第11話 夢

   

 ――恐ろしい程久しぶりに、あの日の夢を見た。

 彰はもったりと重たい体を、何とか持ち上げてベッドからはい出す。

 時計を見ると、もう十時を軽くまわっていた。

 きっと桑島の言うように、『パンドラ』の夢を見るのだろうと思っていたのに。

 冷蔵庫から出した牛乳をラッパ飲みすると、口元を拭って洗面台に行き歯を磨く。

 時間としては十二分に眠った筈なのに、何故か目の下にはクマがあった。

 逆に寝過ぎだなこれは、と奥歯にブラシを突っ込みながら彰はひとりごちる。

 目覚めたくなかったんだ、きっと。

 皐月と初めて唇を重ねた、あの日の夢。

 歯磨き粉をつけ過ぎたのか口の中が泡だらけになってきて、彰は一度それを洗面ボウルに吐き出した。

 彰が皐月にプロポーズしたのは卒業して一年少し経った彼女の誕生日だった。

 その日に決行する、と決めてから、宏志にも相談しつつ、店の選定やどのタイミングでどんな言葉で言うか、服は何を着ていくか、指輪は事前に用意すべきかしないべきか、しないなら何か別に贈ろうか、何日も何日も考えに考え抜いての当日だったのに、いざプロポーズした時の皐月は驚く程に無反応、というか、「それが今更何?」という態度だったのに彰は呆然としたものだ。

 些か心外に感じつつ問いただしてみると、皐月は驚き、それから逆に怒り出した。

「だってもうとっくにしたじゃない、プロポーズ。で、わたし、『うん』て言ったよね?」と。

 またしても意表をつかれて聞くと、皐月としてはあの初めてのキスの晩、あの彰の言葉をそのまま「プロポーズ」だと受け取っていたことが判った。

「え? え、いや、あれが?」

 思わず彰が言うと、皐月は更にむくれた。

「あれが、て、じゃアキくん一体どういうつもりで、女の子に『この先一生、一緒にいてほしい』なんて言ったの?」

「え、あ、いや……」

 こう、何と言うかあれは、そこまで現実に足のついた意味合いの言葉ではなく雰囲気的な、と言いかけて、だがさすがの彰も今それを言うのは非常にまずい、と直前で気づいて言葉を濁す。

「だってもしお互いに別の人とつきあって別の人と結婚して、それなのに二人で一生一緒にいる、て物理的に不可能じゃない?」

「……確かに」

「それじゃあれって、『自分とつきあって、それから結婚してほしい』て意味にしか取りようがなくない?」

「……はい、そうです」

 もはや完全に言い負かされて、彰は白旗を上げた。確かに自分としては、つきあうとか結婚とかそういう世俗的なことを全部通り越して、ただただひたすら、彼女に隣に寄り添ってほしい、と思っていた訳だけど、でも現実に即すればまさにその通りだ。

「こんなにいきなり、何もかもすっ飛ばして何てこと言うんだこのひと、て思ったし、すごく、すごくすごく悩んだんだけど、でもわたしあの時ちゃんと、覚悟して決めたんだから。それなのに何、今更プロポーズ、て。そっちはあの時、全然そんなつもりじゃなかった、てこと?」

