第10話 皐月・5

  

 自分でも小さい男だな、と思ったが、皐月が実家に帰省している、ということを他のサークルメンバーから小耳にはさんで、ようやく彰は春休み中に顔出しすることができた。

 何も知らない宏志や先輩は、素直に「良かった、久しぶり」といつものように声をかけてくれる。

 数日舞台の準備を手伝って、皐月が戻ってくるらしい日の直前にまたバイトを立て続けに入れた。

 ほんと、小さいな。

 何かを振り切るように、毎日汗水流して働きながら、彰はひとりごちた。

 だけど、新学期は目の前だ。新入生だってどんどん勧誘しなくちゃならない。そうしたら否応なしに、連日彼女と顔を会わせることになる。

 だからそれまでに、自分のこの波立ちに、ケリをつけないと。

 朝から晩まで働いて、帰るや否や風呂に入って泥のように眠る、そうやって日々を過ごす内、神経が麻痺して頭が空になってきて落ち着いてくる。

 これなら大丈夫。

 きっと次に会う時には、今まで通り、穏やかに、一定の距離を保った「良き友人」として、また前のように気持ちの良い時間を過ごすことができる。

 彰がやっと、そう自分に思うことができるようになった、それはまさに三月が終わる、その日の夜だった。



『……もしもし、御堂くん?』

 お風呂から上がってTシャツと下着を身につけて、ちょうどそのタイミングで洗面台に置いたリモコンから鳴った電話を何気なくスピーカーホンで受け、そこから聞こえてきた声に彰は絶句した。

 え、だって呼び出しアナウンス、未登録の番号って言ってたよな?

 片手でリモコンを持ち片手でまだ濡れている髪をタオルでこすりながら洗面所を出て、こたつの上に放ってある端末の画面を見下ろす。

 確かに、知らない番号だ。

 単発のバイトがあればどんどん依頼ください、とあちこちの仕事先で頼んでいたので、全く知らない番号からいきなり電話がある、ということはここのところ割とよくあった。だから何の躊躇も無く、出てしまったのだ。

『あれ、これ……御堂、彰くんの、番号でしたよね?』

 言葉の出ない彰に、リモコンから皐月のとまどったような声がして――その声がひどくがさついているのと、背後がやけにうるさいことに、彰は初めて気がついた。

 複数の男性のものらしき大声と、それから……サイレン?

「どうしたの」

 それに気づいた瞬間、口から声が飛び出していた。

『あ、良かった、合ってた』

 彰の声が切羽詰まったのと逆に、皐月の声が心底ほっとした響きに変わる。

『慌ててたから、携端もリモコンも、部屋に置いてきちゃってて。でもまだ中には入っちゃ駄目だって言うから、他の部屋の人の、貸してもらったの。番号は、ほら、こないだおばあちゃんがお礼に何か贈る、て言って聞いてたじゃない、あれ思い出して、先におばあちゃんのとこ電話して聞いたんだ』

