第13話 怒り

  

 彰は口で息をしながら、目の前のシーニユを見つめた。

 先日と全く同じ服装をして、彼女はあの、表情の無い瞳と唇で彼を見返す。

「……こんばんは」

 たっぷり三十秒は見つめあってから、相手が特に何か会話の接ぎ穂を求めようともしていないことに彰は音を上げ、やっとそう挨拶をし返した。

 シーニユは軽く頭を下げてみせる。

「君も、あの店へ?」

 そう尋ねると、小首を傾げる。

「特に向かっていた訳ではないですが、用事はありませんので行かれるのでしたらお供します」

「じゃあ、良かったら」

 彰がうなずいて手でうながすと、シーニユは半歩先に立って歩き出した。

 ひとつ大きく息をつき、彰はその後へと続く。

「どうかなされましたか?」

 するとシーニユが、思ってもみない言葉を口にした。

「えっ?」

「何か、お気持ちを乱されるようなことでも?」

 彰は思わず足を止めて。

 歩き続けていたシーニユが二歩先で気がついて、同じく足を止めて振り返った。

 そんな問いを発しながら、その顔つきには特段、気遣いや心配のいろは無い。

「どうして、そう思ったの」

 けれどもそんなことを言うからには、今の自分の様子は気がかりになる程の状態なんだ、そう思って口ごもりながら聞くと、シーニユはきちんとこちらに向き直って答えた。

「心拍数と血圧がかなり上がっています。発汗も多い。瞳孔もわずかに散大しています。交感神経が優位のようです。最初にカジノにお立ち寄りになったようですし、何か興奮されるようなことがあったのかと」

「…………」

 そのあまりにも予想外かつクールな回答に、彰は豆鉄砲をくらった鳩の気分に陥った。それはまあ、そういう方面からの診断はアリかもしれない。しかし、だがしかし。

「……シーニユ」

「はい」

「そういうことは……つまり、自分が相手している人間の行動や生体データは、リアルタイムにずっとプッシュされてくるの? それとも君が取りに行くの? 行動のモニタはされてないんじゃなかったの?」

 どうにも気持ちが波立ってつい矢継ぎ早に聞いてしまったけれど、シーニユはどこ吹く風で淡々と彰の問いに答えていく。

「こちらから確認しました。前回の会話パターンに比較すると、最初に黙っておられる時間が予測を超えて長かったので、何か体調に異常が発生したのか確認を。行動データは、普段チェックはされないだけでログには残っていますから、それを参照することは可能です」

「……成程」

 彰は思わず、自分の眉根を押さえた。

「シーニユ」

「はい」

「いつも、そんな風にお客さんと会話してるの?」

「データを取得してその結果に基づいて対話する、という意味ですか?」

 彰がうなずくと、シーニユは「場合によります」と答えた。

「道を聞かれるとか、単純で短い会話では必要がないのでやりません。ですが、ある程度しっかりとした『会話』をこちらと成立させたい、と望んでいるお客様に対しては、そういうデータを取得した上で相対した方がロスが少なくなりますし、お客様の満足度も上がりますから」

 彰は思わず、大きなため息をついてしまった。

 確かにそうだ。ここで「働く」人工人格の在り方としては確かにそれが一番、間違いのない確実なやり方なんだろう。でも。

「自分には、やめてくれないか」

 まっすぐ相手の目を見て言うと、その灰色の瞳が一回瞬く。

「君といない時の僕のここでの行動とか、生体データとかを取得して、そのデータに基づいて僕の何かを判断するのは、やめてもらえないかな」

 シーニユは黙ったまま、彰を見つめ返して。

「こうやって、向かい合って、普通に相手の様子や表情を見て、会話して、そこから得られる情報から、君の思考で、判断をつけてほしい。もしも判らないなら、判らないままでいるか、あるいは言葉にして尋ねてほしい」

