第25話 泉

  

 磯田いそだ智美ともみには小さい頃、軽い吃音癖があった。

 幸い良い言語聴覚士にみてもらえたこともあって、小学校に上がる前にはすっかり出なくなっていたが、特にタ行の話し出しが苦手だったこともあり、当時は自分のことを「モミちゃん」と呼んでいて、親にもそう呼ばせていたのだという。

 そして吃音がありながら、言葉を話し出してから、いや、まだ言葉にならない喃語の時期から、本当に起きていれば一日中、何かを話している子供だったそうだ。

「わたしのおしゃべり好きが遺伝したんだ、妻はよくそう言ってましたよ」

 もう一杯コーヒーを追加して、磯田はそう言ってほろ苦く笑った。

 だが勿論、家事も外での仕事もある二人は、休みの日でもなければずっとそのおしゃべりにつきあってあげることはできなくて、けれど彼女は、話していることを誰かに聞いてもらいたい、という様子ではなく、ただただ喋っていること、そのものを楽しんでいるようだった、そう彼は話した。

「正直、障害とか、そっちの方も心配しましたが、どうもそういうこととは違うみたいでね……その内妻が、言い出したんです。どうもあの子には、いわゆるイマジナリーフレンドがいるようだと」

 子供がいない彰でも、その単語は耳にしたことがあった。自分の頭の中の「空想の友人」、特に幼い子供はその存在がまるで目の前にいるようにふるまったりすることがあるのだと。

「注意して見ていると、妻の言う通りのようでした。誰もいないのに内緒話をしてくすくす笑っていたりね。幼い子にはむしろ良い発達の経過だと思いましたので、わたしも妻も、微笑ましく見守っていました」

 その様子は成長すると共になくなっていき、智美は明るく表情のくるくる変わる、そしてやっぱり話し好きの少女へと成長していった。

「二十歳になって、すぐの頃でしたかね……いよいよお父さんともお酒が飲めるようになったね、て、妻が出張でいなかった夜、二人で晩酌してましてね。何がきっかけだったか、その話になったんですよ。お前には子供の頃、見えない友達がいたんだよ、ってね」

 すると智美は、酔っていながらも奇妙に真面目な顔になって、言った。

「今もいる」と。

 驚く磯田に、彼女は言った。

「ずうっとよ。ずうっといるの。ちっちゃい頃から、ここにずうっと。わたしの一番大事な半身なの」

 そう言って柔らかく胸元を手で押さえる娘を、磯田は不思議な気持ちで見守ったという。

「一体どんな子なの、て聞いたら、娘はそれはそれは詳しく、教えてくれました。絵まで描いてくれましたよ」

 その「友達」は、智美とは正反対で、いつもものしずかで自分からはあまり話さず、じっと黙って彼女の言葉に耳を傾けてくれるのだという。一見表情に乏しくて無感情に見えるけれど、わたしのことをとても思いやってくれるの、そう彼女は話したのだと。

「本当に、不思議でしたねえ……ああいう子だったから、実際の友達も大抵、活発ではきはきした子が多くって。それが心の中ではずっと、無口な子を親友にしていた、だなんて」

 感じ入ったように話しながらコーヒーを飲む磯田を、彰は息を詰めて見つめた。

 その脳裏には、あの灰色の瞳がくっきりと浮かんでいる。

「我が子ながら本当に表裏の無い、ただただ陽気な子だと思ってたんですが、急に、何と言うか……深さ、ですかね。深く青ずんで底が見えない、けれど綺麗な水のこんこんと湧き出る、そんな泉を見たような気がしました。その水が、あの子の『親友』をかたちづくっているんだと」

 そして磯田は、改めて娘を「ひとりの人間」として見つめ直し、その成長ぶりに胸を打たれたのだと話した。

「自分はずっと、この子の陽の当たる部分しか見ていなかったんだなあ、てね。けれど自分なんかの知らないところで、この子はしっかり、地に根を張ってたくさんの水を吸って成長していたんだと。……嬉しかった、ですねえ」

 しみじみと語る磯田の瞳が一瞬潤んだような気がして、彰は胸がキン、と痛むのを感じる。

「その子がずっと、離れずに自分に寄り添ってくれたから今までどんなことも乗り越えてこられた、たとえ苦しい選択でも正しいと自分が思う方を選ぶことができた、そう娘は話していました。空想の友達なのにね、わたしはその子に、心から感謝の念を覚えましたよ」