 すっかり安心しきった声で言いながら、軽く咳き込むのに彰はますます焦る。

「ねえ、だからどうしたの」

 重ねて尋ねながら端末の映像を入れてみたが、向こうのカメラはオフになっていた。

『あ、うん、ごめん。あの、ちょっとね。声が、聞きたかっただけなんだ』

 どきん、と彰の心臓が跳ねた。

「……本当に、どうしたの、遠野さん」

 耳の裏で激しく脈の打つ音を聞きながら、彰は深呼吸して気持ちを落ち着けつつ尋ねて。

『あの、びっくりしないでね、わたしはね、どこも何ともないんだけど……アパートが、火事になって』

「――――」

 すうっ、と両のこめかみの辺りから血が下がって、視界の明度がはっきりと下がる。 

『親には連絡して、すぐ来てくれる、て言ってるんだけど……何時間かかかるから、なんか、ちょっと……心、細くて』

 皐月の声が、吸い込まれるように小さくなって。

『そしたら、なんかね……御堂くんの声が、聞きたく、なって』

「今どこ」

『え?』

 急に剣のように鋭くなった彰の声に、皐月がとまどった声をあげた。

「遠野さん、今どこなの。病院?」

『あ、ううん、だからほんと、何ともないの』

「今どこなの」

 矢継ぎ早に放たれる彰の言葉に、皐月は一瞬、口をつぐんで。

『……アパートの、前』 

「判った。行くから」

『え? え、御堂くん?』

 呼びかける皐月の声を無視して、彰は電話を即座に切った。

 無意識にタオルとリモコンを投げ捨てて、洗面所に脱ぎっ放しだったジーパンを履いてベルトを締め、玄関へと走る。

 スニーカーに素足を直接押し込んで、扉の脇のフックから自転車の鍵を取ると、彰は家の鍵すらかけずに部屋を飛び出した。



 殆ど立ちこぎで、風を切って走った。

 左右に体が揺れる度に、まだ肌寒い三月終わりの夜の闇に、白い息がはねる。

 上は長袖のTシャツ一枚で、髪はまだ濡れてかすかに蒸気を放っていたけれど、寒さは全く感じなかった。

 全力で走っているから、それだけではなく、心臓がどくどくと脈を打っている。

 頭の奥の奥の方、まだほんのわずかに理性が存在している、その小さい部分でだけは、ちゃんと判っていた。

 そもそもああやって、普通に電話をかけてきている。背後の音から、消防車は来ているんだろうけど、本人は病院にすら行かずにその場にいる。つまりは彼女は、五体満足、完璧に無事なのだ。

 だからこんな風に、一心に走る必要なんか無いのだ。

 それなのに、止められない。

 早く、速く早く、一分一秒でも早く、彼女の元にたどりつきたい。顔が見たい。声が聞きたい。指に触れたい。

 そうでなければ、安心できない。

 そうでなければ、失ってしまう。

 論理も理屈もすっ飛ばして、そう強く感じていた。

 今までと同じ。大事なものは、突然、何の前触れも無く、無造作に無慈悲に奪われる。消えて、しまう。

 嫌なんだ。

 それは嫌だ。

 今度だけは、絶対に、嫌なんだ。

 目の前の大通りの信号が赤に変わって、彰はほぞを噛みながら甲高い音を立てて急ブレーキを踏んだ。

 停止線ぎりぎりまで前輪を詰めて、いらいらと前を通り過ぎる車の列を眺める。

 ――あんなに、頑張ったのに。

 信号待ちで少し息が落ち着くと、ふっと頭も冷えてくる。

 急に頬に当たる風が冷たくなって、奇妙に泣きたい気持ちになった。

 ここ何ヶ月か、あんなに毎日毎日、頑張ったのに。

 機械のように働いて、体をくたくたにして夢も見ずに眠って、考えることを殺してきたのに。

 自分の底に蓋をして、静かでひんやりとした透明なゼリーのようなものだけで心を満たして、それでこの先ずっとやっていける、そう思えるようになってきたところだったのに。

 全部、水の泡だ。

 睨んだ信号が、じわり、と滲んだ。

 ――御堂くんの声が、聞きたく、なって。

 あんな電話一本で、あんな言葉ひとつで……全部、水の泡だ。



 アパートに近づくに連れ、野次馬らしき人の姿が多くなった。

 稼働はしていなかったけれど、道沿いに何台か、消防車が止まっている。

 見える限りで炎も煙もなかったので、おそらく火はおさまっているのだろう。

 車道には消防車がいて、歩道は人が増えてきて自転車では通れそうもないので、彰は自転車を降りて「すみません、通してください」と声をかけながら懸命に人の間を縫って小走りに進んだ。