「いや、いや違う、そうじゃないって皐月」

 必死に相手の機嫌を取りながら、こんな状況で彰はどうしても口の端に笑みがにじんでくるのを止めることができなかったのを、今もよく覚えている。

 嬉しかったから。

 あの晩の皐月の幾つもの言葉、それが皆、「彰の突然のプロポーズを受け入れた」という前提で皐月が口にしていたんだということが、思い返すとたまらなく嬉しかったから。

 それから今日の日まで、彼女が一度もそれを疑うことなく、勿論断るつもりもなくすごしてきたということが、たまらなく幸せに感じられたから。

 ああ、今自分は、こんなにも幸福だ。

 むくれる皐月に必死にお酒やデザートを勧めながら、彰はじいんと、胸の中に熱さが広がるのを感じていた。



 ――なのに。

 吐き出した泡を流す為に出した水道の水が、いつまでもいつまでもくるくると円を描いて流れっ放しなことに、彰ははっと我に返って水を止めた。

 顔を上げると、ぼさぼさの頭にクマの浮かんだやつれた顔が自分を見返す。

 彼女は、嘘つきだ。

 彰はそれ以上歯を磨く気をなくして、もう一度水を出し、コップに入れてうがいをした。

 約束は、絶対に破らない子だった。仕事や何かでどうしようもない時には必ず事前に連絡をくれたし、きっちり謝って、穴埋めも怠らなかった。何もかも真面目できちんきちんとしていて、そこもよく気が合った一因だった。

 なのにあんな大事な約束を、守らなかった。

 あれさえ守ってくれれば他の百の、千の約束を破ったって良かったのに。

 なのにあの約束だけを、彼女は守らなかった。

 不意に吐き気がこみあげてきて、彰はトイレに入った。

 先刻飲んだばかりの牛乳を、残らず胃から吐き出す。

「…………」

 せっかく歯を磨いたところなのに、口の中が苦さと酸っぱさで一杯になって、彰は深い息をつき、口元をぐい、と拭った。



 宏志の店に行くと、最近はすっかり昔の調子に戻っていたその顔が、ふっと曇った。

「どうした、風邪でもひいた? ここんとこずいぶん、元気そうだったのに」

 彰のリクエストの月見うどんに、何を頼もうが絶対に付けてくる豚汁を置いて、宏志は他に客のいなくなった店のテーブルの向かいに腰をおろした。今日は忙しかったのか、宏志自身も昼がまだだったようで、大盛りのご飯と鯖の塩焼き、そして勿論豚汁を、自らの前に置いている。

「いや。ちょっと寝過ぎた」

 わざとあっけらかんと言ってみせて箸を手に取り勢いよくうどんをすすると、やっと安心したのか宏志の顔がほころぶ。

「そりゃ大層なご身分だ。こっちは毎日きりきりしてんのに……あ、そういや昨日さ、宮原みやはら来たぜ。覚えてる、宮原?」

「えっ?」

 小骨の一本残さず、バリバリ、という擬音がふさわしい勢いで焼き魚を平らげていく宏志に、彰はきょとんと聞き返した。ミヤハラ?

「ああ、やっぱ覚えてないか。あいつユーレイだったもんなあ」

「幽霊?」

 穏やかでない単語に眉をひそめてまた聞き返すと、豚汁をずっ、と一口すすって、碗を置いて宏志は笑った。

「ほら、サークル、最初の頃はちょくちょく来てたけど、すぐろくに顔出さなくなってさ。すっかり幽霊部員。なのに飲み会の時だけは、誰も連絡してないのにちゃっかり顔出して」

「……ああ、思い出した」

 箸を置いて考え込んでいた彰の顔が、ぱっと明るくなる。そう言えば確かにいた、そんな同級生。フルネームは確か宮原みやはら忠行ただゆき、もさっとした天然パーマの頭が目立つ、やたら明るいお調子者だった。