 灰色の瞳が一瞬伏せられると、それ程長くはないけれど密集して生えた睫毛が、わずかにそこに影を落とす。

「判りました」

 それから瞳を上げ、彼女はそうはっきりとした声で言った。

「御堂さんと行動を共にしている時は、行動データや生体データは取得しないことにします。判断がつかなければ直接言語で確認します。これで、よろしいですね?」

「……うん。ありがとう」

 そのあくまで生真面目な様子に、彰は何だか気持ちがゆるんで、ふっと微笑んで。

「ただ、今回は生体データは見ましたが、行動データは取っておりません」

「え?」

 と、すっかり落ち着いた気持ちになったところにそう言われて、彰は目を丸くする。

「え、だってカジノ、て」

「オペラかもしれませんが。でもオペラだと、アクセス時間の大半をそこで消費しますので、カジノだろうと類推しました」

「どうして」

 重ねて問うと、シーニユは表情を変えないまま、すっと彰の胸元辺りを人さし指で指す。

「……あ」

 その時初めて彰は、自分がカジノに入る為に装着したダークスーツの姿のままなのに気がついた。

「あ、ああ……ほんとだ」

 一度はすっかりおさまっていた頬の熱がまた上がる。これでカジノに行ってないって言ったら確かに嘘だろう。

「うわ、これ……どうしよう。着替えたいんだけど」

「このお召し物に何かご不満が?」

「いや、そういうことじゃないんだけどさ。でもちょっとこれ、こっ恥ずかしくて」

「何故ですか?」

 真顔で直球の問いを投げられ、彰は赤くなりながらも途方に暮れる。まあ確かに、この格好であっても全く不便はない。ないけれども。

「なんて言うか、普段着ないタイプの服だから……ああもういいや、とにかく、着替えられないかな」

「初期状態に戻すならこの場で可能です。違う衣装がご希望なら、衣装店まで戻っていただかないと」

「初期状態、て元の服、てこと?」

「はい」

「ああ、じゃぜひ。ぜひ、それで」

「判りました」

 言うやいなや、シーニユの指がさっと空間を切るように動いて、彰の服が元に戻った。

 頭を触ってみると、髪型も元に戻っている。

 彰は思わず、ふう、と安堵の息をついた。

「ありがとう。……じゃ、行こうか」

 そう言って今度は彰が少し先に立って歩き出すと、シーニユは黙ったまま、その後をついて歩き始めた。



『Café Grenze』には先日同様、全く客がいなかった。

 これで店が成り立つのか、一瞬彰は本気でそう思って、その次の瞬間自分の根本的な間違いに気づいてああ、と思う。

 ……でも各施設の人気度とかはチェックしているようなことを言っていたし、あまりにも誰にも顧みられない施設はそれこそ「ロス」として閉鎖されても不思議ではないよな。

 そう考えると、「いらっしゃいませ」と一言頭を下げてテーブル席に座った二人にメニューを差し出し、カウンターに戻ってじっと黙って立っているマスターの姿が、どこかさみしく彰には感じられた。ここは、なくなってほしくない。

 だからと言ってやたら人気が出て、いつ来ても人だらけ、というのも嫌だけれど。

 我ながらワガママだ、彰は内心で自分に突っ込みつつメニューを開いた。

 ぼんやりとメニューを追っていると、ウイスキーやブランデーなど、お酒のメニューが目に入る。

 ……そういえば先刻、カジノでの会話や服のことで恥ずかしい思いをして、顔に血がのぼった。でも早足で歩いた割には、息も上がらなければ足も疲れず汗もかいていなくて、だけどシーニユは自分の心拍数や発汗のことについて話していた。

「シーニユ」

「はい」

 メニューを見ながら思わず名を呼ぶと、向かいで彼女が答える。

「ここでアルコールを飲んだらどうなるの」

「酔います」

 尋ねた問いに対しての答えがあまりにシンプルで、思わず彰は顔を上げた。

 シーニユは真面目な顔でこちらを見返す。

「え、でも、二日酔いとかにはならないって、説明会では」

「厳密に言いますと、実際の肉体がアルコールを摂取して発生する『酔い』とは、勿論異なります。人体がアルコールを摂取すると脳の中枢神経に影響が出て、摂取量により抑制が弱くなったり強くなったりします。『パンドラ』での『酔い』は、この状態を比較的軽い度合でお客様の脳内に再現したもので、いわゆる酩酊とか泥酔状態にはなりません」

