第28話 処理

   

 理由は結局、今の時点でも判らないままなのだという。

 その後しばらくはシステム側のハードやソフトに多少の変更や改良がある度、ログアウトの試験は行われたそうなのだが、今はもう双方共に完全に諦めの状態らしい。

「ちょっと待って」

 激しく混乱しながらも、彰は片手を上げて英一の話を止めた。

「じゃ……じゃ、もしかして、美馬坂くんの体は、まだ生きてるってこと? 死んでない?」

「そう」

 表情を消した顔で、英一はうなずいて。

「それ、一体どこに」

「日本のどこか。それ以上は、言えない」

「じゃ、他の四人の体もそこに?」

 判明した事態に息急き切って聞くと、英一は口をつぐんで小さく首を横に振った。

「今も現実に肉体があるのは、僕を含めて三人」

「え?」

「後の二人の体は、死んだよ」

 彰の息が止まる。

「昏睡状態になって外の時間で一年くらいの頃に、ひとりの現実の肉体が大動脈瘤の破裂で亡くなった。動脈瘤ができたこと自体は少し前に判ってたそうなんだけど、この状態で手術ができるか判らなくて、経過観察中でのことだったらしいよ。仮想での人格は、生きてるけどね」

 ごくり、と息を呑みながら、彰はかすれた声で「もうひとりは……?」と聞いた。

「その状況が始まって中の時間で二日くらいした後に、僕等は部屋から解放された。じっとしていようがいまいが状況に影響は無い、てことが判ったんだろうね。ログアウトできないことに変わりはないけど、とりあえず中では好きにすごしていい、てことになったんだ」

 五人は集まって、不安や不服を互いに述べ合った。が、結局は何をどうもしようがない、ということに話は落ち着くしかない。こちらからはどうしようもできないのだ。

「思えばその時、殆ど口を聞かなかった人がひとりいたんだ。三十代半ばくらいで、会場が違う人だったから、現実では会ったことがなかった。追加の実験内でも一番口数が少なくて、何て言うか、四角四面に真面目なタイプの人だった。……中の時間で一週間くらい経った頃、その人が自殺した」

 ちょうど吸い込みかけていた彰の息が、途中で止まる。

「高い建物の、窓から飛び降りた。……当時の仮想都市は物理法則がそのまま適用されてたし、その時は研究者達はログアウト問題にかかりっきりだったから、感覚テストなんて放置されてた。感覚の遮断は一切無かった。だから」

 飛び降りた仮想の肉体の衝撃は、ダイレクトに現実の肉体に反映された。

 彰は完全に言葉を失って、向かいの相手を見つめた。

「その人は仮想の人格も、完全にダメになった。だからその時の参加者で仮想都市に残っている人格は、僕を含め四人きり」

 顔の前で、英一は皺の多いマスターの指を四本立てて。

「完全に仮想内の人格でも無ければ、人工人格でもない。誰だったかな、前に『自分達は辺獄の住人だ』て言ってた人がいたよ」

 口髭の下の唇を苦く歪めて、英一は笑みにも取れそうな複雑な表情を浮かべた。

「へんごく?」

「あの世でもこの世でもない、どっちつかずな場所。元はキリスト誕生以前や洗礼を受ける前に死んだ人が死後に行くところ。洗礼されてないから天国にはいけない。大罪を犯した訳でもないから地獄にも行けない。無論、この世には戻れない。この世の終わりに救世主がすべての人を救う、その永遠に近い未来まで、ずうっとそこに、とどまり続ける」

