第15話 個人情報

  

 その日彰は、シーニユと別れた後、適当に街をぶらついて『Shallows』という名のピアノバーに入った。

 店内でピアノの弾きがたりをしていた女性の演奏が本当に素晴らしくて、熱心な拍手を送りながら「こんな見事な演奏ができる人工人格って凄い」と内心で思っていたら、隣にいた別の女性に「気に入ってくれてありがとう。あれ、妹なんです」と言われて度肝を抜かれる。

 ノンアルコールのカクテルを飲みながら話を聞くと、彼女は以前実際にライブハウスで演奏をしていたのだけれど、今は家庭の事情で辞めてしまったそうで、それでもやはりたまには人前で歌いたい、ということで時々一緒に来るのだという。

 てっきりスタッフだとばかり思っていた彰は感心した。同時に、本当に皆、いろいろな理由があってここにやって来るのだな、と思う。

 やがて演奏を終えた彼女や周囲の客も加わり会話は思いの外はずんで、結局その日の残り時間はそこで終わってしまった。

 家に帰ってから、彰は数週間分の予約を一気に取ってしまった。回数券も買い足しておく。

 こんな調子で本当に自分が望むものにたどりつけるのか、そういう思いがふっとよぎって気持ちが落ち込みかけるのを、いや、でもまだたった二回だ、それで決めつけるのは早過ぎる。こういう地道な積み重ねが意外に重要なんだ、と自分に言い聞かせる。

 ――「彰」は「諦めない」の「アキラ」でしょ。

 頭の中でそう皐月の声が聞こえて、彰はぐっと唇を噛みしめた。



「……ええ、今から?」

 二度目の『パンドラ』体験から二日後、病院の後に少し運動がてら遠回りして帰るか、と歩いていた彰に、宏志から電話があった。

 この間話に出た、宮原忠行から「今夜飲まないか」と連絡があった、と言うのだ。

『うん。でもお前、今飲めないよな?』

「うーん、まあ、少しくらいなら……でもなんでまた、いきなり。あ、お金?」

 先日の出資の話を思い出して言うと、意外にも宏志は『違う』と即座に否定した。

『どこでどう上手いことやったんか知らないけど、金出す、て言ってくれる人ができたんだって。それで、起業の準備やら何やらで、またしばらく中国行くから、その前に飲まないか、てさ』

「ええー……なんかその相手、露骨に怪しくない?」

 それ程深いつきあいではなかったけれど、それでもやはり知り合いが詐欺にひっかかったりするのは気分がよろしくない、そう思いながら彰が言うと、『うーん』と宏志が複雑そうな声で鼻を鳴らした。

『俺もそう思ったんだけどね。でもちょっと話聞いてみたけど、意外にしっかり金勘定してる人みたいなんだよ。ちゃんと先々見て投資して、自分も相手も大きく損せず、きちっと儲けの数字を出す感じ、て言うかさ』

「ああ、宏志がそう思うなら問題ないんだ、きっと」

 深刻な話になるのか、と思い、道の端で足を止めかけていた彰は、宏志の言葉に安堵してまた歩き出す。

『うーん。だからお前にもさ、ちょっと聞いてみてほしいんだよ、宮原の話』

「判った、行くよ。何時にどこ?」

『ああー、助かる。もうさ、ウチでやろうかな、て。閉店後、九時くらいから。そしたらお前飲まなくてもいいし、遅くなったら泊まってきゃいいだろ』

「ああ、それはこっちが助かる。じゃその辺りで適当に行くよ」

『了解。じゃ後で』

 電話を切断すると、彰は遠回りしかけていた道を引き返した。



 どうやって相手の素性を聞き出そうか、と考えていた彰だったが、乾杯して早々、次から次へと今回の顛末を話し出す忠行に面食らった。どうも本人自身が話したくて話したくて仕方なかったらしい。

 そのパトロンが、経済にあまり興味のない彰も聞いたことのある、アジアを中心に活動している投資家だったのに二人とも驚いた。別人が騙ってるんじゃないか、とさえ疑ったが、貰った名刺の番号がまさにオープンにされている彼のオフィスの番号そのもので、忠行自身が実際にそのオフィスで話もした、というのにまた驚く。どうやら中国での駐在生活中につくったコネから紹介してもらったらしい。

 それと同時に、どうやらその金を出す話自体に詐欺性は無さそうだ、と判って二人は安心した。それなら後は、忠行が頑張るだけの話である。

「……じゃ、お前頑張れよ? 絶対、手抜くなよ? 学生時代のバイトじゃないんだから、気に入らないからすぐ辞める、なんて訳にいかないんだからな?」

 相当にしつこく念を押す宏志に、彰はいやいくら何でもこんなレベルの話で、と思ったが、どうも宏志によると忠行のサボリ癖は相当なものだったらしい。

「そんなに信用ない、俺?」

「ないよ。ゼロだよ。いや、マイナスだよ」

「ええ、そんな?」

「そんなだよ!」

 どうも、まだ宏志が忠行のサボリ癖を知らなかった頃に、バイトしたいからどこか紹介して、と言われて父親繋がりで大学に近い洋食屋に口を聞いたらしい。が、三度目の出勤を無断欠勤して連絡不通となり、父親には怒られ、店の主人にも散々頭を下げたのだという。

