第14話 皐月・7
生まれて初めて足を踏み入れたその「街」は、目に入るその殆どが灰色がかっていた。
彰は固唾を呑んでまわりを見回す。
その周囲にいる何人かの男性も、同じようにきょろきょろしていた。
服は全員同じ、灰色の長袖Tシャツに長ズボンで、胸元に読みがなをふったフルネームの名札が付いている。靴はやはり灰色のスリッポン。
地面は見た感じ、アスファルト敷きだった。でも靴の下の感覚としては、リノリウムのようなつるっとした固い感触がする。
空はぴかっと、どこまでも雲ひとつ無く晴れていて、けれど太陽そのものはどこにも見当たらず、眩しさもあまり感じない。明るいことは明るいのだけれど、暗い部屋に電気をつけたみたいな、どこも一律にのっぺりとした明るさだ。よく見ると足元に影が無いのに彰は気がつく。
彰達が立っているのは、知らない街の知らない車道のど真ん中だった。けれど車は一台も走っておらず、他には誰も人がいない。
街並は見た感じ、建物の形をつくった上にその写真を貼ったように見えた。オフィスビルやマンション、コンビニ、一軒家、あれこれ雑然とした、つまりはまさに日本の住宅や会社やお店がごちゃまぜに並んだ風景なのだが、そのすべての表面に立体感というものが無い。まるでヘタな模型の中にいるみたいだ、彰はそう感じた。
街灯や信号機やガードパイプ、店先ののぼりや足元のマンホールのような、普段全く目に止めないけれど必ずそこにある物が無いだけでこんなにも「つくり物感」が出るのだな、と驚きながらも感心する。
「すごいなあ……」
半分は呆然としながら、半分は辺りの様子を観察するのに夢中になっていた彰の耳に、誰かの声が届いた。
全員がはっとしたようにそちらを見る。
急に注目を浴びたその男性はびくっとして、それから軽く頭を下げた。
「あの、初めまして。
「ああ……こちらこそ、初めまして」
彼の言葉を皮切りに、挨拶合戦が始まって。
計六人のそのメンバーは全員男性で、そして全員が初対面だった。年齢は彰を含めて三人が学生、二人が二十代の会社員、もう一人が三十代の会社員だ。
他人のことは判らないけれど、彰については、背丈や体つきはほぼその通りだった。体格は全員バラバラに見えるので、きっとこれは各人そのままを反映しているのだろう。
顔は、まだかなり目の荒いポリゴンで、その人その人の特徴は見てとれるが細かい表情の読み取りは正直難しかった。話す時の口の動きはどことなくぎこちなく、瞬きなどの普通なら気にならない動きも不自然に目につく。
『――皆さん、自己紹介はお済みでしょうか』
と、突然街中にマイクを通したような声が響いて、全員が驚いて辺りを見回す。
『本日より、実際に仮想都市に入っての実験が始まります。もし途中で体調不良など異常を感じられたら、すぐに片手を上げて合図してください。よろしいですか?』
そのまさに「天からの声」に全員がうなずくと、『それでは本日の課題を送ります。皆さんで協力し合って、問題を解決してください』と声がして、同時に手の中にぱっと白い紙が現れた。
「ええっ?」
皆驚きつつも、各人のそれを開く。
そこにはそれぞれに違う場所を記した地図があって、一番年上、三十代の男性にだけもう一枚、課題内容を記した文章が書いてあった。
そこにはちょっとした数字パズルのようなものと共に、「この問題の解答が示す地図に書かれている地点が、次の行き先となります」との文字がある。
彰が手の中の地図を見直すと、それには右上の端に「9840」と数字が書いてあった。
「ええっと、じゃあ……解こうか」
男性がそう言って、全員はその場に輪になって問題を解き始めた。
「いろいろとすごかったよねえ、ほんとに」
その日の帰り道、皐月の最寄り駅の近くの喫茶店の奥の席に座って、二人は興奮しながらもひそひそと話しあった。
実験内容を外部に話してはいけない、と言われていたけれど、勿論被験者同士が話し合うことは禁止されていない。
だから実験が始まって最初の頃は、他の被験者と実験後に毎回のように飲み会的な感じで集まっていた。だが始まって少しして立て続けに脱落者が出たのに雰囲気がどうも悪くなったのと、学生の身である二人には五日に一回のペースの飲み会代が厳しかったこと、更にはまだつきあい始めて半年も経ってない二人としては、つい先日まで他人だった人達との飲み会に時間を費やすよりも二人きりでいたかったこと、など諸々があって出席しなくなり、その後、集まり自体が自然消滅してしまった、と他の参加者に聞いた。
「わたし、去年の夏休みに友達と地元の遊園地でヴァーチャル系のお化け屋敷に行ったけど、あの時よりずっと凄かった。そっちはゴーグル付けて迷路みたいなところを歩くんだけど、どうしても見えてる範囲が狭かったりとか、基本一方通行で戻れなかったりとか、歩いてる内にゴーグルずれてきちゃったりとかして。でも今日のはほんとに、自分が丸ごと、別の街に入ってる、て感じがしたもの」
小声で早口に話す皐月に、彰は大きくうなずいた。
「俺も高校の時、寮の連れが持ってるVRゲームよくやったけど、確かに全然違う。いや、あの時はあの時で、凄いなこれ、て思ってたけど、でも今日の体験しちゃうとね。ゴーグルとか手袋とか無いってだけで、没入感がこんなに違うとは思わなかった」
「ね。街とか服とか、人の顔とか、よく考えてみたら今日の方が全然、微妙な出来の気がするのに。何でだろう?」
「そもそも好きに歩ける、てだけですごいよね。ゲームの時は、移動はボタンとか声の指示とか足踏みとかで、実際は歩かないし。て言うか歩いたらすぐ部屋の壁だし」
