第9話 Café Grenze

 

『パンドラ』を出た直後は、足の裏に分厚く柔らかいじゅうたんが貼り付いているみたいな、奇妙な浮遊感があった。

 高校の時に臨海学校で小型のクルーザーに乗せてもらって船を降りた後、夜中までずっと足元が妙にふわふわと浮かんで揺れていた、その時の感覚によく似ている。

 カプセルから出た後、手足の機材をひと通り外すとまた指先から血を採られ、目の検査をされる。

「いかがでしたか、始めての『パンドラ』は」

 拡大鏡で彰の眼球を覗き込みながら、桑島が尋ねてくる。

「……凄かった、です」

 どう言えばいいのか、迷いながら彰は答えて。どんな言葉でも上手く言い表せる気がしない。

 桑島は軽く声を上げて笑った。

「皆さん、初めての御体験の後はかなり興奮なされますね。夢にまで見る方がいるようですよ」

 検査器具から顔を外して、彰は小さくうなずいた。確かにこれは、夢に見そうだ。

「では先程の更衣室でシャワーを浴びて、お着替えください。こちらで必要なことはもうすべて終了しておりますので、お帰りはご自由に」

「判りました」

 椅子から立ち上がると、桑島も立ち上がって小さく頭を下げて。

「もし今日の内に、何か体調に大きな異変を感じられるようなことがあれば、何時でもすぐにご連絡ください。……それでは、また次回のご利用をお待ちしております」

「ありがとうございます」

 彰も軽く頭を下げ返すと、一瞬、ちらりとカプセルに目を走らせて部屋を出た。



 確かに家に帰った後も、奇妙な高揚感はずっと続いていた。

 宅配の食事を食べながら、久しぶりに――本当に久しぶりに、アルコールが欲しくなる。

 軽いものとは言えまだ精神科の薬を飲んでいるのにアルコールはまずいか、とも思ったけれど、どうしても気持ちがおさまらなくて、冷蔵庫の奥にもう長いこと放ったらかしてあった缶ビールを見つけ、ぐい、と口に運んで。

 きいんと冷えた苦みが広がって、頭の裏に、がん、と響く。

 口元を拭って息をつくと、大きくソファにもたれた。

 のけぞった視界の先に、白い天井が広がる。

 そこについ先刻までいた、『パンドラ』の風景が滲む。

 本当に……凄かった。

 彰は目を閉じ、ゆっくりとそれを反芻した。



 ――映画やカジノで時間を食う訳にはいかないし、とりあえず今日はざっくり、街の全体を把握するにつとめてみよう、そう彰は思った。特に、街の一番外側がどうなっているのか、それを確かめたい。

 石畳にうっすら青色がかったガス灯めいた灯りがともる街並は、確かに古いヨーロッパの雰囲気に似ていた。

 夜風の涼しさはあったが冷えはなく、梅雨が明けた頃の爽やかな晩のようだ。

 どこかから夜の青みをすうっと撫で切るようなバイオリンの音が聴こえてきて角を曲がってみると、ゴッホが描いた夜のカフェのように黄色い光を放つ店のテラス席で、痩せたタキシードの男が弓を弾いている。

 ラフマニノフのヴォカリーズだ。

 席には十数人の人がいて、うっとりとそれを聴いていた。

 ひとりの者もいればカップルの者もいる。年齢層は三十代が一番多かったが、六十代くらいの夫婦らしき男女もいた。

 テーブルの上には、コーヒーカップやケーキがある。

 ……あれ、食べられるのかな。

 彰はまじまじとそれを見た。

「いらっしゃいませ」

 と、黒髪を今時びっちりとオールバックに固めたウェイターの男性に笑顔で声を掛けられ、彰はたじろぐ。

「お席、ご用意いたしましょうか」

「あ……あ、いえ、結構です」

 小さく手を振ると、彰は歩き出した。

 適当に角を曲がりながら、ちらりと目だけで振り返る。

 ……あの人もやっぱり、人工人格なのかな。

 まだどきどきと心臓が打っている胸の中で、そんなことを考える。

 街を歩いていると、あちこちのバーやカフェでくつろぐ人々の姿が窓越しに見えた。少し大きな建物はダンスホールのようだ。ビリヤード場や、ダーツバーもある。

 先刻の店先のようにあちこちの街角で楽器を奏でる人達がいて、時には道端できちんと正装した男女が肩を寄せて踊っている姿もある。

 それを眺める人々や、窓の中に見えるくつろいだ様子のカップルを見つつ、彰は夜道を歩き続けた。

 皆、とても充足した顔つきをしている。

 それなりのお金を払って仮想空間を訪れる、というからには、皆もっとこう、猛烈に遊び倒すぞ、という意気込みで参加しているのだろうと思っていた。まあメインのカジノに行っていないから、そこの様子は判らないけれど。