「俺あの店、子供の頃から好きだったのにさ。親父さんはいいよ、て言ってくれたけど、もうあの後行き辛くって行き辛くって。お前のその癖、知ってたら絶対紹介なんかしなかったのに」

「いやあ、あれはごめん。ほんっと、悪かった」

 もさもさした天然パーマの頭をかいて目尻を下げて笑う忠行に、彰は少し呆れながらも、このいかにも裏の無さそうな笑顔が憎ませない理由なんだろうな、と思った。何とも愛嬌のある笑い顔をしている。

「後、祭りの手伝いとか、大学の先生の論文の手伝いとか……」

 ひとつひとつ指を折りながら、宏志は眉をしかめた。きっとあれこれ苦い思い出があるのだろう、と思うと、彰は同情しながらも少し可笑しくなる。

「……あ、そういやさ、あれはどうだったんだよ? あの変なバイト。全部参加できたらすげえ金入るヤツ。宮原行ってたよな?」

 と、宏志が思い出したようにそう忠行に言って、彰は飲んでいたレモンを搾った炭酸水を吹き出しそうになった。高速で記憶を探ってみるが、かけらも覚えが無い。

「ああ、行った。でも三回目で遅刻してアウト」

 と、忠行がまた悪びれもなく笑って、彰はほっとすると同時に納得した。それは記憶が無い訳だ。

「うっわ、もう……もうほんとお前、サイアク。ヒトとして駄目過ぎる。ちょっと御堂の爪のアカでも飲め」

「え、そこで俺?」

 急に話を振られて、彰は驚いた。まあ確かに自分は、コツコツタイプだと人からは言われる方ではあるが。

「だってお前、あのバイト完遂してたよな?」

 そう言われて彰はどきりとしたが、その向かいで忠行は「へええ」と能天気な声を上げる。

「御堂も行ってたんだ。知らなかった。言ってよそれ、バイト終了した時。奢ってもらったのになあ」

 歯を見せて呑気に笑う忠行に、彰はほっとした。この感じならあれこれ突っ込んだことなんか聞いてきそうにない、と言うか、聞ける程も体験してなさそうだ。

 そもそも宏志によると、どうやら忠行は皐月のことは「御堂の彼女だ」程度の認識で名前すら覚えていなかったらしく、また、卒業後は全くやりとりが無かったので、二人の結婚も皐月の事故のことも知らないらしい。

「御堂は結婚してんのか、て聞かれたから独身、て言っといた。学生時代の彼女は、て聞くんで別れた、て言ったぞ。『死に別れた』んだから嘘じゃない」と宏志に事前に説明されて、彰は確かにそうだ、と妙に感心すると同時に、親友の心遣いに内心で両手を合わせた。

「苦学生の御堂が地道な努力で稼いだ金をたかる、てお前はオニか」

 宏志から軽口にまともに突っ込まれながら、忠行はまた悪びれもなく笑って――ふっと、その顔に何かがよぎる。

「あ、そうだ、御堂、そのバイトさ」

「え?」

「ミマサカ、てヤツいなかった?」

 何の話だ、と見構える間もなく向けられた問いに、彰は拍子抜けすると同時にきょとん、と目を見開く。

「ミマサカ?」

「うん。ああ、知らないか……羽柴は? 俺と同じマーケティングの」

「え? ごめん、俺マーケティングにはそんなに連れ多くなくて……誰?」

「同級生なんだよ。同じクラス。俺がミヤハラでそいつがミマサカだから学籍番号並んでてさ、もう、バカがつくレベルで真面目で、俺と全然性格違うんだけど、なんか、いいヤツだったんだよ」

 二人のやりとりを聞きながら、彰は記憶の底を探る。聞き覚えがある気がするのだけれど、咄嗟に頭に具体的な人相が浮かんでこなくて……が、その前に気になることがある。

「だった、て、今はどうしてんの、その人」

「え? あ、うん」

 彰が聞くと、忠行は珍しく口ごもった。

「……音信不通なんだよ、ずっと。二年の終わりに退学しちゃって」

「えっ?」

 宏志と彰が、同時に驚きの声を上げる。

「退学って、なんで」

「それが判んねえから、御堂が知らないかと思って」

 相変わらずもごもごとした口調で言いながら、忠行は枝豆を立て続けに口に入れて。

「ちょっと、詳しく話せよ」

 宏志がうながして、忠行はもそもそと当時のことを話し始めた。



 席の並びで何となく仲良くなった二人だったが、性格は本当に真反対だった。講義もバイトもその日の気分であっさりサボる忠行に比べ、彼の方はごくごく真面目に、きっちり入れた講義も、平日から土日までみっちり詰めたアルバイトも、特にどうということもない顔をしてさらりとこなしていたらしい。

