第24話 友

  

 医者は磯田いそださとると名乗った。

 今日は仕事ではなくたまたま近くに用事があり、研究施設と提携していて福利厚生でドリンク券が使えるこの店に立ち寄ったのだという。

 いつものお仕事は検診センターじゃないんですか、と尋ねる彰に、あの日は急な食当たりで行けなくなった同僚のピンチヒッターだったのだと磯田は話した。普段はこちらの施設で研究を主に担当しているそうだ。

 白身魚のムニエルをメインにしたランチを取りながら、磯田は絶えずにこやかな笑みを浮かべて相手の気持ちを引き上げるような雰囲気で話していた。苦手な学科をこんな教師に教わりたかったな、と彰は内心で思う。

 それにつられて『パンドラ』を利用し始めてから彰が疑問に感じていたことを問うと、磯田はあっさり説明してくれた。

 彰がずっと不思議だったのが、山のリゾート、空のリゾートと来たらもうひとつは水のリゾートだろうに、何故ナイトリゾートなんだろう、ということだった。いや、ナイトゾーンがあっても別にいいけれど、水系が全く無いのはやはり謎だ。

 それに磯田は、「処理が手間なんですね」と実に単純明快な答えをくれた。

 海にしろプールにしろ、波や水の流れというものがある。その計算は勿論のこと、そこに複数人がいてそれぞれ別の動きをしている、となると、飛躍的に計算と反映の処理の手間が上がるのだそうだ。

「厳密に言えばね、スカイダイビングなんかでも、ほんとは隣の人の体の動きで空気の流れが変わったりするんですが、そんなこと普通の人は知らないでしょう、感覚として。プロならともかく。だからそこはやらずにごまかしちゃう。その場にはその人しかいない、という前提で計算してます」

 磯田はいたずらっぽく言うと、指で軽くコップを弾いて水を揺らしてみせた。

「でも水はね。皆さんご承知ですから。泳ぐのでも温泉なんかでもね。周りに人がいるのにその動きが伝わってこない、ていうのは実際違和感が凄いんですよ。それに、もし現実誤認が起きてしまったら洒落になりませんからね」

「げんじつごにん?」

 耳慣れない言葉をおうむ返しに聞くと、磯田はああ、と言うように相好を崩す。

「すみません、専門用語でしたね。何度か『パンドラ』をご利用でしたらお聞きになったことがあるかもしれませんが、現実を仮想だと誤って認識しちゃう、て意味なんです。ついついね、『仮想でできたんだから現実でもできるんじゃないか』って思っちゃったりするんですね、ヒトの脳っていうのは」

 確かに何度も聞いていた内容をまた改めて語られて、彰はフォークの手を止めた。

「あ、勿論、それで大事故になったりしないよう、こちらも気をつけていますよ。そのひとつが、六日のブランクですね。脳が『パンドラ』に馴れちゃわないようにするんです」

「……そんなに簡単に馴れちゃうもんですか、ヒトの脳って」

 フォークを置いたまま小声で彰が言うと、磯田は少し首を傾けるようにして、どこかさみしげな笑みを浮かべて、

「ええ。馴れちゃいますね。冷たいもんです。あっさりですよ、現実なんてね」

 と言った。

 思わず相手の顔を見直すと、磯田はさっとまた人好きのする笑顔に戻った。

「だから、水関係は難しいんです。スカイダイビングとかパラグライダーはね、もし『自分はできる、やろう』て思ったとしてもいきなり一人でできるか、てできないでしょう。どこか体験施設に行かないとね。そこでちゃんと『現実』に戻れる。プロが横にいれば、多少の問題が起きても大惨事までにはならないでしょう」

 先刻の一瞬の表情と台詞とが気になったが、相手はもうまるっきり普通の顔で、まさに「講義」をしているように話し続けて。

「だけど海やプールでただ泳ぐ、ていうのは思い立ったら誰でもできちゃいますから。ほんとは泳ぎの下手な人が、自分は息もつがずにいくらでも泳げるぞ、なんて思い込んだら一大事です」

 垂れ気味のまぶたを大きく見開いてそう言う相手に、彰は少し気持ちが明るくなって微笑む。

「全然泳げない人でも、仮想空間なら泳げるんですか」

「ああ、それ。そこです。良い疑問ですよ。そこは本当に、難しい課題です」

 そして何の気なしに尋ねた言葉に、磯田は大きく頭を振って。

「どこまで現実を反映させるか、ていうね。そこの調整が本当に難しい。実はまだまだ、手探り状態です」

 そう言って磯田は更に詳しく説明してくれた。

 例えば彰も最初に感じた、アルコールの「酔い」や、体を動かしてもそれによる息切れや発汗はしないこと。そういう、度を越すと「不快だ」とヒトが感じる感覚について、どれくらいまで反映させるか、というのが難しいのだという。