 空や山のリゾートゾーンではまた話が違うのかもしれない、そう彰は思った。あちらは紹介されている内容を見るに、それぞれのアトラクションを楽しむ為に来ている人達が大半のようだから。

 だから、このゾーンを選んだのだ。

 空のリゾートでダイビングやハンググライダーを楽しまない訳にはいかないし、山のリゾートでは徒歩にしろ電車にしろ、山に登るところに時間を取られる。

 ただ街をぶらついているだけでも誰からも不審に思われない、そういう状況が彰には必要だった。

 地図を見ずに、適当に、それでもだんだんと街の端に近い方向、そして人がなるべく少なそうな方へと歩いていく。

 その内に、外を歩いているのは彰ひとりになった。

 窓の中の人々を見ながら歩いていると、奇妙な感覚にとらわれてくる。

 学生だった頃、ひとり暮らしをしていて、夜が更けてから帰宅することが多くなってからよく感じていた思いと同じだ。

 外はもう自分以外誰も歩いておらず、しいんと静まりかえっていて、道沿いの家やアパートの窓から灯りが漏れている。

 そんな時ふっと、判らなくなるのだ。

 どこに向かって歩いていけばいいのか、どこまでこうやって歩いていけばいいのか、ふっと判らなくなる。

 足はあくまでもふわふわと軽くて、一晩中だって歩いていられるような気がするのだけれど、でも行き先は判らない。

 知らない道ではないのだ。何度も歩いた、いつもの道だ。

 それなのに夜の闇の中で、ふっと行き先が判らなくなる。

 どこに帰ればいいのか、そもそも帰る場所なんてあるのか、それが判らなくなる。

 こうして歩き続けていると、自分の中身が平たく透明になって体をはみだして、どんどん闇の中に広がって薄くなってそのまま消えていくんじゃないか、そんな気持ちがする。

 近くに見える、家の玄関を開けるサラリーマンの背中。

 あんな風に帰る場所なんか、自分には無いんじゃないか。

 この道の先にあるのは、本当に自分の家だったろうか。

 行き先なんか、無かったんじゃ。



「――あ」

 突然進む道がなくなって、彰は立ち止まった。

 進んできた道は丁字路になっていて、目の前は建物だ。

 マップを開けてみると、まさにそこは街の端だった。最初の広場から北北東方向に、あちこち回り道はしたけれど、直線にすると一キロ弱ほど歩いた辺りだ。

 街の端はすべて建物になっていて、丁字路の左右に分かれた道はしばらく進んだ辺りでどちらも曲がっていて先は見通せない。

 もう一度マップに目を落とすと、目の前の店がカフェだと判って、彰は改めてその建物を見た。

 古いヨーロッパの石造りの建物のような店先の、古びたモスグリーンの扉の上には円形の木の看板が吊る下がっている。

 看板は色褪せた赤茶色の地に小さく緑のポットの絵が描かれていて、その下に半円形に『Café Grenze』と金文字が並んでいた。

 壁には小さな出窓があったが、内側には幾つも観葉植物の鉢が置かれていて中はよく判らない。そもそも中はずいぶんと暗くて、開いているのかも不明だ。

 けれど彰は、何となく吸い込まれるようにその扉に手を掛けていた。

 ぎい、と扉は呆気なく開く。

「……こんばんは」

 心なしか小声になりながら、彰はその中へと足を踏み入れた。

 厨房部分も含めて十畳ちょっと程度の、小さな店だ。

 BGMなどは特になく、ただ、こち、こち、と柱時計の振り子の音だけがする。

 すぐ左手にオレンジ色の明かりを放つ鉄製のライトがあって、入って右手のカウンターにはガレの『ひとよ茸』のランプが灯り、中にはマスターらしき白髪まじりの背の低い髭の老人が立っていて何かを磨いていた。

 左には壁沿いに三つ、壁から伸びた低いランプと二人掛けのテーブルがあって、濃茶色の木枠に深緑のビロードの貼られた椅子が置かれていて――一番奥、彰の身長程もありそうな大きな柱時計の真横の席で、こちらに向いた側の椅子に、若い女性がひとり、座って本を読んでいる。