「ああ……そうか、実際に飲んでる訳じゃないものな」

「摂取したアルコールが体内で分解される際にアセドアルデヒドが発生することが、『二日酔い』の原因ですから」

「そうか、成程ね」

 ならここで飲んだとしてもそれは肉体的には「飲んだ」内に入らないのか、そう思って彰はもう一度メニューに目を落とした。

 薬のことや、そもそも皐月の事故以来、飲食自体に殆ど興味を失っていたこともあって、前回の『パンドラ』体験の後の他には彰はもうずっと、アルコールを口にしていなかった。あの時久々に飲んだビールも結局全部は飲み切れず、三口飲んで、残りは捨ててしまった程だ。

 そういう状態でいきなり強いお酒そのものを飲むのもちょっと気が進まなかったので、メニューにあったアイリッシュコーヒーを頼む。

 シーニユは「カプチーノを」と頼んで、マスターがうなずいた。

「じゃ、ここならいくら飲んでも前後不覚になったりはしないんだ。いいよな、それって」

 メニューを置いて呟くように彰が言うと、シーニユが珍しく、ほんの0・5ミリだけ眉をしかめた。

「そういうふるまいはお断りしています」

「えっ?」

 独り言的に発した言葉に思いがけない反応を受けて、彰は自分でも意外な程慌てた。

「いや、あの、僕がそうしたい、て言ってる訳じゃないんだけど」

「では何故それを『良い』と判断なさったんでしょうか」

 一瞬の眉の動きはすぐに溶けるように消え、またいつもの無表情で彼女はそう尋ねて。けれど、先刻のわずかな、けれど彼女にしては驚異的なその変化の後では、今の無表情さを「不機嫌さ」だと彰は感じてしまう。

「何故、って」

 口ごもりながら、どうごまかすか、と頭の中で考えかけて、ふっと向かいのシーニユのまなざしに気づく。

 感情の起伏の殆ど読み取れない瞳に、それでも何かが宿っているように見える。

 彰は唐突に、学生時代の、あの「アルバイト」のことを思い出した。

 都市内に入って様々な課題を解く実験を何回か行った後、ある日「今日から君達の中に人工人格体が混じります」と言われた。「複数人いる場合もあれば、実際は一人もいない、ということもあります。実験終了後、誰が人工人格だと感じたかを各自報告してください」と。

 一回の実験ではその時々で五~十人の人数の差があった。しかも、時に知った顔もいるけれど、基本は毎回人が入れ替わるので、自分が知っている・知らない、で「この人が人工人格です」とは判断できない。

 最初にその内容を聞かされた時には、彰は「難しそうだ」と思った。だが蓋を開けてみるとそれは驚く程に簡単で、しかも言い当てたのは彰だけでなく、被験者全員が同様だった。

 そもそも最初の頃の人工人格は、本当にまだ稚拙だった。ろくに会話にならない。

 それが回数を重ねる内にだんだんと出来が良くなってきて、実験の終了間際には、会話を文字だけで取り出せば、一般の人間同士のそれと比べてはっきりとここが違う、と指摘するのは難しい程になっていた。

 けれども彰を含めすべての被験者は、間違えることがなかった。

 表情からではない。そもそもあの時は、彰を始めとした参加者達自体の表情も、今程リアルには再現できていなかった。

 実験の後に「○さんだと思います」と答え、「何故そう思いましたか」と聞かれても、最後の頃には彰は明確な回答をすることができなかった。「何故という理由は無いんですが、何となく」としか言えなかったのだ。

 彰は息をついて、改めて向かいのシーニユを見返した。

 ずいぶん長いこと黙ってしまっているのに、彼女はそれをどうとも思わない様子でただじっとこちらの言葉を待っている。

 灰青色のワンピースの胸元が、しずかに上下している。

 呼吸など、必要が無い筈なのに。

 そういえば昔の実験の時に、どうして人工人格だと判ってしまうんだろう、という疑問に「ブレスが無いからじゃないか」と言った参加者がいた。慧眼だと思ったが、あれは誰だったっけ、彰は頭の片隅でちらっとそんなことを思い出した。