「……そんな」

 首を強く締められたように息苦しくなるのを感じながら、彰は呟いて。

「でも、だけど……そんな異常事態が起きたのに、どうして研究、中止にならなかったの」

 英一は長いため息をついて、ふっと唇の先で微笑った。

「被験者が、僕達だったからだよ」

「え?」

「皆が皆それぞれに、深刻な金の悩みを抱えてた。……だからだよ」



 仲間の一人が飛び降り自殺したことで、残された四人は騒然となった。

 何をするでもなく、外の、広場のようになった空間でたむろっていた時に、いつの間にかその彼がふらっと姿を消していた、直後のことだ。

 すぐ近くでどすん、という大きな音がして四人が走っていくと、道を曲がった、その目の前に彼が倒れていたのだ。

 血は一滴も出ておらず、見た目には傷ひとつない。

 けれどその首と足は、人間の骨格では有り得ない方向に折れていた。

 英一はぐっと息を詰めたまま、そっと自分の手首に触れてみる。

 ……脈を、感じる。

 そして他の四人が指一本すら動かせないままでいるのに、すっと彼の傍らに膝をつき、首筋に指を当てた。

「脈が、無い」

 唇を殆ど動かさずに呟くと、立ち上がる。

 そして片手を上げ空を見上げて、

「美馬坂英一です! どなたかこの事態、感知されてますか!」

 と、大声で叫んだ。

『――把握している。驚かせて済まない』

 と、空の高い方から、先日話していた白髪の研究者らしき声がした。

「現実の彼はどうなりましたか」

 声を張り上げて聞くと、周囲の四人がびくりとして英一を見て。

『心肺停止状態だ。いま全力で救命措置をしている。彼の体は部屋に移す。すまないが君達もそれぞれ、自分の部屋で待機していてもらいたい』

 そう声がするやいなや、足元に倒れていた体がすっと跡形も無くかき消えて、さすがの英一もびくっとその場から飛び退いた。

 すうっ、と冷や汗が背中をつたう。

 ――ああ、ここは仮想の世界なんだ。

 最初から判っている筈のことを、改めて噛みしめる。

 確かに今は異常事態で、でも時間が経つ内、無意識に頭の中でここを現実空間と地続きのように認識していた。離島の研究施設に実験中に閉じ込められてしまった、みたいな。

 でも違うのだ。

 ここは現実じゃない。

 ああやって簡単に、ヒトをその場から別の場所に瞬間移動させられるのだ。

 何故なら見えているこのすべても、ここにいる自分自身も、単なるデータでしかないからだ。

 もし彼の現実の体が仮想のこころをひきずったまま息を引き取ったら、あの仮想の体もここから消えるのだ。骨も肉も無く、墓のひとつも無いままに。

「……ヤバイよ、俺達」

 かすれた声がして、全員がそちらを向いた。

 そう口にしたのは確か英一より二つ年上、いかつい体つきの男性で、五人の中で英一と彼だけが大学生だった。

「ここにいたらヤバいって。俺達も殺される」

 辺りをきょろきょろと見渡しながらうわごとのように呟くのに、英一ははっとして一歩前に出た。

 それと同時に、空から声がする。

『こんな事態になったことは本当にお詫びの言葉も無い。だが頼む、落ち着いてほしい。彼が現実でも追い詰められていたことは把握していたのに、この事態を防げなかったことは我々の落ち度だが、今の彼の行為には我々の関与は一切無い』

「そんなこと信じられるか!」

 今度は別の、四十代半ばくらいのサラリーマン然とした男性が声を張り上げて。

「出られないんだろう、俺達? こうやってひとりひとり殺していくつもりなんだ!」

「そうだ! 実験のミスを隠蔽する為に殺すんだろう!」

「ちょっと。待って、ちょっと、頼むから」

 明らかにパニックに突入しかかっている二人と、ただただ困惑気味におろおろしている一人に向かって、英一はぶんぶんと長い手を振った。

「ここでキレて、何がいいことあるの。それこそ血圧上がって、突然死しても知らないよ。今見たばっかりでしょ、この中で痛い目にあうと現実でも痛いんだ」

 二人はどきりとしたように口をつぐんで、目を見開いて英一を見る。

「あのね、もしやるなら一瞬だよ。なんでわざわざ、ひとりずつなんて必要があるの。クリスティじゃないんだからさ。ミステリ好きなの、もしかして? 確かにこの隔離環境、絶好のミステリ舞台だけどさ」

 わざと飄々とした口調で言うと、二人は顔を見合わせ、肩を落とした。

「……美馬坂くんだっけ、この子の言う通りだと思うよ」

 おどおどと立っていた、二十代後半くらいのぽっちゃりとした男性が口をはさむ。

「それに、どうせここからは逃げ出せないんだ。じたばたしたってどうにもならないよ」

 その助け舟に英一はほっとして、ひとつうなずいた。

 二人は不本意そうながらも、とりあえず口をつぐむ。

『……ありがとう』

 と、空からしずかな声が降ってきた。

『とにかくしばらくは、申し訳ないが各自部屋で待機していてほしい。彼の今後の体調については必ず伝えると約束する。すまないが、こちらは今手が離せない状況なのをどうか理解してほしい』