「俺さ、あいつと学部、おんなじだったからサークル以外でもつきあいあってさ。あいつは専攻マーケティングで、俺は会計だから、クラスは別だけど」

「へえ、それでわざわざ来たんだ?」

「いや、たまたまだって」

 彰がまだ半分もうどんを食べ終わらない内に、すべての皿を綺麗に空にして、宏志はお茶をすすった。

「たまたま?」

「うん。近くに用事あって、たまたま俺んち、て知らずに入ったんだってさ」

「へえ、奇遇。え、で今宮原、何してんの」

「卒業して幾つか会社変わって、最終的に東京の貿易会社に入ってここ二年くらいは中国勤務してたそうなんだけど、辞めて帰ってきたんだってよ」

「辞めた?」

 小皿のたくわんを口に放り込む箸を止め、彰は声をあげた。何でまた。

「そう。びっくりするよな。まあでもあいつ、昔からそうだった」

「で、今何してんの。無職?」

 呆れ声で聞いてから、まあでも今の自分も大差はないのかも、彰はちらっとそんなことを考える。

「て言うか、なんか、起業するとか何とかって」

「へえ?」

 思わず口から妙なアクセントで声が出てしまう。そっちは自分とは、もう全然違う発想だ。まるっきり元気な時でも、そんな考えは自分には無い。

「もうノウハウはばっちりだから、とか言って。出資しないか、て言われて困ったよ」

「……それ、ほんとにここ来たの偶然? 知ってて来たんじゃないのか」

「あるよなー、その可能性」

 二杯目のお茶を飲み干して、宏志は軽く伸びをした。

「え、まさか、出さないよな」

「ないない。ないって。あいつさあ、昔っからほんと、何やらせても長続きしねえの。バイトなんかもすぐバックレるし。あてになんないよ、あいつの商売なんて」

「ならいいけど……」

 まるっきりその気が無い様子の宏志に、彰はほっとして。根がしっかりしている宏志がその手の話にひっかかることはそうそうないとは思うけれど、何せ人が好いからこういう時は心配だ。

「お前のこと、覚えてたよ。久々に会いたい、またここ顔出すから、て言ってたけど、どうする?」

「それ、俺にも金出せ、て話だよなあ、きっと」

 うどんの汁をすすった丼をおろして言うと、宏志が歯を見せて笑った。

「まあ間違いなく一回は誘われる」

「とりあえず保留」

「判った」

 うなずく宏志に、彰は箸を置いて「ごちそうさま」と頭を下げた。



 次の体験までの一週間が、彰は待ち遠しくて仕方がなかった。

 間を六日間空けないといけないのは、心身的な影響を考えてのことらしい。

 初回の後、帰ってすぐに申し込んだけれど、それでも最初に予約しようとした時間は一杯で取れなかった。体験は一日の内、十時・十三時・十五時・十七時の四回と、土日祝のみ十九時の五回なのだが、彰が申し込んだのは平日にも関わらず最初の三回分はもう一杯で、夕方の枠しか残っていなかった。

 人気なんだな、と感心する。自分が知らなかっただけで、もともとそこそこ人気があったのか、キャンペーンで周知されて人気に火がついたのか。

 申し込みの時に、一緒に回数券も買った。何セット買うか悩んで、とりあえず二セットに押さえておく。次の体験の時はまだキャンペーン中だし、その後にまた追加で買ってもいいだろう。

 キャンペーンの終了日を携端のリマインダーに入れて、ふと、明日は通院日だ、と思い出した。

 今朝は久々に落ち込みはしたけれど、以前のあの、すべてに対して無反応だった状態に比べれば、思い出して悲しんだり落ち込んだりできるというのは「普段の自分」に戻ってきたとも言える。つまりはかなり回復してきているのだ。

 ……でも冷静になって考えてみたら、回復したら仕事に復帰しなくちゃならない。

 それは今は困る、彰は思った。まだ当分は、『パンドラ』に集中していたい。あの人気ぶりでは、土日を押さえるのは相当大変そうだ。一度やって次は一週間後、なのだから、大抵の人は土曜にやったら次は来週の土曜を押さえたいと思うだろうし。

 それくらい、あの世界には奇妙な魅力がある。

 彰はこれで何度目になるのか、脳裏にあの夜の街を、あのクラシックで、闇に灯るろうそくのオレンジの炎のような喫茶店を、そして青灰色のワンピースを着てガス灯の下に立つシーニユの姿を思い起こした。