 何故だろう、とシーニユを見ながら改めて思う。

 態度も、話している内容も、皆まさに巷によくある「心の無い人工知能」のイメージに近い。正直言って、子供のおもちゃに装備された人工知能の方がよっぽど、「人間らしい」会話をする。今だって気まずさひとつ感じず、こんな風にただずっと黙っていられるなんて、ヒトには有り得ない。

 それなのに自分は、あの実験の時に感じた「この相手はヒトじゃない」という本能的な違和感を、彼女に対して感じることがない。

 むしろ、彼女の無表情や無関心さや揺らぎの無い言葉、その中に何かがある、そう感じてしまう。

 向こうはおそらくそんなことは微塵も思ってないのだろうに、こっちが勝手に、相手の中に「ヒトの感情」を見出してしまうのだ。

 何故、そう思ってしまうのか。

「――お待たせいたしました」

 彰が自分の考えの中にずっぽりと沈み込んでしまっていると、不意に横から声がして、目の前にグラスが置かれた。

 豊かなコーヒーの香りの奥に、つうんとウイスキーの匂いが鼻をつく。

 足付きのグラスに入ったそれは、漆黒のコーヒーと純白のクリームが完璧に二層に分かれている。

「あ、ありがとう」

 急に意識を引き戻されて、彰はどもりながらも礼を言った。

 シーニユは無言で、ただ小さくマスターに頭を下げてみせる。

「ごゆっくりどうぞ」

 低い声で言って、マスターはカウンターへと戻った。

 彰はふう、と息をついて、シーニユへと向き直る。

 相変わらず揺らぎの無いまなざしで、彼女は彰の視線を受け止めた。

 ――判らないなら、言葉にして尋ねてほしい。

 そう言ったのは自分だ。

 彰は覚悟を決めて、すう、と息を吸った。



「……身内が、交通事故で亡くなったんだ。相手が飲酒運転だった。だから、飲んでも殆ど酔わない世界っていいな、てちょっと思った。それだけ」

 それでも相手の目を見ながら口にする勇気は持てなくて、視線を伏せ気味にひと息に話してしまうと、すぐにシーニユが言葉を返した。

「一般に自動車にはドライバーのアルコール規制ロックが付いているのではなかったでしょうか」

 真面目一徹なその言葉に、彰は何だかふっと微笑んでしまう。

「規制なんか無視さ。違法改造してたんだ。自動ブレーキ機能とか速度規制装置とか、そういうのも全部外してた」

 放り捨てるような口調で言うと、シーニユは一秒程黙ってまたすぐに口を開いた。

「そういう無法なふるまいをした上に、酩酊状態で運転した人間の為にお身内が犠牲になった。だからいくら飲んでも酩酊しない『パンドラ』のことを良く思われた。この理解で、合っていますか」