「はい」

「判りました」

 英一と小太りの男性とがうなずくのに、残りの二人はまた顔を見合わせて、不承不承に首を縦に振って。

 別れて部屋に戻ると、英一はベッドに勢いをつけて腰をおろして、大きく息をつく。

 多分あれは、助からないだろう。

 だとすると実験は中止になるのだろうか。

 でも、それじゃ困る。そんなことになったら本来の報酬の話は勿論、追加でもらえる筈だった分も立ち消えになるに違いない。

 ――この時の自分を、英一は後になって何度か滑稽に思い返した。今の不具合は一時的なもので、しばらくすれば全員ログアウトできる、とまだ頭っから信じていた、自分を。



『美馬坂くん』

 ――気づくと英一は上半身をベッドの上に倒して眠っていて、声に飛び起きる。

 見ると、画面の中に先刻の老人の姿があった。

『起こしてすまない。悪い知らせだ。……現実の彼が、亡くなった』

 英一は一瞬で覚醒した頭で、背筋を伸ばして座り直す。

『今後、こちら側が取れる方策は、三つある。

 一つはただちに実験を中止し、この事態を世間に発表する。

 二つ目は実験は中止するが、この事態の発表はしない。仮想空間で生活をする、ということについてはひとまず諦めて別の方法を探る。

 三つ、実験を継続し、この事態についても発表しない』

 英一は大きく音を立てて、深く呼吸した。

 脳の中を酸素とアドレナリンがぐるぐる回り出すのを感じる。

『この事態を発表した上で実験を継続する、というのは不可能だろう。無論、どのパターンにおいても君達のログアウトについては引き続き実行を試みる。さて君は、どれが一番、最適だと思うかね』

「彼の死を、どう処理されるつもりなんですか」

 質問を無視してこちらから問うと、相手は一瞬、口をつぐんで――だがその顔面に瞬間、面白がるような、興味深いものを見るようないろが走ったのが見て取れた。

 彼の死を世間に対して処理する方法を聞く、ということは、この事態を外に出さないことを取る、と言っているのと同じだ。それは話していて自分でも判っている。

 それが倫理的には相当問題がある思考であることも。

 だが自分は、この実験を中止してほしくない。金銭的意味でも、興味深さにおいても。

『彼の私生活について、何か聞いているかね』

「いえ、殆ど」

 急に質問の方向を変えられて、英一は虚を衝かれながらもすぐにうなずく。

『彼は実験に参加する前から、離婚問題を抱えていた。参加の理由も、離婚が確定した場合に支払わなければならない慰謝料の捻出の為だ』

 相手の説明によると、実験開始から少しして離婚は確定したのだという。慰謝料についてはどうにもならずに、少しタチの悪いところから借りたらしい。どうやらまともなところからは借りられない身だったようだ。

 その支払いについて追い詰められていた上に、ローン途中で売る羽目になった家がなかなか売れず、車や家財道具を少しずつ身を削るように手放していて、更にはついひと月程前に人事異動で新年度から地方へ行くことが決まり、かなり給料が下がることが判ったそうだ。

 とどめに今回、緊急の連絡先に、と彼が指定した元妻に研究者が連絡を取ったところ、つい先日、離婚後に知り合った男性とスピード婚をしたそうで「もう二度と連絡してこないよう伝えてほしい」と言われたのだという。

『それを伝えた時の彼は、ただ押し黙っていて何を言っても全く反応が無かったそうだ。とにかく一刻も早くログアウトさせてメンタルケアをしなければ、と思っていた矢先だった。まさかあんな方法を取るとは予想だにしなかった』

 ごくわずかに眉をしかめる相手の説明を聞いていて、英一はああ、と納得した。

「彼の肉体には、現実で飛び降りた時と同じ損傷があるんですね?」

 相手は少し伏せ気味にしていた目を開いて彼を見る。

「個人的な不幸をはかなんでこの建物から飛び降りた、すぐに救命措置を取ったが助からなかった、そういう筋書きにできる、そうなんですね?」

 相手は一度大きく息を吸い、それから長く吐いた。

『……その通りだ』

「なら、実験は続けられる」

『その通りだ』

 また同じ言葉を言って、相手は大きくうなずいた。

「なら、続けるべきです」

 英一が即座に言うと、相手はどこか満足気な顔つきになって再度うなずく。

「でも、条件があります」

 だがそう何もかもそっちの思惑に乗るつもりはない、相手の顔に英一はそう伝えたくて言葉を続けた。

『条件?』

「最終の報酬を、先払いしてください。こちらの言い値で。それが、今回のことを今後も口外しない、僕の条件です」

『……個人的に聞きたいのだが、君から見て、他の三人もその条件でそれを呑んでくれると思うかね』

 この状況でまさか跳ねのけられはしないだろう、と思いながら言った言葉に予想外の質問をされて、英一はわずかに頭をそらす。

 他の三人?