 レポート前に講義のノートを借してほしい、と頼んだら快く許してくれて、けれどそれはただ「貸すだけ」ではなく図書館でみっちり、本人の講義説明付きでの貸与だったそうである。でも、たまに出る教授の講義は一度も面白いと思ったことがなかったのに、彼の説明だと同じ講義なのに何故か奇妙に心をひかれ、しかも内容もとても判りやすかった、忠行はそう懐かしそうに話した。

「ただくそ真面目、てのとは何か違ってて、浮き世離れしてるって言うか、地面から足浮いてるみたいで、面白いヤツだったんだよ」と。

 あの最後に高額報酬が出るバイトを彼に教えたのは忠行だった。

「自分の生活費と軽減されない分の学費、バイトで賄ってる、て言ってたからさ。場所忘れたけど、実家がやってる旅館の経営が傾いてかなりヤバい、みたいなこと、一度ぽろっともらしてて。じゃこれどう、俺も気になってて、て教えたら、むちゃくちゃ喜んでたよ」

 忠行自身はすぐにそのバイトもクビになったが、彼はずっと通い続けていたようだった。けれども冬の初め頃から彼には似つかわしくなく、時々講義に来ない日があり、そして年が明けてからは全く学校に来なくなって、試験にも顔を出さなかったのだという。

「さすがに試験来なかったのには驚いてさ。慌ててメールしたら、『実家の方が本当にキツくて、金になるバイトが見つかったからしばらく休学して家に仕送り増やそうと思う』て。そりゃ気の毒だなあ、て思ってたんだけど、二年が終わって……三年の、始業式かな。そういやいつまで休む気なんだろうなあ、てメールしてみたら不通になってて、驚いて、でもまわり誰も新しいアドレスとか番号とか知らなくて。仕方ないからクラスの教授に聞いたら『二月に家の都合で自主退学した』て」

 この話題になってから、それまでくいくい飲んでいたアルコールに一切触れずにそう話し終えると、忠行は頬杖をついたままひとつため息をついた。

「なんかさあ……全然知らずにそういうことになってたのが、自分でも意外なくらいに、その時ショックでさ。あ、何にも言わずに消えたんだ、て。俺その程度だったんだ、てさ」

 そう言うと忠行はようやっと、すっかり気の抜けたジョッキに残ったビールをひと息にあおった。

「知ってると思うけど、俺基本、来る者拒まず去る者追わずでさ。でもその時だけはどうしてもどうしても気になって、学生課行ってミマサカの実家の住所が知りたい、て聞いたんだよ。でも『既にうちの生徒じゃないし、もし生徒でも個人情報だから教えられない』て言われて」

 ふう、と苦い香りの息を吐くと、手酌で新しいビールを注ぐ。

「それ言われて、なんかもう、急にどうでも良くなって……ああそうだよな、あれもこれも全部何もかも、あいつ個人の事情で、だからあいつは自分ひとりで片付けて、俺になんか話す必要無い、だって個人情報だから、て、あいつにとっては全部そういうことなんだよな、て思ったら、もういいや、て」

 いつもへらっと目尻を下げて気の抜けた笑みで笑う忠行が、珍しく苦笑いを浮かべるのに、彰は胸がちくんとするのを感じた。ああ、宮原のヤツ、ほんとにその人のこと、友達だと思ってたんだな。

「で、それっきり。もういいや、で忘れてた。今の今まで」

 何かを断ち切るようにぱん、と自分の太ももを手の平で叩いて、忠行はおどけた顔で笑った。

「でもあのバイトの話と、苦学生、て話でちょっと思い出した。それだけ」

 忠行自身はどうやらそれでその話を終わらせたかったようで、そう言い切ると「さ、飲も」と明るく言って宏志のジョッキにビールを勢い良く注ぐ。

 けれど彰はまだどうにも気にかかって、遠慮がちに口を開いた。

「あのさ、その、ミマサカ、て、なんて字? フルネームは?」

「いや、もういいって」

「聞き覚えはあるような気がするから」

 片手を振った忠行に食い下がると、かすかにため息をつく。

「……ミマサカエイイチ。美しい馬に坂道の坂、エイイチは英語の英に一番の一」

 彰は忠行の台詞から、頭の中の白いスクリーンにその漢字を黒い明朝体で並べ直してみる。

 ――美馬坂・英一。

 思い浮かべたその文字が、きゅうっと収縮して灰色の服の胸元のネームプレートに読みがな付きで収まる。

「……思い出した」

 彰の口から、小さな声が飛び出した。

   

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る