彰が言うと、オレンジジュースのストローをくわえていた皐月がぷっと吹き出す。
「そりゃそうでしょ。そうか、つまり、意識が現実界にある状態で仮想を見てるのと、意識ごと丸ごと仮想に入っちゃってるのとの違いってことなのかな」
その解釈に、彰は自分の感じたことを言い当てられた気がしてまた大きくうなずいて。
「ああ、そうかも。ゲームの時にはさ、なんて言うか、自分の意識の方を仮想世界にチューニングしていかないといけないんだけど、今日のはチューニング不要でいきなり、て感じ。建物も道も人もつくりものっぽいんだけど、そもそも最初っからすっぽりその中にいるから、それが気にならないんだよなあ」
「判る。ほんとにそう」
とん、と両の手を軽くテーブルについて身を乗り出す皐月の、興奮で軽く赤みを帯びた頬が綺麗でかわいらしくて、彰はふっと微笑むと同時に、指を伸ばしてその肌に触れたい、という衝動をぐっとこらえた。
「そういえばアキくん、課題ってどんなだった?」
そんな彰の気持ちなどつゆ知らず、皐月は明るく尋ねてくる。
「……うん。なんか、謎解きゲームみたいだった」
体の芯が熱を帯びてくるのを全力で押さえて、彰は笑って答えて。
「あ、それ、うちのグループでも言ってる人いた。謎解きゲームって何?」
「ああ、皐月ゲームやらないよね。あるんだよ、そういうの、昔から。リアルで」
言いながら彰は端末を立ち上げて、あちこちで開催されているゲームのサイトを見せた。
「パズルみたいな問題を解かせて、新しい問題やアイテムをゲットして最終の宝物を得たり事件の犯人を見つけたり、とかさ。そういうの」
「ふうん……ああ、うん、確かに。こういう感じだった。アキくんとこも?」
「うん。そんなに難しくなかったけど」
「そうね、簡単だった。まああんまり難しかったら、全員その場で一歩も動けなくなるから実験の意味ないもんね」
「そりゃそうだ」
会話を続ける内に落ち着いてきて、彰は笑ってコーヒーを口に含んだ。
店を出て、十分程歩くと道の先に皐月の新しいアパートが見えてくる。あの火事の後、皐月の部屋は問題なく住める状態だったのだけれど、彼女の両親がどうしても、と別のところに引っ越させたのだ。
実験が終わって東京から電車で戻ると夕方の四時頃で、彰がその後にバイトを入れていなければそこからお茶をしたり、そのままどこかで夕飯を食べたり、というのが毎回のルーティンとなっている。
食事に行くかどうかはその場の雰囲気や腹具合で何となく、で、特に最初から行く行かないを決めている訳ではなかった。「行く」時には、大抵どちらかが「今日はあれが食べたい」とか「お腹がすいてるから早めにご飯にしたい」とかの希望をはっきり口にしていたけれど、「行かない」時にはどちらも特に意見を表明することなく、お茶した店を出て歩いていく内、「ああ、今日は夕飯はナシなんだな」とお互い自分の胸の内で了解する、といった感じだった。
今日はナシの日だ、ぶらぶらと歩きながら彰は思った。
横目でちらりと見ると、夕方になってようやっと涼しさを感じさせるようになってきた九月も半ばを過ぎた秋の傾いた日差しに、皐月の柔らかくボリュームのある髪が光って揺れている。
その髪がいろどっている、横顔の鼻先からつん、と反った上唇の先のライン。
とくん、とシャツの下で彰の心臓が小さく跳ねた。
あれから何度も、キスをした。手を繋いだり腕を組んで歩いたり、別れ際にはどうしても毎回ぎゅっと抱きしめてしまう。
けれどまだ、皐月の部屋に上がったことはない。
無論皐月も、彰の部屋に入ったことはない。
それはどこか、実験の後の食事に似ていた。もしかしたらどちらかが言葉にして誘えばすんなり実現されることなのかもしれなくて、けれど互いに何も言わずに、そのまま「ナシだ」と思って毎回家の前で別れる。
「これから毎回、実験あんな感じなのかな」
皐月が不意にそう言って、急に顔を彰の方に向けて。
髪がふわりと舞って、彰はどきりとした。
「面子って毎回変わるって言ってたよね。やっぱりアキくんと一緒がいいんだけどな」
そんな彰の胸の内を知ってか知らずか、皐月がわずかに唇をとがらせてそう言って。
彰の頬が、勝手に熱くなる。
「だってアキくんいたら、問題すぐ解けそうだしね。便利だよ」
けれどいたずらっぽくそう続けて笑った姿に、膨らんだ風船から空気が抜けるように、全身ぴんと張りつめていた感覚がしぼんでいくのを感じる。
「何、俺、ゲーム要員?」
力を抜いて苦笑いしながら言うと、皐月はまたくすっと笑った。
「そう。……頭のいいひと好きなんだ、わたし」
そしてさりげなくつけ加えられた言葉に、彰の体温が再び上昇する。
アパートの前まで二人はたどり着いていて、皐月は彰の手をきゅっと引っ張って道路から見えない道沿いの背の高い生け垣の裏に入った。
いつも、ここでキスをする。
彰は皐月の背中に両の手をまわした。
どこかまだ遠慮がちに、皐月は彰の胸に頬を寄せる。
「……やっぱりおんなじグループがいいな」
小声で呟く皐月の息が、胸に熱い。
「仮想都市で……キス、したら、どんな感じ、なのかな」
――ああ、自分には他の何より、この「謎解き」が一番難解だ。
彰は空を見上げて嘆きたい気持ちをこらえて、両の手に力を込める。
一番、難しくて、一生、クリアしたくない……そういう、謎だ。
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