 次の体験の時の担当は、桑島とは別の男性だった。

 通されたカプセルルームも、前とは別だ。

 実際この場所には幾つカプセルがあるんだろう、彰は考えた。

 ロッカーは八つあったけれど、だからと言って八台カプセルがあるとは限らない。仮にあったとしても、急な故障とか用に、全台フル稼働にはしないのではないか。

 もし仮に六台のカプセルが動いているとして、全国にアクセスポイントは十五ヶ所。フルで利用されていれば九十人の同時利用者がいることになる。とは言え東京や大阪では一ヶ所のアクセスポイントにあるカプセル数はもっと多いだろうから、仮に十人上乗せしたらちょうど百人だ。

 それぞれのゾーンの人気度合は知らないが、単純に三等分して一つのゾーンに三十数人。更に人間のスタッフが仮にそれぞれ五人としたら、一回の利用時間につき一つのゾーンには四十人近くの「人間」がいることとなる。

 先日ざっと見てまわった感じとしては、店のスタッフを除けば確かにそれくらいの人数を見かけたように思う。ただ、自分は肝心のカジノに行っていないし、劇場的なものを体験している人間もいる筈だから、つまりは一見「利用者」に見える人達も、実は多くが「人工人格」だということだ。

 よく考えてみたら、彰はあの晩、案内人のヨシナダ、『Café Grenze』のマスター、榊原氏、シーニユと、後はあれからちょっと立ち寄ってみたジャズバーのウェイターとしか会話していなかった。つまりは榊原氏を除いて、「確実に人工人格である相手」と「ほぼ人工人格と認定していい相手」としか話していない、ということだ。

 今日はもう少し他の利用者と話してみてもいいかもしれない、そう彰は思った。

 そして「一般の利用者」としてふるまっている相手を、自分が人工か否か見分けられるか試してみたい。

 それから勿論、シーニユにも会いたい。

 彼女はきっと、『パンドラ』に対して自分があれこれと感じている疑問を説明してくれそうな気がする。何故そう思えるのかは判らないけれど。

 彰は準備を整えて、液体の中に横たわると静かに目を閉じた。



 到着して最初に、彰はカジノに立ち寄ってみることにした。

 やはりナイトゾーンに来てカジノに全く行かない、というのは不自然な気もしたし、そこなら普通のカフェよりは客に気軽に声をかけられそうだと思ったのだ。

 服は前回と同じで自分がその日に着てきたものだったので、まずは着替えに洋服店に立ち寄る。

 店内の見た目は百貨店のちょっと高級な紳士服店、といった感じだったが、接客に出てきた男性店員は掛かっている服には全く目もくれずに彰を奥のカウンターに案内する。

「カジノをご利用とのことでしたら、こちらからお選びください」

 そう言ってカウンターのテーブルの上をさっと指先で掃くと、そこにずらりとタキシードや洒落たスーツの全身像が何種類も表示された。

 さすがにタキシードを着るのは気恥ずかしかったので、ダークスーツを選ぶ。

 すると、「シャツをお選びください」「タイはいかがいたしましょう」「靴は」と次から次へと出てくるのに、彰は根を上げ「お任せで」と全部ぶん投げてしまった。

 そういう客は多いのか、店員はあっさり「かしこまりました」と言い、「ではこちらでいかがでしょう」と彰を脇の大きな鏡の前に立たせて、ぱちり、と一度指を鳴らす。

 と、一瞬で彰の全身の服装が変わった。

 黒の濃いダークスーツに同色のベスト、よく見ないと判らない程薄い灰色のボーダーの入った糊のぴちっと利いた白いシャツに、光沢のある千鳥格子のアスコットタイ。カフスは麻の葉模様の入ったシルバー製でチーフは白、靴は黒革のストレートチップだ。驚くことに、髪までしっかり、後ろになでつけられている。

「ご希望があればいかようにも変更いたしますが」

「いえ、これで結構です」

 どんなパーティに呼ばれても一切問題の無いその仕上がり具合に、彰は我ながらこそばゆい気分になりながら手を振って。こんなこじゃれた格好、人生で自分がすることがあろうとは思いもしなかった。