 今の『パンドラ』はいわば「遊び」の為の空間なので、そういう感覚は極力抑えている。例えば水の中にずっといてもそれで窒息したりはしないし、万一高所から飛び降りても怪我ひとつしないだろう。

 だが実際に長期低活動下で利用する場所として果たしてそれでいいのか、というのは彼等が長いこと悩んでいる点なのだそうだ。もしそれに脳が「馴れて」しまったら、外に出た時に同じことをして致命的な負傷をしかねない。

「わたしの考えでは、仮想の中での体感はある程度脳に任せよう、と思ってるんですが、これが、なかなか。賛同してもらえませんでね。研究が一向に進みません」

「脳に任せる?」

 彰が聞くと、磯田は「そう」とうなずいた。

 今の『パンドラ』では、多くの感覚を実際に起こすことで利用者に体感させている。物を持てばその感触や温度、圧迫感を装着した手袋のセンサーに伝えたり、そこにある物の匂いを合成してマスク内に流したり、ウェア周囲の温度を上げたり下げたりして寒暖を調節したり。味については味覚神経を刺激するのと同時に合成した匂いを送り、食感は口内に圧をかけたり湿度を上げた空気を送って感じさせているらしい。

「でもそこまで世話を焼かなくてもいいんじゃないか、て思うんですね。人間やっぱり一番頼っているのは視覚なんで、まず見せて、脳に起きた反応の方を仮想の肉体に出すのがいいと思うんです」

 そう言いながら、磯田は手を握ったり開いたりしてみせる。

「手に圧が加わったから何か触った、じゃなくて、視界の中で手が何かに触った、それを見ることで脳が『触った』と判断する、その信号を手に戻すことで『触っている』と確かに感じる。この方が余計な手間暇が減って、処理がぐんと楽になる筈なんですね。でも、反対意見が多くって」

「どうしてですか?」

 確かに何百人もの人間が仮想空間にいる時にそんな手間暇かけてられない、というのは素人の彰にもすぐに判ってそう聞くと、磯田はちょっと困ったような顔をしてランチについてきたカップスープをずっ、と飲み干した。

「それがまあ、つまりは『馴れ』を恐れてるからなんでしょうね。その辺を脳に依存してしまうと『馴れ』が加速度化する、古くからいる研究者達はそう言って反対してる訳です。まああちらさんの方が仮想空間の扱いについてはベテランですし圧倒的多数ですから、既に固まってる方針をひっくり返す、なんてことは難しい。研究費の割り当ても少ない。派閥問題はどこでも面倒です」

