰は歩き出す。

 磯田から聞いた話が、歩くのに合わせて胸の中でぽんぽんと揺れていた。

 今日は英一のことがあるから、話す時間の余裕がないかもしれない。あの話はできれば二人きりの時に、たっぷり時間を取って話したい。

 一体どう伝えるか、それを考えている内、彰は店の前に到着していた。

 扉の上の看板を見上げて、一度深呼吸して頭を切り替える。

 そして、扉を押し開いた。



「こんばんは、御堂くん」

 テーブルは既に前の時のように整えられていて、奥の席に座ったマスターの姿をした英一が小さく手を振った。

 シーニユは無言で会釈だけして立ち上がると、ポットから彰の分のコーヒーをカップに入れ、テーブルの上に置く。

 彰は椅子の前に立つと、腰から体を折って深々と頭を下げて。

「――ごめん、美馬坂くん」

 あまり大きくないマスターの目が、まん丸に見開かれて彰を見上げる。

 彰の隣の椅子に座ったシーニユも、つい、と目を動かして横目で彰を見た。

「約束、守れてない。妹さんにはまだ、何にも話してないんだ」

 彰がそう続けると、英一は相変わらず驚いた顔でぱちぱち、と瞬きをして。

「あ、ああ……そうなんだ。あ、忙しかった? 年末だもんね」

「そうじゃない」

 彰は首を振ると、椅子を引いて英一の真向かいに腰掛けた。

 真正面からまっすぐ、相手の目を見る。

「妹さんに話す前に、本当のことを教えてほしい。――外の君の、本当の、死因を」

 英一の目がすっと細まって、顔から表情が消えた。



「……交通事故だよ。そう言ったよね」

 しばらく無言の時間が続いた後、英一はごく普通の声音でそう言って。

「僕にはそうは思えない」

 彰は間を開けずに、相手のその言葉を否定する。

「万一交通事故だったとしても、もしそうなら、その裏に何か事情がある。それを、教えてほしいんだ」

「僕は研究者の人達から、交通事故だ、て言われただけだから。それ以上のこと、どうしてここにいる僕が知りようがあるの?」

 少し肩をそらすようにして椅子の背にもたれると、英一はそう返して。

「後からでもニュースは見られるんだよね。現に実家の旅館の新館のことも知ってた。もし現実の自分が交通事故だ、なんて話を聞いたら、好奇心の塊みたいな君がその事故のニュースを調べない筈がない」

 畳み掛けるように言うと、英一は口をつぐむ。

「もしも事故なら、知ってるだろう? 日付や場所、どんな状況で、相手がどういう人なのか。知ってるのなら、教えてほしい」

「……悪趣味だよ、御堂くん」

 英一はぽつりと言って、砂糖もミルクも入れない真っ黒なコーヒーを飲んで。

 その言葉にずきりと彰の良心が痛んだが、ここで引くことはどうしてもできなかった。

「それを聞かないと、君の妹さんの疑念もいつまでたっても晴れない」

「御堂くん」

 更に言いつのろうとする彰の言葉を、英一の声が止める。

 かちゃん、と音を立て、英一はカップを置いた。

「前も言ったよね? このルート、知ってるのは僕しかいない」

 全く予想外の話を出されて、彰の眉が寄る。

 と、英一はすかさず、次の言葉を続けて。

「僕が協力しないと、君と皐月さんは逢えないよ」

「――――」

 きゅっ、と彰の喉が締まって、息ができなくなった。

 隣でシーニユがごくかすかに身じろぐのが判る。

「こんなことは、僕も言いたくない」

 その向かいで、殊勝気に目を伏せながら英一が続けた。

「でももし君がどうしてもその件に執着するなら、僕は今すぐマスターの体を離れて、ここにはもう二度と来ないよ」

 彰は細く長く息を吸い込んで、また吐いた。

「それでもいいの?」

 目の前の風景の明度と彩度が落ちたみたいに、どことなく視界が暗い。

「皐月さんに、逢いたいんじゃないの?」

「美馬坂さん」

 シーニユがしずかに声を発したのを、彰は片手を上げて止めた。

 彼女は表情の現れない顔で彰の方を見る。

 そのまなざしを、彰は左の頬に感じた。

 ――AとB、二つの選択肢があって、あらゆる状況が百パーセント、Aを選ぶべきだと判定されている。たとえ二つそれぞれの内容がどういうものであろうとも、人工人格は即座にAを選びます。ですがヒトは違う。