「では、いってらっしゃいませ」

 店を出る彰を、扉まできちんと見送って丁寧に頭を下げる店員に、彰は更に落ち着かない気分になりつつ、カジノへと歩き出した。



 一歩入っただけで、彰はもう引き返したい気分になっていた。

 光沢を落とした金に臙脂色のラインを配した天井はそれ程高くなく、けれどそこから揺らしたらシャラシャラと音のしそうな、見事なクリスタルのシャンデリアが下がっている。床は革靴が沈み込みそうなふかふかしたアールデコチックな幾何学模様の入ったじゅうたんだ。

「いらっしゃいませ」

 びしっとタキシードを着た店員に丁寧なお辞儀で迎え入れられながら、彰は心底、「帰りたい」と思った。

「御堂様は、今回が初めてのカジノのご利用でございますね」

 お辞儀をしてきた店員がぴたっと隣について、カジノについてざっくり説明してくれる。

 ここで遊べるゲームはブラックジャック・ポーカー・スロット・ルーレット・バカラの五種類。チップはログインと同時に五万チップが登録されているので、ゲームの際に近くの店員にどれだけ交換するか告げてくれれば実際のチップを持ってくる。飲み物や軽食は奥にコーナーがあるのでそこに直接行ってくれてもいいし、店員に申し付けてくれても構わないそうだ。

 実のところ、オセロや将棋はともかくとして、彰が知っている多少なりともギャンブルに近いゲームというと、高校の時に覚えた麻雀のみで、賭けるものと言えば学食のお昼やジュースくらいが関の山だった。競馬なんかにも一切興味が無い。

 自分にプレイ可能なのはかろうじてスロットくらいだが、スロットは要するに勝つも負けるも全部向こうが決めている訳で、そんなんじゃプレイしたって面白くない、彰はそう内心で思った。そもそも仮想空間のカジノ、て存在自体がそういうものなんだろうけど。

 とりあえずゲームの様子を見学して中の雰囲気を楽しみたいだけなんだ、と告げると、それではどうぞご自由に、でもあまりプレイヤーの方のお邪魔にならないようお気をつけください、と言われて彰はうなずいた。

 とりあえず何か飲もうと思い、奥へと向かっていく途中にも、ポーカーテーブルやスロットの前で真剣な顔をしている男女の前を通り過ぎる。

 人数としてはやはり男性の方が多いようで、女性は男性の後ろで観戦しているだけの人も多い。年齢は比較的高めで、四十代後半以上と思われる人達ばかりだった。

 奥のカウンターでジンジャーエールを頼むと、受け取った細いグラスまでもがきちんと冷やされていることと、舌の上にはっきりと炭酸とショウガの風味が感じられることに、彰は改めて驚嘆しつつ店内をうろつく。

 細かいルールは殆ど判らないながら、大体はどういうことになっているのか見当のつきそうなルーレットのテーブルに近づいて、後ろからしばらく眺めて。

「おやりにならないの?」

 と、座ってプレイしている白髪の男性の少し後ろに立っていた、濃紺のサテンのドレスに細かなダイヤの連なったプラチナのネックレスとイヤリングを付けた、老年にさしかかった年頃の品の良い女性が声をかけてくる。