 ふうっと笑みを浮かべる磯田の前で、彰は相手の言葉の中からしっかりと組み上げられていくその姿を脳裏に浮かべていた。

「……その空想の友達は、何ていう名前なんですか」

 すっとまっすぐに立つ灰青色のワンピース姿を思い起こしながら聞くと、磯田は軽く首を傾げた。

「トモ、といいます」

 ――良い夜を、トモさん。

 前々回に『パンドラ』に入った時に、クリスマス屋台で老紳士が彼女にかけていった言葉が彰の耳の後ろをよぎる。

「自分のことは『モミちゃん』だったので。上手く自分の口では言えなかった『トモちゃん』が、あまり喋らない友達、の元だったんじゃないでしょうかね」

 しみじみとした口調で語ると、磯田は一瞬、唇をひきしめた。

「その子を、つくったんです」

「え?」

「ひたすら明るいあの子の裏に、しずかに溜まっていった、澱のような存在。わたしはその子を、『パンドラ』の中に人工人格としてつくったんですよ」

 小さく声を上げた彰を見ながら、磯田ははっきりとした口調でそう言った。

「何かね……具体的なかたちに、したかったんですね。あの子の頭の中にしかいない彼女を。電子の海の中にいる彼女なら、あの世の娘の傍に寄り添えるかもしれない。本当にその友達を『存在』させたかったんです、わたしは」

 ふうっと目を伏せるようにして微笑みながら、磯田はテーブルの上で両の手の指を組んだ。

「どんな、姿、なんですか」

 もう殆ど確信を得ながらもそう彰が問うと、磯田はにこっと笑って鞄から古ぼけた黒い革の手帳を出した。

「……ああ、これ、妻と娘です」

 あれこれいろんなものが挟まってずいぶんぶ厚くなっている手帳の中から、磯田は迷わずに一葉の写真を取り出す。

 テーブルに置かれたそれはおそらく大学の卒業式のようで、スーツを着た磯田とその妻に挟まれ、濃紫の袴を着て、長い黒髪をきゅっとハーフアップにして大きなリボンを付けた、いかにも溌剌とした女性が、磯田似の目を細めて満面の笑顔を浮かべていた。