「すみません……!」

 言いながらぐい、と自転車を引いて前に出ると、急に人込みが切れた。

 え、と思うと、そこはアパートの入り口で、消防服の男性に前に立ちふさがれる。

「どちらへ? ここは今、通行止めです。向こうへ行きたいなら迂回を」

「あの、中の者の、知人です」

 自転車を掴まれて押しやられそうになるのに、彰は慌てて声を上げて。

「アパートの前にいる、て。連絡をもらったんですけど」

「――御堂くん!」

 焦りながら言い訳をしていると、奥から皐月の声がした。

 はっと見ると、道に面しているアパートの駐車場と駐輪場の奥から、肩に毛布をかけた皐月が小走りに駆けてきていた。

 その無事な姿に、膝から崩れ落ちそうになるのをすんででこらえる。

「彼女?」

「いえ、あ、はい、そうです」

 気が抜けたところに、親指でくい、と指して尋ねる言葉を一瞬違う意味に取って首を振り、次の瞬間、間違いに気づいて慌ててうなずく。

「そう。じゃ、いいよ。あ、危ないからまだ建物内には入らないでね」

 わずかに笑みを含んだ響きで言うと、男性は彰の自転車から手を離して。

「すみません、ありがとうございます」

「いえ。彼女、心細いだろうから、しっかりついててあげてね」

 ぽん、とすれ違い様に肩を叩かれて、彰は小さくうなずいて前に出る。

「御堂くん……」

 両の手で毛布をかきあわせるようにしてぽつんと立っている皐月の姿があまりにいじらしくて、彰はその場に無造作に自転車を倒してぐっとその手を握った。

「え? 御堂くん、あの、自転車」

「良かった……無事で」

 くるっと裏返る皐月の声を無視して、彰は両手に力を込めて。

 手の中の指はしっかりと固くて、その存在の確かさに心の底から安心する。

 そうやって立ち尽くした彰のあまりの軽装と、額の汗と、髪の間からうっすらと湯気がたちのぼっているのに、皐月はきゅっと唇をひきしめ、一瞬、泣きそうな顔をした。

「うん、ごめん、あのね、ほんとに大丈夫なんだよ」

 それから早口に言うと、皐月はくい、と握られた手を引っ張る。

「自転車、奥に停めるとこ、あるから」

 そう言われて彰はしぶしぶ手を離し、自転車をひいて皐月についていった。

 屋根付きの駐輪場の一番奥の、来客用のスペースを示されて、彰はそこに自転車を置いた。

 自転車や車の間に、他の部屋の住人らしき人が何人かぽつぽつといて、アパートの方を見上げている。

 つられて見ると、アパートの前に消防車は横付けされていたけれど、火も煙も今はどこにも見当たらなかった。東の端、五階の部屋の辺りが黒く煤けていて、水に濡れている。

「あそこ?」

 指さすと皐月が、こくりとうなずいた。

「遠野さんの部屋は?」

「うち、三階。で、逆側の端なの。だからわたしの部屋は、全然大丈夫。だけど火事だから何も持たずにすぐに逃げなさい、て消防士さんが来て、それで、他の部屋の人も皆、外に出されて。この毛布、近所の人が貸してくれたの」

「そうなんだ……」

 改めて心底からほっと安堵して、彰は力が抜けた。

 駐輪場の端はブロックを積んで造作された生け垣になっていて、そのブロックの上にすとんと腰をおろす。

「御堂くん、あの……ほんと、ごめんなさい」

 その前に立って、皐月は深々と頭を下げて。

「え、なんで? 何が?」

 一方、彼女が謝る意味が全く判らず、彰はきょとんと首を傾げた。

「そんな、格好で、すっ飛んできてもらうような大事じゃなかったのに……ほんと、ごめんなさい」

 そう言いながら皐月は毛布を肩から下ろして、彰にかけようとする。 

「え? 何、駄目だよ、遠野さん風邪ひくよ」

 見れば皐月は、毛布の下は薄緑のガーゼのパジャマ姿で、彰は強く毛布を押し戻しながらも、全力で走ってきた後に一度は落ち着いた筈の心拍数が再び跳ね上がるのを感じた。

「御堂くんの方が、よっぽど薄着だよ」

 彰が押し返した毛布を皐月は一度胸に抱えると、半分に畳んでいたそれをばっと大きく広げて、え、と思う間に彰の肩と頭にかぶせて、自分も同じように中におさまって隣に座った。

「ちょ、遠野さん」

 一枚の毛布を二人でかぶった格好になって、そのあまりの近さに彰が度肝を抜かれて立ち上がろうとすると、皐月が「だめ」とそれを押さえる。

「御堂くんもわたしも薄着で、わたしは御堂くんに毛布使ってほしいし、御堂くんはわたしに使ってほしいんでしょう。じゃあふたりで一緒に、暖まればいい。それならこれが、最適解だから」