「いらっしゃいませ」

 圧倒されるような思いで店内を眺め回していると、不意に声がかけられて彰は我に返った。

 カウンターの中の老人が手を止めてこちらに体を向けている。

「良ければ、お好きなお席へどうぞ」

 コントラバスのような深みのある響きの声で言われて、彰は少し躊躇しながらも、覚悟を決めて店内へ足を踏み入れた。

 カウンターの老人の向かい、曲げ木の背もたれのついた、赤ビロードの貼られた背の高い丸椅子に腰をおろす。

「どうぞ」

 老人の差し出したメニューブックは革張りで、看板と同じ、赤茶色の地に緑のポットの絵が押され、店名が金文字で刻印されている。

 ぱらりと開くと、コーヒーや紅茶、ケーキのメニューが並んでいた。数は少なかったが、ブランデーやウイスキーの名前もある。

 けれど、金額の記載は無い。

 中でのサービスは基本無料で、カジノには一回の体験ごとに五万チップが付与される、確か事前の説明でそう聞いていた。チップは使わなかった分や儲けた分は、次回の体験に持ち越しできる、とも。

 でもこんなにもちゃんとした店でほんとにタダなのか、と内心彰は不安になった。後から請求されたりとか……まあ、そうなったとしてもコーヒー程度で心配することもないとは思うけど。

 彰はメニューに目を走らせて、「Einspänner」と書かれた文字を指さした。「アインシュペナー」と読みがながふられていて、後ろにカッコ書きで「生クリームの乗ったコーヒー」と記されている。

 要するにウィンナコーヒー、ということだろう、彰はそう思った。自分はあまり飲んだことはないが、皐月は好んでよく飲んでいた品だ。

「かしこまりました」

 老人は頭を下げて、冷蔵庫から生クリームのパックを出すと、縦長の金属のピッチャーに入れてハンディホイッパーで泡立て始めた。

 ずいぶんと本格的だ、と彰は内心で感心する。どうせ仮想空間なのだから、できあがったものをぽん、と出してくればいいのに。

 雰囲気を楽しんでほしい、そうヨシナダが言っていたのを彰は思い出した。つまりはこういうことなのだろう。

 老人は泡立ったクリームを一度冷蔵庫に戻して、サイフォンを使ってコーヒーを入れ始めて。

 アルコールランプの、色のくっきりと分かれたオレンジと青の炎が、ゆらゆらと揺れている。

 カウンター越しにその熱がはっきりと感じられて、彰は改めて驚いた。一体どこまで精巧にできているんだろう、この仮想空間は。

 コポコポと音を立てて沸くフラスコのお湯を見ながら、彰は向かいの老人を見て。

 彼は真面目な顔でサイフォンを見つめてタイミングをはかっている。

 この人も……人工人格、なのだろうか。

 状況的には間違いなくそうなのだろうけど、それはにわかには信じ難かった。どこからどう見ても、古き良き喫茶店を長年守り続けたマスターの顔だ。竹べらでコーヒーの粉を撹拌する姿も、実に堂に入っている。

 彰は小さく息をついて、ちらっと奥の女性を見た。

 彼女は一度も顔も上げずに、カップを前に、文庫本に目を落としている。

 年はよく判らない、十八、九と言われればそうも見えるし、けれど奇妙に年を取っているような雰囲気もある。ふわりとした黒髪を肩より数センチ上でまっすぐに切っていて、灰色がかった杢ブルーの柔らかそうなスウェット生地でできた、少しふくらんだ八分袖のワンピースを着て、一度も日に当たったことがないんじゃないか、と思ってしまう程色が白い。