「派閥、ありますか」

「そりゃもう」

 思わず聞くと、磯田は苦笑して。

「でもまあ、それはあれじゃないですか、どこの職場でも多少はねえ。あ、でも大学の頃に比べたらもう。全然。比較になりません」

 大げさに手を振って、磯田は空になった皿の乗ったトレーを少し端に寄せた。

「やっぱり凄いんですか、大学の先生達の派閥って」

「ええ。わたしはすっかり、乗り損ないましたけどねえ。おかげでずっと、現場仕事でしたよ」

 磯田はそう言って笑いながら、食後のドリンクの注文を取りにきたウェイトレスにカプチーノを頼む。彰は続けて、カフェオレを頼んだ。

「まあでも、今の研究所に来られたのは大学の先輩医師のおかげです。そう思えば、わたしも派閥の一員ですね」

 トレーが下げられてすっきりとしたテーブルに両肘を置いて、磯田は軽く坐り直して。

「先輩は最古参と言ってもいい、機関の重鎮なので。今はもうお年なんで、一線は退かれてますけど。あのひとがいなかったら、多分今頃、わたしは無職ですね」

 そう言って笑うと、運ばれてきたカプチーノにそのまま口をつける。

「大学、ご定年で辞められたんですか」

「いえ」

 カフェオレにほんの少しだけ砂糖を混ぜながら彰が何とはなしに聞くと、磯田は珍しく短く答えた。

 思わず見直すと、ほんの少しだけ口角をゆるめて「わたくしごとで。いろいろと」とだけ言い、またカプチーノを含む。

 それ以上話したくない、という相手の言外の感情を察して、彰は黙り込み、カフェオレをごくりと飲んだ。



「……それにしても御堂さん、前と少し感じが変わられましたね」

 と、カップを置いてゆったりと座り直して、相手が微笑む。

「え? え、そうですか?」

「はい」

 いきなりの言葉に驚く彰に、また微笑んで。

「前は、緊張なさってたんですかねえ。何て言うか、こう、ぐっと縮まってる感じ、て言うんですか。でも今は、ひろびろとなさってる雰囲気がします」

「…………」

 思ってもみないことを言われて、彰はついまじまじと相手を見る。

「ああ、すみません、つい失礼なことを申しまして」

「……あ、ああ、いいえ」

 その目線に相手が申し訳なさそうに肩をすくめるのを、彰は慌てて手と首を横に振って止めた。

「自分では……全然、そんな風には、思ってなかったので。そんな感じに、見えますか」

「いやほんと、すみません。印象がね、ちょっと、違うかな、って。前にお仕事が大変で、みたいなことおっしゃってたんで、その辺が楽になられたのなら良かったな、と思った次第で」

 依然として恐縮し続ける磯田に、彰はそう言えば前の時、精神科に通ってる理由を仕事や職場の人間関係のせいにしたんだっけ、と思い出す。

「ああ……はい、そうですね。大分楽になりました。治療のおかげかと」

 それでそう言いつくろうと、磯田は本当に嬉しそうな笑みを浮かべた。

「それは良かった。何よりです」

「ああ、いえ……おかげさまで」

 その本心からと感じられる響きに、今度は彰の方が内心で恐縮して。こんな相手に嘘をついている自分がどうにも申し訳なく感じられる。

「長いこと医者をやってましたからね。治療で良くなった、と言ってくれる方を見ると、自分の患者さんじゃなくてもつくづく嬉しいものです」

 そんな彰の気持ちを知る由もなく、なおも嬉しそうにそう言いながら、磯田はひょい、とテーブルの端のシュガーポットに手を伸ばした。

 彰が見ている前で、ほんの二口程残ったカプチーノにひと匙、砂糖をさらさらと落として、コーヒースプーンでかちゃかちゃとかきまぜる。

 そしてアイスを食べるかのように中身をすくって、美味しそうに口に入れて。

 その行動には、確かに見覚えがあった。

 彰は息を殺して、相手を穴の開くほどじいっと見つめる。

「……あ」

 と、その視線に気づいたのか、磯田はバツの悪そうな顔をして目を上げた。

「ああ、つい……癖で。すみません、子供みたいな真似を」

「癖?」

 思わず聞き返すと、相手はいよいよ恥ずかしそうにスプーンを置いて頭をかく。

「妻がね。つきあっていた頃から、よくこうしていて……彼女、若い頃にヨーロッパで働いてたことがあるんですが、向こうではこれ、普通によくある飲み方なんだそうですよ」

 そう話す相手の左手の薬指に細い金の指輪がはめられていることに、彰は初めて気がついた。

「そう言われて真似してみたら、確かに美味しくて。あ、そう、ティラミスみたいな味になるんです」

 意気込んで話す相手の言葉に、彰の息がまた止まった。

「わたしと妻が毎回こうするもんですから、娘も同じ癖がついてしまいましてね。いくら海外では普通とはいえ、見た感じちょっと子供っぽいというか、お行儀が悪いかな、と思って、外では控えなさい、て娘には言ってたんですが、わたしがこんなんだから効き目がありませんでしたよ」

 そう言いながら磯田はわずかに目線を落として、何かを懐かしむようにふふっと口元で笑って。

「……娘、さん、今、お幾つですか」

 一方彰は、何かに操られるかのようにそんな言葉を口にしていた。

 磯田の微笑みから、すうっと温かさが消えていく。

「三十になります。……生きていれば、ですが」

 そしてその唇から、そんな言葉がまろび出た。



 四年程前に、磯田は勤めていた大学を退職した。

 だがそれよりしばらく前から、彼は何ヶ月も休職状態だった。

 それは、妻と娘とを同時に亡くしたショックの為だ。

「旅行先で、火事に遭いましてね。娘はその少し後に遠方への転勤が決まってたので、その前にせっかくだから家族三人で旅行がしたい、て、わたしの知らないところで妻と娘が計画してまして」