「ええ、ルールを知らないので」

 彰が正直に答えると、女性は紫がかった紅をつけた唇でふふ、と笑った。

「お教えしましょうか」

「いえ、しばらく見ています」

 彰が首を振ると、それ以上は何も言わずに目をテーブルへと移す。

 白髪の男性を始め、座っている男女はちょうどチップをベットしているところで、その最中に姿勢の良い男性ディーラーがさっとルーレットにボールを投げ込んだ。

 からからから、と気持ちの良い音を立てて勢いよくボールが回っていく。

「ラスト・コール」「ノーモア・ベット」とディーラーが声をかけ、ボールの勢いが弱まって、からん、と黒の四番に落ちて。

 賭けていた人達から、静かな歎声と歓声とが同時に起きた。

 二人の雰囲気的に、どうも男性はあまり勝ててはいないようだ。

「……ああ、また負けてしまったな」

 彰が数ゲーム見ていると白髪の男性はそう呟いて肩をすくめ、少し体をねじって振り返って、女性に向かって「ウイスキーの水割りを持ってきてくれないか」と頼んで。

 うなずく女性に、「取ってきましょうか」と彰が言うと、「今日は負けてばかりなの。見ていてしのびないから、少し離れます」と女性は微笑んだ。

「うん、それがいい。良かったら家内の相手をしてやってください」

 男性にも笑顔でそう言われて、彰は彼女とその場を離れた。

「今日は駄目ね。調子が悪いみたい」

 彰の隣に並んで歩きながら、実に自然に彼女がその手を彰の腕にかけながらそう言って。

 彰は内心たじたじとしたが、その動きがいかにもマナーにかなった自然な動作だったので、深呼吸して自分を落ち着かせる。

「もう何度も来られてるんですか」

「ええ。オープンしてすぐの頃に、子供にチケットをプレゼントされて。それからすっかり、夢中になってしまったの」

 白さの混じった、トップを大きく立たせてゆるやかに巻かれたロングヘアを振って、彼女は可笑しそうに笑って。

「若い頃は散々、賭け事にお金を使ったひとだから。ここは有り難いわ。利用料以上のお金を使うことがないもの」

「それもそうですね」

 と答えながらも、でも榊原氏みたいなことにはならないんだろうか、彰は思った。

 彼女はカウンターで男性用に水割りを頼み、自分用にシャンパンを頼んで。

 水割りのグラスを彰が代わりに受け取ると、「ありがとう」とまた微笑む。

 戻って男性にグラスを渡すと、彼女は彰を目で誘って、端のソファに腰をおろした。

「……少し、不思議です」

 ジンジャーエールのグラスをテーブルに置いて彰が言うと、女性は目をまあるく見開いて少し首を傾げて彰を見つめる。

「だって、現実ならともかく、ここは仮想空間、つまりはコンピューターの中みたいなもので……てことは勝つとか負けるとか、それは全部、向こうの思うがままな訳じゃないですか。そんな賭け事でも、やってて楽しいんでしょうか」

 心底そう思っての言葉だったけれど、それを聞いた彼女はふふっ、と小さく声をあげて笑った。

「楽しそうですよ、実際」

 シャンパンをひと口飲んで、ことり、とグラスをテーブルに置いて。

「それに、参加しているのは彼ひとりではないから、負けと勝ちをどう差配するかはやはり運次第ですからね。気持ちよく勝つこともあれば、負け続けのこともあります」

「ああ、それは確かに、そうかもしれませんね」

 彼女の言葉に彰は納得した。確かに、こちらが複数人だと誰を勝たせて誰を負けさせるかが読めなくなって、現実のそれと気分的にはさして変わらなくなりそうだ。

「それに多分、そんなことは忘れてるんじゃないかしら」

 口元をきゅっと上げて、彼女は実に魅力的に微笑んで。

「あのひとにとってここは、現実のカジノと同じなの」

 そしてそう続けられたのに、彰はまた不可解な、そしてどこか胸の奥が痛むような感覚がした。

「この前初めてこのゾーンに来た時、強制退場させられた方を見ました」

 その気持ちを抱えて口にすると、彼女がまた不思議そうに目を見開いて彰を見る。

「カジノでチップをすっかり使ってしまって、何度も他の客にたかって、それで『パンドラ』を強制退場させられたんだそうです」

「まあ」

 彼女は口を小さくOの字に開いて。

「それも、自分には不思議で……だってここで幾ら勝とうが負けようが、現実のお金が増減する訳じゃないのに、どうしてそんなに、必死になるんだろう、って。次に来ればまた新しくチップがもらえるのに」