 何とも言えない痛ましさを覚えながらそれを見つめていると、磯田はいろいろ入った裏表紙のポケットの中から苦労して一枚の紙を引っ張り出して。

「娘が描いてくれた絵ですよ」

 黒いボールペンの線で、さっとラフなタッチで描かれたそれを、彰は瞬きもせずまじまじと見つめた。

 服装までもが寸分の狂いのない、シーニユの姿が、そこに描かれていた。



「……ああ、あがりましたね、雨」

 その絵を凝視していると、不意に磯田がそう言って、彰ははっと我に返った。

 窓の外を見ると、傾き始めた午後の日差しがくっきりと地面に光っている。

「良かった。傘を持っていなかったんでね。ちょうど良い雨宿りになりました」

 すっかり明るい声に戻って目を細めて笑う磯田を、彰はしばし見つめて。

「いやあ、すっかりおつきあいさせてしまって。年寄りの長話に、恐縮です」

「あっ……あ、いえ、そんな」

 やっと言葉が戻ってきて、彰はどもりながら軽く頭を下げた。

「……なんだかね。あなたには通じるような気が、しましてね」

 柔らかく微笑みながら、磯田はそう続ける。

「勝手な推測ですけどね。このひとはきっと、しっかりとわたしの話を聞いてくれるひとだって、そういう、気がしたんです」

 その言葉にじん、と胸を打たれて相手を見つめると、磯田は照れたように笑った。

「いや、年寄りは図々しくていけません。貴重なお時間を、ほんと申し訳ない」

「いえ」

 彰は急いで言って、わずかに身を乗り出した。

「良かったです。ここで先生にまたお逢いできて、お話を聞けて。……本当に、良かったです。ありがとうございました」

 テーブルに両手をついて頭を下げる彰を、磯田は目を丸くして見つめる。

「あの」

 そして顔を上げそう言いかけて、彰は一瞬、ためらった。

「……あの」

 もう一度言葉を切って息を吸い、向かいの相手の柳のような目を見直す。

 その瞳に励まされ、彰は口を開いた。

「あの、もし良かったら……また、お会いできないでしょうか」

「えっ?」

「僕にも……先生に、聞いていただきたい話が、あるんです。きっと先生なら、僕の話を、しっかりと聞いてくれると」

 彼女のように、その台詞を彰は胸の内におさめた。

「はい、判りました」

 生徒に向けるような優しい笑みを浮かべて相手がうなずき、彰はほっとする。

「じゃ、僕の連絡先、そちらに送ります」

「ええ。あ、じゃ名刺、お渡ししておきましょうかね」

 磯田はまたごそごそと手帳を探って、名刺を差し出した。

 彰は携端を取り出しそこに書かれたコードを読み込むと、自分の連絡先を相手に送信する。

「あの、ちなみに先生は、年末年始のご予定は」

「特にありませんよ。仕事も休みですしね」

 名刺を丁寧に財布にしまいながら聞くと、磯田は肩をすくめて答える。

「大晦日なんかでも、問題ないでしょうか」

「いいですね。誰かと過ごす年越しは久しぶりです」

 彰の言葉に、磯田は嬉しそうに目を細める。

「じゃ、あの……時間と場所は、また改めて、連絡いたしますので」

「はい、お待ちしてます」

 そう言って二人は互いに頭を下げて。

 同時に顔を上げた瞬間に目が合って、どちらからともなくふふっと笑みが漏れる。

 ……ああ、何だか、懐かしい感覚だ。

 相手の穏やかさに丸ごと包まれているような気分に、彰はひとりごちる。

 いつもものしずかでおよそ声を荒げるということのなかった父親の姿が、久々に胸をよぎった。

 父さんが歳をとったら、こんな風だったろうか。

 向かいでコーヒーを飲み干す磯田を、彰はどこかしみじみとした思いで見つめた。

「……あの子は今、『パンドラ』でどうしてるんでしょうねえ」

 と、磯田がそんなことを呟いて、すっかり和んでいた彰の心臓をどきりとさせる。

「どこのゾーンにいるかも知らないんですよ、わたし。教えてはもらえませんでね。あまり考えもなくつくってしまいましたけど、後になって、申し訳ないことをしたかな、と」

「申し訳ない?」

 そして予想もしない言葉を続けられて、彰はきょとんとして。

「ええ。だってねえ、本来はアトラクションですから、そこにいるというのはサービス業みたいなもんでしょう。だのにあんな、寡黙で感情が外に出ない子につくってしまってね。本人、困っているんじゃないかと」

「…………」

 ぱちぱち、と彰は瞬きして。確かに……困って、いるかもしれない。

「でも、ヒトにもいろんなタイプがいるように、人工人格にだっていろんな性格があって当たり前じゃないかと、そうも思うんです。彼女があの子の親友としてそうであったように、しずかで、でもそこにいる誰かの心にじっと寄り添えて、そんな風に自然体でいてくれれば良いなと、そう祈っています」

 ……ああ、そうだ。

 彰は何とも言えない思いでそうしみじみと語る磯田を見つめる。

 やっぱり無理をして「ふり」なんてしなくていいよ、シーニユ。

 君が君のままでいることで、きっとこの世の誰かが慰められているのだから。

「もし御堂さんが『パンドラ』であの子に逢えたら、そう伝えてやってください」

 磯田が続けた言葉に、彰は「勿論です」としっかりうなずいて。

 すると彼は更に続けて、

「あの子の『パンドラ』での人工人格としての名は、『シーニユ』と言います」

 と言った。

 どきん、と彰の心臓が鳴る。

「……シーニユ?」

 現実界でその名を耳にすることや唇に乗せることは、何故だかとても、奇妙な感じがする。

「ええ。『トモ』は『パンドラ』内でヒトのふりをする時の別名としました。本名は『シーニユ』と言います。もし出逢えたら、そう呼んでやってください」

 磯田はそう言うと、ゆったりと微笑んだ。

「フランス語で、『しるし』とか『きざし』とか、そういった意味です。正確な発音としては『シーニュ』の方が近いんですが。プルースト、お読みになったことがありますか」

 急にとんでもない質問を飛ばされ、彰はすぐに「いいえ」と首を横に振る。

「『失われた時を求めて』の中でね、主人公はたくさんの『しるし』を世界から受け取るんです。有名なあれもそうですね。お茶にひたしたマドレーヌを口にした瞬間、全能に近い幸福感が襲ってくる。その味が彼にとっての『しるし』、『きざし』です。それを深く探っていくと、過去の素晴らしい思い出がいっぺんに彼の脳裏に蘇ってくる」

 とうとうと語りながら、磯田はひどく優しげなまなざしを浮かべた。

「この世にある様々な物の中にひそむ『しるし』、それが主人公に与える、時空を超えた純粋な幸福と知性にらないこの世の真実、それはヒトが生きていく為の根源に近い力です。……わたしは彼女に、そういう『しるし』として、あの仮想世界の中に存在してほしいのです」

 磯田の語る言葉の中に、彰は確かに、すっと背を伸ばして薄青い街灯の下に立つシーニユの姿を、その灰色の瞳を、幻視した。

  

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