 毛布の下から皐月がそう言って上目遣いにきっと睨んできた、その声が涙声だったのに、彰は何にも反論できなくなる。

 同時に聞き覚えのあるその言い分に、ふっと口元がゆるんだ。

「……そうだね」

 小さく言うと、彰は自分の肩に引っかかっている毛布を軽く引っ張って掛け直した。

 皐月は下を向いたまま、小声で話し出す。

「いきなり電話切っちゃうから、掛け直したのに、全然出てくれなくて……どうしたのかと、思った、心配したんだよ」

「あ……」

 彰は耳元に手をやって、そこに何も無いのに初めて気がつく。

「ああ……置いて、きちゃったよ」

「もう、莫迦」

 顔を上げずに、皐月がどん、と彰の肩を押すように叩いて。

「ほんとに……ばか」

 その声が一気に崩れて、皐月はそのまま、背中を丸めて彰の肩に顔を伏せて泣き出した。

「遠野さん」

 いきなり泣き出されて、彰はどうしたらいいのか、激しく混乱した。あまりに混乱し過ぎて、逆に先刻までの動悸がおさまってくる。

 大体この状況で、どうして彼女が泣くようなことがあるのか……ああ、そうか、怖かったのか。

「大丈夫。大丈夫だよ」

 彼女心細いだろうから、と先刻言われた言葉を思い出し、背中を軽く叩く。

「部屋、火も水も来なかったんでしょ? なら大丈夫。もう完全に鎮火してる。大丈夫。お父さん達来るまで一緒にいるから、来たらホテルに行けば、ここで寝ないで済むし」

 そう言ったのに皐月はまるで無反応で、ただただ泣きじゃくって。

「ああ、もしかしたら引っ越さないといけないかもしれないけど、大丈夫、今まだ結構、空き部屋残ってるから。俺最近ずっと、引っ越しのバイトしてたし、いいとこあるか聞いてみるから。だから何にも心配することないよ、ね?」

 あれこれ考えを巡らしながら精一杯の励ましをかけているのに、皐月はやはりそれには無反応で泣き続け、ただ彰の肩を掴んだ指にぐっと力が入った。

「遠野さん」

「……来て、くれるなんて、思わなかった」

 ひくっ、と喉を震わせながら、きれぎれの声がして、彰は口をつぐんだ。

「声……今、御堂くんの声、聞いたら、きっと安心できる、落ち着ける、て、そう思ったから、それだけで良くて……嫌がられるかと思ったけど、でもどうしても、声だけでも、聞きたくて」

 けれど続いた言葉に、彰は度肝を抜かれる。

「え、ちょっと待って、嫌がるって、なんで」

「だって御堂くん、わたしのこと避けてた」

 いきなりそうズバリと言われて、彰はぐっと言葉に詰まった。

「……と、思う。違う?」

 と聞かれても、答えることができない。

 皐月は彰の答えを待たずに話し始めた。

「試験の……屋上の、後から、全然サークル、来なくなっちゃって。バイト忙しいんだ、て羽柴くんも言ってたから、ただ普通にそうか、大変だな、て思ってたんだけど、わたしがこっち、いなかった時、何度か顔出してた、て聞いて……あれ、もしかしてわたしのこと、避けてるのかな、て」

 ぐすっ、と鼻をすすりあげながら皐月はなおも続けて。

「でもどれだけ考えてみても、避けられるようなこと、覚えが無かったから。御堂くんが自分を避けて、なんてわたしの自意識過剰で、ほんとにただ単に忙しいだけなんだ、てそう自分に言い聞かせてて」

 話している内にだんだん落ち着いてきたのか、皐月の声音から涙が抜けてくる。

「だから……電話、すごく、勇気、言ったけど、でも声だけ聞けたら、て……なのに、来てくれるなんて、思わなかった」

 吸い込んだ息が吐き出せなくなって、彰の肺がぱんぱんに膨らんだ。

 息を吐いたら、それと一緒にすべての気持ちを、吐き出してしまいそうで。

「嬉しかった」

 なのに言葉と一緒に、皐月が顔を上げて彰を見た。

 距離十数センチの、その近さ。

「わたしすごく嬉しかったんだよ、御堂くん」

 声と一緒に、息のかかる距離。

 くたりと折れたパジャマの衿の奥に吸い込まれていく、首筋のゆるやかなライン。

 見上げた顔の、小さくとがった顎の骨。

「御堂く……」

 全力で言葉を我慢したのに、体が止まらなかった。

 腕が勝手に動いて、かたく皐月を抱きしめる。

 毛布がずる、と肩から落ちて、ドームのように二人の上にかぶさった。

 は、と皐月が吐き出した息が、首の裏に湿った熱気を届ける。

「御堂、くん」

「頼みを聞いてくれる、て言ったよね」

「え?」

 彰のいきなりの言葉に皐月の声が高くなり、声を聞き取ろうとしてか、わずかに身じろいで。

「俺は、何にも無いんだ」

 けれど歯を食いしばるようにして話す彰に、その動きは止まる。

「俺には何にも無い」

 喉の奥が裏返るようにぎゅっと締まるのを何とか押し広げ、彰はそう続けた。

「母親が亡くなった後少しして、友達が自分の名前の由来の話をしてた。でも俺、親にそんなこと、聞いたことがなくて……ああ、この先一生、自分は何で『彰』なのか、判らないままなんだな、て思った」