 何の本を読んでいるのか、気にはなったけれど、背の部分が見え辛くてよく判らなかった。

「どうぞ」

 と、声がして彰はそちらに引き戻される。

 目の前に両手でひと抱えくらいの、ずんぐりとした大ぶりの二重グラスがカウンターに置かれていた。

 上にはたっぷりと生クリームが乗っている。

 彰は何故だか緊張しながら、グラスに手を伸ばして。

 二重なだけあって熱くはなかったが、それでもほんのりと指先に熱がつたわってくる。

 持ち上げて、おそるおそる唇をつけると、ひやりとした生クリームの感触と共に口の中に甘さが一杯に広がった。

 味……するんだ。

 思い切ってグラスを傾けてみると、冷えたクリームの下側から熱くざらりと甘いコーヒーが口の中に入ってくる。

 濃くて、どっぷり甘くて、熱くて、冷たい。

「……美味しい、です」

 思わず口に出して言うと、ほんの一瞬、女性が本から目を上げて彰を見た。

「恐れ入ります」

 老人はにこりともせずに、慇懃に小さく頭を下げて。

 彰はもう二口程飲んでグラスを置くと、思わずふう、と大きな息をついた。

 緊張がほどけると急に全身から力が抜けて、気分がリラックスしてくる。

 彰はもう一度、店の奥に目をやった。

 本当の喫茶店なら一番奥にはトイレがあったりするものだろうが、女性の背後は窓も何も無い壁で、その隣は柱時計があるだけだ。

 その更に隣はカウンター扉で、カウンター内はやはり壁だった。

 扉は無い。

 彰はまたため息をついた。

 まあそう簡単にゾーン外へ出られるとは思っていなかったが。

 いいんだ、別に。

 彰はまたひと口、コーヒーを含んだ。

 どれだけかかったっていい。あの仮想都市に入れる扉を探すんだ。

 深く息を吐き出した次の瞬間、店の扉が勢い良く音を立てて開いた。

 老人と彰だけが同時にそちらを見る。

「いやあ、どうも」

 二人に同時に見られて、その当人は恐縮したように頭をかきながら中へと入ってきた。五十代くらいの、少し白髪のまじり始めた小太りの男性だ。

「よっこいしょっと」

 そして誰も何にも言わない内に彰の隣に座ると、「あ、コーヒーね」と老人に言いつけて。

「かしこまりました」

 慣れているのか、特に詳しいことを聞きもせずに、老人はまたコーヒーを作り始める。

「ワタシこの店、初めて来ましたよ」

 そして相手は、明らかに彰に向かって声をかけて。

「おひとり? いやあ、渋いご趣味ですねえ」

 彰が呆気にとられていると、相手は勝手に、どんどん自分のことについて話し始めた。

 もう何度も『パンドラ』を利用していること。他のゾーンにも一度行ってみたことはあるが自分はここが一番好きなこと、セントラルカジノも面白いが、街中にあるちょっとした店でポーカーやルーレットを楽しむのが最高だとか、殆どあいづちを打つ間もなく喋ってくる。話の途中で置かれたコーヒーにも全く手をつける様子がない。

