第4章 『ポロリはない健全な水着回』
第42話 『ゆっくりと』
八月四日。暑さも本格的になってきた。
空には天狗が飛び、日陰を縫うように一反木綿が浮遊して。雪女の
問題は尽きやしないが、今は平和に。一般人も妖怪も、流れ行く平穏をのんびりと謳歌している。
そしてその街のシンボルである、街の四方を囲うように立つ楓の木。その一本の根元には道場が見える。
『
「ら、あああああああああ!!」
「……またそれか。本当にワンパターンだな、貴様は」
道場の中を覗いてみれば、人間の少年が二人。……いや、正しくは半妖がひとりと人間がひとり、だろうか。
学校のジャージを身にまとった半妖の少年、澄人と、『カニカマチーズ巻き』と書かれた謎のTシャツ、ハーフの黒いチノパンを履いた人間の金髪の少年、アインである。
拳を握り、奥歯を噛み締めて、ぐしょ濡れになったシャツで汗を拭う澄人。懲りずに突撃を測るが、先手を取ったアインの攻撃────足払いによって、無残に顔から道場の床へと音を立てて倒れこむ。
「ぐぇ…………容赦ねぇな、畜生」
「容赦するな、と言ったのは貴様の方だろう。まったく、進歩がない……」
倒れ込んだ澄人を見下ろしつつ、アインは呆れ気味に言った。
しかしアインが言っていることは全面的に事実であり、何も言い返せないのが悲しいところである。
荒い呼吸を立てながら、澄人が寝返りを打ち、天井を仰ぐ。同時、
「今日も性が出るのォ……なんじゃ、今日も澄人は一発も食らわせられんのか」
「そーだよ、畜生。なんだなんだ、またヤジ飛ばしに来やがって。暇なのかよ、ぬらりの爺さん」
対するぬらりと呼ばれた爺さんは、豪快な笑いをひとつ。何やら手に持っていたペットボトルを澄人に投げつけると、
「やかましいわ小童。『楓』の管理者が暇なわけなかろう。合間合間を見つけて、貴様を可愛がりに来てやってるんじゃ、言わせるな恥ずかしい」
「ジジィのツンデレとか誰得ですか。ふざけんな恥ずかしい」
「アインに一発でも入れられるようになってから偉そうなこと言ったらどうかのぅ。四日かかってソレとは、もう才能と努力に見放されたのではないか?」
「ぐっ……」
容赦のない一撃。何も言い返せないのをいいことに、ぬらりは笑い飛ばす。常に笑ってる元気な爺さんだ、とは澄人の弁である。
投げつけられた飲料水を一気に飲み干すと、澄人は勢いよく立ち上がる。同時に頭を掻き毟り、何やらアインを睨みつけた。
「あああああああ畜生!!! やるせない! 走ってくる!!」
そして謎の奇行。靴も履かないまま澄人は道場の外へと駆け出して、叫び声と共に何処かへ行ってしまった。
途端、流れる沈黙。気まずさを感じてアインは頰を指先で掻いているが、そんなものを感じているのはアインだけの様子。
「すまんのぅ、あんな馬鹿に付き合わせて」
沈黙を絶ったのはぬらりだった。アインが視線を向けると、皺くちゃな顔が更に笑顔に歪められているのが見える。
「いえ、別に。オレもヤツに教わることは、少なくないので」
「呵々、そうかしこまらんでも良い。澄人の態度を見たろう? あそこまでとは言わんが、肩の力を抜いたらどうじゃ」
「そ、そんな……」
にっこり、と変わらず笑顔を浮かべながらの会話。
……手玉に取られている。しかし、アインがかしこまるのも仕方がなかった。
楓町を囲う、四本の巨大な楓の木。ここにいる『ぬらりひょん』は、そのうちの一本────『北楓』の管理者である。
楓の木の管理者に選ばれるのは、妖怪の中でもかなりの強者たち。無論ぬらりひょんは弱いわけがなく、澄人の訓練一日目に、コテンパンにされたアインはその身を持って知っている。
魔力による肉体強化が不十分だった、などと色々言い訳はできる。けれど、
汗ひとつかかず、アインを笑顔で見下ろす姿を見ても尚、言い訳できるほど肝は座っていない。
「儂に勝負を申し出る時点で、かなり肝は座っておる。見所があると思ったモノだが?」
「……っ。そう、でしょうか」
思考が読まれている。笑顔の後ろに潜む、思考を覗き込むような目。