 彰の話を、皐月は押し黙ったままじっと聞いている。

「でも……大人になるにつれ、ちょっとずつ、思うことがあって……冷静に考えてみたらそんな筈絶対無いんだけど、でもそれが一番、自分にはふさわしい気がして」

 彰の口元に、わずかに苦い笑みがよぎって。

「『あきら』は『諦める』の、アキラ、なんじゃないか、って」

 皐月の肩がぴくり、と揺れる。

「何かを手に入れて生きるなんて、そんなことは諦めろ、って。そういう生き方がお前にはふさわしいんだ、て、そう言われてる、気がしたんだ」

 判ってる、話しながら彰は頭の奥でそう呟く。

 やさしい、父だった。強くて明るい、母だった。そんなこと考えてた筈がない。判ってる、でも、それでも。

 そんな風に欲張っては駄目だよ、そう言われている気がしたのだ。なくすことは辛いことだから、そうやって生きていく方が楽なんだよ、と。

「俺は、何にも持ってない。何ひとつ。心の奥でずっと大事に、愛しく取っておきたいような、そんな綺麗なものなんか何にも無い。通り過ぎてそのまま消えたって、誰ひとり気づかない」

「…………」

 黙ったまま、そうっと皐月の手が上がって、彰の背に触れた。

 ほんのりと汗ばんで肌に貼り付いた薄いTシャツを透かして伝わる、指の確かさ。

「でも、手に入れるのも怖い」

 その感触に不意に涙が込み上げてきて、彰はぐっとそれをこらえる。

「そんなきらきらしたもの手に入れて、すごくすごく大事にして、なのにもしなくしたら、そう思ったらむちゃくちゃに怖い。足がすくむくらい怖い」

 けれどこらえきれずに、片頬をすうっと涙がつたう。

「だけど」

 そう言うと同時に、一気に涙と熱がどっと顔の上半分に上がってきて、一瞬声が詰まる。

 彰はがむしゃらに息を吸い込んだ。

「だけど俺は、遠野さんが欲しい」

 すっ、と皐月が息を吸う音が耳元で聞こえる。

「俺の人生に、遠野さんの存在が欲しい。この先ずっと、一緒にいてほしい」

 腕の中で、皐月がゆっくりと呼吸する。

 その胸の動きが、薄いシャツを通して伝わる。

 頬をつたって顎から落ちる涙が、皐月のパジャマの肩に吸い込まれていくのが判って――ああ、自分は一体、何をとち狂ったこと言ってるんだ、そう彰が正気に戻りかかった瞬間、こくん、と小さく皐月がうなずいた。

「――判った」

 彰の息が止まる。

「一緒にいる。ずっと。一生。約束する」

 落ちかかった熱が舞い戻って、一瞬でまた頭を沸騰させた。

「だってわたし、約束したもの。御堂くんの頼み、何だって聞く、って。だから大丈夫」

 そして背中の手が、ぱん、と強く彰の背を叩く。

「大丈夫だよ、御堂くん」

 二度三度と、回数を重ねるごとにそれは「叩く」と言うよりもなだめるように優しい、弾みのついたものに変わって。

「大丈夫。絶対だよ。大丈夫、御堂くん」

 それと同時に何度も何度も、皐月はそう繰り返した。

「わたし、思うんだ」

 そしてそう、言葉を続ける。

「だったら『あきら』は、『諦めない』、のアキラ、だっていいじゃない」

 歯切れ良く、強い口調で皐月は言い切った。

「どっちを取るかは、御堂くんが勝手に決めていいことじゃない? だってもう、ほんとのところは、絶対に判らないんだから」

 そう言って皐月はぐい、と体を離して、両の手で彰の顔をはさんで真正面から瞳を覗き込んで。

 息と一緒に、涙まで止まった。

 それ程の、驚きだった。

「この前、何にもしないで諦めきってたわたしを、御堂くんが揺さぶってくれた」

 心の中心まで射抜くような目に、彰は息ができないままだ。

「だからわたしが決める。御堂くんの『あきら』は、『諦めない』のアキラだ。今そう決めた」

 全く揺れの無い声音なのに、その瞳には涙が丸く盛り上がっている。

「だから、大丈夫」

 言うなり皐月は、手を離してぎゅうっと、彰の首筋に抱きついた。

「大丈夫、ね? 大丈夫だよ」

 何回も繰り返される言葉に、一度落ち着いた涙がまたぐうっと上がってくるのを彰は感じる。

 それを隠すように一度強く皐月の背中を抱いた後、肩をつかんでわずかに身を離して。

 驚く程近くで、二人の目が合った。

 すっぽりと毛布に覆われた、ぼんやりと暗い空間で、皐月の頬が灯りのように、ほの白く光って見える。

 そこに幾筋もつたう涙。

 ――不意にたまらない愛しさが、彰の背骨を駆け抜けた。

「……御堂、く……」

 皐月がそれ以上何かを言う前に、彰はその言葉を、唇で受け止めた。

  

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る