「……へえ、アナタ、今日が初めてなんですか」

 それでもようやく「自分は初めてなのでよく判らなくて」と彰がはさんだ言葉に、相手はやっと反応した。

「それでこの店。いや本当に渋いなあ」

「いえ、たまたま」

「え、じゃ他は全然、寄られてないんですか」

「ええ、とりあえずあちこち歩いてみたくて」

「……へえ」

 急に男の声のトーンが落ちて、目線がちらちら、と左右に揺れ動く。

 その意味が判らずにいると、突然相手がぐっと身を寄せ、彰の肩を抱くようにしてばん、と叩いた。

「よし、じゃ案内しますよ」

「え?」

「いや、遠慮なさらず。行きましょう」

 彰の返事を待たずに、肩を引っ張って強引に椅子からひきずりおろして。

「いえ、僕は」

「まあまあ、ここは任せてください」

 調子のよい声で男は言って、彰を扉へと引っ張っていく。

「マスター、ごちそうさま」

 結局一滴も飲んでいないのにそう言って片手を振ると、老人は小さく頭を下げた。

 奥の席で、本を完全にテーブルに置いて、女性がじっとこちらを見ている。

「あ、あの、ごちそうさまでした」

 首をまわしてそう言うと、また老人は頭を下げて。

 彰はそのまま、ひきずられるようにして店を出た。



「あの、ほんとに結構ですから」

 外に出た彰は、大きく腕を振って相手の体を振り払った。

「ああ、すみませんね、失礼なことしちゃって。申し訳ない」

 相手はまた落ち着きなく左右を見ると、両手を合わせて頭を下げてくる。

「……何か?」

 その様子に奇妙なものを感じて、ちょっとむっとしていた彰の気持ちがいぶかしさに変わった。

「アナタ今日初めてで、ここ以外は寄られてないんですよね?」

「はい」

「特にカジノが目的じゃない、ておっしゃってましたよね?」

「はい」

「あの、じゃ、お願いがあるんですが」

「え?」

 思ってもみない言葉に、彰はきょとんとする。

「あのう……そのね。良かったら、なんですけど、チップを……お譲りいただけないかと、思いまして」

「ああ……」

 ようやく相手の意図が判ってきて、彰は納得した。

 いや、でも。

「え、でも、そんなことできるんですか?」

「できますよ」

 彰が嫌がっていないことが伝わったのか、男は急に勢いを取り戻して身を乗り出して。

「カップルで来たりなんかしたら、お互いに融通したりしますからね。そういう機能がついてるんです、ちゃんと」

 そう言いながら、彰と同じ、イヤホンタイプのリモコンに触れると相手の目の前に端末画面が現れる。

「ええと、このアプリなんですけどね」

 説明しようとするのに彰も並んで覗き込むのとほぼ同時に、背後から突然、かつんと靴音がしたと思うと「榊原さかきばら義男よしおさんですね」と声がした。

「ひっ」と男の喉から小さく音が漏れる。

 男と同時に彰も振り向くと、店の扉の前に、あの、本を読んでいた女性が無表情に立っていた。

 履いているのはオランダの木靴の形に似た濃茶の革靴で、ガス灯の灯りの下で、灰色がかった瞳がきら、と光っている。

 彰が驚いて目をぱちぱちさせている隣で、男は彰の背中に隠れようとするかのように身を縮めた。

「前回お伝えしましたこと、お忘れではありませんよね?」

 訳の判らない彰とかなり怯えている男の前で、女性は淡々と続ける。声は顔と同じ、全くの無感情で、ナビのアナウンスみたいだ、と彰は思った。

「いや、あの、でもね? でも、合意ですから」

 男が彰の後ろから顔を出して、懇願するかのように言う。

「ね? ね、そうですよね、アナタ」

「え?」

 後ろから袖を引かれて、彰はますます驚いて顔をそちらに向けて。男は「頼みます」と言わんばかりに片手でこちらを拝んでいる。

「ならこの方のお名前をおっしゃっていただけますか」

 と、女性が手の平で彰を指し示すのに、男はぐっと言葉に詰まってしまった。

 ……名乗れば、いいのか、いやでも、このタイミングではどう見ても遅いよな。

 ますます縮こまってしまった男性と無情に突っ立った女性とを交互に見て、彰は内心で呟いた。どうも先刻の「チップを要求する」という行為に問題があるのは見当がついたが、ここで自分が「譲りますよ」と言ったとしても、それでは済まない話のようだ。 

「それでは前回申し上げました通り、規定の対処をいたします」

「いや、あの! 本当に、この通り、もう次からは……」

 両手を合わせて頭を下げ、そのまま膝をついて土下座しようとしていた男性に向かって女性がすっと右手を伸ばし、くい、と指先を軽く上に曲げ――と、次の瞬間、男の姿は跡形も無く消えていた。

「……え?」

 ひくっ、と思わず彰の喉が鳴り、一歩後じさる。

 今にも地面に両膝をつこうとしていた姿は、もはやどこにもない。

 思わず左右を見渡したが、そこにあるのは街灯に照らされたただの石畳だけだ。

「大変ご不快な思いをおかけして申し訳ございません」

 事態が全く理解できてない彰に向かって、女性は綺麗に腰から体を折って頭を下げた。

「あの……あの、今の、男の方は、どこへ」

「規約によりご退場いただきました」

 当然のことだと言わんばかりの平淡な調子で、女性はそう答えて。

「規約って一体……あの、事情を、説明いただけませんか」

「承知いたしました」

 また小さく頭を下げると、彼女はわずかに左右を見る。

「ここでいたしましょうか。それとも今の店に戻られますか?」

「えっ?」

 その提案に彰は軽くたじろいで、同様に左右を少し見て、「じゃ、店で」と答えて。いろいろ聞きたいことがあったし、先刻あんな中途半端な状態でお店を出てしまったのも気になっていた。

「かしこまりました、では」

 くるりと身を翻して入り口に向かう彼女の背を、彰は慌てて追いかけた。



「チップを融通する、という行為自体に問題がある訳ではないのです」

 最初に彼女がいた席と同じテーブルで、今度は向かい合って彰は座っていた。

 向かいの女性は、シーニユ、とだけ名乗った。

 改めて間近で見てみても、年齢はやはりよく判らない。化粧っけの無い肌の澄み具合や、飾り気の無い、どこか野暮ったい感じすらするもったりとしたワンピース姿はやはり十代か、とも思えたし、けれど表情の無い瞳や平淡な口調のかもし出す重みのある雰囲気は、もしかしたら自分より年上なのかも、とまで思わせるところがあった。

 彰の前に置かれた口の広い紅茶用の白磁のカップからは、アールグレイの香りがする。先刻こってりしたものを飲んだから今度はさっぱりしたものが欲しい、とお願いした彰に、マスターが出してくれた品だ。

「榊原様は『パンドラ』をご利用されて最初の頃に、パブで他のご利用者の方と意気投合なさいました。その際に一緒にカジノを使われ、先にチップがなくなった榊原様に、その方が少し譲って差し上げたのです」

