第15話 出会い 〜日本に来たのは江戸時代〜

巨大な狼。

はっきり言って今までのタローであれば小便を漏らしながら全力疾走して逃げていただろう。だがタローはもう全てを諦めているような絶望状態である。何も見ても驚かないし嘆かない。


巨大な狼はタローに気がつくとゆっくりと歩み寄る。その様はまるで王のような風格を感じさせた。巨大だがその足遣いは優しく音も立てずに歩み寄る。


恐怖を忘れたタローにとっては綺麗だなという思いしかでてこない。その巨大な狼はタローの目の前までくるとそこに座り咥えていたバケツをまるでタローに差し出すかのように置いた。


一連の動作をただ眺めていたタローはただただ困惑していた。この狼に殺される。そうか思っていたタローにとってはこの行動の意味がよくわからなかった。すると狼はタローをすっと見つめた。


『すまん…お主の畑の作物を勝手に食べてしまった…詫びと言ってはなんだがここに水を汲んできた。魔力を多く含む貴重なものだこれで許してほしい。』


タローは訳も分からずポカンと口を開ける。この狼は自分を食らうかと思いきや作物をとった詫びといって水を持ってきたのである。もうわけがわからない。


『む…むぅ。この言葉は伝わらんか。ならばエルフ語…いやドワーフか?ええい!この人間の言葉はどんな言葉だ!』


慌て出す狼。その光景は言葉がわからないと恐怖でしかないが他言語翻訳を持つタローにとっては取引の時に相手の言語がわからない上司を思い出させた。そんなことを思うとつい笑ってしまった。


目の前で急に笑い出すタローに今度は狼の方が困惑している。自分を恐怖しない相手という時点で珍しいのだが初対面でこうも大笑いされたのはいつぶりか。そんなことを思っているうちにやっと笑いが治ったタローが話しかける。


「だ、大丈夫だ。伝わっているよ。それにしても随分と律儀な魔獣だなあんたは。あ、俺の言葉通じてないか?俺もその言語に合わせた方がいいか?」


『おお!伝わっていたか。安心せよその言葉で十分通じておる。それと我をそこらの低レベルの魔獣と同じにするな!我には誇り高き名もある。』


そう言った狼は顔を上げこちらを見てくる。なんとも言えないほどのどや顏である。それを見たタローはつい笑ってしまう。笑われた方の狼は不機嫌そうである。


「す、すまん。つい笑ってしまった。で、野菜を盗み食いした誇り高きあなたのお名前は?」


『むぅ…人間のくせになんと生意気な…まあ懐の大きい我は許してやろう。そして我が気高き名を聞くがよい!我が名はポチ!誇り高き獣神の一角であるぞ。』


ポチ。あまりにも可愛らしい名前に笑いが止まらない。この図体をしているくせになんと可愛らしいことか。そう思うと笑いが止まらない。タローはポチという狼の獣神の前で大笑いする。


『…何がおかしい。』


タローが感じ取った殺気。それはいまだかつてないほどの強大なものだった。せっかく漏らさずに済んでいたタローのズボンはびちゃびちゃである。全身の鳥肌が立ち震えが止まらない。調子に乗りすぎた。温厚な者ほど怒らせると怖い。まさに今それを体感した。


「すすすす…すいま…すいませ…」


『む、すまん。野菜を勝手に採った上脅すなどあるまじき行為だ。だがこの名は我のかつての主人からもらった大切な名前だ。侮辱することは許さん。』


タローは必死に喋ろうとしているがいかんせん震えが止まらず声が出せない。どうしたものかと思っていると狼…ポチは水を飲むように勧める。震える手で水をすくうがなかなか思うように掬えない。いつまでもそんなことをしているともどかしい!とポチは魔力で水を持ち上げタローの顔に叩きつけた。


その驚きで多少震えの止まったタローはすぐに謝罪の言葉を考える。


「す、すみませんでした。その可愛らしい名前だったもので…ちなみにかつての主人ということですがあなたは誰かの召喚獣とかなのでしょうか?」


召喚獣。それは魔力を用い魔獣を召喚し契約するというもの。この世界でも珍しいものではなく畑を耕すため、荷物を運ぶため、畑を守るためとよく使われる。召喚獣は主人を無くすと送り返されることが多いが稀にそのまま残るケースがある。だがここまでの魔獣となると以前の主人はかなり高明であったに違いない。