 まだ中身がわずかに残ったままのカップを、飲むでもなくただかちゃかちゃとかき混ぜながら、その手元に目を落として磯田は話した。

「その時に肺をやられまして、今は埋め込み型の人工肺を入れてるんです。だからわたし、『パンドラ』には入れないんですよ」

 最初の問診の時に「肺に病気があるから『パンドラ』には入れない」と彼が語っていたことを彰は思い出した。けれどそれがまさか、こんな理由だったとは。

「……今思い出すと、あの頃はずいぶん時間が長かったようにも思いますし、逆にあっという間だったようにも思います」

 磯田は目を上げて、窓の外を見やった。

 雨はまだやんでおらず、しとしととガラスを濡らしている。

「多分、意味のあることを何ひとつしていなかったからなんでしょうね。毎日毎日、がらんどうのような日々でした」

 彰は思わず、膝の上でぎゅっと両手を握った。

 ――言おう。

 心の中で、瞬時に気持ちが決まる。

 これ以上、このひとに嘘をついたままでいたくない。

 心療内科に通っていた本当の理由。そして、あの頃に比べ状態が良くなったように見える、その理由。それを皆話して、謝ろう。きっとこのひとなら判ってくれる。

 そう決めて息を深く吸った瞬間、相手が話し出した。

「多分『パンドラ』での仕事を始めたことが、わたしを救ったんです」

「……え?」

 勢いを削がれて、彰の声がかすれる。

「すっかり引きこもりみたいになっていたわたしを、その先輩医師が引っ張り出してくれましてね。半ば無理矢理、『パンドラ』開発の仕事に駆り出されたんです」

 消えそうに薄い微笑みを浮かべて、磯田はまたかちゃ、とスプーンを鳴らした。

「それまでにもいろいろ恩のあった相手でしたから、仕方なく毎日機械みたいに仕事をして……そんな時にね、人工人格のデザインを依頼されたんです」

「デザイン?」

「はい」

 磯田はうなずくと、座り直して今度はまともに彰の方を見た。

 その柳の葉のような目に、今は穏やかさしかないことを彰は内心で眩しく思う。

 自分なんかよりも遥かに長年連れ添った相手と、その間にできた娘を失ったというのに。

 果たして自分は、いつかこんな目で生きることができるのだろうか。

「『パンドラ』の為に何百人という人工人格が新しく作られることになりましてね。それぞれにベースとなる人格が要るでしょう。それを数人で設計していたんではどうしても性格が偏ってしまいますので、当時機関で働いていた人間は全員、それぞれに何人か、人工人格の性格を考えてくれ、と言われたんですよ」

 そう説明しながら磯田は、性別とか、年齢とか、職業とか、好きな食べ物や音楽とか、などと言いつつ指を折る。

 彰の中で、何かがことりと動いた。

「……どんな人格を、つくられたんですか」

 小さく息を呑みながら尋ねると、磯田は少し恥ずかしそうに笑って。

「わたし若い頃、歳をとったらどこか地方で、喫茶店をやりたいなと思ってたことがありまして。古臭い、正統派の、いわゆる純喫茶、というヤツです。妻がドイツで飲んだコーヒーが一番美味しかった、て昔よく言ってたものですから、そういうメニューを中心にしてね」

 話しながら磯田は、遠くの光を見るように眩しげに目を細める。

「髭なんか生やして、蝶ネクタイつけてね。寡黙で粋で、淹れるコーヒーは天下一品。……でも妻には笑われました、『絶対無理よ』って。あなたはきっと、お客さんよりたくさん喋っちゃうから、てね」

 ふふ、とわずかに笑みをもらして、磯田はうつむいた。

「結局それも、夢に終わりましたが。飲ませたい相手が、もういなくてはね」

 彰は胸に焼けた鉄の棒が突き刺さっているような感覚を覚えながら、そう呟く磯田をじっと見つめた。

 白髪混じりで髭を上品に生やした『Café Grenze』のマスターの姿が、向かいの相手に重なる。

「せめてこの世のどこかに、そんなもうひとりの自分がいたら良いな、と思って、そういう老人の人格をひとつ、つくりました」

 そう呟くように言うと、彼は思い出したようにひと匙、砂糖を混ぜたコーヒーを口に含んで。

「……他には、どんな人格を?」

 かすれた声で彰が尋ねると、磯田は目を上げる。

「――友達を」

「え?」

 短く言われた単語の意味が咄嗟に掴めず、彰は聞き返す。

「娘の……トモミの、友達を……あの子の半身を、あそこにつくりました」

 彰の目をまっすぐに見返しながら、磯田はそう言った。

   

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