 彼女の前には何も置かれておらず、先刻読んでいた本もそこにはなかった。手元にバッグのようなものは何もなく、店内に本棚らしきものもなかったので、一体あの本はどこにいったのだろう、と彰はちらりと思う。

「次回からしばしば、中で知り合われた方に同様にチップを頂くことが重なり、そのご依頼がだんだんと強引になってきたので、融通された相手の方から『パンドラ』に対し苦情が出まして」

「……成程」

「初回のように、本当に個人的に親しくなられて、相互の完全な了解の元であればこちらも特に咎め立てはいたしません。ですが名前も知らない初対面の相手にチップを要求するようなことは目にあまる行為ですので、次回同じことをなさった場合は強制退場の上、今後の『パンドラ』のご利用をご遠慮いただく旨、お伝えしてありました」

「ずいぶん、厳しいんですね」

 思わずそう言ってしまうと、彼女はわずかに首を傾げた。

「同じことをなさらなければ良かっただけの話です。行動規範に違反されれば『パンドラ』はご利用いただけない、それは事前にお伝えしてある通りですから」

 彰の脳裏に、説明会で見たパンフレットの内容が甦った。

 しかし、と言うことはやはり、中での利用者の行動は逐一チェックされている、ということなのだろうか?

 ひとつ気になるといろいろなことが気になってくる。

「あの、行動規範というのはどのようなものなんですか?」

「ごくシンプルに申し上げれば、『すべてのお客様に快適に「パンドラ」をお楽しみいただけるような環境をつくる為の節度ある態度』のことです」

「はあ……」

 彼女の言う「シンプルさ」が全く伝わらず、彰は首をひねった。

「例えば仮想空間だから、と言って物を壊されたり、大声で怒鳴られたり、他人に暴力をふるわれたり。問題でしょう」

「ああ、それはまあ、確かに」

「基本的に、外の世界で好まれない行動はここでも好まれません。特に元々の目的は、大勢の人間が長期間を暮らす仮想都市を設計することですから、『仮想空間だから何をしてもいい』という発想は大きな問題を生じさせます」

 仮想都市、という響きに、彰の心臓が一瞬跳ねた。

「複数の人間が存在する世界ではそれが現実であろうと仮想空間であろうと、一定の常識と良識が不可欠である、ということが『パンドラ』を通じて人々の間に理解されていくことが機関の目標でもあります。その為、多少の厳しい処置も致し方ありません」

「よく、判りました。ありがとうございます」

 動揺を隠して彰は小さく頭を下げると、お茶を口に運んだ。少し冷め始めた紅茶は渋みが殆どなく、すっと喉を通る。

「じゃ、もしかして貴女は、榊原さんの行動を監視する為にここに先回りされていたんですか?」

「いいえ」

 ひっかかったことのひとつを聞くと、あっさりと相手は首を横に振った。

「この店にいたのは偶然です。ただ、榊原様が来られた際、その情報は『パンドラ』のセンターから届きましたが」

「利用者の行動は中ではモニタされていない、と聞きましたが」

「はい」

 つい追求するような口調になってしまうのに、彼女はやはり平然とそれを受け止める。

「ただ、榊原様の場合は今までの問題がありましたのと、今回のご利用で最初にカジノに寄られ、チップをすべて使ってしまったという報告があり、また違反行動を起こされる可能性が高い、ということで全スタッフに注意喚起の連絡がまわっておりました」

「そうなんですか……」

「普段はお客様の行動のリアルモニタや会話のチェックなどは一切いたしておりません。収集している情報は、性別や年齢、個人参加とそうでない場合などで施設の利用の仕方にどう違いが出るのか、人気のある施設とそうでないものの違いは何か、そのような行動の分布のデータです。ご利用者様のプライバシーを侵害するようなことはありませんので、ご安心ください」

「そうは言っても、あの……シーニユさんも、やはり人工人格なのですよね?」

 カップを置いて、少しためらい気味に彰は尋ねて。ヨシナダには「失礼だと思う理由が判らない」と言われたが、それでもやはり気にはなる。

 どうしてだろう、とすばやく考えて、その理由のひとつに「そうじゃなかった場合に失礼だから」というものがあると思い至った。つまりは向かいの相手が人工人格なのかそうでないのか、自分には決定づけられない程に自然だ、ということだ。