「うん、正しい」

 また微笑んでうなずくと、彰はグラスを手に取った。

 口に含むと、脂肪分の強いクリームの下から、熱くほろ苦く甘いコーヒーがすべり込んでくる。

 じいん、とアルコール分が舌を灼いて喉におりていった。

「……ああ、でも、先刻無制限に飲むのは駄目だ、って言ってたよね」

 その久しぶりの濃い酒の味に、彰ははたと気がつく。

「はい」

「それは何故? 実際酔わないし金銭的に損失が出る訳でもないのに」

 本当にただ単純に不思議に思って尋ねたのに、シーニユは珍しく三秒程黙った。

 何かまずいことを聞いたのか、と彰が焦ると、彼女は唇を開く。

「思い込んでしまわれるからです」

「えっ?」

「ここでそのような体験をしてしまうと、現実でも同じだ、と考え、同じふるまいをしてしまう方が多いのです。だから、禁止しています」

 彰は二口目を飲むのを忘れて、まじまじとシーニユを見た。

 シーニユはそれ以上は説明する気がないようで、真顔のまま黙っている。

 彰は仕方なく質問を重ねた。

「じゃ、ここで例えばワインやウイスキーを何本も空けて、それで平気だったから、て現実に帰って同じくらい飲んじゃう人がいる、てこと?」

 即座に無言でうなずくシーニユに、やはり即座に「まさか」と口にしてしまう。

「そんなの、だって……判るだろ。仮想空間と同じようにはいかない、なんて当然、て言うか、考えるまでもない、て言うか」

「『パンドラ』の利用に六日の間隔を空けなければならない理由をご存じですか」

 どうもにわかに信じられない、と思って言葉を重ねると、シーニユがそれをぶった切るように質問を投げてきた。

「え?」

 一瞬思考が止まって、それから、ああ、と思い出す。

「心身に影響が出るから、とか何とか」

「そうです」

 シーニユはうなずいて、カプチーノを口に含んだ。

「それがまさに、そういうことです。間を空けないと、ヒトはここでしか起きない現象を、外でも起きる、と思ってしまうようになるのです」

 彰は言葉を失って彼女を見つめた。

「『パンドラ』オープン前に研究者自身がアクセスして行った実験では、ほんの三時間、つまりは『パンドラ』内に九時間滞在しただけで、その後何時間も、携端を起動させても目の前に画面が出現しないことに大変な違和感を覚えたそうです。ヒトの脳というのはそれ程に弱く馴れやすく、言い換えれば順応性に長けたものなのです」

 弱く、馴れやすい。

 まるで自分が普段見ないようにしている欠点をズバリと突かれた気がして、彰はこくり、と小さく唾を呑んだ。

「ナイトゾーンではまだ良いのですが、マウンテンゾーンやスカイゾーンで『ここで自分はこう出来たから現実界でも同じように出来る』と思われたら問題が起きかねません。ですからそういう悪影響を防ぐ為、研究を重ねて設定した最低ラインが六日のブランク、ということなのです」

 続いたシーニユの言葉に、また心を抉られる。

 自分はここに、夢を見に来たのに。

 現実に無いものを求めて、ここに来たのに。

 もしそれを自分が得たら、自分はそれが無い現実に、果たして戻れるか。

 あのひとりの部屋に。

 ――ずきん、と強い痛みを心臓に感じて、彰は思わず片手で胸を押さえた。

「仮想空間であるなら何でも自由にできる、どんなことでも実現可能だ、そう考えられる方は多いです」

 その彰の様子をどう捉えているのか、シーニユは淡々と続ける。

「実際はその通りなのです。けれどもそれは、あくまで『仮想』であるからです。『現実』とは違う。そこをすべてのヒト達がわきまえてくだされば、ここは思ったままにすべてを動かせる、素晴らしく自由で便利な場所となることでしょう。けれども、それはヒトには無理なのです」

 彰の胸の、痛みを帯びた場所から、絶望に似た黒いいろが一杯に広がった。

 この場所は「夢」でしかない、そう判っていた筈なのに。

 いつか自分も、それが見えなくなるのだろうか。

「ヒトは昔から、手をかけてわざわざ便利なツールを作り上げても、それを無法で過剰な使い方をしてしまうヒトが必ず現れる為に、せっかく実現された『便利さ』や『自由さ』に規制をかけなければならず、百パーセントの能力を享受できない。本当に不自由で理不尽なことです」

 ふと何かが心にひっかかって、彰は伏せがちになっていた目を上げた。

 シーニユはいつもと同じ、冷めた表情の無い顔でそれを見返す。

「でもそれはヒトがヒトで有る以上、避けようがない歴史上の事実です。そして『パンドラ』は、ヒトが長期間をすごす為につくられた場所です。ですから外で許されないことは、『パンドラ』でも許されない。いくらそれが不自由であっても、です。現実界であれば肉体の制御を完全に失うようなレベルの酒類を摂取することは、ここでは前回の榊原様同様、規範の逸脱と見なして強制退場の上、出入り禁止の処置を取ります」

