特別章 その先にあるもの

「ほんとに……」

 俺はおもわず声が漏れていた。

「ほんとに何も知らなかったっていうのかよ」

 満月はただただ、さっきと変わらずこのだだっ広い夜空にぽっかりと浮かんでいる。突然吹き付けた秋の冷たい風が、右から左からと俺の頬を殴り続ける。

 あの時のミーちゃんはどんな気持ちだったんだろう、自分の命はもう長くないこともきっと分かっていた、これから受ける手術だってそれはきっと怖いものだったに違いない。

 そんな中、わざわざ俺に会いに来てくれた、最期の願いを費やしてまで。

 俺はただただじっと満月を見つめた。そしてその眩しさに思わず目をそらしそうになるのをぐっとこらえた。

 …………あっ!

 俺は何かを思い出した。そういえば、あれは、確か……。そのおぼろげの記憶を辿りながら、俺は急いで押入れのふすまを開けた。

 ……どこだ? あれは……

 買ったけど全く読んでない衝動買いしたニーチェの本、中学の卒業アルバム、その他何で買ったかすら忘れてしまったブリキのロボット達。すぐには使わないけれど、捨てるには忍びない物達が、次々と部屋の真ん中へ放り出された。そして、

「あった」

 green labelと書かれた緑の袋。その紐の蝶々結びをゆっくりとほどいた。そして中にあったそれを見つめた。

「これだ、間違いない」

 俺はそれを握ると、部屋の電気を消した。何故だかわからない、ただこうすることが正解だと俺の本能は教えていた。そしてもう一度、まん丸の満月を見上げた。その光を利用して、もう一度俺は握っているそれを見つめた。

 ビー玉。正確には違うが、敢えて言えばその言葉がこれに一番近い。片手で握れる程度のその球状の物体は虹色を放っており、ビー玉というには一回り大きかった。

「これだ、きっとこれのせいなんだ」

 俺はあの時、ミーちゃんと別れる時のことを思い出していた。

 ミーちゃんはあの時、俺がお面を買ってあげた後、確かにこういった。

「これ」

 そう言って、俺にこれを手渡した。

 俺は単なるガラス細工と思ってポケットにいれ、そのまま今日この日まで生きて来た。でも今から考えればこれは唯一俺とミーちゃんをつなぐ糸だったんだ。

 今、明かりと言えるのは目の前に浮かび上がるこの満月だけ。その光に照らされて、この球体はきらきらと光った。俺は力強くそれを握り締めると、もう一度あの満月を見つめた。


 なあお月さんよ、今日は中秋の名月なんだろ? 頼む、ちょっとくらい俺にも奇跡を分けてくれないか?


 俺は目を閉じて祈った。そしてあの時の光景を思い浮かべていた。微笑み溢れる目尻に上品そうな口元。水色の浴衣には金魚が泳いでいた。首をひょいとかしげると、垂れた後ろ髪から星屑が溢れるようだった。

 間も無くその記憶の中の表情は徐々に姿を変え、あの悲しみの表情へと取って代わられた。夢でも幻でもいい、アホな事だって分かってる、でも伝えたいんだ、この思いを。

「ミーちゃん、ありがとう」

 俺はその記憶の中のミーちゃんにそう伝えた。

「きっと大丈夫、うまくいくよ。どんな日だって、たとえ嵐の日だって、お月さんはいつでも僕らを見守ってくれてるんだ」

 ミーちゃんはふと顔を持ち上げると、小さくうんと頷いた。そして俺は持っていた球体をミーちゃんの手に握らせた。

「これはミーちゃんが持ってて、お守り。今度の手術が終わって、元気に帰ってくるのを待ってるから」

 ミーちゃんはもう一度笑顔を取り戻した。口をへの字にしばって、さっきよりもっと大きく頷いた。そして俺はその目の前にいる小さな命を思わず抱きしめた。強く、強く抱きしめた。今この力を緩めたら、そのまま消えてしまいそうだった。どうか、行かないで…………俺は必死でその去りゆく命を握りしめ続けた。


 そして、そのままきっと風は吹いたのだった。

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