「はい。とうにお判りかと」

 だがその向かいで、こともなげに相手はうなずく。

「それから、『さん』は不要です。敬語も結構ですから」

「いや、でも……はい」

 少し言いよどんでから、彰はうなずいた。ヨシナダといい彼女といい、確かにそういうことを気にするようには見えない。

「あの、つまり、シーニユ、も、システムの一部な訳だから、今のこの会話も結局はサーバー内に記録される、ということですよね?」

 結局いきなりタメ口は叩けず、彰は中途半端な丁寧語で尋ねて。

わたくし共は、蜜蜂に似ています」

 それにいきなりシーニユが返した言葉に、彰は意味が判らず瞬く。

「この、ひとつひとつの人工人格が、いわば働き蜂です。飛び回り、蜜を集めて巣に運びますが、その際に女王蜂にいちいち『この蜜はここからあの方向にどれだけ飛んだところにあるどの木に咲いた、上から何番目の花から取ってきたものか』という報告はしません。そんなことを全員がしていたら、女王蜂側の処理が追いつかないからです」

「……成程」

 最初は訳が判らなかったが、ひと通り聞くとその意味がよく判って、彰は深くうなずいた。

「巨大な蜂の巣、それ自体がシステムの脳ですが、一匹一匹の働き蜂もそれぞれに自分達だけの脳を持っています。巣と蜂とは繋がってはいますが、すべてを共有している訳ではないのです」

「うん、よく判った。君は説明が上手だね」

「そういう褒められ方をしたのは初めてです」

 彰が心の底から褒めたのに、シーニユは驚きも喜ぶ様子もなく淡々と返した。

「え、そう?」

「そもそも、今のようなことを利用者の方に尋ねられたのも初めてですが」

「そうなんだ……」

 ちょっと意外に思いながらも、まあ、でもそうかもしれない、とすぐに思う。モニタはしていない、と自分も最初に言われているし、一度そう言われればそうなんだろう、と思って、後は何の気兼ねなく遊ぶだろう。

 自分は目的が違うから。

 内心の思いに沈み込みかけてはっと我に返って目を上げると、向かいからシーニユが薄い唇をつぐんで、灰色の瞳でこちらをじっと見ている。

 彰は胃の底にぐっと力を込めて背中を伸ばした。何か、勘づかれているのだろうか。

 だがシーニユは特に何を言うでもなく、表情を変えるでもなく、ただじっと座っているだけだ。

 何となく居心地が悪くなって、彰はわずかに身じろぎした。

 ……このままこうやって、何十分でもこの姿勢で座ってこっちを見ていられるのかな。

 胸の内で、そんなことを思う。

 それを気まずいとかどうとか、そんな風には……思わないんだろうか。

「……あの、じゃ、中にいるスタッフさんって、全員人工人格なのかな」

 結局沈黙に負けて、彰はふっと思いついた質問をした。

「いいえ」

 そのブランクを全く気にしていない様子で、即座にシーニユは首を振る。

「ごく少数ですが、利用者の方と同様の方法で『パンドラ』内にいる人間のスタッフがおります。人工人格のスタッフだけでは対処のできない事態が発生した場合に必要ですので」

「それは……見分け、のようなものはつくのかな」

 予想外の話を聞いて、彰は話に本腰を入れることにした。それは知っておく必要がある。

「見た目に区別はありません」

 だがさっくりとそう言われてしまって、彰は途方に暮れた。それは困る。

「ええと、じゃあ、どうすれば判るのかな? 聞けば答えてくれるの?」

「御堂様がスタッフの見分け方をお知りになりたい理由は何でしょうか」

 質問に質問で返されて、しかもそれが答えに詰まるものだったので、彰は言葉を失った。それは勿論、人間のスタッフに、自分がここに来ている目的を知られたくないからだ。

 でもそんなことは言えない。

「いや、うん……ほら、やっぱりさ、外では言えないような話をしちゃって、その相手が実は現実界の人だった、なんて、ちょっと恥ずかしいしね」

 口からでまかせに適当なことを言ってみたが、相手は全く疑う様子もなく素直にうなずいた。

「当然のことですが、中に入るスタッフは特に厳しい選別をしています。守秘義務も課せられておりますから、中でのお話が外に漏れるようなことは確実にないことをお約束できます」

「ああ……うん、そうだよね」

 自分の「人に言えない話」はそういうことじゃないんだけどね、彰は内心で続けた。人間のスタッフに知られれば、きっと先刻の男性のように「強制退場」させられる話だ。

「私共はお客様に、『パンドラ』内で夢のような時間を楽しんでいただく為に存在しています。ですから、案内係などの特定の担当を除いて、どのスタッフが人工でどのスタッフが人間か、そもそもスタッフなのか利用者なのか、ということも、基本的には判らないようにふるまうよう指示されています」

「え、でも君は」

「今回は榊原様のことがあったので、あの行動でスタッフだということは明示されたに等しいと判断しました。それが御堂様に判明しているなら、特に一般人のようにふるまう必要はないかと」