 彰は息を止めて、話し続けるシーニユを見つめた。

 ――そういう無法なふるまいをした上に。

 皐月の事故の犯人を形容した彼女の言葉が頭に浮かぶ。

 そしてこの、平坦ではあるけれども、全く異論をはさませようとしない気配の声音。

「……怒って、るんだ」

 思わず呟くと、彼女はついっと目を動かして彰を見た。

 怒っている。

 揺らぎの無い、大きさの変わらない瞳から、彰は確かに、それを読み取った。

 いや、読み取った、と、思いたかった。

 無法なふるまいで誰かの命を奪うようなことをした相手に対して。

 そして奪われた側の自分に対して、そういうふるまいをする相手にはしかるべき処置を自分達は取るのだ、と強く宣言することで、その死を悼んでいる。

「すみません。何かご気分を害するようなことを言ってしまったでしょうか」

「違う、そうじゃない」

 小さく頭を下げてそう言うシーニユに、彰は何故か奇妙な苛立ちを覚えて手を振った。

「怒ってるのは君だ」

 そう言うと彼女は口をつぐんだ。

「皐月の死を怒って、悼んでくれてる。そうだろう?」

「サツキ、とはどなたのことですか?」

 思わず口に出してしまった名前をすぐに問い返されて、彰はぐっと言葉に詰まった。

 一度大きく深呼吸してから、唇を開く。

「……妻だよ。四ヶ月程前に、亡くなった」

「先程言われた『お身内』ですか?」

「ああ」

 それだけ答えると、彰はぐったりと椅子に背中をもたれかけさせた。

 久しぶりに、その名を唇に乗せた。

 声に出した名前の音はがらんどうになった胸の中に響いて、改めてその「喪失」を彰に思い知らせてくる。

「それは、お悔み申し上げます」

 シーニユはそう一言だけ言って、口を閉じた。

 先刻自分が確かに「有る」と思った「感情」は、幻だったんだろうか。

 椅子の背にもたれたまま、彰は力なく目だけを動かして相手を見た。

 彼女は両手を膝の上に置いて、ただしずかに座っている。

 ……気のせい、なのかな。

 彰は軽く息をついて、手を伸ばしてグラスを取ると口に含んだ。

 甘ったるいクリームの味の奥から、アルコールが舌を刺す。

 その感覚に、頭の奥がぎゅっと締まって、不意に泣きたくなった。

 涙の衝動が久しぶり過ぎて、彰は思わず身を起こす。

 その動きにつれて、シーニユの瞳も動いた。

「……ごめん、何でもないんだ」

 彰は呟くように言って、ぐっとグラスの中身を飲み干して。

 味に集中することで、何とかその衝動をやり過ごす。

 シーニユは目を伏せると、自分のカップに口をつけた。

 中身を二口分だけ残して、テーブルの隅に置かれたブラウンシュガーをひと匙入れる。

 彰が何となく見ていると、シーニユは残ったコーヒーとミルクと砂糖をかちゃかちゃ、と混ぜて、コーヒースプーンですくって唇に含んだ。

「それ、美味しいの?」

 まるでアイスでも食べているかのような姿に、彰は気になってそう声をかける。

 シーニユは手を止め、彰を見て。

「ティラミスに似た味になります。ざらっとした食感も好まれるようです」

「よう、って」

 その口ぶりに、彰は思わず声を高くした。

「君の好みじゃないの?」

 そう聞くと、シーニユは手元のカップとスプーンに目を落とした。

 次の瞬間、チチッ、と彰の耳元のリモコンからアラームが鳴って、利用時間が残り三分の一になったことを告げる。

 シーニユは即座に立ち上がった。

「シーニユ」

 思わず呼ぶと、小さく頭を下げてくる。

「またここでばかりお時間を使わせてしまって申し訳ありません」

「シーニユ」

「もしもまた来られる機会がありましたら、その時に」

 彰の声をスルーして、彼女はまた小さく頭を下げて。

「今日お会いできたのは本当に偶然でした」

 姿勢を戻すと、シーニユは背筋を伸ばして立ったまま、目だけで彰を見下ろした。

「ログのチェックをしなければ、どのお客様がどこにいるのかを把握することができません。――もし次がおありなら、その時にはお呼び出しください」

 え、と彰が問い返す前に、シーニユはすっとテーブルを離れて、マスターに軽く会釈をすると扉の向こうへ消えていった。

   

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