 先日聞いた彼女の言葉が、頭の中に渦巻いた。

 あの時あれは、自分にとって確かに「支え」だった。最善の選択肢を選ぶことができない自分への、エールだと。

 けれど今は、その逆の「支え」としてあの言葉を感じる。

 今は百パーセント、正しいと思う「A」を選びたいのだ。彼女のように。

 それがどれ程、自分を痛めつける選択であっても。

 そして先日聞いた、磯田の言葉が続けて脳裏に浮かんだ。

 ――その子がずっと、離れずに自分に寄り添ってくれたから今までどんなことも乗り越えてこられた、たとえ苦しい選択でも正しいと自分が思う方を選ぶことができた、そう娘は話していました。

 ぐっと一瞬に、心が踏み固められる。

「……それでも、構わない」

 かすれた声を喉の奥から押し出すと、英一がわずかに肩を動かした。

 シーニユは灰色のガラスの瞳を、ひたと彰の横顔に注いでいる。

「でも、僕は話すよ」

 彰は歯をきしませるようにして言葉を続けて。

「満ちるちゃんに、全部話すよ。君がここにいることも、君が死因について、何かを隠していることも」

「…………」

 今度は英一の方が、息を呑むようにして口をつぐんだ。

 その顔に彰はまた、良心がずきりと痛むのを感じる。

 本当はこんなこと、引き換えになどしたくなかった。あの、ただただひたすら、突然いなくなった兄のことを一心に思う、純粋な満ちるの気持ちとを。

 英一が先刻の彰のように、長くゆっくりとした息を吐く。

 彰はその姿を、ぴりぴりとした緊張をもって見つめた。

「……参ったな」

 と、本当にごくごく小声で、独り言のように英一が呟く。

 それから小さく、うなずいて。

「……うん。参った。僕の負け、御堂くん」

 そして急に声の調子を切り替えて、いっそ朗らかにそう言うと、顔を上げてにこっと人懐っこく笑う。

 その変わり身の早さに、彰は面食らってのけぞった。

「いやあ、ほんと参った。まさかそこを引き換えにできると思わなかった。ごめん、僕御堂くんのことを見くびってたよ」

 英一はすこぶる明るい声でそう言って肩をすくめて。

 それから両肘をテーブルについて、ぐっと身を乗り出して。

 その瞳がすっと薄くなって、一瞬で表情が変わった。

 彰の心臓がひとつ鳴る。

「――聞いたら、戻れないよ」

 そして下から見上げるようにして、英一が低く言った。

 背筋がすうっと冷えるような感覚を覚えながら、彰は相手の顔を見下ろす。

 英一の目がちかっと光って、その目線を捉えて。

「それを聞いたら、君は今持ってるものより遥かに大きいものを背負わなくちゃならなくなる。その大きな荷物をずっと背に乗せたまま、誰にも預けられずに、一生を送らなくちゃいけなくなるよ」

 まるで呪文のように低くなめらかな声でそう言われるのに、彰はごくりと息を呑む。

「これは、君の為を思って言ってるんだ」

 英一はわずかに目を伏せて。

「聞かない方がいいよ。絶対に。僕は、君を巻き込みたくない」

 そして小さく呟かれた声音に、彰はそれを相手が本心から言っている、と直感した。

「先刻の言葉は撤回する。皐月さんにも、ちゃんと会わせるよ。だから……聞かない方がいい、御堂くん」

 かすかな声に、相手が心底からこちらを気遣っているのが伝わって、彰の胸はかすかに熱くなる。

 ……でも、だからこそ聞かなければならない。

 それがはっきり、彰には判った。

 彼が背負っている「何か」を、このままにしておく訳にはいかない。

 そこから自分だけが耳を塞いで逃れる、なんて到底できない。

 英一は何も言わない彰に、ふっと目を上げて。

 彰の視線を捉えたその目が、ああ、と何かを悟ったようないろを覗かせた。

「――それでも、聞くんだね?」

 ちら、と一瞬だけ隣に目線を送ると、シーニユは先刻と同じようにまっすぐな目線を彰に向けている。

 そのビームのような視線が、彰を力づけた。

「聞くよ。話して」

 彰が短く言うと、英一ははっきりと音を立ててため息をついて、体を起こして椅子に座り直した。



「実験が始まって秋の終わりくらいに、『回数増やすと報酬がアップする』て噂があったの、聞いたことある?」

 そしてそう話し出されたのに、彰は少し首をひねった。聞いたような気もするけれど、正直よく覚えていない。もし聞いていたとしても、あれ以上休みを削られたくなかったので多分自分も皐月も、それには参加しなかったろう。