「まあ……そうか」

 しかし、てことはあの男性がいなかったら、彼女は普通の客としてあの場にいつづけた、てことなのか。

 もし何気なく話しかけていたら、「普通の会話」をする彼女が見られたのかもしれない、そう思うと少し勿体ないことをしたような気もした。

「……今からでも、普通に話してくれていいんだけど」

「既にスタッフで、かつ人工人格だと判明しているのに、お客様に対してそのようなふるまいをする必要があるでしょうか?」

 真顔で首を傾げてそう言う彼女に、彰は内心で白旗をあげた。まあそれもそうだ。

「うん、あの、じゃせめて『様』はやめてくれないかな。『さん』くらいで」

「判りました」

 うなずく彼女を見ながら、まあでも、こうして確実に「人工人格」で、かつ店員のように特定の職業についている様子ではない、つまりは街を自由に動ける相手と初回で知り合えた、ということは自分の目的の為には幸運だった、彰はそう思った。今の会話だけでも中の状況がある程度判ったし、今後も縁を繋いでおきたい。

「シーニユはいつもこの店にいるの?」

「いいえ。でも、よく来ます」

「この店、好きなんだね。いい店だよね」

 彰がそう言うと、常に合間を置かず反応を示していた彼女の言葉が一瞬だけ止まった。

「好きであるかどうかは不明です」

 ほんの0・5秒程度の沈黙の後にすぐそう返ってきた言葉に、今度は彰の動きが止まる。

「え、どういうこと?」

「これが『好き』であるのかどうか、判別ができない、ということです」

「…………」

 相手の言葉の意味が全く判らず、どう聞き返すべきなのかも判らずにいると、耳元のリモコンがチチッ、とかすかな音を立て、『ご利用時間の半分が経過したことをお知らせします』とソフトな合成音声が告げてきた。

「すみません、せっかくのお時間を浪費させてしまいました」

 リモコンの音は現実界では自分以外には聞こえないものの筈なのに、彼女はそう言ってすくっと立ち上がる。

「本日が初回のご利用でしたね。ナイトゾーンにはまだまだ様々な楽しみ方がありますから、ぜひもっとあちこちの場所を覗かれてみてください」

「いや、ここでもっと君の話を聞きたい」

 思わずそう言うと、彼女はまた一瞬だけ口をつぐんだ。

「お客様がお金でお買いになった時間を、私共が無駄に使う訳にはいきません。まずはもっと、このナイトゾーンを楽しまれてください」

 そしてそう続けられたのに、彰は返す言葉を失った。シーニユの話し方は淡々と、そしてきっぱりとしていて、それは今までと全く変わらないものだったけれど、今の言葉にはどこか「拒絶」に近いものがある、そう感じたのだ。

「……判ったよ」

 仕方なくうなずいて、彰も立ち上がる。

「じゃ、次来た時に、また話をさせてもらってもいいかな」

「判りました」

 断られるか、と思ったけれど、意外にも即うなずかれて、彰は拍子抜けした。どうもやはり、「普通の女の子」とは勝手が違う。

「ええと、じゃ、連絡先を登録したらいいのかな」

 リモコンに触れようとすると、シーニユはわずかに顎を動かして、「登録しました」と言った。

「え、そうなの? あ、じゃあ、また次、来た時に」

「はい」

 うなずく相手に軽く手を振ると、彰は店の出口に向かって。見送るつもりなのか、シーニユも後からついてくる。

「ありがとう。ごちそうさまでした」

 カウンターの向こうで黙々と銀器を磨いているマスターに頭を下げると、「またのお越しをお待ちしております」と相手も頭を下げてきた。

 店を出ると、シーニユが扉の前で立ち止まる。

 二、三歩歩いて、彰は振り返った。

「それじゃ」

 軽く片手をあげると、彼女はお辞儀を返して。

「あの、もうひとつだけ聞いていいかな」

 その姿に忘れていた問いを思い出して、彰は声を上げる。

「はい」

「君の、名前……シーニユ、て、どういう意味?」

 彼女はほんの少しだけ首を傾けて――さらり、と髪がその動きについて揺れる。

「しるし、です」

「え?」

「フランス語です。しるし、とか、きざし、などを意味します」

 彰は何度か瞬いて、そのまっすぐな立ち姿を見た。

 感情の現れないまなざしで、彼女はそれを見返す。

「……いい名前だね」

 小さく言うと、彼女は無言で、頭を下げた。

 その姿が長く、彰のまぶたの裏に残った。

   

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