『召喚獣などではない。我と主人の間にはそんなことでは表せないような深い友情があった。』


ポチは目を閉じ懐かしき過去を思い出しているのだろう。今邪魔すると何されるかわからないタローは黙ってその様子を見ていたが自分の粗相に気がつくと顔を真っ赤にさせて恥ずかしがっていた。しばらくしてポチが目を開けフッとため息をついた時にタローは質問を再開する。


「ちなみに〜…その主人のお名前は?」


そんな質問よりもまずは着替えろと思うがこのポチの主人にもなれるということはよっぽどの人物なのだろう。どんな人物なのか気になってしまったのだ。


『ふむ…我が主人が気になるか。よかろう!本来ならば教えないが詫びということで教えてやろう。我が主人の名は…田中一郎だ!』


「……ええええ!!!」


タナカ・イチロー。まさかここでもその名を聞くとは思わなかった。農家として名を馳せただけでなくここまで強大な魔獣を従えるとは思いも見なかった。いや農家としてここまで名を馳せているのだ魔獣を従えていてもおかしくはないのだ。


「あ、あなたはタナカ・イチローの僕だったと…」


『僕…とは違うな。一郎は我を家族同然に扱ってくれた。それと貴様らはイチローと呼んでいるが正しくは一郎。田中一郎という名だ。』


「イチロー?イチ…え?」


『う!だ。い、ち、ろ、う。お主達は発音が難しいのか伸ばしてしまうがそれは違う。正しくはいちろう。そう呼べ人間の子よ。』


タローはいまいちピンときていないがちゃんとうをつけることにこだわるポチ。何度かその場で練習しているがそのたびに注意される。


『それとお主は臭いな。先ほどの粗相のせいもあるがそれを抜いても臭い。これで洗え。』


ポチが汲んできた水で体を洗えと勧める。タローは慌てて水に触れようとするがふと手を止める。


「これって貴重な水じゃないんですか?」


『む…まあ我にとってはさほど貴重でもないが。まあそうだなではこうしよう。』


そう言うとポチは頭をあげて目を閉じる。するとポチの頭の上に1mほどの大きな水球が現れた。唖然と見上げるタロー。ポチが目を開けたかと思うとその水球はタローに向かって動き出しすっぽりとタローを飲み込んだ。


次の瞬間その水球の中身だけが濁流のごとく蠢き出した。タローはその流れに逆らえずもみくちゃにされている。さながら人間洗濯機だ。タローが死を予感した直後水球は弾けタローは地面に打ち付け…られなかった。


なぜかタローは浮いている。だが目が回り何が何だかわからないタローはその状態に気がつかない。するとお次は突風が吹きあられ上空へと打ち上げられる。だがタローはそんなことには気がつかない。ただわかるのは暖かく吹き抜ける風が心地よいということだ。


ゆっくりと上空に打ち上げられたタローは落ちてくる。その体は綺麗に洗われ服も綺麗に乾いている。


『うむ。これで綺麗になったようだな。』


満足げなポチ。タローはそんなポチを見て…思いっきり吐いた。

水流による回転、急速なアップダウン。そんな目にあったタローの三半規管と胃の中はめちゃくちゃだ。何も食べていないため胃液しか出てこないが口の中がすっぱくなり気分が悪い。


タローは近くにあった水で口をゆすぐ。水を入れた瞬間口の中が癒されるようなそんな感覚を味わった。吐き出すのがもったいないが吐瀉物を含んだ水を飲みたくはない。すぐに吐き出したら水の中に頭ごとツッコミこれでもかと水を飲む。


一口、また一口と飲むごとに体の芯から癒されるような感覚に陥る。疲れ切った手足も傷ついた体も全てが癒される。息が続かないと思った頃に顔を上げ空気を吸う。一息吸った瞬間なんとも言えぬ幸福感が訪れる。すべてに絶望したあの時とは全く逆である。


『良い面構えになったな。さて話を戻そうか。』


ポチは笑いタローに話しかける。そんなポチにタローはなんのことだと言わんばかりの表情である。


『これで我が勝手に採った野菜については許してくれるな?』


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