 あの冷静だったぽっちゃり気味の二十代と、サラリーマン風の四十代、マッチョな大学生。

 勿論名前や年齢、住んでいる場所などのあっさりした自己紹介はした。だがどうしてか生い立ちや普段の生活については自分を含めて、誰ひとり殆ど語らなかった。それはおそらく、全員が私生活で何らかの問題を抱えているからなのだろう。

「……彼等のそれぞれの問題が、金で解決できるものなら、多分」

『金で解決できないことはこの世にめったに無い』

 英一が考え考え言った言葉に、即座に相手がそう返して。

「それは、ご自身のご経験からですか?」

 思わず皮肉を返すと、相手が初めて、いかつい口元をわずかにほころばせる。

『私だけではないね。とにかく、他の三人とも交渉してみよう。君とはまた時間をとって、いろいろと話してみたい。では』

 と言うと、老人の姿は画面から消えた。



 最終結論に至るまで遥かに難航したそうではあるが、他の三人ともようやく話がまとまった、ということをしばらくして英一は聞かされた。

 やはり金で解決できない問題はなかったのだな、と英一は思う。

 もし実験が中止になれば今までの研究はふいになる。つまり補助金や寄付金などの収入源もなくなる、ということで、それは英一達としても困るのだ。

 四人はそれぞれがそれぞれに、今すぐにある程度の金が要る事情を抱えている。「今後の何々に備えて」ではないのだ。つまりは全員が、老人の言う「三つ目の方策」を選ぶ以外に無い。

 金は用意する、ということで話はまとまったが、当の本人達が中にいたままでは金だけあっても仕方がない。とにかくまずはログアウトしてから、ということになったのだが。

「――どうしても、無理だった」

 彰の向かいで、かすかなため息まじりに英一は言った。

「あらゆることを試したって聞いてる。現実の体に刺激を与えたり。針で突いてみたり、ワサビみたいな強い匂いをかがせたり、女性の前で何だけど、性的刺激を与えたり、みたいなことまでやったらしい。でもどれもダメ」

 肩をすくめて話す英一に、彰は一瞬ちらっと隣のシーニユを見たが、いつもの通り彼女の表情筋はぴくりともしない。

「こっち側はこっち側で、いろいろやった。だけどやっぱり、ダメだった。どう言うのかなあ、太い水道管の中で強い水流に流されてる、なのに最後に鉄格子がはめられてて、水はどんどん流れてるのに自分だけは通れない、そういう感じ」

 そしてその試みを続ける内、彼等は選択をせまられていく。

「まあ僕ともうひとり、学生の立場ならどうにでもなるけどね。ちょうど冬休みの時期だったし。だけど後の二人は、そうはいかなかった」

 最初にこの「ログアウト問題」が発生した時、残りの二人の内のひとり、四十代の男性は家族で細々とした自営業を営んでいたので、『遠方の会社と大きな取引ができそうなので打ち合わせにいく』と家族に伝えてもらったそうだ。

 二十代の男性は会社員で、副業OKな会社だったので『バイト先で怪我をしたのでしばらく療養する』ということにしたらしい。

 だがそうこうする内に冬休みも明け、大学では試験が始まってしまうと、さすがの英一もかなり焦りを感じてきた。

 多少の抵抗はあったが研究者に頼んで携端のロックを解除し中を見てもらい、必要な連絡にだけ返信してもらうことにする。その中に宮原忠行のメールもあったそうだ。

「彼とは妙に気が合ってさ。あんな別れ方をして、悪かったな、て思ってるよ」

 ぽつんと独り言のように呟く英一に、彰はかける言葉が見つからずにただ唇を噛む。

 当初は英一達も研究者達も、この事態はそれ程長くは続かない、と思っていたのだそうだ。だからこそのあちこちへの言い訳で、だがそれが現実の時間で一ヶ月を越してしまうとそうもいかなくなった。

「決断をしてもらう必要がある、そう言われたよ」

「決断?」

 オウム返しに彰が聞くと、「ん」と短くうなずく。

「その頃にははっきり、ログアウトは不可能だ、てお互い判ってた。特に僕等側からはね、感覚的に、ここからは出られない、て皆確信できてた。将来的に技術改革でもあれば別だけど、それに何年かかるか判らない。つまり僕等はここで暮らすしかない。その上で、『現実界での自分』をどうするかを決めてほしい、て」

「でも、どうするも何も、起きられないんだし、どうしようもなくない?」

「体、のことじゃなくて」

 きょとんとして聞いた彰に、栄一はうっすらと微笑む。

「この事態は発表しないし、僕達も口外しない。それが大前提。飛び降りた彼は現実で『自殺』として処理された。では僕達の存在を、現実の中でどう『処理』するのか?」

 ごくり、と彰は息を呑んだ。

 ――英一は大学を退学してすぐ、交通事故で亡くなりました。

 彼の姉からもらったメールの一文が、ありありと浮かぶ。

「僕達はもう全員、この世の住人じゃないんだよ」

 まっすぐに彰の目を見ながら、英一は淡々とした口調でそう告げた。

   

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