澄人との一件があって、妖怪たちと面と向かって話すようにはなったアインだが……いまだに、妖怪のこういうところは苦手だったりする。
「時にアインよ。あの巨人について、どれほど聞かされている?」
「巨人……
突然変わる話題の方向。
巨人、歪。赤い、まん丸い目────全てがアインの記憶に新しい。
アレは、確かに恐怖の対象として、今も刻み込まれている。
「歪と呼ばれるようになったことと、妖怪や人間が近づき、放っている怪しげな妖気に当たると何かしらの悪影響を体に及ぼす────それくらい、でしょうか」
「……ふむ。一般より少し知っている、といったくらいか。流石当事者よな」
寒気を覚える背筋を隠しながら応えるアインに、ぬらりは感心したように数度頷いた。
しかしアインにも疑問が浮上したようで、
「にしてもなぜ突然? 何かあったんですか?」
顎に指を添えるぬらりに、問いかけを返した。
「まあ、あらぬガセ情報が人間たちの間で飛び交っている、というのと……妖怪側の世界にもとうとう現れてな。儂らが知ってること以上のことを、何か知っておらんかと助けを求めたところよ。おかげさまで
ジャンブが買えずに困っておる、なんて付け足すぬらりは憂鬱げだ。
門、というのは四つの楓の木に備わっている特殊なゲートのことだろう。
その門は妖怪の世界と人間の世界をつなげているもので、そこを通ってようやく妖怪たちは人間の世界に足を踏み入れることができる。
無理矢理にこちら側に来ることは出来るのだが、どの方法も使用できる妖力を半分ほど削られてしまう。世界の原理に逆らった代償だのなんだの理由はあるそうだが、人間たちは詳しくは知らない。無論、アインも。
にしても、
「もしかしてぬらりさんは、オレ以上に────」
「ちわー、極潰死でーす……って、あれ。邪魔しちゃったか?」
もしかしたら歪に対してアイン以上に知識があるのでは、なんて思ったものだが。
アインの問いかけは、呑気な声に遮断されてしまったのだった。
◇◆◇
「澄人の調子はどーよ?」
「……ダメだな、てんでダメだ。成長が見られない」
「でしょうな……」
窓を全開に開けつつ、縁に腰をかけながら苦笑するアインと克己。克己とアインも、この数日でなかなか距離が縮まったものだ。
再び続く沈黙。どうやらアインは話し下手らしく、誰と会話を行っても数秒の間ができてしまう。……まあ、澄人を除いた誰かとの会話、という条件だが。
「んで、妖怪もなかなか悪くないもんだろ。おまえ、憎い憎い言ってたの聞いたけど」
それを知っていてか、克己が自ずと質問を投げかけた。どこか遠くを眺めながら、何処からか買ってきた冷たいミルクセーキを開封しつつ。
克己が見つめているのは過去の自分だろうか。妖怪憎しと叫んでいた、あの頃の。
「……正直、まだわからない。あのバカと一緒にこうして過ごしてみて、色々な妖怪に触れた。確かに、オレの思っていたような憎い連中ばかりではないことは……わかった、気がする。けれど、」
それが澄人の目的のひとつだった。
文化祭が終わった後、突然鍛錬をつけてくれーなんで言い出したのがこの殴り合いの発端だ。
自分が強くならなきゃいけない、なんて思っているのも事実だが。自分が一緒に生活することで、様々な妖怪に触れてもらう────かつて克己にしたように、色々な面々に。
けれど、
「まだわからない、というのが事実だな」
「そりゃそーだ、数年抱いてきたモンは変えられない。ゆっくりでいーんだよ」
アインの思考は、未だぐらついている。
しかし、ゆっくりと変わりつつあるのだ。進んでいるのが目に見えないようなスピードではあるが。
そんな様子を微笑ましく、克己と澄人は見守っている。
……見守っている傍の澄人が帰ってきたのは、出前のラーメンが伸びきってからだったとか、そうでないとか。
なんともまあ、締まらない。今回はそんな締まらない澄人を中心にやかましく回る、水着回なのであった。
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