 彰がそう答えると、英一はほんの一瞬、苦いいろを瞳に走らせ、うなずいた。

「僕は自分の施設の研究者の人に、噂の確認に行ったんだ。もし本当なら、参加させてほしい、て。お金、欲しかったからね」

 その英一の問いに、最初は曖昧にごまかそうとしていた相手も、しつこく聞いた末についに口を割ったのだという。その噂は本当だ、と。

「後で判ったことだけど、最終的にそれに参加した面子は全員、僕みたいに深刻なお金の悩みを抱えた人達だった」

 そう、その噂は研究者達が流したものだったのだ。

 彰や皐月のように、最初っから「もし報酬が増えたってこれ以上の参加はいいや」と思っている人間はそんな噂は気にも止めない。そして、別にお金には困っていないけど、でももっともらえるなら、程度の気分で確認しに来るような相手は、一度「そんなのただの噂だよ」と受け流せばすぐ引き下がる。

 そこで食い下がるのは、英一のように深刻な金の問題を抱えた人間だけだ。

「そういう人を探してたんだよ、向こうは」

「どうして……」

 訳が判らず聞くと、英一はわずかに口元を歪めた。

「……何かあっても、金で黙らせられる、からじゃないかな」

 彰は息を呑んだ。

 最終的に、それに参加したのは全国で二十人にも満たなかったという。

 回数が増えた実験の内容は、普段のものとは全く違っていた。

「感覚、をね。中でのそれがどれ程現実の肉体に影響するのか、現実の肉体に与えたものがどれだけ仮想のそれに影響するのか」

 それはちょっとしたことがきっかけだったのだという。

 気づいたのは実験の参加者ではなく、研究者の中のひとりだった。偶然、仮想空間に入る前の日に、家事の最中に少し深めに指を切ってしまったのだ。

 傷は治っていなかったけれど医療用のシートで完全に保護されていたので、特に気にせず仮想空間に入ったのだそうだ。

 そして数時間後、仮想空間から外に出て、服を着替えている際に手のシートに気づいてあれ、と思ったのだという。それが一瞬、何の為にそこにあるのか判らなかった、と。

 はがしてみたところ、治癒に数日はかかると思われていた傷は、跡形もなくなっていたのだという。

「現実に持っていた傷、その痛みを、仮想には反映させてなかったんだ。だからその人は仮想の中で、自分の手に傷があることを忘れてしまった。何の痛みもない、全く不自由なく動かせる手。その『仮想誤認』が傷を治してしまった、て訳」

「……仮想、誤認」

 ついこの間磯田から聞いたのは「現実誤認」だった。現実を仮想空間のように誤認識してしまう現象。

 ということは「仮想誤認」は、仮想空間の中の自分を現実そのものだと誤認識してしまう、という理解で良いのだろう。

「仮想空間を研究し出して最初の頃、まだそれが全然稚拙だった時にはそんな現象は起きなかった。僕等が参加した辺りで、都市としてもヒトの表現としても、リアル感が格段に上がってきて、初めて起きた現象だったんだ」

 現実の痛みは仮想の中では消える。

 だが逆に、仮想の中での痛みは、現実に反映される。

 英一の話を聞きながら、彰は息を呑んだ。 

 ――痛い。

 いつか仮想都市の実験で英一と一緒だった時、窓を殴りつけた後に小さく呟いたその言葉が、彰の耳元に甦る。

「今は、『パンドラ』の中で何か行動した際の感覚は、現実で同じことをした場合のそれとは違う。ちゃんとチューニングされてるからね。だけどあの実験の時には、まだそんな発想も技術も無かった」

 ただ座って話を聞いているだけなのに、彰の鼓動がどんどん速くなる。

 目の前にいるはずの英一の目元が、奇妙に薄暗くて表情が見てとれない。

「中で動いた時に、現実世界で同等の動きをした際に発生される感覚は、そのまんまダイレクトに肉体へと戻された。正座すれば足が痺れる。走れば息が切れる。殴れば痛い」

 一度言葉を切って、英一はすっと短く息を吸った。


「――飛び降りれば、死ぬ」

 彰の背筋が、鋼のように固まった。

  

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