 くすくす、と笑い声がして、彰は言葉を止めた。

 彼女はいたずらっぽい笑顔で彰を見ている。

「貴方は、ギャンブルをおやりになったことがないのね」

 そう言われてしまうと返す言葉がなくなって、彰は黙り込んでしまう。

 そんな姿を優しいまなざしで見ながら、彼女は更に唇を開いた。

「何故、貴方は今日『パンドラ』へいらしたの?」

 思わぬ問いを放たれて、ぐっと彰の喉が詰まった。

 どくん、と心拍数が上がって、背筋をすうっと、冷たい汗がつたう。

「一回だけなら判ります。話の種に一度体験してみたい、そういう好奇心は誰しもあるものですものね」

 彰の内心の動揺を知ってか知らずか、彼女は子供を話して聞かせるような口調で言葉を綴った。

「けれど……所詮ここにあるのは何もかにもつくりものだ、現実同様に夢中になるなんて不思議なことだ、そう思われているのに、何故二度目の体験を?」

 彼女の声音には責めているような響きはみじんも無く、むしろまろやかに優しかったけれど、彰は胸に刃の広いナイフがぐさりと突き刺された気がした。

 そうだ。

 自分は人のことなんか言えない。

 急に口の中に、苦い味が広がった。

「わたし達はここに、夢を見に来ているの」

 視線をなめらかに動かして、彼女は瞳を細める。

 そのまなざしの先に、彼女の夫がいる。

「わたし達にとって、ある意味でここは現実以上なのよ」

 彰の胸に刺さったナイフが、すとん、と落ちて、心臓を二つに割った。

「……すみません、不躾でした」

 彰はやっとそれだけ言って立ち上がる。

 彼女が驚いた顔で彰を見上げた。

「失礼します」

 短く言って頭を下げると、彰は足早に歩き出した。

 後ろから彼女が呼び止める声が聞こえたが、彰は後ろを見ずに大股でカジノを後にした。



 ぐいぐいと宵闇を肩で切り裂くようにして前のめりにしばらく歩いていくと、だんだんと気持ちが落ち着いてきた。

 大きく息をついて、彰は少し歩調をゆるめる。

 かなりの速度で歩いてきたのに、汗もかいておらず、足も疲れていない。頬だけがほてるように熱かったが、それは歩いたせいではなく、彼女との会話の時からずっとだ。

 ――わたし達はここに、夢を見に来ているの。

 今しがたの彼女の言葉が、耳の奥に突き刺さっている。

 ――わたし達にとって、ある意味でここは現実以上なのよ。

 現実に金が手に入る訳でもないのに必死になって身を滅ぼした榊原氏や、負けが込んでもゲームを続ける先刻の紳士を、自分はどこか、不可解な気持ちで見ていた。

 なんて思い上がりだろう。

 自分は彼等なんかよりずっと、遥かに無謀な夢を抱いて、ここへ来ているのに。

 もはや現実には存在しないものを切実に求めて、ここへ来たのに。

 思えば思うだけ自分が恥ずかしくなって、彰は足を止めきつく頭を振った。

「……あれ?」

 ふと見渡すと、まるで見覚えの無い裏通りに来ている。

 どこだ、ここ。

 彰はマップを開いて位置を確かめた。カジノから真北の方向、いつの間にか街の端のすぐ手前まで来ている。

 現在位置を示す濃い赤色の光点、そして周囲に点在する施設の位置を示す点の中に、薄桃色の柔らかな光があった。

『Café Grenze』。

 馴染みの薄い夜の街の中に、友の姿を見つけたような、そんな気分になる。

 彰はその方向へと足を向けて歩き出す。

 敢えてマップも足元も見ないで、顎を上げ気味にガス灯とその向こうの夜空を見ながら歩いていくと、飲んでもいないのに軽く酔ったような感覚がしてきて、視界がゆらゆらと回って見えてくる。

 星の光が、うっすら滲んで見えた。

 ここは、夢なんだ。

 でも自分には、今他の何より、この夢が必要だ。

 ――こつん、と不意に近くの路地から靴音がした。

「こんばんは、御堂さん」

 声に顔を向けると、そこにシーニユが立っていた。

  

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